日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

安珍清姫

2014年03月30日 | Weblog
安珍清姫    

清姫ってストーカーじゃないの

紀州路線走ると、御坊の次が道場寺である。ここには、安珍・清姫物語伝説が、ある。

恋にくるう女が男を追いかける。最後には、彼が隠れている釣鐘を恋の炎で、焼き尽くす。

何もかにも忘れて、命をかけた恋の情熱は一体どこから出てくるのであろうか。

この物語は、何を語ろうとしているのか、
1,女の恋の情念の激しさ
2,なぜそこまでエネルギーを集中して、釣鐘を焼き尽くすのだ。女の内なる世界は、閉鎖的だから、一点集中したエネルギーはすべてを焼き尽くすほどのパワーを持っている。

女にかかわらず、恋という情念のもつエネルギーの大きさ。そこには、男と女という差は無いと思うが、一点集中となると女の情念の方が、大きいのかもしれない。

命をかけてもという望みが、押しつぶされて、解放されない女の情念の塊は、今生という形をとれば、幽霊になる。
清姫は、死んでから、蛇になるのではなくて、生きて、情念の炎で安珍が隠れたとする釣鐘を焼き尽くす。

そこで問題。
現代の清姫に、この問題を尋ねたら、彼女達は何と答えるであろうか。
安珍代わりはいくらでもいるよ。 さっさと、乗り換え、するのだね。それが、かなわないのなら、生涯独身で過ごす。
結婚しても、離婚率が高くなる現代だったら、結婚していてもいなくても大差は無い。(本当は大差がある。)
離婚したと思えば、独身でいても、なんらさしつかえない。

僕のコメント
なるほどね。僕の考えは現代の若者風じゃないので、ついていけないよ

朝日新聞社説いじめ対策

2014年03月30日 | Weblog
朝日新聞社説いじめ対策

今日の朝日新聞の社説について、いじめ対策がいろいろ書かれている。読んだ後の率直な感想では、理屈をぐたぐた並べてるだけじゃないか。そんな感じを持った。

確かに分析や対策や調査の必要性が大切な事はわかる。しかしこーゆーことをいくら繰り返してもいじめ対策の防止にはならない。
もっと具体的で強烈な政策が必要である。なぜなら命はまったなしだから。

いじめが人間の本質的な部分に根付いているから、理屈でその芽を摘む事はできない。いじめ行為をなくするには、警察との協力が不可欠だ。いじめは人権侵害という犯罪だという事を周知徹底し、すぐ警察問題にすることだ。
教育と言う観点からではなくて、犯罪という観点から、教育力と言うよりは警察力と言う構図に重点を移し、学校は警察のいじめの情報源で良い。

自殺が起こった後に、その原因を追求調査しても意味がない。必要なのは自殺を食い止める強烈な対策しかない。生徒たちに取り組みを促すことも大切だが、それでは時間がかかりすぎる。いじめは犯罪である。ビシビシ取り締まるに限る。



今日の朝日新聞の社説について、いじめ対策がいろいろ書かれている。読んだ後の率直な感想では、理屈をぐたぐた並べてるだけじゃないか。そんな感じを持った。

確かに分析や対策や調査の必要性が大切な事はわかる。しかしこーゆーことをいくら繰り返してもいじめ対策の防止にはならない。
もっと具体的で強烈な政策が必要である。なぜなら命はまったなしだから。

いじめが人間の本質的な部分に根付いているから、理屈でその芽を摘む事はできない。いじめ行為をなくするには、警察との協力が不可欠だ。いじめは人権侵害という犯罪だという事を周知徹底し、すぐ警察問題にすることだ。
教育と言う観点からではなくて、犯罪という観点から、教育力と言うよりは警察力と言う構図に重点を移し、学校は警察のいじめの情報源で良い。

自殺が起こった後に、その原因を追求調査しても意味がない。必要なのは自殺を食い止める強烈な対策しかない。生徒たちに取り組みを促すことも大切だが、それでは時間がかかりすぎる。いじめは犯罪である。ビシビシ取り締まるに限る。



生活の現場

2014年03月29日 | Weblog
生活の現場

年収200万円以下の労働者が1000万人いると聞く。都会で暮らせば家賃だけで吹っ飛ぶ。最低生活は1DKの部屋でも手取り10万円では食うや食わず、最低ギリギリの線だ。
このレベルの収入の人は、どこでどうして暮らしているのだろうか。他人事ながら気にかかる。
いちにち8時間、週5.6日働いて手取り15万円位の収入を保証しないと、日本国憲法に保障された生活権さえ脅かされる。
いったい何が原因でこなっているのか。現代の貧窮問答かと笑ってだけで良いのだろうか。
資本主義は自由競争そうであるが、その代わり、食えるのも食えないのも自己責任になる。
金儲けのうまい人であろうと、下手な人であろうと、最低限度の生活を確保されなければならない。それができない国ならば、日本国は表面的には先進国で、その内実は貧乏国である

立正安国論

2014年03月28日 | Weblog
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『立正安国論』(りっしょうあんこくろん)

この文書を読むにつけ、いつも思うことだが、これが果たして真実であろうか。日蓮の一途な法華経信仰は、それ自体はすばらしいとは思うが、世の中にこれしかない的な発想には疑問を感じる。もっと率直に言えば強引過ぎる。どの宗派においてもそうかもしてないが、他宗派攻撃までやれば、他宗から必ず反目が起こる。しかし日本では本格的な宗教戦争は起こらなかった。それは救いである。

同書は、日蓮宗を開いた日蓮が文応元年7月16日1260年8月31日[1])に得宗(元執権)北条時頼に提出した文書。

正嘉年間以来、地震・暴風雨・飢饉・疫病などの災害が相次いだ。当時鎌倉にいた日蓮は、前年に撰述した『守護国家論』に続けて、宗教家としての憂慮から政治・宗教のあるべき姿を当時の鎌倉幕府の事実上の最高権力者である北条時頼に提示するために、駿河国実相寺に籠って執筆した。後にこの書を持参して実際に時頼に提出している。国を救い、民を救おうとする懸命な姿こそ信仰者の姿である。

日蓮は、『立正安国論』の中で、相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法を信じていることにあるとして対立宗派を非難し、法華経以外にも鎮護国家の聖典とされた金光明最勝王経なども引用しながら、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けると唱え、逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張したのである。

この内容はたちまち内外に伝わり、その内容に激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年には日蓮が伊豆国に流罪となった。

ところが、時頼没後の文永5年(1268年)にはモンゴル帝国から臣従を要求する国書が届けられて元寇に至り、国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し、朝廷では後深草上皇と亀山天皇が対立の様相を見せ始めるなど、内乱の兆しを思わせる事件が発生した。

これを見た日蓮とその信者は『立正安国論』をこの事態の到来を予知した予言書であると考えるようになった。日蓮はこれに自信を深め、弘安元年(1278年)に改訂を行い(「広本」)、さらに2回『立正安国論』を提出し、合わせて生涯に3回の「国家諫暁」(弾圧や迫害を恐れず権力者に対して率直に意見すること)を行うことになる。


原発テロをアメリカが懸念

2014年03月27日 | Weblog
原発テロをアメリカが懸念

原発の再稼働の申請が始まった。規制委員会は世界一安全な基準を用いて審査すると言う。ところが先日アメリカより日本の原発ではテロが起こりやすいと忠告を受けた。
どの程度の対策がとられているのか、実態は見えないが、言われてみたら、そんな感じがする。自然災害だけでなく、人災も結構危険である。テロの場合は最も被害が甚大になるように計算され、そのプログラムに基づいて攻撃されるわけだから、よほどの注意が必要である。
禁止区域に住民が侵入していた話を聞いたことがあるが、
これほど警備上でお寒い話は無い。
断層や地層の問題は大体的に調べられているが、テロ対策は秘密のベールに包まれている。それはそれで良いのだが、名実ともに強固なテロ対策や防止策がとられていなくては、秘密の意味もない。




日米韓会談

2014年03月26日 | Weblog
日米韓会談

トップ同士が会談をして、解決なければ事務方レベルではどうにもならない問題が日韓の間に横たわっているのだろうか。
前の大統領以来日韓には好ましくない空気や感情が漂っている。加えて告げ口外交をしている張本人と、たとえ会話を交わして、握手を交わしても、果たしてそれが両国間に漂う悪感情を吹き飛ばすことができるのだろうか。
先方が会いたくないというのに、アメリカが仲介して本当に日韓関係がよくなるのだろうか。僕は両者の改善がなされるまでには、時間がかかるように思う。したがって今このときを選んで、会ったところで、ごく表面的な挨拶程度にしかならないだろう。こんな雰囲気のときに会うのはやめて時が来るのを待つほうがよいのではないだろうか。

儲け

2014年03月25日 | Weblog
儲け

人間としてのあり方を中国古典から引用して、江戸時代豪商たちが出資した学問所・懐徳堂があったが、そこでは、朱子学哲学を教えていた。

すべてのことに通じると思うのだが、利益を出して継続することが大切である。
大事なのは、必ず利益を出すこと。利益がないことには、良い営業ができなくなる。文化はもうからない。との考えもあるが、それは違う。
市民が求める文化は必ず利益ついて回る。
大阪が心の文化都市になるには、利益を出して、継続できるものにしないといけない。儲からないすなわち継続のできないものはすぐ廃れるものだ



消長の試金石

2014年03月24日 | Weblog
今回の出直し選は橋下維新の“消長の試金石”となりそうだ。


票率が低ければ「民意を得た」という主張も説得力を欠くだけに「少しでも投票率を上げるための戦い」(維新府議)を展開してきた

過去最低の投票率だった7年の28・45%すら下回るとの厳しい見方も少なくなく、維新との蜜月関係が完全に崩れ去った公明の市議は「橋下氏は自らまいた種で、公明票をはぎおとした。投票率が30%を切ったら選挙の意義が問われるだろう

「その得票数は、雨が降ろうがやりが降ろうが、橋下さんに投票する人の数とイコール」(自民市議団幹部)とみるからだ。

維新の『基礎票』が大阪市内にどれくらいあるのか、一つの目安になる」と注目。早くも来春の統一地方選を見据えた“票読み”に入る。

。出直し選への理解も広げられず、選挙プランナーからは早くも「戦略ミス」の声も。議会と対立しての出直し選はさらなる苦境に陥るリスクをはらんでいる。

だが維新関係者は「多くは動員された支持者。今のままでは都構想反対の人に思いを伝えられない」。報道各社の世論調査では出直し選に否定的な結果が相次いでおり、維新内でも焦りが広がっている

投票率が低ければ、橋下氏は信認を得たとは言い難い

出直し選で得た民意だけで議会の反対を抑えるのは難しい」と指摘する。

. 橋下氏は再選後、さらに厳しい状況に陥る」

自動失職の約6時間前。橋下氏は護衛の警察官とともに足早に車に乗り込み、退庁した。見送ったのは報道陣や秘書ら数人のみ。橋下氏の孤立を象徴しているかのようだった

まんだら湯0

2014年03月23日 | Weblog
まんだら湯
           
 
 駅を出て、通りを300mも行くと、川につき当る。架かった橋を渡らずに、
手前を左におれて、川の両岸にある川端柳をめでながら、上流へさかのぼっていくと、橋があり、それを渡ると、そこが一の湯だ。
一の湯を通りこして、街中を4・5OOmも行くと道は月見橋のたもとで、ほゞ直角に近い角度で、右折する。そこからもと来た道を4・50m、引きかえすと、巾は広いが、露路のような感じのする道がある。その奥の突き当りが
マンダラ湯である。
玄関前に立っている由緒書を読むと、その昔、ありがたい聖の力で適温の湯が湧き出したとか。

 城崎温泉は外湯がうれしい。それも外湯が七湯もあり、宿泊客は竹で編んだ手さげの竹カゴに、タオルや石けんを入れて、カラコロ、カラコロ下駄の音をひびかせながら、外湯めぐりをして、温泉情緒を楽しんでいる。
それもボンボリに灯が入って、人の顔もさだかでない、かはたれ時には
温泉情緒は一気に盛りあがる。立ちのぼる湯煙に、温泉街特有のあの艶めかしさが漂う。七湯のほとんどが道にそって点在するのだが、マンダラ湯は道からほんのわずかではあるが、奥まったところにある。それだけに、
静かであり、人のざわつきも少く、ここだけは孤立しているというのか、孤高を保つというのか、そんな雰囲気がある。
 マンダラ湯の中の造りは、そこらそんじょの銭湯と同じようなもので、あまり変わり映えはしない。湯舟の広さも、洗い場も殆ど変わらない。これでも温泉か。私は少々がっかりした。
知ってか、しらでか、お客は少なく、私を入れて五人だけだった。
 
 にわかに戸があいて、一団になった男がどやどやと入って来た。一見してどういう集団かすぐ分かった。入れ墨、目付き、言葉などからすると、ヤの字の衆である。
 彼らが入って来たために、のんびり入浴を楽しんでいた雰囲気は一変した。一人減り、二人減りして、ヤの字の衆と私だけになってしまうと、彼らは遠慮なくしゃべり出した。
「なんや、これは。町の銭湯と、えろ変らへんやんか。これでも温泉け。」
「温泉ちゅうたら、広々してのんびり出米る所と違うんか。」
言葉の訛りからすると、シマは関西らしい。
「こんなとこ、あかん。温泉に入った気分になれへん。はよ、上がって温泉へいこ。」
遠慮、気兼ねのない自由奔放な会話に、私も同感で、心のそこでうなずいた。ヤの字がいうように、銭湯くらいの大きさしかないうえに、温泉情緒を醸し出す大道具も、小道具も、何一つとしてない。これは温泉ではない、という云い方は粗雑ではあるが、その通りである。
温泉と云えば、湯の花の香りがしたり、それらしい雰囲気があったりするものであるが、この湯は聖人、それも仏弟子が開いたとされるだけに、質素に出来ているのだろう。
長居は無用と、私も先客の後を追った。

  鴻の湯は、その昔、傷を負った鴻の鳥が、この湯に足をつけて、傷をいやしたところに因んで付けられた名前とか。
外湯七湯のうちで、駅から最も遠い所にあるが、と云っても歩いて、せいぜい15分か、20分ぐらいの所にあるのだが、ここはいつ来ても、賑わっている。恐らく露天風呂があるからだろう。
 この露天風呂はピリッとした熱さで、十分も湯舟に浸かっていると、額から大粒の汗がしたたり落ちるし、湯上がり後は、足の爪先あたりがジンジンしてくる。いかにも温泉に浸かったという実感があり、それにもまして、
露天風呂の風情は、温泉情緒と旅情を感じさせてくれる。
岩と岩がつなぎ合わさって、湯舟ができていて、湯舟にしだれかかる真っ赤な紅葉に、夕陽が美しい。
フツフツと沸いてくる温泉に、体をどっぷりつけて、タオルを頭に乗せて目をつぶっていると、極楽の住人になる。これでこそ、はるばる城崎温泉に
やってきた甲斐があるというものだ。身についた垢とともに、心にこびりついた、この世の垢も、この湯の中に洗い流してしまいたいと念じた。たった
六畳二間くらいの広さのこの温泉が、娑婆世界の住人を極楽世界まで連れて行ってくれる。この実感は、城崎温泉の御利益と云っても過言ではない。一人旅の温泉旅行は何の気遣いも、気配りも必要ないので、一番くつろげる旅である。
黄昏の空を渡り鳥が、くの字を描いて北を指して飛んでいった。
              
 私の後を追いかけるようにして、先程の一団が入って来た。
一団は完全に私を無視して話し出した。
「やっぱり露天風呂はえーなー。」
「雪がちらちら舞う時に、この湯に浸かり徳利を盆に載せて、くっと一杯やったら極楽や」
「そこの岩みてみい。真っ赤な紅葉が夕日に映えとるやろ。体をどっぷりつけて、 一 節うなったら最高や。胸のむしゃくしゃはいっぺんに取れてしまうで。」
「お前、日頃に似合わず、えー事をいうなー」
「いや、ほんまですねん。」
会話を聞いているぶんには、まともである。こんな心をもっているのに、何故ヤの字なのか。正業についたら、もっと心安らかに入浴出来るのに。
マンダラ湯では、一方的に恐れてはいたが、慣れて来たというのか、私は会話の続きが聞きたかった。
 度胸がついて来たのだろうか、私は積極的に耳を傾けた。ヤの字の衆といっても、所詮は人間。渡世の仕方がちがうだけとは思いつつも、渡世の仕方の違いが、私からすると、天国と地獄ほどの違いなのである。
世渡りは、いわゆるカタギの世界からはみ出した、あるいはドロップアウトした世界の住人だけに、感情的には敏感に研ぎ澄まされたところがあるのかもしれない。心の中では、自分が住んでいたカタギの世界への未練を残しながら、この娑婆の世界で集団をなして、暮らしていることを自覚して
いるが故に、日ごろの渡世の緊張感から解き放たれて、こうして温泉で
束の間の安らぎを得ているのだろう。
その昔、奥の細道の道中で、芭蕉と同宿した遊女は、私は人間の端にもおいて貰えない人間だが、、、とへりくだって声をかけた、という「奥の細道」の
一節が頭をかすめた。さしずめ私が芭蕉で、ヤの字の衆が遊女か。
ハッハッハッー。
私は翔んでいる自分に気が付いて苦笑した。それにしても、なんとまんが悪いのだろう。ゆっくり、のんびり、リラックスするために、リフレッシュするために、はるばるここまで来たというのに、余計な緊張を強いられるとは。!
こわい物みたさで、私はヤの字の衆の言動に神経を集中させた。
お陰ですっかりくたびれた。それにしても人の世の縁の不思議なことよ。
そこで一句。
ヤーさんと背中合わせの曼陀羅湯
           
 
 駅を出て、通りを300mも行くと、川につき当る。架かった橋を渡らずに、
手前を左におれて、川の両岸にある川端柳をめでながら、上流へさかのぼっていくと、橋があり、それを渡ると、そこが一の湯だ。
一の湯を通りこして、街中を4・5OOmも行くと道は月見橋のたもとで、ほゞ直角に近い角度で、右折する。そこからもと来た道を4・50m、引きかえすと、巾は広いが、露路のような感じのする道がある。その奥の突き当りが
マンダラ湯である。
玄関前に立っている由緒書を読むと、その昔、ありがたい聖の力で適温の湯が湧き出したとか。

 城崎温泉は外湯がうれしい。それも外湯が七湯もあり、宿泊客は竹で編んだ手さげの竹カゴに、タオルや石けんを入れて、カラコロ、カラコロ下駄の音をひびかせながら、外湯めぐりをして、温泉情緒を楽しんでいる。
それもボンボリに灯が入って、人の顔もさだかでない、かはたれ時には
温泉情緒は一気に盛りあがる。立ちのぼる湯煙に、温泉街特有のあの艶めかしさが漂う。七湯のほとんどが道にそって点在するのだが、マンダラ湯は道からほんのわずかではあるが、奥まったところにある。それだけに、
静かであり、人のざわつきも少く、ここだけは孤立しているというのか、孤高を保つというのか、そんな雰囲気がある。
 マンダラ湯の中の造りは、そこらそんじょの銭湯と同じようなもので、あまり変わり映えはしない。湯舟の広さも、洗い場も殆ど変わらない。これでも温泉か。私は少々がっかりした。
知ってか、しらでか、お客は少なく、私を入れて五人だけだった。
 
 にわかに戸があいて、一団になった男がどやどやと入って来た。一見してどういう集団かすぐ分かった。入れ墨、目付き、言葉などからすると、ヤの字の衆である。
 彼らが入って来たために、のんびり入浴を楽しんでいた雰囲気は一変した。一人減り、二人減りして、ヤの字の衆と私だけになってしまうと、彼らは遠慮なくしゃべり出した。
「なんや、これは。町の銭湯と、えろ変らへんやんか。これでも温泉け。」
「温泉ちゅうたら、広々してのんびり出米る所と違うんか。」
言葉の訛りからすると、シマは関西らしい。
「こんなとこ、あかん。温泉に入った気分になれへん。はよ、上がって温泉へいこ。」
遠慮、気兼ねのない自由奔放な会話に、私も同感で、心のそこでうなずいた。ヤの字がいうように、銭湯くらいの大きさしかないうえに、温泉情緒を醸し出す大道具も、小道具も、何一つとしてない。これは温泉ではない、という云い方は粗雑ではあるが、その通りである。
温泉と云えば、湯の花の香りがしたり、それらしい雰囲気があったりするものであるが、この湯は聖人、それも仏弟子が開いたとされるだけに、質素に出来ているのだろう。
長居は無用と、私も先客の後を追った。

  鴻の湯は、その昔、傷を負った鴻の鳥が、この湯に足をつけて、傷をいやしたところに因んで付けられた名前とか。
外湯七湯のうちで、駅から最も遠い所にあるが、と云っても歩いて、せいぜい15分か、20分ぐらいの所にあるのだが、ここはいつ来ても、賑わっている。恐らく露天風呂があるからだろう。
 この露天風呂はピリッとした熱さで、十分も湯舟に浸かっていると、額から大粒の汗がしたたり落ちるし、湯上がり後は、足の爪先あたりがジンジンしてくる。いかにも温泉に浸かったという実感があり、それにもまして、
露天風呂の風情は、温泉情緒と旅情を感じさせてくれる。
岩と岩がつなぎ合わさって、湯舟ができていて、湯舟にしだれかかる真っ赤な紅葉に、夕陽が美しい。
フツフツと沸いてくる温泉に、体をどっぷりつけて、タオルを頭に乗せて目をつぶっていると、極楽の住人になる。これでこそ、はるばる城崎温泉に
やってきた甲斐があるというものだ。身についた垢とともに、心にこびりついた、この世の垢も、この湯の中に洗い流してしまいたいと念じた。たった
六畳二間くらいの広さのこの温泉が、娑婆世界の住人を極楽世界まで連れて行ってくれる。この実感は、城崎温泉の御利益と云っても過言ではない。一人旅の温泉旅行は何の気遣いも、気配りも必要ないので、一番くつろげる旅である。
黄昏の空を渡り鳥が、くの字を描いて北を指して飛んでいった。
              
 私の後を追いかけるようにして、先程の一団が入って来た。
一団は完全に私を無視して話し出した。
「やっぱり露天風呂はえーなー。」
「雪がちらちら舞う時に、この湯に浸かり徳利を盆に載せて、くっと一杯やったら極楽や」
「そこの岩みてみい。真っ赤な紅葉が夕日に映えとるやろ。体をどっぷりつけて、 一 節うなったら最高や。胸のむしゃくしゃはいっぺんに取れてしまうで。」
「お前、日頃に似合わず、えー事をいうなー」
「いや、ほんまですねん。」
会話を聞いているぶんには、まともである。こんな心をもっているのに、何故ヤの字なのか。正業についたら、もっと心安らかに入浴出来るのに。
マンダラ湯では、一方的に恐れてはいたが、慣れて来たというのか、私は会話の続きが聞きたかった。
 度胸がついて来たのだろうか、私は積極的に耳を傾けた。ヤの字の衆といっても、所詮は人間。渡世の仕方がちがうだけとは思いつつも、渡世の仕方の違いが、私からすると、天国と地獄ほどの違いなのである。
世渡りは、いわゆるカタギの世界からはみ出した、あるいはドロップアウトした世界の住人だけに、感情的には敏感に研ぎ澄まされたところがあるのかもしれない。心の中では、自分が住んでいたカタギの世界への未練を残しながら、この娑婆の世界で集団をなして、暮らしていることを自覚して
いるが故に、日ごろの渡世の緊張感から解き放たれて、こうして温泉で
束の間の安らぎを得ているのだろう。
その昔、奥の細道の道中で、芭蕉と同宿した遊女は、私は人間の端にもおいて貰えない人間だが、、、とへりくだって声をかけた、という「奥の細道」の
一節が頭をかすめた。さしずめ私が芭蕉で、ヤの字の衆が遊女か。
ハッハッハッー。
私は翔んでいる自分に気が付いて苦笑した。それにしても、なんとまんが悪いのだろう。ゆっくり、のんびり、リラックスするために、リフレッシュするために、はるばるここまで来たというのに、余計な緊張を強いられるとは。!
こわい物みたさで、私はヤの字の衆の言動に神経を集中させた。
お陰ですっかりくたびれた。それにしても人の世の縁の不思議なことよ。
そこで一句。
ヤーさんと背中合わせの曼陀羅湯

はだしのゲン

2014年03月22日 | Weblog
はだしのゲン

首長が、 はだしのゲン の回収を要請した。理由は差別用語があるからだという。
この首長は本の大意を捉えずして、差別用語を問題にしている。いくら教育へ首長の権限を強化するということ打ち出されても、やりすぎである。何を勘違いしたのか、不当介入の感じが強い。首長が教育委員会を指導するといういう意味からは大きくはみ出している。
なぜこういうことが起こるのか、

結論はこの首長のレベルが低いということである。真の教育の意味が分かっていないのである。
今後も首長のレベルが低いとこの種の問題が起こるだろう。
第一差別用語の意味も時代によって少し変わるが、その変をどう考えたのか。
首長と教育委員会との間合いの取り方をどう考えたのか。
こういうことに関しては学校関係者の意見を十分聞いて判断すべき事柄である。そこから指導が生まれる。
首長と教育委員会 のあり方が 問題になっている昨今で、最悪の見本みたいなケースをさらけ出した。

求償権問題

2014年03月21日 | Weblog
求償権問題

強制連行の被害者保障はまず韓国が主張した。続いて中国で提訴され受理された。これらは日本の立場としては決着済である。
中国に関しては 日中共同声明で中国政府は「日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」としている。同種の訴訟に対し、日本の最高裁は平成19年、日中共同声明が、個人の請求権を含め放棄することを定めたサンフランシスコ平和条約の枠組みに沿ったものであることを明示している。
賠償問題は、昭和47(1972)年の日中共同声明で決着済みだ。過去にも中国の裁判所へ提訴はあったが受理されなかった
国際合意に反し、決着済みの補償問題を反日圧力に利用する暴挙は認められない 。誰だってそう思う。ところがこれを利用して反日感情に輪をかけようとする。実に不愉快なやり方だ。まるで恥知らずで、とても国際社会の一員としては最低クラスの国々だ。まともには付き合えない隣国だ。
菅義偉官房長官が会見で「日中間の請求権問題は、日中共同声明の後は存在していない」と語ったのは当然だ。
政治的理由や要請から、恣意(しい)的に法解釈を変える中国の乱暴な行動は、国際社会での信用を貶(おとし)めていることを知るべきだ。
こういうことをとやかく言う前に、孔子や孟子や荘子に学ぶべきだ。反日教育をする以前に人間教育を優先させたらどうか。次から次えといちゃもんをつけて何が国際平和だ。単なるトラブルメーカーじゃないか。あほくさ。まともには相手にできない輩だ。
.

女子の労働力

2014年03月20日 | Weblog
女子の労働力

日本の未来は、女性の労働がなければ、企業が人材不足で成り立たなくなる。
そこで女性が働きやすい条件整備が必須となる
女性が働く前提には、子育てと介護の仕事があり、その上に仕事が出てくると言う大前提がある。
そうなると、転勤できなくなる。時間や働く場所限定されてくる。
それは企業ので考えることである。そのため正社員に比べて多少賃金が安くても仕方がない8、9割が良い線だろう。

勤務年限が長くなることによってベテラン社員が増え、一方働く側から見ると身分が保障され長期安定が保証されるので働きやすい。

かっちり組み込まれた組織の中に女子労働者をはめ込むというのではなくて、女子労働力を使うために、会社の組織はどうなくてはならないかと、いう問題はいずれどこの企業で起こってくるだろう。

生きものは生まれてきては死んでいく

2014年03月19日 | Weblog

生きものは生まれてきては死んでいく


人間は生まれると同時に、死に向かって走っている。会社もそうだ。

会社を立ち上げたときから倒産に向かって走っていく。

人間は心身の健康を自己管理しながら、少しでも命を長らえるように努力するものだ。
会社は会社管理を社長や経営者が倒産しないように舵取りをする。なるほどそうだ。
会社も人間も生命があるものはいつか滅びる運命にある。1番わかりやすいのは、鐘紡がこの世から消えたことだ。会社も死ぬ時があるのだ。


怪物

2014年03月16日 | Weblog
怪物

世の中には怪物と呼ばれる人物がいます。彼らは普通のバランスが取れた常識人ではなくて世間をあっと言わせるような言動をします。
たとえば普通の人間は一生懸命働いて、家族を養い世間の秩序を乱さないように、バランスの取れた言動をします。ところが怪物の考え方は違います。
たとえば、人生について、生きていることは、あの世までの暇つぶしなどといいます。
そしてそういう生き方をしてどうどうと世渡りします。常識からはみ出している分憎らしい輩といえるが、世の中は不思議なもので大言壮語をとがめることなく、彼だったら仕様がないと認めてしまう。確かにこういう風変わりな人間もいなければ、世の中は面白くない。まじめだけがとりえの人間ばかりでは面白くないから、こういう怪物を認めるのだろうが、凡俗の僕はぶれないように生きるのが精一杯で、幅狭く人生を泳ぎ渡っています。それこそが身の丈にあった生き方というもので、常識をはみ出すことはとてもできない。
怪物といわれる人を時にはうらやましいとは思うが、自分はとてもまねのできない生き方をしているので内心天晴れだと感心しながら、彼らを眺めています。

核のゴミの問題

2014年03月16日 | Weblog


核のゴミの問題

フインランドーオンカロ10万年間保存できるような施設を作ろうとしている

アメリカは作業を中断しフランスは未定である

日本は公募方式を取り入れた。高知県東洋町が手をあげたら町民の反対にあってこの案は崩れた。

国は公募方式から申し入れ方式に態度を変えた。地下水や地層にも関係なく10万年間保存できるような場所選ぶことがこの狭い国土の中にあるのだろうか。
小泉元首相がフインランドのオンカロの施設を見学して、とても核のゴミの処理問題で大問題が起こるから国民を説得するのは原発を止めることだと言う結論に達したと言うことだ。
第100000年昔の日本を想像することが本当にできるだろうか。また10万年後にこの掻きむしれつの存在を想像することができるだろうか。
過疎に悩む地方にとっては交付される金額が大きいので魅力はあるだろうが、10万年もの間安全が脅かされるような状態を受け入れること自体が間違っている。
過疎とか交付金の対象の問題では無いはずである。


フインランドーオンカロ10万年間保存できるような施設を作ろうとしている

アメリカは作業を中断しフランスは未定である

日本は公募方式を取り入れた。高知県東洋町が手をあげたら町民の反対にあってこの案は崩れた。

国は公募方式から申し入れ方式に態度を変えた。地下水や地層にも関係なく10万年間保存できるような場所選ぶことがこの狭い国土の中にあるのだろうか。
小泉元首相がフインランドのオンカロの施設を見学して、とても核のゴミの処理問題で大問題が起こるから国民を説得するのは原発を止めることだと言う結論に達したと言うことだ。
第100000年昔の日本を想像することが本当にできるだろうか。また10万年後にこの掻きむしれつの存在を想像することができるだろうか。
過疎に悩む地方にとっては交付される金額が大きいので魅力はあるだろうが、10万年もの間安全が脅かされるような状態を受け入れること自体が間違っている。
過疎とか交付金の対象の問題では無いはずである。