日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

人間は天使でもなければ獣でもない

2013年03月30日 | Weblog
人間は天使でもなければ獣でもない

しかし不幸なことは人間は、天使のように行動しようと欲しながら獣のように行動する助かる。
心の中では天使のごとく生きたいと願う我々人間にとっては、日々の生活は心得の背信行為の連続であろうだが、その食い違いがあるゆえに、人は泣き笑いもするのではなかろうか。人間こそあるがままの事実と、あるべきはずの事実との相違に心を打たれる唯一の動物である
パスカル

実にその通りである。考える現実と行動する現実には常に乖離があり、それ故に悩むことを経験する

テロとミサイル攻撃

2013年03月29日 | Weblog
テロとミサイル攻撃

朝日新聞社説によればテロとミサイル攻撃をすれば福島事故と同じような状況を再現できる。

1,冷却のバックアップシステムを遮断する
2,サイバー攻撃によってシステムに侵入し冷却システム機能を麻痺させる 。
3,北朝鮮のミサイル攻撃を受けると広島の原爆の320倍の爆発力があると北朝鮮の幹部が発言。
4,使用済み核燃料の始末。

以上のような原発リスクをなくすためには、原発をゼロにするより他に選択の道は無い

電力の安定供給や安価の電力の提供という経済的な側面から考えると、偏った極論のように思われるかもしれないが、国家の安全と言う観点から見ると、これ以外に方法はないだろう。僕は決してこれが極論だとは思わない。と言う事はかなり現実味があるということである。
国を引っ張っていくリーダーはこのことを真剣に考えてほしい。

1票の格差是正に判決

2013年03月28日 | Weblog

1票の格差是正に判決

裁判長は「民主的政治過程のゆがみは重大で、もはや憲法上許されない事態に至っている」と述べ、格差は違憲と判断し、選挙無効を言い渡した。
25日の広島高裁判決は、無効の効力発生に一定の猶予期間を設けたが、岡山支部は即時無効とするさらに踏み込んだ内容となった。

被告の広島県選挙管理委員会は上告するとみられ、今後の最高裁の判断が注目される。
25日の広島高裁判決は、無効の効力発生に一定の猶予期間を設けたが、岡山支部は即時無効とするさらに踏み込んだ内容となった。25日の広島高裁判決は、無効の効力発生に一定の猶予期間を設けたが、岡山支部は即時無効とするさらに踏み込んだ内容となった。
広島高裁の判決以外にもこの問題についての裁判所の判断はすべて違憲(違憲状態)という判決を出した。
自民党議員の中にはTVインタビューで最高裁の判決を見てから、、、と言う輩もいる。国民はどういう目で見ているか。眼中にないらしい。切迫感が全くない。
そして0増5減を早急に実現したい。そのあとで衆議院議員の定数を30削減を実現するという。
国民に対してわかりにくい、この自民党法案に野党はこぞって反対をしている
こーゆー状態であるから違憲状態であろうがなかろうが現状のままズルズル流れているのだろう。いつかはどこかで法的に無効という判決を最高裁は出さない限り、政治家は国民を甘く見ている。

原発反対

2013年03月27日 | Weblog
原発反対

日本のような地震火山列島には原発や放射性廃棄物の最終処分場の適当な場所は無いこんな国に原発を作るなんてもってのほかだ

安定した大陸で開発された原発プラントを日本のような地殻変動帯の巨大津波を考慮していなかったのはうそで固められた安全神話である。
福島事故が起こるまで地震の少ない国から輸入された原発技術の安全神話にもみ消されていた。
じつにそのとおおりである。

平和利用や必要悪説が流布されて原発が次々に稼働した。そこには経済至上主義があらゆる価値判断の基準が浸透しきっている。今回の再稼働もも原発0の見直し、その根底にあるのは、経済至上主義である。安全は蹴飛ばされている。

一見経済的で効率的に見えた原発の導入を招き、未来と次の世代に向けて結果の見えない負の遺産という付けを増やし続けてきた現状をどう考えているのであろうか。

ここで考えなければならないのは原子力は未だに人間の力でコントロールしきれてないと言う現実である。
言い換えれば完全無欠でない人間のやることだから、どこかに想定外の事故が起こる可能性は十分ある。それが起こると最悪は日本国を滅ぼすことになる。

子供や次の世代に負の遺産を残す程度であればまだ救いがあるが、国を滅ぼす重大事故となると安全確保のためには、決して原子力発電を利用してはならないと思う。
Best mixと言う訳の分からない言葉を用いて表面をごまかしている経済界や政治家など無責任極まりない発言である。今が大切なのは100も承知なのであるが、国を滅ぼすような恐ろしい原子力利用は何がなんでも避けなければいけない。それが国民を愛する政治家の重大な責務であるはずだ。したがって2030年に原発ゼロを宣言した民主党の政策を踏襲すべきである。 10年経って考えるとは一体何事だ。
震災直後にも自民党の幹部の中には性懲りもなく原発を推進する意見を述べていたものがいる。いったい何を考えてこういう発言が出るのか。福島の多くの人の心の叫びが判らないのか。背景には経済界の経済第一主義は横たわっている。それは今回の福島事故で明らかに間違いであることが証明されたはずだ。にもかかわらず原発再開をしようと言う自民党は、ある一面国賊であると言わなければならない。経済界の主張なんて国家を滅ぼす観点から考えてみると取るに足りない愚かな意見である。やはり自民党等業界と言うものはどこかで共通利益を見出し、そのためには国民の安全を第二次的に考えると言う無責任さを内包した政党である。国家の安全のために何が何でも原発反対。


愛のムチは体罰か

2013年03月26日 | Weblog
愛のムチは体罰か

「体罰する側にこれほど支持が厚いのは異様な事態だが、日本社会にいるかぎりそれほど異様に見えない。われわれはそういう空気にどっぷりつかっているのです」。とある人が言う。
体罰する側にこれほど支持が厚いのは異様な事態 ???アホな。
子供時のから 躾のために言う事を聞かない場合は親が叩くのです。普通はこれが躾教育です。人間は少し痛い目に合わないと、同じことをするものです。親から一度も叩かれないで育った子供がいるのでしょうか。
親が常識の範囲の中で、子供にビンタを食らわすのを体罰といいますか。
これはほとんどの家庭で行われている躾教育なので、どっぷり浸かっているというよりは、それが当たり前のことなのです。
判断のつかない子供を、痛い思いをさせないで、どうして教育できるのでしょうか。子供は幼くて言葉が通じないのですよ。それに躾を教えようというのであれば、ある程度の痛い思いをさせなければ、どうして子供の躾ができるのでしょうか。子供に痛い思いをさせるのは、異様でもなんでもありません。いわば自然のしつけ教育です。
これが学校の生徒と先生のあいだで行われるならば体罰になるのです。態度や思考の矯正を行う場合に両者のあいだに、他に方法がないときに先生は言う事を聞かせるために、叩いたりけったりするのです。教育にはある程度の暴力は致し方がありません。
問題なのは程度の問題なのです。鼓膜が敗れるような叩き方は教育というよりも暴力行為になります。頭や顔を叩くのではなくて害の少ないお尻を懲罰として叩いて躾をするのは、僕は容認します。子供に怪我をさせるような叩き方や教師の感情任せというのは一切厳禁です。一切手出しをしてはならないでは、おそらく教育はできないでしょう。
言葉だけとか、長い時間をかけてというのは、現場を知らない人の言うことです。いま暴力教師を体罰教師として同列に扱っているが、それは違います。愛のムチは体罰には違いないけど、暴力ではありません。

7月の参院選挙

2013年03月25日 | Weblog
7月の参院選挙

今日街で選挙カーを見かけた。政権与党の悪口ばかりを並び立てて批判している。
選挙とはその党の政策を掲げ、それをどう実現するか。そして実現した結果はどういうメリットが生まれるのか、一方どのようなデメリットがあるのか。それを主張するなら話はわかる

一方的に他の政党の悪口ばかりを批判して宣伝してみても、聞く側には少しも心に響いてこないから、そんな政党は除外して考えることになる。

例えまんねん野党だとしても、選挙民に訴えかけるものがなければ単なる悪口を放送して回っているだけの話である。
例えばTTPであるが、全容を僕は理解できてないからメリット・デメリットの計算ができない。感じとしては貿易の自由化は時代の流れだと
ぼんやり思っている、。
今までの関税から見ると米の700%の関税を思う時、これを自由化すると直ちに農家は大きな打撃を受けるだろう、。
かといって工業製品がいつまでも輸出競争で不利な条件を背負わされても困る。こうなると、 賛否両論の主張を聞いて、僕なりに判断する以外にはない

あまり好ましいとは思わないが参院選挙では自民党が強いのではなかろうか。一人勝ちはさせたくはない。

花見頃

2013年03月24日 | Weblog
花見ごろ

今年の桜の満開は平年よりは約1週間ほど早まるようである。たぶん3月末にはどこもかしこも満開になるのではないだろうか。近畿地方の桜の予報は大体似たような予想している。

今日は午前中は自宅に閉じこもっていたが、底冷えがして結構寒かった。
午後になって散歩に出かけたが、ポカポカ陽気でとても暖かい。
僕にとって今年の寒さは身にこたえた。「春よ来い早く来い」そんな鼻歌も飛び出すくらいに春が待ち遠しかった。
どうしてそんなに花見が待たれるのだろうか。
考えてみたが、あと何回春に巡り会うことができるだろうか。ちょっとオセンチになった。しょうもないことを考えた。

人間は生きているその時こそ命を楽しめば良いのであって、過去は過ぎ去っているし、未来がまだ来ていない。過去にとらわれず未来にとらわれず今現在に生きることこそ、桜の花の命と同じではないか。

花といえば桜以外にも梅もあれば桃もある。なのに日本では花見といえば桜である。桜の花の潔い散り方が日本人気質にあっているのだろう

あのなんとも言えない白とピンクの中間色のちょっと紅がかった可憐な花は日本人のみならず、どこの国の人でも愛せずにはいられないだろうが、とりわけ日本人は古来、桜をめでた民族である。きっと桜の方からも日本人の期待に応えてくれているのだろう。
花といえば桜。それほど有名な花が桜である。
外国の人に言いたい。花見においで。日本人気質が判るよ。

勝負事9-54

2013年03月23日 | Weblog
勝負事

小学生の孫と将棋して完敗した。それも飛車角の両駒落としで。
昔から勝負事は嫌いである。勝っても相手に悪いと思うし、負けたら悔しくて胃が真っ赤になる。どちらに転んでも楽しい思いはしないから、勝負事は全くやらない。マージャンをはじめトランプ、花札、さいころ一切しない。勝負事は僕にとっては無用の長物である。
基本的には勝負事はルールが在るし、定石という基本がある。それを少し勉強すれば、少しは強くなれるのだろうが、根っからの勝負事嫌いであるから、関わりたくない。

有名な作曲家の渡久地正信先生は競輪が大好きだったそうである。
先生はあるとき競輪に参加している人が僕を支えているとおっしゃった。まさか競輪がスポンサーになって先生の作曲活動が前に進んだことはないだろう。
先生は自分の買った車券が当たるかは当たらないか、勝負の瞬間の気持ちが天国であり、勝ち負けは2の次だと教えて貰ったことがあったが、触手はまったく動かない。腹の底では一体どこが面白いのかと冷笑した感じだ。

もしこれを勝負事だというならば、1つだけある。それは魚釣りである、針に掛かるまで浮きを見つめながら、瞬間を狙って魚を釣り上げる。
釣れたらそれで良し、あわせが十分でなく、針あわせが空振りであってもまた次に期待する。これだけは趣味として死ぬまで離せない。
釣りの醍醐味はよく分かる。勝負事はこれ一つで十分だ。



卒業式

2013年03月22日 | Weblog
卒業式 13/03/22

黄砂ではないのに、霞がかかったようで、しっかりと熱と光が遮られて、ぽかぽか陽気の割りに風が冷たい。
花を愛でながらゆっくり歩いた。
先ほど1行き交った女性は、和服だった。振袖に紺バカマ、上は淡いピンクの着物。足元は白足袋に草履。
脇に抱えている写真みたいなものは卒業証書。紺地の布張り、金文字で卒業証書と書いてある。

ついつい遥かな彼方に去った自分の卒業式を思い出す。僕の卒業と同時に弟が入学しきた。二人で記念撮影したのを思い出す。その時の写真はもう無い。

卒業式を最後に友達が散り散りバラバラになって、卒業後1回も顔をあわさない友が圧倒的に多い。消息は知れないが、もう鬼籍に入った人も相当数いるだろう
僕にとっては卒業式は無い。まだまだやりたいことだらけで、だらだらと50年以上も続けているが、その仕上がりは未だに見えてこない。見えてきた時が卒業式である。

表札が二つ

2013年03月21日 | Weblog
表札が二つ

散歩がてらに、住宅街をあるくと、表札が二つ掛かっている家が多くなった。多分2世帯が一緒に住んでいるのだろう。二階と一階で、とかゆとりのある敷地には2軒家がたっている。
多分親子の2世帯が同居しているのだろう。
これから高齢化時代に入る。老夫婦は支えが必要である。手に負えない病気の人は、介護施設に入る必要があるかも知れないが、健常者であれば身繕いは自分で出来る。しかし90近くにもなると、老衰が起こりくたばるのが自然である。とりわけ大層な病気を持っていない人は、杖代わりに若い子供夫婦と同居するのが、高齢者社会では必要である。
孫の守をしたり、庭の草むしりをしたり、庭掃除をしたり、日常の細々した雑事をすると、若夫婦には大部手助けに成りはしないか。老人にとっても、家族同居というのは、心丈夫だし、何かの役割を果たしているという充実感があるだろう。ただし同居の場合は、娘のほうと同居するのが良いだろう。血のつながりがある親子は、義理の親子よりも気を遣わなくて済むから。
マンションの場合は、上下階や隣同士よりは2,3軒離れた近距離が良い 。僕ら夫婦も元気な間は娘夫婦とは離れて住むが、病気で倒れたり、一人になったりしたら、どうしても近くに住みたい。世話を掛けるつもりはないけれど、人間のこと、どこでどうなるか判らない。
以上が今日の散歩の御利益である。

電力会社と自民党

2013年03月20日 | Weblog
電力会社と自民党

経済政策ががどれほど良いといったところで、原発の再稼働を進めるような政策は受け入れられない。自民党はまた業界とスクラムを組んで原発ゼロをひっくり返す政策を取ろうとしている。

安い電力の安全供給を旗印にして、再稼働をしようともくろむのだが、安価で安定供給にはだれも異存は無いはずだが、事故のことを考えたら取り返しがつかないから反対するのだ。福島事故では取り返しの出来ないことが起こって言うのが軽く見過ごされている。事故の反省は時間の経過と共に風化していくように見える。それを狙うかのように再稼働を主張し始めた。
特に関西の原発立地は琵琶湖を汚染する恐れがある。実はこの汚染が起これば関西地方の水の供給ができなくなる。この時いったい誰が責任を取るのか。当事者である関西電力と自民党であろうが、福島事故でもわかるように現実には責任なんて取れるものでは無い。結果的には国民は泣き寝入りになってしまう。そんな不合理なことがあるか。汚染で飲み水がなくなれば人は住めない。経済活動を初め人びとの活動がすべて停止することにつながる。

核燃料廃棄物の処理の方法も場所も決まっていないのにどうして安価だと言う結論のもとに、ことが進んでいくのか。これひとつをとってもいかに無責任であるか。明確な回答はちゃんとなされて、誰もが納得出来れ話は別だが、現時点の技術水準ではそれは無理である。

原発を今後も継続するという方針の下には確固たる安全確保ができるのだろうか。
事故が起こらない安全対策。事故が起こったときに被害を最小限にする安全対策。核燃料のゴミの処理など詰めなければいけない諸問題があるにもかかわらず、原子力発電を容認していくところには、すごい危険がある

最近の新聞報道によると業界と自民党が組んで規制委員会のメンバーに業界寄りの人物を指し変えようとする動きすらあるという。

目先の経済対策で少し景気が上向いてからといって最終的には日本を滅ぼすなんて、とんでもねえ考えだ 。人間のコントロールのきかない原子力が安全だとどうして言えるのか 。

君はどうして結婚しないのだ6-55

2013年03月19日 | Weblog
、君はどうして結婚しないのだ

40を過ぎるまで結婚する気にはなれなかったのか。君なりのいろいろな理由はあるだろう。
たとえば、親の結婚生活を見て、これではやってられないよ、とか結婚すると不自由だとか、気に入った相手が見つからないとか。
僕はこんなこと理由にならないと思うよ。
たとえばさ。 親の結婚生活を見て幻滅を感じている君。君は親と同じような結婚生活が自分もそうなると思っているのか。それは間違っている。第一、親と子供である君とが、同じ結婚生活を送るとは限らないじゃないか。君は君の考えで結婚生活をするだろう。それが親の結婚生活と同じものだなんて考えられないよ。結婚生活とはものすごく複雑なもので 全く同じようなものはありえない。君自身の価値観やら個性が出るから当然のことである。

結婚するというのは動物の自然な姿だ。つがいになって夫婦生活するのが自然の法則だよ
それをいろいろ理由をつけて断るというのは、自然の法則に反している。だから独りでいると安定感がいなんだよ。確かに自由はあるさ。心底から信頼できる話し相手がいない人生なんて、どれほど退屈なものか。今は両親と同居しているから 、人生の孤独とか寂しさとか言う ものが分からないのだろうけど、親は先に死んでいく。いずれ君は一人になるときが来る。そのとき君は60,70歳になっているだろう。
この頃になると自分の身一つを持ちかねる、しんどさ、体力の弱りが出てくる。そのときになってじたばたしてももう遅い。年老いて体力気力に衰えがみえてくると、自分一人で生きていくことには不安がつきまとう。それを乗り切る自信があるのか。

家に帰っても電気も付いていない。声をかける人もいない。もちろん今日の出来事を話す人もいない。それで本当にいいのか。若いときは体力も十分あるし、気力だってみなぎっているから、それほど相手を必要としないかもしれないが、年をとるとそうはいかない。
悪いことは言わん。今からでも遅くない。結婚すると決意して真剣に相手を探してみたら。
君には必ず老いが追いかけてくるのだから。

しつけと体罰

2013年03月18日 | Weblog
しつけと体罰

[体罰する側にこれほど支持が厚いのは異様な事態だが、日本社会にいるかぎりそれほど異様に見えない。われわれはそういう空気にどっぷりつかっているのです。]

とある人が言う。

体罰する側にこれほど支持が厚いのは異様な事態ですか? アホな。
子供時のから 躾のために言う事を聞かない場合は親が叩くのです。普通はこれが躾教育です。人間は少し痛い目に合わないと、同じことをするものです。親から一度も叩かれないで育った子供がいるのでしょうか。
親が常識の範囲の中で子供にビンタを食らわすのを体罰といいますか。
これはほとんどの家庭で行われている躾教育なので、どっぷり浸かっているというよりは、それが当たり前のことなのです。
判断のつかない子供を痛い思いをさせないで、どうして教育できるのでしょうか。子供は幼くて言葉が通じないのですよ。それに美脚を教えようというのであれば、ある程度の痛い思いをさせなければ、どうして子供の躾ができるのでしょうか。子供に痛い思いをさせるのは異様でもなんでもありません。いわば自然のしつけ教育です。
これが学校の生徒と先生のあいだで行われるならば体罰になるのです。態度や思考の矯正を行う場合に両者のあいだに、他に方法がないときに先生は言う事を聞かせるために、叩いたりけったりするのです。教育にはある程度の暴力は致し方がありません。問題なのは程度の問題なのです。鼓膜が敗れるような叩き方は教育というよりも暴力行為になります。頭や顔を叩くのではなくて害の少ないお尻を懲罰として叩いて躾をするのは、僕は容認します。子供に怪我をさせるような叩き方や教師の感情任せというのは一切厳禁です。一切手出しをしてはならないではおそらく教育はできないでしょう。
言葉だけとか、長い時間をかけてというのは、現場を知らない人の言うことです。いま暴力教師を体罰教師として同列に扱っているがそれは違います。愛のムチは体罰には違いないけど、暴力ではありません。

桜日和

2013年03月17日 | Weblog
桜日和

3月の中ごろをすぎて ぼつぼつ桜の便りが聞かれるれるようになると
春本番が始まる。桜日和。語呂がいい。
3月の中ごろをすぎて ぼつぼつ桜の便りが聞かれるれるようになると
春本番が始まる。
春の陽光を背中に浴びながら、心を和ませて列車の旅を続けた。一般に旅と言うと体の移動を意味するが、心もひっさげて移動するのだ。
何十年ぶりかにかって自分が住んだ土地の駅で降りたつと、目で見ているもの以上に、頭の回転が早まり、次々と昔の懐かしい場面が走馬灯となって駆け巡る。
身体の五感には限度があるが、心だけは限度がない。懐かしいあの人、あの街,あの場所が次々にと思い出されて尽きるところがない。

幼稚園の片隅にはよくつくしが生えていた。そこは毎年同じような時期に土を破って頭を出す。この場所は私だけしか知らない秘密の場所であった。つくしといっても2,3本が顔をのぞかせる程度のごく狭い場所であるが、毎年同じところに同じ頃につくしが出た。幼稚園生だった私が、園内の片隅に自分の秘密の場所があるのが嬉しかった。
何十年かぶりに、その幼稚園のかっての秘密の場所を訪れたが、幼稚園そのものが取り壊されていて、新しい建物ができ、影も形もなかった。
自分の頭の中の確かな記憶を1つ削除しなければならない事はなんか寂しいものがあった。

花便りを聞くこの頃は毎年同じような、つくしの想い出が巡ってくる。
しかしそれはいまはもう無い。幼稚園生だった僕は姿を変えて現在ここにたっている。のと同様にあの秘密の場所が姿を変えてどこかに生存していて欲しいなぁと思った。
冬から春にかけての季節も、人の心を解放していくという意味では、大切なシーズンである。春夏秋冬がはっきりした日本ならではの事だけど、やはり日本人の情緒的感覚には、この細やかな季節の変わりが反映されているのであろう。

医学には死後の世界はない

2013年03月16日 | Weblog
医学には死後の世界はない

今日NHKテレビで心の時代を見ていたらこんな発言があった。
「医学には死後の世界はない」
死後の世界なんて難しすぎて医学という科学が関与できないからだろう。
ところが医師の中には医学はが学問としてとらえるが、死後の世界に関心を持っている人が沢山いる。当然のことだろう。余命幾ばくもない人を前にして、医学の出来る事は限られてくるし、そして患者が次々になくなっていくと、いやでも死や死後の世界について考えざるをえないだろうから。
死後の世界については宗教人がタッチしていると言えるが、終末医療については、医師と僧がセットになって相互補完的に患者に接する事も在る。しかし現実には医師と僧の関係はバトンタッチ的な関係となっている。生と死は異次元のことだから、本当のところは判らないが、死期がちかずくと、医学よりも宗教に頼る人が多くなるのは、医学では手の打ちようがないという現実と直面して、やむを得ず宗教的な関心の中に安寧を求める事になる。
生を死後にまで繋げようとしたら、健常な内に宗教的な関心を持って日々の生活を送ることが肝要になる。死んでもいないうちに死後の世界を考えるというのはおかしな話だが、そうすることによって心の平安が保てるならばそれもいいと思う。