日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

大英博物館を見学して思ったこと

2010年09月30日 | Weblog
大英博物館を見学して思ったこと

1、人間に生と死が有る限り、神秘が付きまとう。神秘が有る限り人間は神とは切れない縁で結ばれている。その実感が強い。
2、5000年前の人骨を見て父を思い出した。脈絡は何もないが。
3、英国は世界中の宝物を奪って自国にもって帰り、大英博物館に収容した。それを自国だけで独占せず人類の文化遺産として保存し世界に向けてオープンした。もし英国がこうしなかったら人類の文化遺産が守れたか。散逸や破壊や消滅があったに違いない。大英博物館は正に人類の手柄であり、英知が集まるところである。略奪したという点にこだわれば、また別の見方が出来る

2010年09月29日 | Weblog


一度読んだ本でも、捨てたらもったいないと、本箱につんでいたら、本があふれかえった。
整理しても整理しても、量が多すぎて、簡単に収まりが付かない。

そこで、古本を売ることにした。僕の場合、本を読むと必ずコメントを書いたり、赤線を引っ張ったりして書き込みがある。これは一切売れない。

昨日、文庫本15冊売りに行った。そのなかで売り物になるのが5冊で、あとは廃棄処分。売れたお金は150円。

ところが、1冊平均30円で買いとられた本が、書棚に並ぶと、1冊100円である。

儲かるはずである。ひょっとしたら、タダでいいから、本を引き取ってほしいと、古本屋に持ち込む人だってたくさんいる。つまり、原価はゼロである。売れば売るだけそれは、利益になる。売れるのか、売れないのかは本屋にも、この本を出した人にもわからない。

だから、場合によって、半年待ちにして売れない場合は、この古本は、廃棄しなくてはならない。ところで廃棄してみたところで実質の原価の損は発生しない、
原価は、タダに等しいか、さもなければ、売値の3%5%の仕入り値である。

売る側に立つと歯ぎしりするほど悔しいが、持っていても邪魔になるだけだから処分したほうがいい。
ただし赤線を引いた部分や書きこみの部分はテープレコーダーに吹き込んで本が無くなっても、肝心なところは思い出すことが出来るような仕掛けはしてある。

宇宙の意志

2010年09月28日 | Weblog
宇宙の意志

宇宙には、森羅万象あらゆるものが、あるがままに存在するのではなく、それが生成発展する方向で動かして行く流れ、すべての物を成長を発展させるような進化を促して行く流れがある。

つまり、無機質な法則というよりは、宇宙にはすべての物を生成発展させ、進化させていく意志が存在する。

だから人間は肉体が滅びても、宇宙の意志という存在のベースになるものは、滅びない。宇宙の意志の存在に確信を持っている以上肉体の死はそのまま人間の死を意味しない。

以上は、稲盛和夫先生の物の見方である。これに自分の考えを少し付け加えてみたい。

1,宇宙の意志、それを私はサムシンググレートと呼びたい。神と言ってもいいし、絶対者と言い換えてもいいだろう。

2,そういうものの中に、我々の生命現象は生じている。つまり、人間は主体的感覚を持って生きてはいるが、そのじつ生命現象を支えているのは、サムシンググレートではないだろうか。

3,作曲家、服部良一先生は自分の作曲活動を通じて、この絶対者の存在を確信している。というよりは絶対者に導かれて、自分の作曲活動があるという。

4,僕もまた、作曲をする時に、何か不思議な力を感じることがある。
 それは、稲盛さんの言う宇宙の意志、僕の言葉で語れば神の存在とか。神に導かれてとかいうことになる。これは理屈上の事ではなくて、実際に自分が実感することである。

そういう実感がある人は稲盛先生の説に賛成あるいは理解を示すだろうが、実感のない人は、こういう考え方は単なる頭の産物として深く考えることなく済ませてしまうだろう。
それにしても万人が納得する真実とはなに何だろう 。


人生は苦難に満ちた行路か7-57

2010年09月27日 | Weblog
人生は苦難に満ちた行路か

「陰徳を積む 銀行王安田善治郎伝」  北康利著を読んだ。
安田善治郎は1837年 富山市婦中町 鍋屋小路に生まれ、一代で、銀行王と呼ばれる富豪となる。 

金持で、ケチという悪評が安田に対する世評だった。彼が朝日平吾に刺殺されたとき、日本資本主義発達の縁の下の力持ちの役割を果たしたであろう安田の、影の力には目もくれないで、殺人犯を労働組合や支援者達は「安田に負けない葬儀をしよう」と朝日を英雄扱いにしている。時あたかも大正デモクラシーの燃えさかる頃である。

1921年(大正10年)83才の安田は9月28日9時20分朝日平吾に刺殺された。犯人の朝日平吾も現場(大磯の別邸 寿楽庵)で自殺するという事件が起こった。テロに倒れたのだ。

朝日平吾は1890生まれ 当時31才。 結核にかかり、死に場所を求めてさまようところがあった。この事件を引き起こす前に彼は熱海の自殺の名所錦ヶ浦で自殺する直前に、土地の石渡氏に説得されて、自殺を思いとどまっている。

僕は安田財閥という名前は知っていたが、彼がどんな働きをしたのか、またどんな陰徳を積んだのか、そう言うことは何も知らなかった。彼の死後15年経って僕が生まれ、大人の感覚でものを見るようになるまでには更に4,50年の月日が必要だったから、彼をどのように評価して良いのか、判らない。ただ次の事実だけは認めざるを得ない。彼は東大に講堂を寄付した。その経緯は次のようである。

大正9年・1920年講堂建設費用の寄付を表明
大正10年3月5月6日。東大に寄付申し出る。9月28日に死去。
彼の死後、書類箱を整理していた職員がたまたま計画案を発見。
長男の安田善之助が2代目の善治郎を襲名 初代の遺志をついて、大正10年12月に着工。途中で関東大震災が発生。竣工は遅れ大正14年(1925年)7月6日、完成。
それ以後安田講堂は、戦災を免れ、また学園紛争の荒波にもまれながらも、日本の最高学府のシンボルとして東大本郷キャンパスの中心にそびえ立っている。
この寄付を売名行為と見るか、彼の考えた陰徳を積んだ事に成るのか。その見方は人それぞれだろう。それにしてもいわく因縁があり、また数奇な運命を持って現在も東京のど真ん中に鎮座している姿を、安田善治郎は冥府からどんな思いで眺めているのだろう。


振り上げた拳

2010年09月26日 | Weblog
振り上げた拳

尖閣諸島問題では、実に厚かましい難題を中国はふっかけてきたように感じた。
そんな無法なことがあるか。大抵の日本人はそう感じたに違いない。
僕の心の中にも、中国になめれらてたまるか、と言う思いが強い。

他方中国問題を考えるとき、軍事的衝突はまず起こりえないだろうから、政治経済の問題を考えればいいだろう。

ところが政治は後回しにして、経済を考えて見ると、尖閣諸島問題で経済交流が細くなったり、止まったりしたときに、困るのは日本か、中国か。 どちらだろう。勿論両者傷つくわけだが、深手を負うのは日本ではないか。中国からの輸入が今回のようにレアアース輸出禁止になった場合、代替品がないだけに、日本の基幹産業がお手上げになる。さがせば他にも戦略的に日本を締め上げる資源はいくつかあるだろう。

中国と国交断絶に近い状態になると、たちまちにしてお手上げの状態になる事が今回の件で、はっきり判ってきた。日本の基幹産業がこんなもろい状態だと言うことが今回はっきりした。こういう状態では、どうして振り上げた怒りの拳を振り下ろすことが出来ようか。今後の状態を予想すると、腰砕けになって白旗を掲げる他はないのではないか。

あと10年もすれば中国は日本の製造、システムノウハウなどを吸収してしまうだろうから、中国国内における日系企業は邪魔になってくる。きっと追い出しにかかるだろう。考えるに日本人は人はよいが、世界を知らなさすぎる。

それは振り込め詐欺に良く現れている。振り込め詐欺が犯罪として成立するというのは如何にだまされやすいか、他人を信用しすぎるかを示している。自分はそんな悪いことをしないから、他人もすまいと勝手に思い込んでいるのである。
それは日本人はこうだから、中国人もこうだろうと、現実を見ないで幻想を抱いてつきあっているのと同じだ。

それは日露戦争終結のポーツマス条約締結の際にも現れている。日本はこうだから、仲介役のアメリカも日本よりの味方になってくれるに違いない。そしてその幻想は完全に裏切られて条約締結をさせられたと言う過去の事例を見れば判る

それは善意ではあるが、独りよがりの判断である。まさかそんなことはすまい、
そんなことは起こるまい、この部分が独善なのである。幻想なのである。

今回の中国のやり方は当にそう言うところを突いて来ている。さあ困った、これが日本の実情ではないか。単に人口が多く労働賃金も安いし、ものが大量に売れるそんな浮ついた考えで中国進出を決めた日本企業はつぶされるか、乗取られるか、どちらかの運命が待っている。本音の所では中国のやり方は北朝鮮のやり方と極似している。

序でに言うと6カ国協議なんて何年やっても北朝鮮がのらりくらりする上に中国がその態度を利用して成果を上げるように仕向けない。だから協議をしたかと思うと中断に這入り時間稼ぎばかりして、成果を上げることは出来ない。
6カ国協議における北朝鮮が使うのと同じ手口で、今後の日中交渉が行われる危険性は十分あると見て、心つもりをして、覚悟を決めておかねばならない。

尖閣諸島問題

2010年09月25日 | Weblog
尖閣諸島問題

結果を見ると、日本人は如何にぼやっとして今まで過ごしてきたか。無為無策と言っても良い。むいむさくでないなら相手国は遙かに外交に長けている。レアアースで首根っこを押さえられ、騒いでいる。何ともお粗末な話。それがダメならこれがあるという備えがない。外国から輸入している場合何らかの事情でストップすることは現実にあることだ。政治が何とかしてくれるだろうなんて甘い考えがどうして通用するのか。表面は仲良くしていても腹の内を今回の件で中国はさらけ出した。いわゆる戦略的互恵関係である。

草木もなびいて中国へ生産拠点を移したが、あと十年も経てば技術も製造も販売もそのままにして中国へ進出した企業は裸で放り出されるだろう。これは決して非現実的な話ではなくて、今回の出来事を見れば将来十分起こりうる事態である。
経済力を背景にした政治力の格段の実力で、日本は無理難題を押しつけられるだろう。

尖閣問題では安保でアメリカが守ると言うことにはなっているが、それは建前で実際にはアメリカ議会、や大統領の判断で今回のようなことが起こっても、動いてくれるかどうかは判らない。安保は自動発令ではないからだ。直接攻撃を受けた場合は別だが、中国もそんな危険な方法はとらず圧力と脅しで日本から何かを奪っていくだろう。日本のトップリーダーは政治家にしても、企業経営者にしてもその辺の用意と覚悟はあるのだろうか。

中国に丸裸にされないうちに、何か手を打つべきだ。少々の利益のために最後には全てを失うことのないように今から戦略を立て実行すべきだ。

目立たないケースではあるが、過去にこれに類した考え方で一方的に中国によって裸にされた実績がある。小さな事件でたいていの人は知らないと思うが、中国人は我々の意表を突く考えを持っており、恥知らずの行動をとることが多い。

それは日本人がお人好しだからである。一歩踏み込んで言うなら、お粗末、バカと言うことである。
これだけの国力を持ちながら、今回の結末を見れば判るだろう。
戦略的互恵関係の中身は何なのか。今回の件でよく分かっただろう。
賃金の安さだけを求めて、海外をさまよう企業は何れつぶれる運命にある。既に為替でアメリカと中国に締め上げられている面がある。それはどこに移転しても多大な影響を受ける。

特に思うのは永年人と金と時間をかけて築いてきたノーハウがここ十年くらいの間に外国に奪われる姿など想像もしたくないが、今のままではおそらくそうなるだろう。
今は中国は日本の力を利用して国力の充実をはかるという目的のためにおとなしくしているだろうが、そのうちに必ず本性をむき出しに出すだろう。それに対する備えは?国として対策や戦略があるのか。今後力を付けるに従って中国の発言力をますだろう。それが受け入れられるものばかりとは限らない。いや日本にとっては無理難題とうつる言いがかりが、多いだろう。なぜなら中国流の解釈では戦略的互恵関係とは、日本や国際世論と正反対の中身だからである。

それよりももっと恐ろしいのは、食料自給率の低さである。何らかの事情で食料輸入がストップされたら一体どうなるのか。国内に生産力がないなら仕方がないが、農業を基盤整備で思い切った食料自給率を確保する国策を講じておかないとその深刻さは、今回の比ではない。農家の個別保証なんて事を今後続けるつもりであろうか。それで農業問題が解決するのだろうか。
高齢化少子化時代を迎えて、旧来の農家経営が成り立たないのは、火を見るより明らか。抜本的な農業改革を行わないと農地は原野に還っていきつつあるのが現状だ。

日本のトップリーダーはどうしてこれほどバカそろいなのだろう。鳩山は現実離れした宇宙人だし、小沢は子分140人をつれて中国詣り。小沢個人にとっては親分気取りで実力を示したのかも知れないが、中国側から見ると、いよいよ日本も中国に頭を下げる時代、すなわち朝貢的態度をとるようになったか、と内心ほくそ笑んだことだろう。はしなくも小沢は中国の軍門にくだった事を中国人に印象付けた。そう言うことを計算に入れて小沢は行動しているのだろうか。馬鹿な奴だ。
日本の恥さらしだ。

安田善治郎

2010年09月24日 | Weblog
安田善治郎


陰徳
安田善治郎の父善悦は  
「慈善は陰徳を持って本とすべし。慈善をもって名誉をもとむべからず」 「富之礎」 と善治郎に教えた。彼は財をなした後からもこの教えを固く守った。
世間では彼はケチだという評判が定着していた 。
大体ケチという概念は人によって様々である。安田が果たしてケチだったのだろうか。と考えるとき、僕は彼がケチというよりは金を使うときにその意味や効果を彼なりに計算して彼がおもう、合理的なものには金を使ったと思う。

ところが彼が思う合理的なものと一般人が思うところの合理的なものの間には乖離がありずれがあったのではないか。

彼は銀行家である。銀行家というのは、時には冷徹でなければならない。
庶民は彼の冷徹な合理性をケチと見たのだろう。
金持ちであるならば、そのくらいの金は出しても良かろうという庶民の思いと無駄金は出したくないと思う彼の想いの差が、はケチという評判を産んだ。
そのケチと言う評判のために彼は凶刀に倒れた。83才。人生は判らないものだ。ところで彼が積んだとされる陰徳の行方は、さてどうなったんだろうか。






日本資本主義と渋沢栄一7-51

2010年09月23日 | Weblog
日本資本主義と渋沢栄一

渋沢栄一は日本の資本主義を定着させたが、資本主義の根本倫理を論語においていた。公を常に意識して高い志を持って事業を展開、
彼は事業を軌道に乗せては、それを公の為になる様に発展させた。
殖産興業。私利私欲はない。、

自分の利益よりもそれが日本の資本主義の健全な発達のためになるように全ての事業の根本原理として、儒教の教えに根底に据えてそれを遵守した。

明治維新前後に持っていた日本人の人生哲学は中国思想特に孔子孟子の教えが中心思想である。 論語の教えである。孔子孟子は人類のあり方について方途を研究して、究極の所人類が平和に暮らしていくことが最も重要なことだと説いた。

この世にある何物にもまして人間の存在が尊重されなければならいと説くこの教えは、勿論現代の世相に会わない部分もあるが、人間の生き方や、あり方なんてそう大きくは変わるものではないから人間尊重の根幹部分は永久不変だと思う。。

しかるに世界に影響が及んだリーマンショックの基本的な考え方はいかがなものであろうか。そこには野放しの自由競争があり、その結果社会は競争に於いて勝者・敗者に2相分解して敗者の生存権が脅かされる様な事態を引き起こした。自由競争が悪いわけではない。が利潤追求が加熱するとバブルを引き起こしやがて世界経済のあり方に激震を与える。その影響を受けて経済不況が発生して混乱が生じ、ひいては社会的弱者に、しわ寄せとなって生活苦をもたらす。

そう言う一連の経済現象を考えると、資本主義の根底には譲ることの出来ないこ根本原理儒教またはそれに変わる人間尊重の哲学が無くてはならない。
幸いなことに日本資本主義にはリーマンの経営者のような人間はいないから
日本発の世界同時不況は起こらないと思うが、日本の経営者の中にもリーマン型経営者は育ってくるのであろうか。それだけはなんとしても阻止しなくてはならない。


精神科学

2010年09月21日 | Weblog
精神科学

科学的に証明されたと言われると、我々はそれは正しいものだと受け止める。

しかし考えて見ると、これは主として物質文明の科学でしかあり得ない
精神科学は、未だに科学の光が射していない。つまり人間の心、とか魂とか、精神という部分については科学は今からの分野である。
意識や心に対する分野は、いままで科学の光を当ててこなかった、少なくとも研究はいまだその端緒についたばかりである。
それにもかかわらず、科学がいまだ解き明かしていない部分を非科学的な分野として手をつけていない。
ところが人間は科学で解明された部分といまだ手付かずの両面を持つ存在なのだ。これは精神と肉体のアンバランスという形で噴出する。
今からの科学は精神科学にもっと力を入れなければならない。ついでいにっておけばカナダの有名な脳科学者 ペンフイールドが最後の言葉としていままでの
自説を否定して。ーーつまり精神作用も脳作用の一種で脳作用の完全解明で心もすべて解明されたとする説ーーなくなってから進んでいるとはいうものの心とか精神というものについて完全解明にはいたっていない。

創造活動に携わると、特にこの辺のことを痛感する 

敬老の日

2010年09月20日 | Weblog
敬老の日。

子供に誘われて観音参りに出かけた。
西国33所の観音参り。
12番三井寺  13番石山寺
関係つければ2寺に渡ってお大師さんに関係があることを知って驚いた。
三井寺の智証大師は弘法大師の母方の出らしい。
石山寺には大師堂がある。開基は良弁とある。良弁は東大寺お水取りを最初に執り行った人だ。つまり東大寺の大僧正だ。お大師さんも東大寺の別当をされている 。
この世の何か不思議な縁を感じた1日だった。

科学の範囲

2010年09月19日 | Weblog
科学の範囲

科学が未だに見つけ得ない宇宙の真理はどのような領域に属するのであろうか。それは哲学や宗教や芸術の分野に属していると思う。それらの中から
科学的な法則が発見されて、科学の領域の中に入ってくる。

だから科学以前にある、例えば哲学をを非科学的として、排斥してよいものかどうか。
宇宙に存在する真理は科学によって発見されたときに、初めて科学になりうるのだ。しかも宇宙にある真理の大部分は未だに、科学にはなっていない。

科学を過信する前に、我々は科学はこういう次元にある、つまり科学は宇宙の真理の存在を発見する前に、哲学の領域にあり、まだまだ発達するものである。

科学の発達は今からだと言っても良いのではないか。別な言い方をすれば
現在非科学的とされているものの中に、科学的なものがどれほど含まれていることか。
こういう視点から科学を眺めないと科学万能に陥ってしまう。
心すべき事である。

祭り

2010年09月18日 | Weblog
祭り

春夏秋日本全国どこかで祭が執り行われる。今はもう消えてしまったようになったが、村の鎮守の神様を祭る行事は、昔から色々な形でいろんなところで行われてきた。

ところで祭とは一旦なんだろうと考えて見ると、人間と神仏の関わりだとおもう。神の側からの働きかけではなくて、人間の素朴は願い事や、感謝の気持ちを神仏にと言っても主に神様にであるが、表したのが祭であると考えた。通俗的な至って人間的な解釈である。

人間の側から見ると、日頃からたまっていたエネルギーを、祭を通して爆発させ、ガス抜きを果たす役割もある。神仏を前にして心身を清めることにもなろう。

ご縁が深いというのか、おっちょこちょいの軽業か、幸いなことに大阪市内や
近郊の祭りに唄を作るチャンスに恵まれた。

大阪の夏祭りのさきがけ愛染祭には愛染サンバをかいてギャルにサンバを踊って貰いながら、大通りをパレードして宮入(寺入り)をした。

9月17日。今日から岸和田だんじり祭りが始まる。市内の町内が個別にだんじりをもち、それを市中引き回してそれはそれは勇壮である。
1点の華を添えるべく、ここに詞を載せておく。だんじり祭りの雰囲気を感じて頂ければもっけの幸いである

だんじり太鼓か 引きの声か
空に響けば  血が騒ぐ
岸和田名代のダンジリ祭り
たたく太鼓は乱れ打ち
これが岸和田これが岸和田
あばれだんじり、みだれうち。










稲盛和夫さんの考え方7-52

2010年09月17日 | Weblog
稲盛和夫さんの考え方1

〇、最近彼の「哲学」という本を読んだ。僕が彼に注目したのは、リーマンショックで、不況に陥った企業は人を減らすことによって利益を確保を図った。そのために企業から放り出された人々は野宿するまでに追いやられた。いわゆる派遣村が、設けられたのもこの時期である。

考えてみればおかしな話である。人間よりも会社の利益の方が優先するのだ。会社が大切なのはよく分かる
しかし、これは社長以下ワークシェアリングで各人が受け取る給料を少なくして現有の人々を勤務させるということではなくて、いとも簡単に人減らしをした。派遣切りである。

そんな状況のなかで、京セラの創業者、稲盛和夫さんは、不況になったからといって、従業員の首を切ると言うのは経営者のすることではない。それをやれば、経営者失格だと言い切った。

僕は彼の哲学、言い分は正しいと思った。なぜか。企業というものは人間のために存在するもので、その逆はあり得ない。ところが現実的には、企業のためには、人の生活権利を奪うことがまず第一に行われるのが経営手法である

もちろんすべての会社が、安直に、このような手段を使って、人減らし、をしたということではない。昨日見たテレビで、ある中小企業の女社長は、
「従業員に給料を払うために、自分の給料は、2万円まで切り下げた」と、言った。
そういう中小企業もたくさんあろうかとは思うが、テレビ報道では、人減らしをした会社の方がはるかに、多いように見受けられた。
会社が大切だと言うのであれば、社長以下全員。ある時期だけ現在いる従業員の

不況の時は生活を守るために、全員が給料を下げるけることはもちろんだが、仕事の分配の方法も考えで、何としても雇用を守り抜く。という姿勢が、第一段階であろう。

そんな状況のなかで、僕は彼の書いた。著書をひもといた。
人間がなぜこの世に存在するのか。という根本原理をベースにして、彼は持論を展開している。この本の前書きにこう書いている。
「物質的には豊かな生活が実現できたにもかかわらず、多くの人は満たされず、不安を抱きながら生きている人間の生き方や考え方について真剣に考えることなく、また足ことも、人を思いやることも忘れ、ただ、利己的に生きている。
生まれてこのかた人間としてあるべき考え方や生き方について教えられることはどんなところでも、なかった。だがよくよく考えてみると、
、全宇宙に存在するものがすべて存在する必要性があって存在している。
結果は偶然に見えるが、人間は生まれるべくして生まれて今日あると私は考える。」
話を現実に戻して、彼の会社も不況でにっちもさっちも立ち行かない場合があったらしい。
そのときでも、彼は従業員を解雇しなかった。余った労働力は構内のの草引きに回して、需要の回復してくるのを待った。私はここに彼の企業哲学を見るのである。ここには、企業は一体誰のためにあるのかということが明確に示されているからである。
苦しい時は社長以下全員がその苦しみを分かち合い、景気の回復を待つ。これとて、現実の場面ではかなり厳しいことだったと思う。しかし、彼は経営の根本哲学をここに置いていた。つまり企業は、人々のためにあるのだと、いう信念である。
重ねていうが、企業は人間のためにはあって、企業のために人間が居るわけでは決してない。 僕は、この考え方の中に、真の経営者を見いだすのである。

続く。

作成日: 10/09/17

命の問答7-53

2010年09月16日 | Weblog
人生無常。命の問答

1,「化野の、露が消えるるということもなく、鳥辺山の火葬の煙が立ち去るということがないように、人間が永久に行きながらえるならわしてあったとしたら、どんなにか物事の情趣がないことであろう。」

それはそうだ。現在100才を超えてしている人が、何万人と、この日本に住んでいるが、戸籍の不備、もあって、150歳ぐらいの人もいるらしい。もちろん彼はとっくにこの世を去っているはずだが、戸籍上は存在している。近頃こういうことが話題になっている。
人にもよるが、100才でオトナの健康と正常な感覚も持って生活している人はほとんどいない。
誰かのサポートによってやっと生きているというのが現状だ。それを考えると、人の世話になったり明らかに老醜をさらす状態が表に出てきたら、やはりここに至るまでに、この世を去るのが本人のためにも、社会のためにも良いことだと思う。

しかしこればかりは天命で、自分や周りの人達の思うようにはならない。
どうしようもないことである。ただ人間として生きていくと言うのには前提があってそれが崩れたらこの世を去るのが望ましい。つまり本人も納得の上でむやみやたらと延命工作しないことである。

2,「命を欲しいと思ったならば、千年を過ごしても、一夜の夢のように会ってない気がする。しょせんは永久に住み押せることのできない人生に、年をとって醜い姿になるまで、生きながらやってなにになるだろう。」

千年過ごしても、一夜の夢のように思うというのはちょっと違う。百才も近くなると自分で我が身の見繕いをするのも大変で、本人も生きていることに苦痛を感じているのではないか。一夜の夢とに思う余裕はないだろう。
医学の進歩のおかげで平均寿命が80代になってきた。人間という観点から見れば好ましいことである。
しかし、医学は、人間的な感覚を失ってもつまり、植物人間になったとしても生かしていく方法をとっていく。
それが果たしていいものかどうか。この点が難しい。人間的な正常な感覚を失ったからといって、それを放置して死に至らしめることが良いことか悪いことか。医学が未発達の時代の時はすべてこの問題は自然にゆだねられていた。がそこに人間の知恵が働くようになって、こういう問題を惹起するようになった。

3,「それを過ぎると、恥ずかしく思う心をなくし、人中に出ておつき合いをしようと思い、沈みかけた夕陽のように余命少ない身で子や孫を愛し、その栄ゆく未来を見届けるまでの命を乞い願い一途に、世俗的な欲望をむさぼり求める心ばかりが深くなって物事の情趣もわからないようになっていくのは情けないことだ。」

恥ずかしいと思う心をなくす余裕がないのが現状だと思う。それに老人が人前に出ることは引きこもりをするよりはよいことだと思う。沈みかけている命ならばこそ子や孫の行く末を案じるのである。人間として当然のことの様の思うが、、、
むさぼる心ばかりが肥大して、というのは元気のある間だけの話である。平均年齢を超える頃になるとむさぼることより明日の我が身を考えるのではないか。

法師の無常論やむさぼる心の克服などには一定の理解を示しつつも、現代の状況から見ると違和感がある。
長生きして子や孫の行く末を見届けたいと言う希望が明日の我に元気を与えているように僕は思う。