今日も相変わらず梅雨前線や低気圧の影響で朝から雨は降ったり止んだり…。午後の俳句教室へ出かけようとした時などは、またまたのドカ降りで、あっという間にびしょ濡れになりました。その梅雨前線が今度は北陸から東北方面へと移動して猛威をふるっています。
秋田県大仙市では、午前4時40分までの3時間雨量が、7月の観測史上1位となる114mmを観測。 この雨で、市内を流れる福部内川が氾濫し、住宅などが水に漬かりました。また、由利本荘市では、土砂崩れが発生し、国道の路側帯付近が、およそ10メートルにわたり陥没するなどの被害が相次いでいるとか。
このように秋田では朝のうちに大雨のピークを越えたようでしたが、その後は山形県内で雨が強まり、午後5時半頃には、県内全域に大雨洪水警報が出され、厳重な警戒が必要と呼びかけられました。この24時間に降った山形県の雨量は200mmを超え、最上川水系の川からあふれた水が住宅地に流れ込んでいる様子がテレビに映し出されていました。この雨は今後、弱まりながらも29日の昼ごろまで残る見込みで、引き続き土砂災害や低い土地の浸水などに厳重な警戒が必要だとも。
また、新型コロナウイルスの今日のニュースでは、感染者が全国で新たに992人が確認され、これまで最多だった981人(7月23日)を上回り、過去最多を更新。クルーズ船の乗客乗員らを合わせた国内の感染者は計3万2896人となり、鹿児島県で初の死者が確認されるなど死者は3人増えて計1015人だとか。
東京都の新規感染者も266人。20日連続で100人を上回り、20代と30代が計168人で全体の6割強を占めたそうです。大阪府でも155人、愛知県では110人、いずれも1日当たりの過去最高を更新。愛知県で1日の感染者が100人を超えたのは初めて。他に京都府31人や岐阜県25人、沖縄県21人なども1日当たりの感染者が過去最多となったそうですよ。
もう、テレビやネットで報道される大雨洪水と新型コロナのニュースで、耳にはたこができそうです。そのうちだんだん麻痺してきて、何のオドロキも感じなくなって、〝ああ、またか~〟なんていうようになったら…、コワイですよ。もう、腹をくくってド~ンと受け止めるしかないのでしょうか。でも被災者の方や高齢で感染して亡くなられた方などのことを思えばそうもいかないですよね。とにかく平穏な日々が一日も早く戻ることを心から祈ります。
さて、さて、ワタクシはといいますと、昨日、今日と今月最後の句会でした。
昨日の兼題が〝蚊〟、今日は〝夏座敷〟でした。来月はもうしっかり秋ですので、兼題も秋です。だから夏の句を詠むのは今月までかも。でも私が俳句を始めてからこんなことは初めてなんですよ。7月が終ろうとしているのに梅雨が明けないなんて。夏の句を詠もうたって、雨ばかり…。カッと照りつける太陽を見なければやはり実感は籠もりませんものね。秋になってから真夏の句を詠むのもどうかとは思います。だって先取りならぬ遅れ遅れの俳句になりますから。しかし、これからは地球温暖化でこういう状況が頻繁に起るようになるのかも知れません。これはコマッタ、コマッタです。
ところで、〝蚊〟の兼題は1音ですから結構難しいんですよ。17音しかなくて狭い狭いと思っていた俳句が、なかなか埋めることばが見つからなくて、こんなに広いのかと悩むんです。それで、要らぬことなどで埋めてしまうということに…。
例えば、〈蚊を打つや汝(な)に悪気なきこと知るも〉という句が出ましたが、これはまさに理屈を述べている句。こういう理屈を述べ出すときりがありません。俳句というものは理論ではありませんからあれこれ詮議をするのは他所でやってほしいもの。私たちが生きているこの世界の一端(一齣)を切り取り、そこに真の生き様を描く…描写することによって、おのれの〝心(情)〟を伝えるのが俳句です。自然物を写生したとしてもそこには作者の見る目(見方)があるのですから、全て俳句には客観であってもその奥には主観が込められているものと、私は解釈しています。
寝て聞けば遠き昔を鳴く蚊かな 尾崎放哉※
※尾崎放哉(おざきほうさい、本名:尾崎 秀雄〈おざき ひでお〉、1885年〈明治18年〉 -1926年〈大正15年〉)は、俳人。『層雲』の荻原井泉水に師事。種田山頭火らと並び、自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人である。鳥取県鳥取市出身。(ウィキペディアより)
この句は、放哉が東大の学生だった頃の、まだ自由律俳句に進む前の作品です。だから定型ですし、季語もちゃんとあります。夏の夜ゴロリと蚊帳の中で横になっていると…もしかしたら当時は下宿か寮かでしょうから蚊帳もなかったかも…蚊がブーンと飛んできた。その羽音を聞いていると遠い昔のことがあれこれと思われることだよ…と。でもこの頃の放哉はまだ順風満帆で、人生の苦楽を味わってはいないでしょうから、〈遠き昔〉とは、故郷の鳥取を遠く離れ楽しかった子供時代を思い出してのことでしょう。蚊という、人にとってはありがたくない存在、ある意味懐かしがるようなものではない…そういうものにも思いを通わせるというところに放哉らしさが見えますね。
尾崎家は士族で、父親は鳥取地方裁判所の書記官でした。14歳の頃から俳句を作り始め、15歳の頃には、中学校の校友会雑誌に俳句や随想、短歌を発表するという文学少年でした。16歳では、学友たちと『白薔薇』を発行します。
中学卒業後は、第一高等学校の法科に入学し、夏目漱石に英語を習っていました。ここで一高俳句会に参加し、後の師匠となる荻原井泉水を知ります。荻原井泉水は自由律俳句の指導者で、後に尾崎放哉も自由律俳句を極めていきますが、最初は定型俳句を詠んでいました。一高卒業後は、東京帝国大学法学部に入学、俳句活動も続けて、大学に入学した年にホトトギスに入選しています。
このようにエリートコースをまっしぐらに進んでいった放哉。東大卒業後も一流企業の保険会社に就職し、大阪支店次長まで勤めますが、酒の上での失敗で退職。それから死ぬまでの約10年間、放哉は転落の人生を辿っていくのです。家族や財産など全てを捨てて、安住の地を求めるのですが、何処に行っても長続きせず、結局酒癖のせいで寺さえも転々としなければならなくなります。最後は小豆島の寺で病気と貧困と孤独の末に、41歳という若さで亡くなりました。あの山口県の行乞の俳人、種田山頭火に似ているところがたくさんありますが、その話はまたいつか…。
しかし、放哉の俳句としてはこの後半の人生、特に晩年の3年間に詠まれた作品が優れていて、名句として数々の作品が残っています。高校の教科書にも代表作、〈咳をしてもひとり〉という句が載っていましたので、教えたことがありますが、これは一口で言えば孤独感の絶唱かな…実際はそんな単純なことでは片付けられないものがあるのですが、その解説も長くなりますのでまたにしましょう。
とにかく放哉にしても山頭火にしても、自由律という型にはめ込まれないところから生れた俳句…いや、これは〝詩〟といった方がいいでしょうか。私には、二人の心の〝つぶやき〟がにじみ出てきて、短いことばに結晶したたもののような気がしてなりません。確かに伝統的な定型詩としての俳句とは違いますが、私はとても魅力を感じます。
写真は、先日の宗隣寺にあった紫陽花ですが、いい〝秋色紫陽花〟になりつつ…でしたよ。こういうアンティークの紫陽花も捨てがたいですね。ちなみにもともとは真っ青な紫陽花でした。一つだけ元の色のが残っていましたから、写真撮っておけば良かったですね…ザンネン!