日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

制度疲労

2013年02月28日 | Weblog
制度疲労

1日中家の中に閉じこもり、歩くのは食事をする隣の食堂に移動する10m位。これでは足腰が弱るのは当たり前。

人間は動くものである。古来人類は足で立って歩き、手を使って生活していたが、すべての根源は動くことから始まる。

体内に何の不調もないのに、 1日中部屋に閉じこもって、コンピューターをいじっている生活は、それでよしとしている。、
冬は外出して体調を崩さないと言う予防、保護メカニズムが働いて外出はしたいとは思わない。
心が寒さに負けて、いじけているのだ。

12月から1月2月は、ほとんど外出せずに過ごしたら、背骨と腰のあたりに鈍痛を感じるようになった。
それが半年位前からひどくなって、今では起き上がるのが一苦労である。
今日は確認のためMRI検査を受けた。青年壮年期にはぎっくり腰をしたことがあるが、連日連夜、鈍痛など経験したことがない。
このような体調異変は高齢者群入ってからのことである。精神的に若いときと、比べて保身的になったぐらいで、特段変わった事は感じられない。

人間の生涯にも制度疲労と言うものがあるのだろうか。着地点が近づくに従って制度疲労が強まって最後に着地した時はバラバラになってこの世を去ると言う構図なんだろう。

生まれて初めて検査を受ける待合い室で書いた。


レアアース

2013年02月27日 | Weblog
レアアース

日本の領海、深海5000mの所に、レアアースが今のペースの230年分が眠っていると東大の教授が言った。現物を示しての話だから 空想話ではない。中国一辺倒だったレアアースが、ほぼ無尽蔵に海底に眠るというのは明るいニュースである。
後は5000m級の深海からこれを取り出す技術さえ開発されれば、それが採算ラインに載るならば、中国に頼らなくても自給自足できる。

今回の中国のやり方を見ていると、中国一辺倒に頼ることが如何に危険であるかが判る。メインがあれば、必ずサブメインを見つけておかなければ、安定してビジネスを継続することが出来ない事を今回のレアアース価格高騰は教えてくれた。
海外進出も同じである。どこでも一辺倒というのは危険が伴うからメインサブ のダブルセーフ体制を敷く必要を痛感する。
原発事故後ガスやオイルの輸入は足元を見られてより高値で買わされている。アメリカのシエールオイルの輸入が始まれば中東に頭を下げなくてもいい。早くそんな時代が来ないかなと待ち望む。
話をレアアースに話を戻すと、日本の技術力で何とか早く採算に乗る開発をして貰いたい。

ストレス社会

2013年02月26日 | Weblog
ストレス社会

風呂をわかそをと思えば、ウラ山へのぼり、薪をとってきてマキわりして、それをふろ釜のかまどにくべて湯を沸かした。水は井戸から汲んできて風呂の湯船をまんたんにしたものである。
風呂を沸かすのは、1日おきでもいいけれど、食事は3度3度、必要だから、そのための水くみは、大変だった。
今振り返ってみると、僕の小学生の時代は、地方はこんな状態だった。
しかし、そのとき、このことが不満だとは思ったことがない。というより、当たり前のことで、それは日常風景の一つであった。

それに比べて、現代は、水道の蛇口を捻るとバスタブいっぱいに、水を張って、からガス栓をひねって、湯加減を設定しておくと、良い湯加減で、時間が来たら風呂は沸いていて、ちゃんと入れる。
これもまた日常で、このうちどれか一つが故障すると不足に思う。
薪取り、マキわり、水くみ、の大変さを思い出して、昔よりはマシだ。修理屋さんへきてもらえれば、すぐまた元通りの風呂になる。と考える前に、ぶつくさ文句を言う。

現代の文明を基準にして考えれば、知恵が足りない分、人間は大変な思いをしていたものだ。
しかし一旦その文明の恩典に浴すことが、日常生活で当たり前になってみると、少しでも不都合が生じると、それは不満のたねになる。
現代の置かれている状況が、恵まれているという受け止め方をする前に、それは当たり前のこととして受け取られる。

現代はストレス社会だと言われるが、それはすべての当然のこととして受け入れ、そこになんらかの支障ができると、文句を言う。それはそう感じる。という社会構造が出来上がっている。時代の文明の恩恵をありがたく受け止める前に、当然としてしか受け取れない。現代は考え様によっては、ストレスの原因を自分で、作り出しているのかもしれない。

光陰矢の如し

2013年02月25日 | Weblog
光陰矢の如し

物理的な時間は一定ののタイムを刻み続けている。万人に対して平等に刻んでいる。
人は、ある目標を立てた瞬間からそれを達成しようとする全時間が矢のように早く過ぎていることに気が付く。

目標達成までの時間は当人にとっては、矢のように早く過ぎ去っていくが、時計は正確に時を刻み、人間の思う心理的な時間との間にズレが生じる。
このズレこそが 光陰矢の如し というフレーズを生み出したのだ。
何の目標も意識も持たない人からは、光陰矢の如し というフレーズは生まれない。


双子を2組出産する

2013年02月24日 | Weblog
双子を2組出産する

自然妊娠で双子を2組出産する確率は約7000万分の1だという。
病院が発表した声明によると、1日に双子を2組出産という「快挙」を成し遂げたのはトレッサ・モンタルボさん(36)。赤ちゃんは4人とも男の子だった。モンタルボさんは31週目で、帝王切開により出産した。赤ちゃんの体重はそれぞれ約1300―1800グラム。

モンタルボさんは妊娠10週目のときに、担当医から双子だと告げられ、その後また検診に訪れると、3人目、4人目がいることが判明した。4つ子ではなく、2組の双子と診断された。モンタルボさん夫妻は排卵誘発剤を使用していないという。

普通の考えでは、ほとんどあり得ない。排卵誘発剤の使用によって
3つ子が生まれたり、7つ子が生まれたりした話は聞いたことがある。しかし今回のように、双子が2組という話は聞いたことがない。
7000万分の1という確率なら、生涯そういう報道に出逢うこともない。
現在日本では年間100万人が生まれるから、よしんば生まれるとしても70年間に1組と言う事になる。これでは生涯巡り会うことはほとんどないだろう。
時として、奇跡のようなことが人間には起こるものだ。

脳活動マップ」計画

2013年02月23日 | Weblog
 「脳活動マップ」計画

プロジェクトは「脳活動マップ」計画と銘打たれ、膨大な数の脳神経の機能を探り、人の認知や行動、感情に関するより深い知見を得ることを目指す。パーキンソン病やアルツハイマー病の解明のほか、さまざまな精神疾患で新たな治療法の発見が期待されるほか、人工知能の開発促進に道を開く可能性がある。」 と報じられている。

脳神経活動は古い昔は神の領域の事であった 。それが医学の力によって解き明かされようとしている。
そこで1つ判らないことがある。脳作用と魂の関係である。
人間に起こるすべての現象が脳の作用による物だとは思われないからだ。身体と心という二元論の他に魂という物の存在がするのではないか。

桜が春に咲くのは何故か。花が咲くというのはどういう現象が起こっているのか。古人は花の心を尋ねるならば、花木をたちわってみよと言ったが
それ以上のことは僕には何も判らない。ましてや人間は生物の中でもトップに立つ存在である。脳がすべての現象を司るとは思えないから、魂という得体の知れない物を持ち出して、不明の部分をそこに入れて、何とかつじつまを合わせようと、もがいている。ひょっとするとアンタチャッブル の世界に手を突っ込んだのかも知れないが、どんなに脳科学が発達しても、永遠に不明な部分、即ち神の領域は永遠に残る気がしてならない。

死刑執行

2013年02月22日 | Weblog
死刑執行

昨日3人の死刑囚に死刑が執行された。死刑という刑罰が在ろうが無かろうか、極悪人を死刑にするのは当然である。罪の報いに対して
刑罰を受けるのは例えそれが死刑であっても、当然のことである。

死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大あつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない。」と述べ、これが後に、死刑か否かを判断する永山基準と呼ばれ、定着している
 

裁判員裁判は、最初から、死刑や無期懲役が法定刑にある事件を対象とし
て開始され、裁判員は事実認定だけでなく量刑についても、裁判官と対等な立場で評議を行うことになっている。
そのため、裁判員裁判の実施を前に懸念されているのは、死刑か無期かという職業裁判官においてすら困難な判断を、法律の素人であり、かつ、初めて刑事裁判にかかわる市民に判断させようとしていることである。

法律の素人が死刑判決を下せないという論法では裁判員制度は成り立たなくなる。裁判員制度は法律の専門家の判断が大きく国民感情や、常識からかけ離れている現状からそれを是正するために生まれたものである。
法律家の判断が完璧であるとは言えず、その論理の正当性も絶対と言う事は無い。つまり判決は素人玄人に関係なく基本的には国民感情に沿うてるか否かだろう。国民の87%が死刑制度に賛成している以上その国民感情は最大限に尊重されるべきである。
刑罰は応報的な部分があるが、これは人間感情に属すものでやむを得ない

どうにもやりきれない

2013年02月20日 | Weblog
どうにもやりきれない


「私が先に死ねば、妻が困る。疲れた。」96歳の男が、91歳の妻を絞殺し、逮捕された。
妻は元看護婦で認知症が進行していた、夫は警察官である
夫婦は盆栽 が共通の趣味。夫婦仲がよく手をつないで、歩いていた。
妻の面倒は俺が見ると頑張っていた老夫
食事、徘徊 入浴 意志の疎通ができない、
妻のおむつを取り替えるのが、しんどい。ご飯を食べさせるのに1時間もかかる。自分の足腰もよわって杖が手放せない。

こういう状況の中で殺人が行われた。何ともやりきれない事件だ。
こうなると人生は悲惨である。生死はままならないが、96才が91才の認知症の妻の面倒を見ていたと言うだけでも、どれほどの地獄か察しが付く。
その挙げ句の果ての殺人である。
他にも似た様なケースがある。
身体が不十分な夫を、妻が殺した。
病気がちの妻を夫が殺した。
寝たきりの妻を夫が殺した、
アルツハイマの妻を夫が殺した、
認知症の夫を妻が、殺した。
一体どうすればいいのだ?天を恨む他はない。老夫婦の殺人事件はホントにやりきれないものがある。

メロデイと風土

2013年02月19日 | Weblog
メロデイと風土

中山晋平メロディーが日本民謡
古賀政男メロディーが朝鮮民謡、
服部良一メロディーがジャズを基調としているのに対し
渡久地メロディーは生まれ育った沖縄・奄美民謡をベースにしているといわれる

幼少期から青年期かけて、どんな音楽風土になじんだか、どんな風土だったのか。メロデイに現れる特色は育った風土と関係がある。
例えば古賀先生の特徴である泣き節は、先生が朝鮮に住んでおられた事とは無縁ではない。随所に朝鮮節が見え隠れする。
また服部先生は日本の音楽界で、ジャズを始めた大阪で、ジャズ演奏をしていた プレイヤーである。後に東京にでて本格的にジャズプレイヤとして、また作曲家として活躍されたが、ジャズの奔放さがでた美しい音楽性のある作品を沢山書かれている。これもジャズと大きく関係がある。
渡久地先生の作品には何とも言えない人間性・人なつっこさ・心の温かさを感じる。美しいメロデイの源泉を訪ねれば、沖縄という風土に流れている、あの人なつっこさからくる優しさにあふれている沖縄節を連想するだろう。
こういうもので、作家曲が青年期までをどこで過ごしたか、どのような風土の中で過ごしたか、ということが個性を作る上で極めて重要なのである。

苦悩をとうして歓喜へ6-45

2013年02月18日 | Weblog
苦悩をとうして歓喜へ

ベートーベンの言葉である。
僕なりに解釈すれば、苦労をしなければ本当の悦びはわからないということであろうか。
苦労の中から作品が生まれるといっても良い。それはそうだと思う。
砂糖の甘さは対極に塩があるから甘味がわかるのだ。
砂糖ばかり舐めていると、甘さはわからなくなる。塩と砂糖はほどほどにバランスが取れているのが、一番いい。それが常識人の日常生活である。

これを作曲家の生活に置き換えてみると、ヒット作品が出るまでは、作曲家は食うや食わずの生活に追いまくられる。一様に貧乏である。日常生活が成り立たないのなら、やめればいいのに、それがどう言おうか、何かにとりつかれたように世間常識から見ると、狂ったようなギリギリの線上をさまよい続ける。それでもあっさり諦めることができなくて、苦しみをピアノの鍵盤に向かって叩きつける。心のこもった作品作りと言えなくもないが、苦しみもがいて鍵盤を叩くと、そこには作品ができているのだ。


さらに自分の思うようにつくればよいのだが、それがなかなか思いとおりに進まないからストレスに悩まされる。このような諸条件が重圧となって苦悩する。そしてこの重圧をはねのきたときに、歓喜の天使が舞い降りてくる。だから苦しみが大きければ大きほどその喜びも大きい。

演歌の大家・遠藤実先生は自伝の中で、苦しみから曲が生まれ、苦しみの中で詩が生まれると書いておられるが、全く同感である。苦しみの中でしか、心のこもった良い作品は生まれないともいえよう。

話をベートーベンに戻せば、彼も例外ではなく貧乏だったようだ。死の直前に届いた葡萄酒に向かって言った。「残念だが、もう遅すぎた。間に合わない。」
かくて彼は世を去ったが、彼の高邁な精神の結晶である作品は生命を長らえた。彼の楽曲の構成美の妙は人間業だとは思えない。それが証拠に彼の交響楽・第九番 運命を凌駕する作品はまだ世に出ていない。

ついでながら、こんな曲を書く人はどんな頭の持ち主か調べたら、知能指数は抜群で常人の人ではなかったらしい。史上最高の知能指数の持ち主はゲーテだそうで、ベートーベンはその次だと心理学者は見ている。

いろいろの名言を残しているが、今まで素通りしてきたが、もっと彼の自伝を読み込まなくては、と思う。読み飛ばしたわけではない。意味するところがわからなかったのである。

エネルギー政策

2013年02月17日 | Weblog
エネルギー政策


中長期の原子力をどう見るかについては2つの大きな流れがあるようだ。
一つは安全性を高めて、さらに原発を増設していく韓国の方向と、ドイツのように脱原発を掲げて2022年には原発稼働は0にするという脱原発方向とおおきく分けて二つに分かれる。
どちらを選ぶのが正解か。
福島事故を経験した日本では脱原発が国民感情だろう。

確かに有限の化石燃料 には資源枯渇という限界がある。原子エレルギー
を使う限りその心配はない。しかし問題は安全という観点から考えなければならない。絶対の安全を確保しないと日本の場合、再び福島のような事故が福井県で起こったら、国が滅びる危険性がある。
それでも目先の電力事情にこだわるのか。国が滅んで何が企業か

ドイツの場合はっきりと脱原発という方向が決まっており、最終目標の期限も切られている。ドイツの首相は言う。日本のような技術力の高いところで福島事故は起こった。だから絶対安全を求めるならば、脱原発しかない。
どのように安全性を高めても、事故の起こる可能性は0とはならない 。
人間のやることは完璧ではない。そして一旦事故が起こると、取り返しのつかない事が発生し、最悪国を滅ぼすことにもつながる。
そう考えると、やはり脱原発の方向を目指さないと安心できない。

つまり再生可能エネルギー  風力、太陽光、バイオマス、等による発電を見直し、現在の原発に置き換えていくのと、独占形態にある現在の電力システムの改革をしなければならない。電力の小売りの自由化、発送電の分離、等をして一者独占体制を打破していく。競争原理を持ち込む。さらに消費者側には節電と省エネを求めていく。
それらが軌道に乗るまでは、再稼働も考えなくてはならないが、主流は再生可能エネルギーに置き換えて行かなくてはならない。

生命を持つもの6-46

2013年02月16日 | Weblog
生命を持つもの
46

生命を持つものは生物だけだはない。人間が生み出した芸術作品だって世代から世代へと受け継がれて、人の心に生き続ける。、つまり生命をもつ場合がある。人為的に押し付けられて生き続けるのではなくて、ごく自然に人々の心に宿り ーそれはその人に深い感動を与えるから人の心に宿るのだがー 人の心から心へと伝わって拡がっていくのである。

奈良の大仏さんを作るために、当時の庶民は多大の犠牲を強られ。その人達の命と引き替えに、現在大仏さんは、奈良観光の目玉になっている。

開眼供養以来どのくらいの人が観光のために大仏さんを訪れたことだろう。そして巨大な像を見ては楽しみ、畏敬の念を起こし、宗教へ発心したことだろう。その数を累計すると、犠牲者の人数の何万倍という人びとに何らかの影響を与えたことだろうから、犠牲は帳消しにして余りある。????
そういう大仏さんであるが、当時の人びとの生活救済的な意味、(例えば農閑期の収入源になったとか、)から行われたのなら良かったのだが、どうもそう言うようではなく、有無を言わせず、奉仕させたようだ。

聖武天皇は朕はは国家なりという思想の持ち主で、朕のためなら何でも、、、、、という思想の元に建造されたとしたら、その思想から、動員された庶民の悲鳴が聞こえてくるような気がする。
歴史的建造物は、何時の時代でも犠牲を伴う物なのだろう。

放置自転車

2013年02月14日 | Weblog
放置自転車

鉄道の駅近くには自転車置き場がなかったり、少なかったり、駐輪場から遠かったりして、放置されている自転車が歩道まで溢れ、歩行の邪魔になっているになっている。また景観からすると見苦しい。
確かにそうだが、放置自転車のあり方についてちょっと考え直してみる余地はありそうな気がする。

現状では、撤去された自転車は自転車として再利用されるまでに、鉄屑にされてしまう。さもなければ東南アジアに送られてしまう。

日本がいくら金持ちだからと言っても、放置自転車を撤去し、処分について再度利用につなげていかなければ「箸の山」の諺通り、いつか貧乏国に成り下がってしまう。

まだ使える自転車でも、鉄くずにされるようではあまりにも知恵のない話だと思う。
何か目印をつけて安価で販売したり、放置自転車の数を減らすために、道路を駐輪場に改良したり、知恵を出せば資源の有効利用はまだまだありそうな気がする。例えば街路樹の植え込みを工夫するとか、不用不急の空地載りようとか。現状ではきめ細かい詰めが足りない。それは自転車族の不便に背を向けた行政の姿に見える。勿論場所によっては完全にどうにもならにところもあるだろう。それは仕方がないが、工夫によっては少しだけ
駐輪場の余地が生み出せるところもある。












北朝鮮の核実験

2013年02月13日 | Weblog
北朝鮮の核実験

北朝鮮はまた、核実験を強行した。彼らにとれば、国連決議制裁は何らこたえるところがないようにみえる。
国際非難は、まるでかえるのツラにしょんべである。
度重なる国連決議も、こうも無視されたら、決議そのものの意味が問われる。もはや決議をする意味さえ失われたかの感がある。制裁決議も虚しい。
この国は国際制裁を無視するばかりでなく、友好国でさえ抑えが効かないというからどうしようもない。

決議を無視して実験を繰り返すこの国に対して最小どのような始末を付けるのか、国連を無視するようなら、痛い目に遭わされたって仕方がないが、その前にパンチの効いた効果的な方法があるかといえば、どの国も持ち合わせていないようだ。ほんとに始末の悪い国だ。ため息が出る。

北朝鮮内部から革命が起こるかといえば、そんな気配はない。とすれば現体制を外国が立ち入って、人民解放をやらざるを得ない気にもなる。
ちょっと短気かもしれないが、、、、。このまま放っておけばこれから先どうなるのだろうか。

政治家

2013年02月12日 | Weblog
政治家

若いときは政治家は尊敬の的だった。が、近頃は政治家なんて尊敬どころが、うさんくさい輩とみるようになった。金と地位をほしがる最低の人種だと今は思っている。

物事を実に深く勉強して、人格を練り、高い見識を持って政治をする政治家などお目に掛かったことがない。漫画を読む総理大臣がでたり、宇宙人としか思われないような夢想家が総理になったり、こんな程度の人にどうして尊敬の念が湧くであろうか。
僕は一国のリーダーにはモット高い見識と彼自身の政治哲学とそれに基付いたリーダーシップがあって当たり前だと思っている。それで初めて政治家にふさわしい資格が出来るのだ。少なくとも全てにおいて例えば見識だとか洞察力だとか、僕の上にいて 引っ張っていてくれる人にして初めて政治家と言えるのである

歴史も知らず学問もなしに政治をするというのは大胆不敵な話。
ものを考えるということは比較するということだから比較すべき標準が自分の頭にあって初めて現代を見ることができる。それがなければ考えようがない。
今のタイプ政治家の体質は皆利権に絡んだ根っこがついていて動かしがたいというところがある。
どうせ不完全な者の集まりが人間だ。完璧とまではいわないが、1935年以降の世界史や中国史くらいは知っていないと困る。しかし現実にはその程度の知識も無い人物が大臣になっている。これは一体何だろう。