Il Corriere della sera 2017/08/04
Il degrado di Venezia non è complotto. La città perde tono e la colpa è nostra
ベネツィアがこんなに美しさを失ったのは誰かの陰謀なんかでなく、ただ市当局がやる気がないこと、そしてそれはわれわれの責任でもある。
まったく非常識な旅行者が大量に押し寄せているにもかかわらず、市当局はこの旅行者の問題にまったく対策をとっておらず、もともとのベネツィア住民は減る一方だ。いまや具体的な対策を考えることが急務だ。
Travolta da orde di turisti sempre più maleducati, scarsamente attrezzata a gestire invasioni di massa, sempre meno popolata da cittadini reali: è urgente voltare pagina
救助を頼む!ベネツィアが世界的謀略に晒されている!ニューヨークタイムズはいささか過激な表現で深刻なベネツィアの街の事態を伝えている。ベネツィアの街は確かに美しい、だが、窒息するくらいのツーリズムの波と憂鬱になるほどの退廃は驚くばかりだ。幸運なことに、当地の全国紙や地方紙ではまだ指摘も写真も警戒の声もかかれていないかのようだ。しかしそれは自らの自殺行為ゆえではない。ベネツィアを救うためだ。いまに始まったことではない。ベネツィアの政治家たちは何年も数々のうんざりするようなパフォーマンスをやってきた。”よそ者の”Indro Montanelliの指摘の前に、じゅうたんの下の塵を掃除するようなどうでもいい小さなことに没頭していたのだ。一方、そのMontanelli自身は問題を声高に主張したことで告訴されたのだ。
消え行くベネツィア人
それを彼女が書いたのは1996年のこと。彼女はベネツィアが嫌いだった?それとも反対に絶望的な思いで愛していたのか?ナショナルジオグラフィックのLisa Gerard-Sharpは、一年前に、<私のようにベネツィアを愛するものが他の人にはベネツィアに来るなという権利があるのだろうか>と自問する記事を書いていた。<ベネツィアを愛してやまないわれわれ旅行者は、むしろ、崩壊の危機にあるベネツィアを修復するためにその儲けを寄付している”Piazza Express”のピッツアを家で夕食に食べる方がいいのではないだろうか> ベネツィアを攻撃していたのか、ベネツィアを救おうと頑張っていたのか。旅行が悪いと言っているのではない。しかし、ベネツィアを崩壊に向かわせているのは旅行者の群集だということだ。San Bartolomeo広場にある古い薬局、Andrea Morelliの前の電光掲示板には毎日統計の数字が表示されている。市民グループが設置したものだ。昨日、ベネツィアの人口は54,579人に減少と表示している。しかし、その多くは架空の住人だ。B&Bの規則に従わねばならないからだ。何百万という旅行者が狭い中に押し込められているのだ。こうした旅行者が使える公衆トイレはなんと12箇所しかない。旅行者が年に28百万人だというのに。今年2017年には増えるのだろうか?
旅行者のマナーが悪化する一方だ。毎日のようにベネツィアの新聞が、写真やビデオや記事で、ベネツィアの退廃を伝えている。馬鹿な若者たちが、17世紀のスラブの貴族の格好をして、運河に向かって排尿をする姿を、旅行者に向かって、<見て見て。写真を撮って。>と悪ふざけだ。Made in Veniceと書かれた中国製のガラクタの販売業者、我慢できなくなって排尿や排便を運河や、時にはエノテカの塀にする夫人もいる。おなかを突き出して旅行者の群れの中を突き進む太ったご婦人、水上タクシ、ゴンドラ、水上バスでいっぱいの運河、30立方メートルはある日常のごみ収集でこぼれ落ちたごみの山、、、、
旅行者の群集に押しつぶされたベネツィア
“私たちに残されたもの”。わずか20年前のフランス映画のタイトルが警告していたものだ。”私たちに残された”、この言葉の意味は、実際にそうなる前に想像できたり、現実に起こったりするということを知っている者によって叫ばれていた公共サービスのようなものだ。私たち自身のことだということを理解できるだろう。2015年にバルセロナAda Colau市長の過剰な旅行者の流入に対する警告を発していたのだ。”われわれはベネツィアのようにはなりたくない。”と。バルセロナの町にはベネツィアと同程度の旅行者が訪れていたが、その広さははベネツィアに比しはるかに広く、もとの住民数も29倍もあるという時点ですでに警告していたわけだ。にもかかわらず、当時のベネツィア Luigi Brugnaro市長ときたら、”ぜひAda Colau市長をここベネツィアにご招待したいねぇ。彼の考えも変わるよ。ここベネツィアは元気だし、これからもそうありたい。世界の国々からたくさんの人々に来てくれる町としてね。” ベネツィアは美しい。でも問題はあまりに旅行者が多いこと、そして違法なものも含め、ホテル、ペンション、B&Bがあまりに多すぎるってことだ!Dario Franceschini は、ベネツィアが過剰な旅行者の問題があることは認めつつ、一方で、”バルセロナの人々はベネツィアのようになれるとすっかり満足しているに違いない。”と思いあがっていると怒る。確かにそうかもしれない。しかし、それでもバルセロナではこんな旅行者の群れで町が押しつぶされることにはならないだろう。
外国の新聞はどう見ているのだろう。
ガーディアン紙は”この夏ベネツィアに行くなら、スモッグ用マスクを忘れないように”とのルポを掲載。エコノミスト紙も大運河の汚れを報道。より大衆向けのニューヨークタイムズ紙もベネツィアの行政や観光業者をいらだたせている。はっきり言えば、すべて改善は可能だ。確かにいくつかの問題は残るだろうがそれは記者たちに言わせておけばよい。グッゲンハイム基金の理事であるPhilip Rylands氏は、”ベネツィアは大変危機的状況ではあるが、改善は難しいことではなく、時間もそんなに掛からないのではないか”と話す。また、ベネツィアに対する批判を謀略とみなす者もいる。観光評議委員Paola Mar氏は,
Gazzettino紙に対し、”世界中の新聞からベネツィアが批判されている背景には意図がある”と語っている。謀略だというわけだ。まったく馬鹿げている。確かに誰かが記事を書き(当紙も含め)、その情報が海外の新聞に届き、拡がっているのだろう。ベネツィアがしていることを何とか止めようとしている者もいるだろう。
転換点
忘れられないのはベネツィア宿泊業者団体の代表Vittorio Bonacini氏のコメントだ。”これはベネツィアをネタに部数を伸ばすためのたちの悪い販売戦略だ。”なんてことだ。ニューヨークタイムズが、トランプの選挙で25万部のあらたな定期購読者をえた後で、今度はベネツィアをネタにまた部数を増やそうってか?ありえない。本当に真剣な転換点を示しているかもしれない。そしてベネツィアの人々が再認識することだろう。トランペットの音が響き渡る。そのときまで、ベネツィアの人々は世界のことではなくあくまでも一地域の問題だと主張するように、Guido Ceronettiが雑誌Un viaggio in Italia(イタリアの旅)で書いている言葉が重く響く。”美しいものを失うことや、もはや世界の輝きであることが出来ない精神的な堕落がどれほど卑しいものであるかを知る者を支持する愛国心ゆえに、苦しみたくはないという当たり前の気持ちとは正反対の不道徳な何かがあるのだ。”
(原文)
http://www.corriere.it/cronache/17_agosto_05/degrado-venezia-non-complotto-a3926426-7955-11e7-9267-909ddec0f3dc.shtml
Il degrado di Venezia non è complotto. La città perde tono e la colpa è nostra
ベネツィアがこんなに美しさを失ったのは誰かの陰謀なんかでなく、ただ市当局がやる気がないこと、そしてそれはわれわれの責任でもある。
まったく非常識な旅行者が大量に押し寄せているにもかかわらず、市当局はこの旅行者の問題にまったく対策をとっておらず、もともとのベネツィア住民は減る一方だ。いまや具体的な対策を考えることが急務だ。
Travolta da orde di turisti sempre più maleducati, scarsamente attrezzata a gestire invasioni di massa, sempre meno popolata da cittadini reali: è urgente voltare pagina
救助を頼む!ベネツィアが世界的謀略に晒されている!ニューヨークタイムズはいささか過激な表現で深刻なベネツィアの街の事態を伝えている。ベネツィアの街は確かに美しい、だが、窒息するくらいのツーリズムの波と憂鬱になるほどの退廃は驚くばかりだ。幸運なことに、当地の全国紙や地方紙ではまだ指摘も写真も警戒の声もかかれていないかのようだ。しかしそれは自らの自殺行為ゆえではない。ベネツィアを救うためだ。いまに始まったことではない。ベネツィアの政治家たちは何年も数々のうんざりするようなパフォーマンスをやってきた。”よそ者の”Indro Montanelliの指摘の前に、じゅうたんの下の塵を掃除するようなどうでもいい小さなことに没頭していたのだ。一方、そのMontanelli自身は問題を声高に主張したことで告訴されたのだ。
消え行くベネツィア人
それを彼女が書いたのは1996年のこと。彼女はベネツィアが嫌いだった?それとも反対に絶望的な思いで愛していたのか?ナショナルジオグラフィックのLisa Gerard-Sharpは、一年前に、<私のようにベネツィアを愛するものが他の人にはベネツィアに来るなという権利があるのだろうか>と自問する記事を書いていた。<ベネツィアを愛してやまないわれわれ旅行者は、むしろ、崩壊の危機にあるベネツィアを修復するためにその儲けを寄付している”Piazza Express”のピッツアを家で夕食に食べる方がいいのではないだろうか> ベネツィアを攻撃していたのか、ベネツィアを救おうと頑張っていたのか。旅行が悪いと言っているのではない。しかし、ベネツィアを崩壊に向かわせているのは旅行者の群集だということだ。San Bartolomeo広場にある古い薬局、Andrea Morelliの前の電光掲示板には毎日統計の数字が表示されている。市民グループが設置したものだ。昨日、ベネツィアの人口は54,579人に減少と表示している。しかし、その多くは架空の住人だ。B&Bの規則に従わねばならないからだ。何百万という旅行者が狭い中に押し込められているのだ。こうした旅行者が使える公衆トイレはなんと12箇所しかない。旅行者が年に28百万人だというのに。今年2017年には増えるのだろうか?
旅行者のマナーが悪化する一方だ。毎日のようにベネツィアの新聞が、写真やビデオや記事で、ベネツィアの退廃を伝えている。馬鹿な若者たちが、17世紀のスラブの貴族の格好をして、運河に向かって排尿をする姿を、旅行者に向かって、<見て見て。写真を撮って。>と悪ふざけだ。Made in Veniceと書かれた中国製のガラクタの販売業者、我慢できなくなって排尿や排便を運河や、時にはエノテカの塀にする夫人もいる。おなかを突き出して旅行者の群れの中を突き進む太ったご婦人、水上タクシ、ゴンドラ、水上バスでいっぱいの運河、30立方メートルはある日常のごみ収集でこぼれ落ちたごみの山、、、、
旅行者の群集に押しつぶされたベネツィア
“私たちに残されたもの”。わずか20年前のフランス映画のタイトルが警告していたものだ。”私たちに残された”、この言葉の意味は、実際にそうなる前に想像できたり、現実に起こったりするということを知っている者によって叫ばれていた公共サービスのようなものだ。私たち自身のことだということを理解できるだろう。2015年にバルセロナAda Colau市長の過剰な旅行者の流入に対する警告を発していたのだ。”われわれはベネツィアのようにはなりたくない。”と。バルセロナの町にはベネツィアと同程度の旅行者が訪れていたが、その広さははベネツィアに比しはるかに広く、もとの住民数も29倍もあるという時点ですでに警告していたわけだ。にもかかわらず、当時のベネツィア Luigi Brugnaro市長ときたら、”ぜひAda Colau市長をここベネツィアにご招待したいねぇ。彼の考えも変わるよ。ここベネツィアは元気だし、これからもそうありたい。世界の国々からたくさんの人々に来てくれる町としてね。” ベネツィアは美しい。でも問題はあまりに旅行者が多いこと、そして違法なものも含め、ホテル、ペンション、B&Bがあまりに多すぎるってことだ!Dario Franceschini は、ベネツィアが過剰な旅行者の問題があることは認めつつ、一方で、”バルセロナの人々はベネツィアのようになれるとすっかり満足しているに違いない。”と思いあがっていると怒る。確かにそうかもしれない。しかし、それでもバルセロナではこんな旅行者の群れで町が押しつぶされることにはならないだろう。
外国の新聞はどう見ているのだろう。
ガーディアン紙は”この夏ベネツィアに行くなら、スモッグ用マスクを忘れないように”とのルポを掲載。エコノミスト紙も大運河の汚れを報道。より大衆向けのニューヨークタイムズ紙もベネツィアの行政や観光業者をいらだたせている。はっきり言えば、すべて改善は可能だ。確かにいくつかの問題は残るだろうがそれは記者たちに言わせておけばよい。グッゲンハイム基金の理事であるPhilip Rylands氏は、”ベネツィアは大変危機的状況ではあるが、改善は難しいことではなく、時間もそんなに掛からないのではないか”と話す。また、ベネツィアに対する批判を謀略とみなす者もいる。観光評議委員Paola Mar氏は,
Gazzettino紙に対し、”世界中の新聞からベネツィアが批判されている背景には意図がある”と語っている。謀略だというわけだ。まったく馬鹿げている。確かに誰かが記事を書き(当紙も含め)、その情報が海外の新聞に届き、拡がっているのだろう。ベネツィアがしていることを何とか止めようとしている者もいるだろう。
転換点
忘れられないのはベネツィア宿泊業者団体の代表Vittorio Bonacini氏のコメントだ。”これはベネツィアをネタに部数を伸ばすためのたちの悪い販売戦略だ。”なんてことだ。ニューヨークタイムズが、トランプの選挙で25万部のあらたな定期購読者をえた後で、今度はベネツィアをネタにまた部数を増やそうってか?ありえない。本当に真剣な転換点を示しているかもしれない。そしてベネツィアの人々が再認識することだろう。トランペットの音が響き渡る。そのときまで、ベネツィアの人々は世界のことではなくあくまでも一地域の問題だと主張するように、Guido Ceronettiが雑誌Un viaggio in Italia(イタリアの旅)で書いている言葉が重く響く。”美しいものを失うことや、もはや世界の輝きであることが出来ない精神的な堕落がどれほど卑しいものであるかを知る者を支持する愛国心ゆえに、苦しみたくはないという当たり前の気持ちとは正反対の不道徳な何かがあるのだ。”
(原文)
http://www.corriere.it/cronache/17_agosto_05/degrado-venezia-non-complotto-a3926426-7955-11e7-9267-909ddec0f3dc.shtml