今日の天気は…朝の内は少し曇っていましたが、まっこと〝小春日和〟の暖かさでした。ちょっと縁側で本でも読もうものなら、すぐにウトウトと……気持ちのよいこと!最高気温は19度でしたものね。
さて、先日からの季語〝ふけん〟は〝負喧〟か〝負暄〟かという問題…行く着くところ〝負暄〟を誤植したものということに間違いないようです。
そもそも、この〝負暄〟なる季語を使い始めたのは、前にも書きましたが、どうも相生垣瓜人(あいおいがきかじん)さんのようです。
そこで、念のため馬醉木の僚誌「海坂」(うなさか)の現主宰・久留米脩二氏に問い合わせてみましたら、瓜人さんは間違いなく「負暄」を使っていらっしゃたということ。〝負喧〟は誤植ですときっぱり言われました。
おまけに俳誌「海坂」の60周年記念出版として、この瓜人さんの句集、『微茫集』『明治草』『負暄』を収めて『相生垣瓜人全句集』として刊行したのは角川書店なんだそうですよ。ヘエッ!
それなのに、『角川俳句大歳時記』(角川学芸出版)には〝日向ぼこり〟の傍題に〝負喧〟として出し、例句を見ても次のように載っています。
負喧をも負心をも亦重ねけり 相生垣瓜人
ちなみに、相生垣 瓜人を説明すると、1898年(明治31年)- 1985年(昭和60年)の俳人。本名・貫二。兵庫県加古郡高砂町(現・高砂市)に生まれる。1920年、東京美術学校製版科を卒業。同年に浜松工業学校(現在の静岡県立浜松工業高等学校)に図案科教員として赴任。1928年より「ホトトギス」に、1930年より水原秋櫻子の「馬醉木」、阿波野青畝の「かつらぎ」に投句。1933年、秋櫻子の「ホトトギス」離反に従い「馬醉木」に所属、同年「馬醉木」同人。1937年「馬醉木」の「新葉抄」選者を任される。
戦中、6年ほど句作を中断したのち、1947年「あやめ」に参加。1948年復刊した「馬醉木」への投句を再開。1949年、浜松放送局聴取者文芸俳句選者。1950年「あやめ」が「海坂」(うなさか)に改題、同誌で百合山羽公と共選。1976年、句集『明治草』他で第10回蛇笏賞を受賞。代表句に「家に居ても見ゆる冬田を見に出づる」「クリスマス佛は薄目し給へり」など。戦後から飄逸味のある独特の句風を発展させ、その句境は「瓜人仙境」と呼ばれた。1985年に永眠、享年86。(ウィキペディアより)
また、ネットを調べていましたら、「ふらんす堂編集日記 By YAMAOKA Kimiko」(2020・12・18)のブログに、〝「俳句αあるふぁ」冬号、そして…〟と題して、〝ふらんす堂刊行書籍がとりあげられているので紹介をしたい。(長いものは抜粋で)〟と…大石悦子句集『百囀』(ひゃくてん)について書かれていました。
衰顔の匂はしからぬ負暄かな 相生垣瓜人
こんな句も詠んでおられる瓜人さん、もしかしたらあの世で嚔(くしゃみ)をしていらっしゃるのではないかしら?(^▽^)
写真は、今日の月。明日が満月ですから〝小望月〟ですね…スマホのズームで撮ったらこんな赤い色に…