京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

わたし的・鞆の浦。

2013-09-07 16:36:56 | 妻!日記

広島県福山市にある鞆の浦・・・

わたし的には、歴史あふれる街、というイメージですが、

近頃はすっかりポニョの街?

そして、今回(8月12日)の福山駅発・鞆の浦行きのバスは、夏休みということで、観光客に混ざって、海水浴客みたいな若者グループも多かったです。

雑多!(良い意味で)

 

今回は、終点のひとつ前のパス停「鞆の浦」で下車して、山中鹿之助首塚に一番近いコースをとることにしました。

表のバス通りから、手前に戻り、味のあるスーパーのところから路地に入って、沼名前神社にまっすぐ向かうコース・・・

 

道は基本的に真っ直ぐなのですが、

中間地点あたりで・・・

 

教習所であるようなS字クランク。

なんで真っ直ぐでないのでしょう。

軽自動車でも、結構曲がりにくそうでした。

神社の参道と思われますが、基本的には住宅街。

でも、ずっと石畳が敷かれていますから、すごい!(すぐにソロバンはじいてしまう悪い癖

やはり名の通った名勝地だなと思います。

 

で、沼名前神社→首塚、と向かう前に、昼食。

暑い季節、子供のストライキを予測した保険のようなものです。

かなりこじんまりした食堂でしたが、アットホームな雰囲気で良かった。

ご飯も丁寧で美味しかったです。

 

そして、神社に向かいます。

どういう由緒のある神社か知りませんでしたが、ガイドブックには必ず出ているし、とても有名な神社らしいです。

すごく広いです。

登った先には・・・

良い景色

 

階段下にある、こちらの鳥居は少し変わっています。

 

さて、神社の門前から港側(メインの観光地)に向かう道は寺町のようになっていました。

そこここに古そうなお寺が建っています。

ここも、クランク。

クランクの先に、お目当ての山中鹿之助首塚がありました。

山中鹿之助さん、すごい人です。

戦国時代、毛利に滅ぼされた尼子氏の家臣でしたが、再興を願って、挙兵しました。

捕まっても、すさまじい手段で脱走し、また兵を募りました。このへんの話はすごいです。

(亡くなるまで、3回のお家再興を図りました)

赤痢を装い、トイレに百回以上通って、敵を油断させたところで、肥溜めから脱走したそうです。

「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と月に祈った人、といえば、ご存じの方もいるでしょうか?

最後は、毛利攻めをする織田信長の先方となって戦かっていましたが、ついには落城の憂き目に・・・

捕えられ、鞆の浦の毛利輝元の陣中まで護送される途中、だまし討ちの目にあい、殺されました。

(通常、位の高い大将の命は保障されていましたが。)

山中鹿之助の子孫は、鴻池財閥だそうです。

息子か孫が、偶然どぶろくから清酒を発明し、財を成したとか、小説に書いてあったけど、実話ですかね。

歴史って面白い。

 

そうそう、↑ 上の看板見て、思い出しました

織田信長から疎まれ、京都から追い出された形の足利義昭は、毛利氏をたよって、ここ鞆の浦に滞在していたのでした。

なにげに鞆の浦って本当にすごい!

陸路をとらない、時間短縮をねらった移動手段をとった人は、ほぼ鞆の浦を経由していたと思われますから、

ここに来たら、そういう意味で、いろんな歴史的著名人に出会えます。

(太平洋経由だと、ジョン万次郎のように嵐に遭って漂流の危険も多分にありました

 ちなみに、鹿之助さんはかなりのイケメンだったそうです

ウイキペディアを調べたら、こんなことも分かりました

直系の子孫の方には、広島市出身の女性で、昭和初期に、アメリカから日本にパーマを伝えた美容師さんがいらっしゃるそうです。

そのようなご縁もあって、鞆の浦の他にも、広島にはあと2か所、山中鹿之助の供養所があります。

 

ここは地味なスポットでしたが、力が入りました。

ここも、総石畳

石垣も素晴らしかったです。

この辺は、観光地的には地味ですけど、ゆっくり散策するには良いですね。

写真・絵画の題材には事欠かないと思います。

ひとつ難を言えば?電線がむき出しなので、どうやっても写真に入り込んでしまいますが、

それもご愛嬌でないかなと思います。

昭和的風景には欠かせませんものね。

 

さて、とにかく暑い中、地図を見い見い、次のお目当て、平賀源内生祠を探してましたが、見つかりません。

行きすぎて、戻ると、ようやく入り口の路地を発見しました。

      ↑ これが道しるべ

道しるべがなかったら、入るのを躊躇しますね

でも、わくわくする道。

ここを50~100メートルほど上がったところに、ありました。

向かって、上の部分が入口で、手前が生祠の敷地です。

民家の畑の横にあります。

 なんと地味なスポット

平賀源内が鞆の浦滞在中に、源内焼という陶器の製法を伝えた、

その業績をたたえて作られた祠のようです。

生きながらにして、神としてまつられました。

 良い景色のご褒美付き

この辺は、昔ながらの港町情緒がそのまんま残っていました。

あちこちに、小魚をさばくお店があります。

小さい道なのに、結構交通量多いし。

私が見た限りでは一番旧式の設備のパン屋さんとか、

道から海に向かって、通り抜けの出来る(軒下利用というのか)昔ながらの商店があって、感動しました

 

生祠の辺の集落から、海辺に沿って進むと、次第に賑やかになってきます。

 

鞆の浦名物保命酒の建物。

このへんから、観光地スポットです。

ここがメインストリートの常夜灯からの景色です。

前回行った、龍馬のいろは丸記念館の横。

先ほどまでとは、うって変わって人が多いです

 

幕末の八・一八の政変後の七卿落ち

京都から追放され、九州方面に向かった、尊王攘夷派の公卿たち・・・

三条実美らの滞在した商家です。

 大田家住宅、行きたかったけど、お盆のため、休館してました。残念。

鞆の浦も、時代の変わり目には、様々な論議・謀略でひしめき合っていたことでしょう。

瀬戸内海の真ん中に位置して、潮待ちの港として知られた鞆の浦。

まだまだ掘り出し物がありそうです。

次回にも期待(いつ行くのだろう)