ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

イエロークイーン(小海老草)

2017年09月12日 | 俳句

 今日もどんよりとして、ちょっと蒸し暑い!早くすっきりとした秋の空になって欲しいなあ~!

 火曜日ですので、今日は午後から定例の句会です。今日の兼題は「野分」、「のわき」とも「のわけ」とも言い、草木をなびかせて吹く秋の暴風をいうのですが、要するに今でいう「台風」なんです。しかし、今でこそ天気図や衛星写真があるので、その風の正体が太平洋上で発生して日本付近を通過する巨大な低気圧の渦巻きであるということを皆知っていますが、昔の人は何もわからないままただただ恐れていたんですね。次の高浜虚子の句がその雰囲気をよく伝えています。

   大いなるものが過ぎ行く野分かな   

 ちなみに、農耕民族からすると一番大切な稲作、その稲に花の咲く頃吹き荒れる風、それが台風だったんですが、それを一番恐れて「二百十日」や「二百二十日」と言って、「厄日」としたんですよ。だから、それらも秋の季語です。

 「野分」の話に戻ると、この季語には昔からの歴史がありますので、同じものであっても「台風」よりははるかに奥行きのある季語なんです。『枕草子』にも『源氏物語』にも「野分」のことは描かれていますもの。次に有名な「野分」の句を挙げましょう。

   芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな   松尾芭蕉

   鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな    与謝蕪村

 どちらも有名ですのでご存じの方も多いでしょう。芭蕉の句には「茅舎ノ感」という前書があります。この茅舎は「茅葺の粗末な家」という意味で、今の深川にある芭蕉庵のこと。この句の「芭蕉」は植物の芭蕉なのですが、まるで本人のようにも感じられて、外では芭蕉の葉が暴風雨でバサバサッと音を立てている、家の中では盥の雨漏りの音を一人聞いている夜…そういう孤独な芭蕉の姿を想像してみて下さい。

 蕪村の句、「鳥羽殿」(とばどの)とは京都市伏見区下鳥羽辺にあった白河・鳥羽上皇の離宮。規模が宏大で林泉の美を極めた「城南離宮」(せいなんのりきゅう)などと言われたもの。句意は「野分の吹き荒れる中、騎馬武者が五、六騎、一路南の方の鳥羽殿を目指して駈け抜けていく。ただならぬ気配が感じられることだ」と。この句は、明和5年(1768)8月14日句会の句だそうですので、歴史的事件に対しての想像句…詠史句といわれるそうな…なんです。その歴史事件も保元(1156年)・平治(1159年)の乱だとか、平清盛が後白河院を突如鳥羽殿に押し込めた事件だとかの意見がありますが、私にはどっちとも…ただ、保元の乱が7月、平治の乱は12月、清盛の事件は11月らしいので、これらも陰暦でしょうか?だとすると「野分」の季語から7月の方が合うような気がしますが…はっきりは分りません。どっちにしろ要するに、自然界にも人間社会にも風雲急を告げるようなただならぬ状態が野分という季語でしっかり詠み込まれているということでしょうね。

 10日のブログに載せた〝コエビ草〟の、黄色が近所にありました。名を〝イエロークイ-ン〟といいます。やっぱりボケてますね。ゴメンナサイ!

   

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猫〝トワ〟

2017年09月11日 | 日記

 今日は今一つすっきりしない天気です。ちょっと蒸し暑い!

 9日の土曜日、カープと中日戦を観戦に名古屋まで一泊で娘夫婦が出掛けたので、久し振りに娘の猫を預かりました。2匹いて、1匹は寝たっきり…もう2年以上も介護をして、面倒をみています。雌なので名前を〝ハート〟と言うのですが、娘共々ハートもよく頑張っています。食欲は旺盛なので、あとはお尻の世話をしてやれば済むんですが、一日中寝ていて何が楽しいんでしょうかね。でも、可愛いんですよ。名前を呼ぶと返事をしますし、撫でてやると気持ち良さそうな顔もします。もう一匹は雄、まだ若いので〝トワ〟といいます。

 我家の〝テン〟は、もう余り喧嘩はしなくなりましたが、トワがちょっかいを掛けてくるので、時々歯をむいて唸ったりする。でもトワは気にもとめませんので、喧嘩にならないんです。以前テンが外に出た時、つい目を離し、その隙にトワも外に出てしまったことがあって、慌てました。外へ出たことがない猫ですので、帰り道も分らないでしょうし…。だんだん暗くなるのに…、見つからなかったらどうしょうと思って、必死で探しました。娘が帰ってくる時間も迫っていて、本当に冷や汗もんでしたよ。寸前のところで木の下にうずくまっているトワを見つけてホッとしましたが。

 こんな経験があったので、トワも味をしめたのか、我家に来ると外ばかり見て出たがりますが、もう出しません。ところが、日曜日息子が二階から降りてきて、裏口の戸が開いてるよと言う。びっくりして、息子と一緒にトワを探しました。なかなか見つからないので、一瞬冷えましたが、やっと見つけたときは胸をなで下ろしました。どうも旦那が出掛けたとき、戸を開けたままにして出たらしく、ホントに困った人です。それで、トワはどこにいたかって? ハイ、吹き抜けの階段の高い手すりの上にいたんです。我家の恐がりテンは絶対に上らないところなので、気が付かなかったんですよ。と言うことで、娘夫婦も帰ってきて、一件落着!おまけにカープは9連勝!マジックは5となりました。メデタシ、メデタシです。

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芙蓉布

2017年09月10日 | 俳句

 昨日は午後と夜との句会で、一番忙しい日でしたが、更に母の見舞にと、京都から旦那の弟夫婦、甥とその子の計4人が来るという。でも、私は休むわけにはいかないので、旦那だけが一緒に食事をしながら応対して、私は句会が終わってからホテルへ挨拶にだけ行きました。

 いつものことですが、同じ会場でやりますので移動しなくて良いのは助かります。

 「今日は何の日でしょう?」と聞くと、一番年輩の人から、「重陽!」とすぐに答えが返ってきました。「さすが…〇〇さん!」というと、かなりの人はポカンとしていました。そうなんです。昨日は9月9日、「重陽」(ちょうよう)なんですが、これもやはり陰暦の行事です。

 陽の数である九が重なることをめでたいとして言われるのですが、その頃はちょうど菊の花の盛りでもあるので、菊の節句とも言われています。正月七日の人日、三月三日の上巳、五月五日の端午、七月七日の七夕とともに、五節句の一つ。中国では「登高」と称して、丘などの高いところに登って、長寿を祈り菊花を浮べた菊の酒を飲んだんだそうです。日本では奈良時代より宮中で観菊の宴が催されました。

   重陽の日は三輪山の上にあり    大峯あきら

   酒持たず高きに登る高きは佳し    藤田湘子

 当日の兼題は「芙蓉」でした。もちろん秋の季語です。中国・日本南西部原産のアオイ科の低木で、高さ1.5~3メートル。長い柄を持つ掌状の葉が3~7つに裂けて、茎にも葉にも細かい毛が生えています。花は直径8~10センチで淡い紅色の五弁花。夕方にはしぼんでころころと落ちてしまいます。観賞用には白芙蓉、八重咲き芙蓉、酔芙蓉などがありますが、酔芙蓉は朝の咲き初めは白く、午後にはピンク、夕方からさらに赤くなるのでこの名が付いたのです。

   枝ぶりの日ごとにかはる芙蓉かな   松尾芭蕉

   花芙蓉くづれて今日を全うす     中村汀女

 この日一番分らなかったのが、〈南国の衣に転じ花芙蓉〉の句でした。

 「南国の衣」とは?と作者に聞くと、鹿児島に「芙蓉布」と言うのがあるんですって。「ヘ~、そんなのあるの?芭蕉布や葛布は知ってるけど…」というと、皆もウンウンと頷いていました。作者はこの教室で一番若い40代の人。「ネットで調べたんですよ。淡い芙蓉のような色をしていて…、100年ぶりに復元された布なんです。」と。芙蓉で作った布があるということは初耳です。

 調べてみると、確かにありました。薩摩半島から約50K,東シナ海に浮ぶ甑島(こしきじま)に、鹿児島県伝統工芸品としての〝甑島芙蓉布〟がありました。ここにしかない日本唯一の布で、明治の初め頃まで作られていたのが100年途絶え、それを復元しようとして取組んだ人がいるのです。それは大正10年生れの中村悦子さん、50歳の時に始められ13年掛けて成功されたんです。今は娘さんが伝承され熟達されていると言うことですが…。この芙蓉布のことを方言で〝ビーダナシ〟と言い、芙蓉の枝から採取した板状の繊維を細く割き、手で紡いで長い原糸にして、それで織るのですが、繊細な輝きとふんわりした色味がその布の特徴だそうです。また一つ賢くなりました。ホントに教えてくれてアリガトウ!

 

 これは隣の家に咲いていた〝小海老草〟、これも季語にありません。コエビソウとは、メキシコ原産のキツネノマゴ科の植物。日本では道ばたの雑草としてごく普通なキツネノマゴと同属である。 名前の由来は、花のつく穂が苞に覆われていて、その形が小海老の尻尾に似ていることによる。花はその苞の間から顔を出す。Wikipedia

 

 

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千代尼忌と百合

2017年09月08日 | 俳句

 今日9月8日は「千代尼忌」、勿論陰暦ですが。1703年生れの江戸時代の俳人で、加賀千代女として十代から俳名を知られ、美濃派の各務支考(かがみしこう)や伊勢派の中川乙由(なかがわおつゆう)、加舎白雄(かやしらお)らと接した逸話も残っているそうです。加賀国松任の表具師の娘で、52才で出家し、その後は素園と号します。〈朝顔に釣瓶とられてもらひ水〉の作者として有名ですが、その生涯は不明な点が多く、1775年73才で没。

   千代尼忌や屋根石灼くる街に佇ち   沢木欣一

 この句の季語はやはり「千代尼忌」なんでしょうね。歳時記では晩秋になっています。しかし、「屋根石灼くる」というのは、どういうことかしら?「灼く」というのも季語で、真夏の太陽の直射熱によって灼けるような熱さをもった万物の状態をいうのですが。まあ晩秋と言っても今の10月頃でしょうから、秋の日射しの強い日があってもおかしくはないででしょうし…。また、「屋根石」がある街というのも、今時は見かけません。だから何となく一昔前の時代を感じさせる景ですよね。その屋根石にぎらぎらと太陽があたり…ああ、今日はあの加賀千代尼の忌日だったなあ…と、そんなところでしょうか?今一つ分らない句ですね。もしかしたら旅に出ての句かも。そんな雰囲気がある句ですよね。

 そんな疑問が湧いてちょっと調べてみました。すると昔加賀藩では屋根石の家が中心で、それは貧しいからとかいうのではなく、武家も商家もそうだったというんです。作者の沢木欣一氏は富山市出身で北陸の人。若いときは金沢で過ごしていたとか、とすれば屋根石はよく見かけたでしょうし、また故郷の景に繋がるものだったんですね。

 ところでこの句は、1944年出版の句集『雪白』に収められた句。彼は、1939年金沢の旧制第四高等学校の時句作を始め、その後加藤楸邨や中村草田男に師事、1942年には東京帝国大学に入学します。ところが1943年には招集を受けて出征するんです。それで遺稿になるかもと考えて、句集の草稿を後に妻となる細見綾子に託し、その尽力で出版された句集だということです。と言うことは、この前掲の句はそのころの金沢で詠んだのか、それとも東京に行って故郷に帰る時、途中の松任に立ち寄って詠んだものかも知れませんね。

 昔私の先生から、忌日を詠むのは非常に難しいからなまじっかな気持ちでは詠まないように、と注意を受けたことがあります。だから余程の人の忌日で無い限りは詠みません。正直なところ、これは「千代尼忌」が効いている句なのかと聞かれてもホントよく分らないんですよね。千代尼の人生を考えても「灼くる」イメージはどこにも出てこない気がするんですが、どなたか教えて下さる方いらっしゃいませんか?じゃあ分らなければ書かなきゃいいのに…ハイ!自分でもそう思いました。でも、ここまで書いてしまったので…詠んで下さった方、どうもスミマセン!

 今日の写真は「百合」。でもこれは普通夏の季語としての百合ではないんです。白百合の代表格「テッポウユリ」は、5~6月頃咲くんですが、お盆頃から今頃咲いている、この花によく似た百合は違うんですよ。特に高速道路なんかを走っていると、斜面に沢山見かけるでしょう。あれは、台湾原産の「タカサゴユリ」で、庭植えや切花用として持ち込まれたものが野生化したもの。だから、テッポウユリと似ていても咲く時期が違いますし、よく見ると、タカサゴユリには花の外側に赤い筋が入っているので区別がつきます。

 ところが、この写真の花は真っ白で赤い筋はないでしょう?不思議に思って調べると、最近はテッポウユリとタカサゴユリの自然交雑種が繁殖して、どこにでも飛び散って花を咲かせているそうです。だから、我家にも雑草の中に種が飛んできて咲いたんですよ。

 なんと、その名を「シンテッポウユリ」と言うんですって!

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仙人草

2017年09月07日 | 日記

 朝から雨が降ったり止んだりの一日でした。でも今日は忘れませんでしたよ。何をって?三度目の正直ならぬ、医大のMRI検査ですよ。午後からでしたが、しっかり受けてきました。結果は診察の先生がいらっしゃる21日になりますので、まあ気の長い話です。MRI検査は初めてではないのですが、随分昔だったような…。何度も何度も息を止めて…と、それが意外と長くて苦しくなりました。どうも、あのキーンキンカーンカンという音もあまり気持ちの良いものではありません。ただ痛くもかゆくも無いのが救いですがね。あれが〝磁気共鳴〟している音なんでしょうか?ごく最近でやったのはCT検査、これも初めてではないので、どうってことなく終わるはずでしたが、なんとこの時初めて造影剤の後遺症のひどい蕁麻疹が出て、本当に懲りました。それで、造影剤を使う検査のときは緊張します。先生が仰るには、2度目はもっとひどくなって、時には呼吸困難に陥る人もいるんだよ…なんて脅かすものだから。この度は薬を変えて貰ったので、今のところ大丈夫!…かなと思うのですが。

 今日の写真は「仙人草」ですが、これはまだ季語になっていません。随分以前から山道を歩く時目だって、気になっていた花ですが、このところやたらめったらと繁殖して、今の時期どこででも見られるようになりました。そろそろ季語として認定してもいいのではと思うほどです。

 日本全土、東アジアに分布するキンポウゲ科センニンソウ属の多年草蔓草。山野・路傍などに自生。葉は3~7小葉のの羽状複葉で、葉柄で他物に巻き付く。秋、白い花を多数開き、白毛のある痩果を結ぶ。この白毛を仙人の白髭に見立てて名付けられたもの。有毒植物、薬用ともする。

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一茶の〝月〟

2017年09月06日 | 俳句

 今日は朝洗濯物を干して、午後から体操へ。その後母の見舞に病院へ…ところが、見ると空模様が怪しくなってきました。それで早々に病院を引き上げて、買物をして車に乗ろうとすると、とうとうフロントガラスに雨の粒が…さあ、大変!もしかしたら家に旦那がいるかもと、電話をするがダメ。とにかく急いで帰りました。少し濡れたぐらいでしたので、何とかセーフ!

 今日は俳句カレンダーを見ると満月と書いてありました。でも〝中秋の名月〟ではありませんよ。今年の中秋の名月は、10月4日で遅いんです。俳句では「月」だけで秋の季語になりますが、それは秋が空が澄んでいて、月が一番明るく大きく照りわたるからなんです。更にその秋の月にしても、初秋の満月は〝盆の月〟、中秋の満月は〝中秋の名月〟、晩秋は満月ではなく、十三夜を〝後の月〟と言って多くの句が詠まれています。

 例年8月中旬以降に〝盆の月〟があり、9月に〝中秋の名月〟がやって来るのですが、今年は半月ほどずれているようです。今日は夕方ひとしきり雨が降ったので、月はダメかなと思っていましたが、外に出てみると、この写真のような、暈をかぶった〝おぼろ月〟みたいな月が出ていました。

   (ゆあみ)して我が身となりぬ盆の月   

   名月をとつてくれろと泣く子かな       

 どちらも有名な小林一茶の句ですが、前句の季語は「盆の月」。これは盂蘭盆会のある夜に出るからそういうので、現在のお盆の夜の月という意味ではないのです。昔から忙しいときには〝盆と正月が一緒に来たよう〟と言うように、この時は人の出入りも多く何かと忙しい日なんです。だから、その忙しい一日が終り、湯浴み(昔は行水だったかも)をしてやっと人心地がついたのです。それが「我が身となりぬ」なんですね。さっぱりして庭にでも出たんでしょうか、その目に映った盆の月…ほら、とても心が和むでしょう。

 ※ 説明を補足します。季語としての盆の月は旧暦の「盂蘭盆」(7月15日)の満月のことで、現在の新暦のお盆が満月ということではないのです。

 後句は何の説明もいらないでしょう。「名月」が季語。この句がいつ頃詠まれたものかが知りたくて調べてみると、日記句文集『おらが春』に所収されたものでした。この本は、一茶が57才の時の一年間の身辺雑記、回想を記したもので、折りに触れての句が挿入された遺稿、彼の没後25年経って刊行されました。

 一茶の最初の結婚は52才、その時三男一女をもうけますが、全員幼くして亡くなっています。生まれてすぐに死んだ子もいますし、妻も9年後には亡くなります。2番目は半年で離婚、子供はいません。3番目は64才で結婚して一子をもうけますが、その子が産まれる前に一茶は亡くなりました。ということは、この句を詠んだときは、「名月をとつてくれろと泣く子」はもういなかったのではないでしょうか?ではどういうことなんでしょうね。これは私の想像ですが、名月を見ているとあまりにも美しいので、あの子がもし生きていたらきっと「とってくれろ」と泣いてせがんだことだろうなあ…と、子を失ったやるせない親心をまるで実在のように詠んだのではなかろうかと…。    

 ちなみに、最後の子は女の子で、46才まで生きて、その7代目の子孫が一茶の故郷長野県信濃町柏原にいらっしゃるとか。 

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蟷螂(かまきり)

2017年09月05日 | 俳句

 今朝起きて外を見ると、地面が濡れています。大したことは無かったようですが、そろそろ雨が欲しいところでしたので植物にはいい案配でした。

 今日は火曜日、句会の日です。午後に出掛ける時、またぱらぱらと降ってきましたが、小雨。でも、教室はちょっと蒸し暑い!それで、冷房を掛けたんですが、スイッチを入れても風も何も出ません。ということは、今日は28度以上ないということかしら。市では省エネのため冷房は28度以上の時だけ。それで、勝手に使わないように事務室の方が管理していて、クーラーを使えないようにしているのです。温度計がないのではっきりした温度はわかりませんが、やっぱり午後は暑いし、狭い部屋に12人もいると、部屋の温度も上がると思うんですが…ね。仕方がないので窓を全部開けて行いました。

 今月の兼題は「蟷螂」、この字は「とうろう」とも「かまきり」とも読み、秋の季語です。

 カマキリ科の昆虫の総称で、頭は三角形で小さいが、前胸が長く肥大している。鎌のように鋭い前肢は獲物を捕え、長い後肢は跳躍に適していて、怒らせると前肢をかざして向かってくる。雌は目の前のものを食べてしまう習性があり、交尾の時、雄を食べてしまうことはよく知られているが、昆虫では珍しいことではないようです。害虫を食べてくれる益虫でもある。「蟷螂生る」や「子蟷螂」などになると夏の季語。

 今日の最高傑作(?)は〈蟷螂の正体調べ読み耽る〉。どういうことかさっぱり分りませんでした。そこで「どうして蟷螂の正体を調べるの?」と聞くと、「昔子供の時見たことはあるのですが、最近は全く見かけないので、子供の本で調べたんですよ。」と。「それで、正体が分ったの?」「ええ、よ~く分りました」と言って、これですよと、一冊の本を取り出して見せてくれました。『カマキリのかんさつ』という本。すると、横にいる仲間が「先生!この句、〝正体〟じゃなく〝生態〟の間違いですって…」と。みんなで大笑いでした。今度は誰かが、「この句〈蟷螂の正体見たり……〉としたら面白いのでは?」「ホントね。じゃあ下五どうする?」「それが問題!」などと、ひとしきり〝カマキリ談義〟が続きました。

 最高点句は、〈子蟷螂親にも負けぬ面構〉でした。私も以前見たことがあるんですが、確かに小さいながらも一人前に鎌を振りかざして向かってくる子蟷螂は何とも憎々しい顔つきでしたね。

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山頭火〝水の俳句〟

2017年09月04日 | 俳句

 先月末までと言うことで、ある雑誌の「水の俳句」(仮題)という企画での原稿を頼まれて書きました。

 「水」をテーマに詠まれた俳句で、「心にのこる〈水の一句〉」を紹介し、その句についての評を掲載するというもの。時代や結社の枠を問わず、古今の作家作品から自由に紹介して下さいとありました。

 私にとっての「水の俳句」と言われてすぐに浮ぶのは、やはり山頭火の俳句です。

   へうへうとして水を味ふ

   ふるさとの水をのみ水をあび

 1句目は、以前ブログにも紹介した山頭火の過ごした〝其中庵〟、その休憩所の手水鉢に刻んでありました。また、2句目は防府駅のてんじんぐち前に句碑があります。山頭火についてはもう書きませんが、普通山頭火と言えば〝酒〟の方のイメージが強いかも知れませんね。初めは私もそう思っていました。ところが、今回「水の俳句」を調べていて分ったことなんですが、ある熊本の高校の調査報告で、山頭火が詠んだ俳句、1000句を調べると、水を詠んだ句がちょうど100句あったそうです。ちなみに酒の句は10句…。山頭火が生涯で詠んだ句は8万4千句ほどと言われていますので、そうするとこの報告の割合でいくと、8千4百句、要するに全体の1割ということです。実際にはもっと多いかも。

 だから山頭火は「水のみ俳人」と呼ばれていたとか。行乞を続ける彼にとっての基本は〝歩くこと〟、そして、それが自分の修行だとも言っています。〈分け入つても分け入つても青い山〉へ、その歩き疲れた喉の渇きを潤してくれる水はどんなものよりも美味しかったことでしょう。次の句は宮崎県日南市南郷町榎原で詠まれたもの。

   こんなにうまい水があふれてゐる

 また、放浪生活を続ける中で、時には食べるものにもありつけず、水だけで凌いだことが句にも詠まれています。

   貧しさは水を飲んだり花を眺めたり

   腹いつぱい水を飲んで来てから寝る

 あげればきりがありません。だから〝水のうまさ〟も〝水のありがたさ〟も一番よく分っていたのだと思います。酒はお金がないと飲めませんよね。だからお金が手に入ると、いけないと分っていてもすぐに山頭火は酒に替えてしまうんです。そして、そんな自分にまた絶望して…、飲まずにはおれない…、という悪循環から抜け出せませんでした。ですから罪悪感で飲む酒よりも、水の方がおいしかったのでしょう。水は自分を裏切らない…いつでもどこでも自分を歓迎して喜んで与えてくれる。まるで母の慈愛のように…です。

 「酒を飲むよりも水を飲む。水を飲むように酒を飲む。」と、山頭火は日記に書いています。また次のようにも

 「何よりうまいのは水であると思ふ、けっきょく味のない味がほんたうの味ではないかと思ふ。」と。やっぱり酒以上に水を愛した俳人だったのですね。

 『名水紀行ー山頭火と旅するおいしい水物語』の著者・佐々木健氏(広島国際学院大学教授)によれば、「名水の里」と呼ばれる場所で山頭火の句碑に出会うことが多くあり、それがきっかけとなり、調査をしてみたのだと。句や日記から山頭火が実際に口にしたと推測される25ヶ所の水を汲み、PHや硬度を分析したところ、結果はいずれもミネラル分の少ない軟水ぞろいで、山頭火が生まれ育った防府の水によく似たものだったそうです。そもそも人というものは(…人だけとは限らず、生物はみんなかも…)生まれてからずう~と飲みつけている水を〝おいしい〟と感じるものらしい。防府市の山頭火生誕地近隣は地下水が豊富で、茶人や料理人が好む軟水。このふるさとのさわやかで少し甘く感じられるおいしい水が生涯忘れられなかったのでは…いや、体が、口が、覚えていてそれを求めて歩き続けたのかも知れませんね。そして、それは〝母〟につながるものだったのでは。

   ふと思ひでの水音ばかり

 写真は〝守宮〟(やもり)の子供、守宮は夏の季語です。手足の吸盤がいっちょ前に付いて…やはり子供は何にしろカワイイですね。でも私は蛇だけはダメ!どんなに小さくても…。

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周防大橋

2017年09月03日 | 俳句

 今日も朝から涼しい。このところ8月のあの残暑が嘘のような…まあ、これが本来の気候なのかも。今日は、9月30日(土)にある俳人協会山口県支部俳句大会の役員会が開かれましたので、朝から防府へ出掛けました。一人で車を走らせるのも久しぶり!この防府へ行く道はもうすっかり秋のまっただ中です。黄色になって稲刈を待つばかりの早稲田やまだ青々とした田圃が左右に広がっていて、その中を突っ走るのは何ともいえず気持ちのいいものですね。

 今年の県大会の講師は三村純也先生、俳誌「山茶花」の主宰です。お名前を知っている程度で、殆ど何も知らないといった方がいいかも。どんな俳句を詠まれているのかも。それでちょっと調べてみました。

 昭和28年(1953年)、大阪市生れ。本名昌義(まさよし)、現大阪芸術大学教授。中学時代より句作を始め、1972年ホトトギス系の「山茶花」に入会。下村非文に師事、清崎敏郎、稲畑汀子の指導を受ける。1997年より「山茶花」主宰を継承する。2002年句集『常行』にて俳人協会新人賞受賞。

 代表句かどうか分りませんが以下のような句がありました。

   揚げ物の音が窓洩れ春夕焼

   やけに効くバレンタインの日の辛子

   春深しひよこに鶏冠兆しつつ

 今回の演題は、「高浜虚子と能楽について」です。能楽は私の大の苦手…というより全く無知の分野ですから、どんな話をされるのか少しは興味があるのですが、ちょっと心配。退屈して(分らなくて?)居眠りなどしないかと…いやあ以前あったんですよ。話をしっかり聞こうと思って張り切って前の席を確保したんですが、途中でもう眠くなって、ついつい油断しているとコクリ、コクリと…、そりゃあもう腿を抓ったりして我慢したんですけどね。今回はどうなることやら。実際に聞いて、その時また報告しますね。お楽しみに!

 今日の写真は周防大橋で、白鷺をイメージして作られた橋です。ここには野鳥の会で何度か鵯の渡りの観察に来ました。何百羽という鵯がこの川を渡ろうとするのですが、それを狙った隼がこの橋の鉄塔の上で待っているのです。何度も出てはまた引き返しして、最後はとうとう渡るのですが、その時必ず1羽が犠牲になります。鉄塔の上に戻り、それの羽をむしって食べている様子が双眼鏡でよく見えました。可哀想でしたが、それも食物連鎖で仕方が無いことなんですよね。橋の上から見た山口湾、ここはカブトガニが産卵に来るところでそれも観察しましたよ。山側は秋の綿のような雲がかかっていました。でも、空気が澄んでいてやっぱり秋の空でした。

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防災の日

2017年09月01日 | 俳句

 今日は9月1日、「防災の日」です。大正12年(1923)のこの日、相模灘一帯を震源とする大地震が発生し、東京・横浜を中心に静岡・山梨など、関東一円に甚大な被害をもたらしました。死傷者20万人。惨害最大の東京本所被服廠跡に東京都慰霊堂が建てられ、犠牲者に対する慰霊祭が営まれているそうです。初秋の季語で、「震災記念日」「震災忌」などとも言い、防災の意識を喚起する日となっています。

   万巻の書のひそかなり震災忌   中村草田男

 中村草田男の第一句集『長子』に所収。1936年刊だから関東大震災から10年以上後のもの。そもそもこの震災の時、草田男はまだ松山高等学校の学生だったので詳しいことは知らないはず。しかし、1925年に一家で上京し、その年に東京帝国大学に入学し、高浜虚子や水原秋櫻子の指導を受けたりして、本格的な作家となっていきます。だから、この句も震災は体験していなくとも、まだ2年後ぐらいですからいろいろなところでその惨状は目にしたり耳にしたりしたでしょうからね。〝この多くの書物も今日はひそやかであることよ。まるで震災で亡くなった多くの人々を偲び、冥福を祈っているようだ〟と、詠んだのでしょう。もしかしたら大学の図書館での所産でしょうか。

 ところで、このところ阪神・淡路大震災を皮切りにして東北大震災、熊本地震…と、大きな地震が日本列島を襲い、地震王国という名をほしいままにしていますが、前述の地震などを「震災忌」と詠むのは間違いです。だって、阪神・淡路大震災は1月17日、東北大震災は3月11日、熊本地震は4月16日なんですからね。あくまでも「震災忌」を季語として使うときは、関東大震災の起った9月1日、初秋として用いるべきでしょう。

 以前、〝牡丹臭木〟を書いたときに、〝臭木の花〟は、秋なので、その時期になったら…などと書いたのですが、やっと写真を撮ることができました。しかし、時期が遅れて花は殆ど散って、赤色の顎だけが残りその中に実を育てています。実が熟すとこの顎が星の形に開いて、紅紫色になり、まるで花が咲いているように見えますよ。

   

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