日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

塩加減

2008年01月26日 | Weblog
 [奥さんにこれをあげよう」

師は気軽におっしゃって師の著書。「あるがままでいええやないの」

を贈ってくださった。師は余白にサラサラと筆を走らせて、なにやら書き込んでから手渡された.

恐る恐るを開けたページには、墨のあとも鮮やかに「塩加減」とあった。
塩加減。私はニヤリとした。師は初対面の我々夫婦の中を即座に読み取って書いてくださったのだろうか。そう。塩加減一つで、人生楽しくもあり、つらくもなる。

3度3度の食事のうまさの元は正に塩加減一つであるし、食べ物にとどまらず、夫婦関係も塩加減一つで、愉快にもなり、不愉快にもなる。

 さて、一口に塩加減というが、これがなかなか難しい。塩が足りないと、ノンベンだらりと間延びして、すかみたいで、つまらないことおびただしいが、さりとて、効きすぎると顔を引きつらせる。
ほどほどのがいちばん良いのだが。それが難しい。

 江戸時代、農村に浸透する貨幣経済によって幕府や武士が疲弊していくのを食い止めようとして、コメの価格の調整を自らの手で行おうとして、コメの価格に振り回され、米将軍の異名をとった将軍(徳川吉宗)がいたが、考えてみれば、彼と同様、塩加減、甘さからさの調節を求めて、生涯振り回されているのが案外、我々の一生かもしれない。
そして、塩加減、たった3文字の中身が分かりかけてくる頃になるとお迎えがやってくる


穴場はどこだ。

2008年01月24日 | Weblog
毎年のことではあるが、相変わらず、初詣は大勢の人出だ。初詣が多い神社を見ると、いつものように、明治神宮の355万人を筆頭に、川崎大師が317万。住吉大社が283万。ラストが、京都の伏見稲荷で、223万人。
全国では、7742万人の人々が初詣に行ったと新聞、テレビが報じている。それでも去年に比べて、216万人減ったそうである。理由は、3ケ日に降った雨のせいみたいである。

いったい何を求めて、こんなに大勢の人々が、初詣に出かけるのだろうか。生まれてこのかた、こうすることが、習慣となって、ただ何となく出かけるのか。それとも御利益を求めて初詣するのか。
人々は、濃淡の違いこそあれ、現世利益を求めて初詣するのだと私は推測している。

 現世利益。
あの世ではなく、今生きて生活しているこの世で、御利益を授かり、日々の生活を安穏なものにするということは、人々共通の願いである。私も人後に落ちず、1日から3日までの間に、現世利益を求めて何カ所かに初詣に行く。

 我が国には、神無月というのがある。その神無月には、神さま方は、みな、出雲に集まり、全国の神社は空っぽになる。この時ばかりは出雲は別にして、全国津々浦々どこの神社に参っても、御利益はなさそうだ。ご当人の神様がお留守だからである。

 ところで、私は近頃とみに出雲に集まる神々の会議の様子が知りたくなった。というのは、会議の内容を知ってこれにうまく、対応すれば、御利益がたくさんもらえるような気がしてきたからである。つまり、穴場を知りたいのである。

 推測するに会議のメインテーマは民衆の欲望に、どうこたえていくか。如何に満たしていくか。その辺のことだろうと思われる。
そしてこのテーマに関しての役割分担を決め、御利益の配分の仕方について、いかに万人に公平に、行き渡ら出せるか、について協議されているように思われる。
 と言うのは、人々の初詣を見れば分かるように、人間の神さん詣では、現世利益が中心だからである。神様としても、これを無視するわけにはいかない。人々の要求にこたえていかなければ、誰も初詣にこなくなるからである。

 つまり、人々の素朴な願いを無視すると、人気が落ち、神社の存立そのものが、危なくなるからである。無限に近いと思われるう御利益を袋に一杯つめておられる神様でも、対応を誤ると、人気にかかわってくるから気を使われることおびただしい。

 私は先ほど出雲に、集まる神々たちの会議の様子を知りたいと書いた。じつをいうと、この欲望は抽象的な願望をいうのではなく、もう少し現実味を帯びたものなのである。すなわちテープレコーダーを使って、神々の話を盗聴して、記録しておきたいのである。
 どの神がどれだけの御利益の詰まった福袋を持っておられるのか。
どこの神社に参れば、余計に福がもらえるのか、もし平等に福が詰まっていると言うのなら、あまり大勢人がお参りする神社を避けた方が良い。また逆に、お参りは少ないが、福袋の中身はぎっしりという。つまり一人当たりにすると福の配分が多い神社ならば、それこそ、穴場だし。それなりの目見当をつけるために、いろいろ予備知識として頭の中にインプットしておきたいのである。

 それに加えて人々が実感している御利益話しにも、聞き耳を立てて情報を整理してみて、穴場をあらかじめ推定しておくと、たとえ、どこの神社に参るにしても、心構えが違うから、人より余計に福をもらえる確率が群を抜いて高くなると計算しているのである。

 例年通り、我が家も家族全員、初もうでに行った。誰がどういう福を頼んだが、そんなことは知らないが、私が手を合わせてね一生懸命に御利益を頼んでいる最中に、神が現れて次のようなことを申された。
 
 「いつものことながら、欲を道連れに初詣に来たのだな。それはそれで良い。今年も、それなりの福は、授けてやろう。だが、お前は自分の足元をじっくり見たら、神のすばらしいプレゼントに気づくだろう。

 お前をこの日本に生まれさせたのは、ほかならぬ神のなせる業なのだ。いま日本で何か困ったことが起きているか。何もないだろうが。
国民はウサギ小屋に住んでいても、経済は世界1で、治安も医療水準も世界の中でもトップレベル。この後半の半世紀には国民が互いに殺し合う戦争も一切なかった。平和そのものの社会じゃないか。
しかもその平和を背景にして、国民生活は中流意識に彩られて、ほかのどの国よりも暮らしやすい国であろうが。
神がお前ら人間特に日本人にこたえている最大の御利益とは、人生が大過なく過ごせるような平和を与えていることだ。
そのことに目をつぶって、自分の目先だけの御利益を願うと言うのは、ある意味では神に対する侮辱だとおもわないか。

 特にお前は、こすずるく福袋の中身さえも探ろうとして、テープレコーダーで神々の会議の様子を盗聴しようとしているではないか。熱心なのはそれは、それでよい。しかし、行き過ぎたのは困る。己の限度というものをわきまえて、神と付き合うというのが、人間と神の正しいあり方ではないか。これは決してお前に説教しているわけではない。神と人間の関係のあり方の常識を申しているだけである。そこのところをよく理解して、その上に立って、盗聴するのは、まあまあだがねぇ」

神様は以上のようなことを話された。目を覚まして考えてみると、神様の言われる通りである。
それを超えて己一人の現世利益を願うのは、やはり厚かましいというほかはない。言われるまでもなく、やはり自分でも、これは行き過ぎたと、思わざるを得なかった。

 先ほどまで、あれほど盗聴したいと、思っていた気分は、神様のこの一言によって、どこかへ引っ込んでしまった。
穴場。それは、神の福袋の中身分配の事ではなく、実際に足元に、転がっている神の恵みを知るということ。それが現実の穴場であると、僕は考えた。盗聴など不遜なことを事を考えはしたが、これでひとつ、かしこくなったような気がした。

アジャンタ

2008年01月24日 | Weblog
エローラを見学した翌日、バスを利用してアジャンタに行った。
アジャンタはデカン高原の北西、アウランガバードから北へ100キロほどのところにある、仏教の石窟寺院である。
 
馬蹄形をえがいて流れるワゴーラー川に沿って、600メートルにわたる岩の断崖をくりぬいて、塔院窟5つと25の僧院・ビハーラからなっている。サルナートの根本香積寺の壁画を描いた野生司香雪も、大正時代にここを見学したとか、日本とは、古くから付き合いの有る遺跡だなと感慨深かった。

バスの発着所前から少し階段を上って入り口に到着。入り口には、入場料のオフィスがあって、ビデオカメラの使用料は大した額ではないが、また別に徴収される。

 エローラに比べると、穏やかで静的である。最初から最後まで、すべて仏教に関するものであった。 
 作りは大きく分けて前期、紀元前1世紀から1世紀にかけて、と後期5世紀中頃から7世紀にかけての、2つに分かれる。おとなしい感じがしたが、その中に秘められた力強さは不気味なほどであった。
 

到着したのが11時過ぎで,ものすごく日差しが強く、暑い。ところが窟院の中に入ると極暑を忘れる。これは極楽と地獄じゃないか。
大袈裟だが、僕は本気でそう思った。ここにいて仏道に励んだ修行者達も、きっとそう思ったことだろう。たしかに酷暑を避ける人間の知恵には、違いないが、これを作る段階では、どれほどの苦労があっただろうか。その大変さが偲ばれた。
 
前期には仏陀の姿を表すものはなく、卒塔婆や舎利などが、仏陀のシンボルとされていた。
後期になると、仏像が刻まれて鎮座している。特に第1窟のライトに浮かび上がる壁画は、これが日本の法隆寺壁画の原画かと感動した。
この遺跡の壁画は日本に直結している。

第1号窟と第二号窟の壁画をみて、法隆寺の金堂に描かれた壁画そのものが、ここにあるとも思った。こちらのものは法隆寺のそれに比べると、かなり大きい。しかし実に良く似ている。

それに何番か忘れたが、大きな釈迦の涅槃像がある。僕はこの前に立って、こっそり写真を写してもらった。そしてこれがアジャンタの唯一の記念になった。
この当時の仏教芸術は、ここからはるばる、日本までやってきて、日本で止まった。太平洋は渡らなかった。
ブッダン サラナン ガッチャミー   (仏に帰依したてまつる)
ダンマン サラナン ガッチャミー   (法に帰依したてまつる)
サンガン サラナン ガッチャミー   (僧に帰依したてまつる)

 断崖にほられた洞窟の奥に、祭られた釈迦像の番をし、説明していた中年の女性は、この三宝に帰依し奉るという経文を、ソプラノの美しい声で唱えた。それは洞窟の中で反響し合い、神秘で荘厳さを増した。よく問題にする仏の世界の音楽とはこのことか。


それだけではない。疲れた僕の心に甘露の雨を降らせた。聞きほれるというわけでは無いのに、疲れた体はくぎ付けになった。 
 
外は猛烈に暑い。しかし今の僕には暑さも、小商人がまつわりつく、
あのうるささも何も無かった。あるのは耳の奥でわーん、わーんと響くこの経文の響きだけだった。

 僕は三帰三きょうを唱えてみた。

でし、むこうじんみらいさい 帰依仏 帰依法 帰依僧
でしむこう じんみらいさい 帰依ふっきょう 帰依ほうきょう 帰依そうきょう

意味は同じだが、響きの美しさには雲泥の差があった。
女性は続けて三回歌った。いや唱えた。

 お釈迦さんの説かれたお経には、なん曲か、メロデイをつけて合唱曲を作曲した経験のある僕だが、これほど単純な節が、これほどまでに心に染みるとは思ってもみなかった。きっと今後作曲する際に1つのクライテリオンになるだろう、そんな気がして、そこを立ち去るのは勿体無いような気がした。

もし僕が現地の言葉に堪能なら、心からお礼をいったことだろう。しかし僕はお礼の言葉もかけずに、そして僕の感動を伝えることも無く、またドネーションもせずに、そのままそこを立ち去った。沈黙を保ち、感動を逃がさないように、他の事に気を奪われないように、自分を覆い囲んだのだが、あの女性に感動を伝えなかったのは、返す返すも残念なことだった。

 アジャンターの見学は3時間ほとで終わった。
エローラのカイラーサナータ寺院が持つ、男性的で迫力のある作りには、否応無く圧倒されて感動した。それは心臓が波打ち、呼吸が荒くなるような激しいものだった。

それに比べてアジャンタの石窟で受けた感動は、低周波の振動のように、大きなうねりであった。波長が長いために深い海の底から伝わってくる、あの大きなうねりで、感動が体全体を包んでしまうようなものであった。動的と静的、と対照的に表現しても、その感動の大きさは優劣の差がでるものではない。


ブッダン  サラナン  ガッチャミー  (仏に帰依したてまつる)

ダンマン  サラナン ガッチャミー   (法に帰依したてまつる)

サンガン  サラナン ガッチャミー   (僧に帰依したてまつる)

コメント(2)
作曲にも多用な作曲があり作曲家がいるのだろうけれども、神仏に関連する本当の作曲は誰でもできるものではないと素人ながら考えます。やはり 選ばれし人が選ばれての事であり、偶然ではないとおもいます。ガンバッテクダサイ!!



僕が作曲できるなんて。自分でも信じられないことでした。ところが作ってみるといくらでもわいてくるじゃありませんか。不思議としか言いようがない。神からの頂き物です。お経を合唱曲にするなんて想像だにしなかったことですよ。この世の不思議を教えてもらって。不思議ですよ。この世は。ありがとう。がんばります。






インド佛跡巡礼

2008年01月23日 | Weblog
ここまで生きてきた。よたよたとしながら人生旅をして今日(63歳)まで生きてきた。
 月並みだが、それはそれはいろんなことがあった。山あり、谷ありが人生だとは頭では分かっていても、目の前で生起する日常の出来事に一喜一憂しながらここまでやってきた、というのが実感である。
 
ひとり旅
 
定年を過ぎてからを海外旅行に出掛けるようになった。10キロの荷物を背負い、言葉をはじめとして事情を知らない東南アジアをひとり旅することはかなりの勇気と忍耐のいることであった。
 もの珍しさから、どこをうろついてもそれなりの面白さはあったが、何か目標や課題を持って旅をすれば何かがわかってくると思い、旅のテーマを設定することにした。いろいろ考えてみたが、やはり人生どう生きるのが1番良いのかという問題が心の底で渦巻いている。そこでとりあえず過去の人々の生きざまを調べその中から人生のエッセンスみたいなものを抽出してそれについて考えてみようと思った。特に関心があるのは、お釈迦様である。ということで、佛蹟めぐり、つまりインドの佛蹟巡礼から始めることにした。
 
 お釈迦様が難行苦行の後に悟りを開かれたといわれるブッタガヤを手始めとして近くのラージギル、ナーランダなどをみて、それからバラナーシーに出てガンジス川で沐浴し、日本から持ってきた写経を丁寧に読経したあとで一枚ずつ流した。
 バラナーシーから北に向かって約10キロほどのところにあるサルナートへ足を延ばし、広い境内に敷きつめられた、青々とした芝生に目と心を休めた。
 涅槃の地クシナガラと、出生の地ルンビニは次回まわしにして、とりあえず関係の深いところから巡礼して回ることにした。
        
ブッタガヤ(ボダガヤ)
 
 ガヤから10キロほど南へ行ったところにブッタガヤはある。村に入ると左手に大塔が見える。これがマハボーデイー寺院である。塔の高さは52mあるとか。青いというよりは紺のかかった青黒い空に突き刺ささっている。
 難行と苦行の後にここにたどり着き、偉大な悟りの瞬間を迎えられたのがここ、この地、そう思うだけでも気分が高揚した。

 お釈迦様は人生の苦悩を痛感し、解脱への道を求めて、厳しい修行を続ける。それでも回答は得られずこの塔の裏側にある大きな菩提樹の下で深い瞑想に入られた。瞑想のさなか暗い夜が明けようとしていたときに悟りが釈迦さまの心にを訪れたのである。ここに至って謎は解け全宇宙に満ちる真理の意味が、彼によって理解され、悟られたのである。宇宙の真理が発見されたのである。発明されたのではない。菩提樹の大木、明けの明星のみがそれを知っていた。
 ものの本によってこのぐらいの知識しか持ち合わせていない私ではあったが、当時を想像するだけでも、感激のために心臓は早鐘のように激しく波打った。
 
 方形の広い境内はもえ立つような深いに緑と静寂に包まれている。裏手に回ると大きな菩提樹があった。樹齢は何百年かたっていると思われるが、大きな枝には緑の葉っぱが重なり合って緑の山をなしていた。ここには金剛法座があって、私は日本から持ってきた写経の束を菩提樹の根もとに供えて、般若心経を心ゆくまで唱た。
 
バラナーシー
 
 バラナーシーで沐浴するならば日の出のころがよい教えてもらって、私は午前3時すぎに列車で到着した。駅の待合い室でしばらく休憩してガンガーに出向いた。あたりはまだ薄暗いというのに大勢の人がガンジス川につかり、沐浴している。私は少し遠慮して上流の人気の少ないところでガンジス川に入った。水中に完全に身を沈めると夏のせいか水温は生温かく、私は母の胎内にいるような平安を覚えた。そして心は落ち着いた。
 しかし川の流れは表面とは裏腹に深いところでは流れが速く足を取られそうになった。川の中に体を半分沈めながら、30枚ばかりの写経を1枚1枚読経しては両親の菩提を弔い、また先祖の、そしてこれまでお世話になった人達のめい福を祈った。
 バラナーシーはヒンズー教の聖地と聞く。しかし考え方や作法を見ていると日本仏教と実によく似ているところがある。

 バラモン教の中からヒンズー教と仏教が生まれ、それが中国を経て日本に伝えられたのだから似ていても何ら不思議ではない。しかし、いま私とこの川の中で沐浴している人たちとの間には大きな隔たりがある。それはかカースト制度の有無に代表される社会制度や生活習慣だ。もしインド人の80%が仏教徒ならば、私はどれほどこの人たちに親しみを覚えたことだろう。宗教が似ているとはいえ生活実感は違いすぎるので彼らの信仰を容易には受け入れる事が出来ない。
私は先ほど日本仏教といったけれども、詳しく言えばこのヒンズー教は特に密教、真言宗に似ていると思った。
 インドの神々は呼び名を変えて日本人には随分なじみの深いものもある。例えば水の神様サラスバテイは日本名で弁天さまと呼ばれている。
     
室戸岬にて

 私は今はるか太平洋を見下ろす室戸岬の最先端に立ち、思いをインド巡礼にはせている。インド巡礼はインドと日本の違いが際立って現れ、それはそれはきついものがあった。
自然環境が違う。例えば気温。日本では到底経験できない暑さである。また人情も違う。底に流れる宗教観は似ているとしても現実生活には大きな差がある。ライフギャップといってもよいだろう。そのギャップが旅の負担となって物心両面にのしかかってくる。
 だが片やインドで釈迦の聖地を巡礼し、一方ここ四国では弘法大師の足跡をたどる。こんなことが出来るのは幸せの極みであると喜んだ。
求めるものが同じであったとしても両者は全く違った経験として体に刻み込まれた。やはり両方の巡礼をして良かったとつくづく思う。


猛獣的バイタリティー8-39

2008年01月17日 | Weblog

「馬鹿なことを考えるな !!!。そんなことで、人の心を打つ作品がかけると、君は思うのか、あまいことを考えるでない。」

先生は体を震わせて大声で、怒鳴られた。私はびっくりした。目から火が出ると言うのは、こういうことを言うのか。たったこれぐらいのことで、こんなに怒られるとは思ってもみなかった。意外も意外。
 先生はぎょろ目でじっと私を見すえて、怒られる。らんらんと輝く目から発せられる怒りの炎が、私の胸に突き刺さる。私は何とかして先生の前から姿を消したかった。しかし逃げるわけにもいかず、私はただうなだれてうつむいている以外には、どうしようもなかった。

 口もスムーズに、回らない不自由な身の先生の、どこにあんな激しいエネルギーが潜んでいるのだろうか。

[先生。まず生活だと思います。生活をキチットしておいて、そのあと時間ができたら、ぼつぼつ作曲でも始めようかと思います。]
と私が何気なく言った。この一般世間では常識的な発言が、どうして先生の逆鱗に触れたのだろうか。私は理解に苦しんだ。

 察するに、先生は私を一人前の作曲家にしてやろうと力を入れておられたのであろう。私はそれに応えることなく、気のない返事をしたから、先生はカッとなられたのであろう。

さもないと、わざわざ当時、私が住んでいた大学の寮まで、至急電報をよこされて、自宅に私を招かれることは無かったであろうから。

 表面的には一見華やかな芸術家の活動も裏に回れば、命を削る思いをして一つの作品ができあがるのに、暖衣飽食とまでは言わないが、それに近い状態を作ることに全力を傾けて、しかる後に余力があれば趣味的な感覚で、人の魂を魅了する作品を書きたいとする私の虫の良い考えをこっぴどく叱責されたのであった。

 先生は常日頃、「猛獣的バイタリティー」という言葉をよく口にされた。そして先生は、この標語を己の生活信条とされていたのであろう。あらゆる困難を乗り越えて、日本の音楽界の草分け的存在となられた先生である。後に続くものはビートン・トラックすなわち踏みならされた道を、走りさえすれば、それなりの成果が出るように、猛獣的バイタリティーで、西洋音楽を受け入れられるように、楽団も聴衆をも耕されたのだろう。

 いわば、日本の近代音楽は、山田先生の猛獣的バイタリティーが、ブルドーザーとなり、その整地された基盤の上に初めて成立したといっても過言ではない。

 クラシック音楽は言うに及ばず、演歌まで(みそらひばり用の演歌も作っておられる)およそ音楽のあらゆる分野に手を染めておられる先生には、ずいぶん困難があったはずである。事実、私は先生が高利貸から借金されていたことまで耳にしている。

 私は今まで生きてきた自分の経験に基づいて「恒産なければ恒心なし」と固く信じていたから、先生の住んでおられる、芸術の世界のことはよく分からなかった。が、この地上に住んでいる限り、恒産がなければ、火宅の人にならざるを得ないのが人の常だ。考えてみると先生もやはり、ご自身の猛獣的バイタリティーのゆえに、火宅の住人だったのではなかろうか。

 いやいや、先生は「良い芸術作品を世に出すと、それだけでちゃんと日常生活成り立つものである。だからまず良い作品作りに専念せよ」と教えたはずだったのに、私はまず日常生活をきちっと成立させたうえで、誰に遠慮なく、全く私の自由意志で、作品を作ると平然と答えてしまったのであろう。
きっとこのことが先生のカンに触ったに違いない。

 結論から言えば同じであっても、主と客を転倒すると、作曲する場合の信条はまるで違うはずである。
古来、世界に名曲を残した有名な音楽家たちは一様に貧乏暮らしの中に、不朽の名作という花を咲かせた。

 ベートーヴェンも、モーツァルトも、シューベルトもフォスターも私の目から見れば、みな火宅の長屋の住人である。しかし、彼らは芸術という意欲のために、
あえて火宅の人となり、それ故に不朽の名作を作り得たのかもしれない。
とすれば、日本が生んだ偉大な天才・山田耕筰先生もまた、自己体験を通して貧乏神にとりつかれながら、名作を生み出すことが、真の作曲家であると固く信じておられたことだろう。

 だから私のような小市民的、常識的発言にうんざりされたのだろう。私は自分を山田先生のような多才の人とは思えない。私が内に秘めているバイタリティは先生の猛獣的バイタリティーに比べれば、ものの数には入らない。同じく人として、この世に生まれながら、大きな違いである。

 母は私をこの世に送り出すときに、この大きな違いを認めたであろうか。それとも先人を乗り越える力を私にあたえてくれたのだろうか。
もし母がその力を授けて私を産んでくれたのなら、私は山田先生の猛獣的バイタリティーに対して、これからも頑張らなければならないと思う。

 30年の歳月経て、私は今鮮やかに思い出した。だらんらんと輝く目を。
後にも先にも、あんなに異常なエネルギーを発する目を見たことはない。
私が縮みあがったのは、恐怖心からではなく、異常なエネルギーが発する目。そのものに恐れをなしたのである。天才の眼光は鋭いだけじゃなくて、すごい。




シェイムリアプは満天の星

2008年01月11日 | Weblog
「あの山で、蚊に刺されたのです。大丈夫でしょうか。?」彼女の友人が僕にそう尋ねた。
「何カ所も?」
「ううーん。1カ所だけ」
「多分大丈夫。でもマラリアに注意した方が。薬持ってる。?」
「いや」
「そうだ。僕の消毒薬、イソジンをとりにかえってくるからに帰ってくるから待ってて」
僕はすぐさま、宿に取りに帰り、引き返してくることを告げて、バイクの兄ちゃんを促した。

 急いでいるときは、気が焦る。だのに真っ暗ヤミの中でバイクは立ち往生した。聞けば、ガス欠だという。そんなばかな。こんな夜になって、スタンドがオープンしているのか?僕は不安になった。2人は黙ってバイクを押して、ガソリンスタンドを2軒訪ねたがどこも、閉まってて人の気配がなかった。しかし彼は少しも慌てない。
 オイオイ。まさか、宿とホテルを歩いて往復するんじゃないだろうなぁ。
僕は焦っているうえに、さらに焦った。
ところがカンボジアの、給油所はガソリンスタンドだけではなかった。
道端で、ガソリンをペットボトルに詰めて売っているのだ。なるほど。だから彼があわてないわけが分かった。販売店といえば大げさで、こういう形での、ガソリン販売は机の上にガソリンを詰めた、ペットボトルを10本程度おいているだけ。よくも、こんな危険な取り扱いをするもんだと感心した。
給油するとエンジンは1発でかかった。ホッ。安心のため息が漏れた。
シエムリアプの町はずれの道は、文字どおり漆黒である。街灯も家々の隙間から漏れてくる明かりもない。
時おり通るバイクのライトが、唯一の明かり。その代わり、空には、吸い込まれそうな満天の星。黙って空を見上げた僕は漆黒の闇に吸い込まれて言葉を失った。
夜がこんなに暗い物だとは今の今まで気が付かなかった。いつも都会の夜に慣れてしまっているので光のない自然の夜の暗さに驚いた。
何時か此の星空を駆けめぐる事が出来たらな 青い大空もよい。真っ暗な星空もいい。僕hあ全てを忘れて漆黒のヤミを見続けた。時間が止まった一瞬だった。
いや、勝手に流れている。
シエムリアプの漆黒の夜のヤミ。見応えのあるいい物だ。日本ではどこにいても必ず光が在る。余程の所へ行かないと光の漏れて来ない所はない。
文明の光のさしこまないところには、漆黒のヤミが人の眼を閉ざして心の目を開ける。


キリングフイールドからの生還」 を読んで

2008年01月11日 | Weblog
この本を読む前に、私はすでにカンボジアを、2回訪問していた。
1回目は1996年でその時は、プノンペンだけに滞在した。2回目は今年10月シエイムリアプ。

僕はポチェントン空港に着くやいなや、バイクタクシーのドライバーからキリングフイールドとツールスレンの話を聞いた。
ポル・ポト時代に彼が行ったものすごい残虐な行為については日本には伝わってこなかった。学校で歴史を教えている私にとって恥ずかしいことだが、カンボジアの、位置すら、定かでなかった。カンボジアは日本にとって、なじみが薄く遥かかなたの国というぐらいの関心しかなかった。

てもこの2つの処刑場の話を聞いて僕はあした必ず、現場を訪れるから、君に案内してほしいと、バイクタクシーの、運ちゃんに言った。

彼はポル・ポト時代に、300万人の人たちが、虐殺されたといった。ナチスのユダヤ人虐殺が500万人と聞いていたのでだいぶ誇張があるとすぐには信じられなかった。
だが、プノンペン郊外にあるキリングフイールドに足を1歩、入れたとき、僕の心は氷のように凍ってしまった。丸でなにかの呪文にかけられたような気がした。
よくもこんなことをしたものだ。納骨堂からこちらを見ているドクロの数にめまいを覚えそうな気分になって、立っていることができなかった。なにかをしてあげなきゃ、いま自分は何ができるのか。そればかりを自問した。このように自問したときに僕はいわれのない罪を着せられて、虐殺された人々の魂がこの場で、慟哭しているような気がした。

取り合えずその場にしゃがみこんで、僕はこの人たちのために極楽往生をお願いしようと観音菩薩にお経を唱えるだけだった。犠牲者の魂の安寧を祈るばかりだった。僕が見たのはすべて、済んでしまった過去のことである。だが、この著者はその当時の実体験をインテリの目でもって、あるところは冷静に、またあるところは、感情的に体験談を語っている。これは本物である。僕は現在進行中の中にいたわけではないから想像の域をでない部分も多いのだが、この著者が述べていることを、涙なくして読み続けることはできなかった。あまりにも不条理すぎる。こんなばかげたことで命が失われてなるものか。これらの所業は天人共に許されないことである。
今僕は思う。この著者のような人がカンボジア国家復興のためには不可欠ではないのか。もし僕に許されることならば、フン・セン首相の手足となって、国家の再建のために力を貸してほしいと彼に言いたい。そしてその人生も新生カンボジャのために尽くしてほしい。君が失った最愛のフオイさんも、お母さんもカンボジャの復興を一番願っていることではなかろうか

僕は今日本人と、変わらない心情をもっているカンボジア国民の安寧と安らかな日々の多い事を心から願っている。何故なら皆同胞だからである。命はつながっているのだ。涙なくしてフオイさんの写真プロマイドを見ることが出来ようか。 カンボジアといえばアンコール、があまりにも有名でそのほかのことについては、知らない人が多いのが日本の実状である 。個人的なことを言えばもっともっと大勢の日本人が押し掛けてもいい国である。つまり、国際交流があってもいいと思う相手国である。
無力な僕は今さし当たって、何かのお役に立つわけではないが心の底では常に、カンボジアのことをわすれてはいないし、あの人懐っこい、穏やかなカンボジア人および国家に励ましのエールを送りたい。次回訪れるときは僕は日本から線香を持っていってお経と共に手向けたいと思っている。場所が判ればフオイさんとこの世の光を見ずして黄泉の国に行ってしまった愛児とのお墓にもお経をお供えさせてもらえればと思う。 以上が読後感である。

紅白歌合戦に思う

2008年01月07日 | Weblog
今回の紅白で何回かスイッチを切った。見るに耐えない場面が多すぎる。案の定僕だけじゃなく、史上二番目の低い視聴率が出た。多分みなこの番組はつまらない。自分たちが求めていた、あるいは期待した番組になっていないと思ったからチャンネルを他局に切り替えたのだろう。年一回の国民的番組だというのに。

紅白に期待しているものって一体なんだろう。勿論人それぞれだが、視聴率が低いということは要求にこたえていないということである。

僕の場合は紅白は共通した家族団らんの場であり、それぞれが1年を振り返る機会でもある。人も同じようなことを紅白に対して持っているのではないだろうか。
心にしみる歌を聞きながらそれをキーワードにして老若男女各人が1年を振り返るチャンスにしていいるのではないか。そこで率直な感想を書いてみたい。

1、歌を聴きたいのに なぜアクロバットが必要なのか

2、歌で物足りないからダンスで補いたいのか。

3、歌のみで視聴者に満足を与えられないのか

4、1年を振り返る叙情性や癒しはどこへ行ったのか

5、騒々しすぎる。

6、司会のしゃべくりが邪魔である。話術で紅白を盛り上げようとする姿勢が問題だ。しゃべくりで紅白が楽しめると思うのか。

7、バカ騒ぎしているのはNHKと出演者だけじゃないか。バカげた仕掛けで人の心をひきつけるのは無理。

8、企画者の低俗性。プロヂュサーの値打ちがない。芸術性も家族団らんの娯楽性も掛ける費用の経済性もわかっていない。お粗末の一言に尽きる
人心はますます離れるだろう。このレベルの企画力では視聴率は下がる一方だろう。

9、今年一年を振り返って心ほのぼのとしてほっとする部分はどこにあるのか

10、感動はどこにあるのか。

結局のところ視聴者の思いや心をつかんでいない、から騒ぎ番組になっている現実を直視して紅白の原点に立ち戻り、紅白の意味を視聴者サイドか考え直さないと、この愚かしさを来年も繰り返して国民的番組からますます遠ざかっていくことになるだろう。

これはひとえにNHKの責任である。
真摯な反省の上に発想を原点に戻してもらいたい。




古賀政男氏の宗教体験

2008年01月06日 | Weblog
今私の手元にある資料では、1977年11月21日PM10時25分。鈴木健二アナウンサーがいたのでたぶんNHKテレビだろう。側には近江敏朗、杉本苑子、扇谷正造の各氏がいたというメモがある

古賀政男さんは次のように語った。
「そのとき僕は死にかけていたんですよ。真っ暗な闇の中にいたが、紫の衣を着たでっぷりした男の人が現れてこっちへ来い。そちらへいくなと導いてくれた。後になって考えてみると多分あれはお大師さまに違いない。ぼくはもうありがたくて、感謝ただそれだけしかなかった。」
補ってみるとこうである。

古賀政男さんは脳いっ血で倒れた。その倒れている最中に彼が見た1つの場面がこの場面であるというのである。これ以後彼の言葉はもつれるようになって後遺症が残った。しかし命は助かった。このことに感激した彼は光明真言を作曲した。

おん あぼきゃべいろしゃのう まかぼだら まにはんどまじんばら はらばりたやうん。

日ごろ信仰していたであろう川崎大師に彼はこれと川崎大師賛歌を奉納した。歌っているのは近江敏郎郎さんである。彼が天性信仰深い性格かどうかは知らないが、こういう経験も加わって彼は自宅の屋敷の中に観音様やお大師さまやお不動さまなど5カ所に神仏が祭っている。

さらに彼はこんな経験もしていると語った。彼が音楽を教えた生徒の中に美しい女弟子がいた。この女弟子に古賀さんは恋いをした。ところがある日病気にかかったこの女弟子が夢の中で、玄関までやってきた。夜明け前、早朝のことで、彼は驚いたが、その日のうちに届いた知らせはその美しい女弟子がその時刻になくなっていたということである。彼の恋はまた悲恋に終わった。

疑問は残るにしても彼は天下の公器系NHKテレビで、以上のような経験をかたった。
 錯覚や幻覚のたぐいではなく、正しく彼は以上のことを経験体験したのである。その実感がなくして、作り話だったら、こんなことはそうやすやす口にできることではない。

ある日私は古賀政男記念館を訪ねた。新宿から小田急に乗って代々木上原で下車、高架に沿って新宿方向に引き返しちょっと道を折れたところに記念館はあった。門から玄関までは緩やかな坂で道の左側には供養する主を失った神仏の祠がいくつも目についた。玄関を入ると壁に弁財天像がかかっている。これは作者が棟方志巧でこの彫刻をしている姿がテレビで放映をされた。
棟方は布で作った注連縄を頭に巻いてだれかと対話しながら彫刻刀を動かしていたが、そこには誰もいなかったから彼は今彫っている弁天さまと対話していたのであろう。
「弁天さま。そうですか。ここをもっと赤く。ハイハイ分かりました。口紅をもっと濃くしましょう」
あたりに人がいないのに彼は対話を続ける。TVカメラはそれを執拗に追う。あのテレビで見た棟方の彫刻した弁天さんだ。そーいえば弁天さまは音楽の神様だ。
人は一生涯で何回か人知を超えた不思議体験を経験する。しかしその源を克明にさかのぼって、追及はしない。従って不思議経験はそのまま時の闇の中に葬られる。

そしてこのような不思議体験は特に芸術家においても多いように思う。しかも洋の東西を問わず、また時代を問わず記録として残っているものも数が多い。
バッハもベートーベンも、シューベルトも一様に作曲する際に神の啓示のあることを実感したと告白している。おそらく絵画がにおいても彫刻、建築においても同じ経験がなされたこことだろう。

それにしても古賀さんのように大師さんに命をすくわれた人は数限りないのではないか。お大師さんを信仰する者はそれだけでも素晴らしいことであり、ありがたいことである。


初詣

2008年01月02日 | Weblog
コートなしで過ごせる。雲ひとつない晴天で暖かい。

初詣に住吉大社へ行った。満員電車から.どっと人がはき出される。ゾロぞろぞろ。
人は同じ方向をさして歩む。駅から大社までは人の切れ目はない。

太鼓橋が近くなるにつれて、押し合い、へしあいは一層激しくなり、立ち止まる回数が多くなる。人の波にもまれて歩いているというよりは、人の波に流されると言った方がふさわしい。とても自分の足で歩いているという感覚ではない。いったいどこからこんな大勢の人が出てくるのか。

皆思い思いの服装に身を包んで、華やかな彩りの和服あり、ジーパンあり、普段は町で滅多に見かけない男の和服姿も結構目につく。

それにしても住吉大社に鎮座まします神様は、これをどうご覧になっているのだろうか。

この大勢の人々の願いを聞いて叶えるとしたら、いったいどうなるのか。欲の塊である人間は、ありとあらゆる欲望を頼みまくるだろう。家族の健康や幸せにはじまって、金もうけ、交通安全、志望校合格、地位の昇進、商売繁盛,良縁、病気平癒 などなど。

年の初めにお願いしたのだから、念願がかなをうと、叶うまいと一応頼んだのだから、年末にはお礼参りするのが人の道だとは思うが、100%に近い人が頼みまくってお礼参りもしない。

早い話、それが証拠に初詣が日本一多い、明治神宮が年末30日ないし31日にお礼参りの人波でうまったという話は聞いたことがない。おそらく人間社会では他人にお願いをして、それをかなえてもらったら、お礼に行くはずだから、頼みまくってお礼参りもしない初詣客などは人間社会だったら、たちまちにして絶交願いたい輩ばかりであろう。

視点をかえて考えてみると、ひょっとするとねがい事を頼む人間の方で、初めから神様を当てにしないで、単なる気休めで、願掛けをしているのかもしれない。
たった10円玉一個では、とてもねがい事を聞き入れてもらえないと思いつつ、お賽銭をあげているとすれば、そんなそらぞらしいねがい事を、神様が真剣に聞いてくださるはずはない。

もし聞き届けてくださったとしたら、神様は誠にお気の毒である。たった10円玉一つをお賽銭として受け取ったばかりに、まさかの場合には命まで救わされるのだから。
いやいや人間の浅知恵で神の無限性や広大無辺の慈悲をおしはかってはいけない。少なくとも、神と人間は、そのすべてにおいて違うはずである。人間をベースにしたそろばん勘定で神のお徳やお力を推量することは、神を冒涜することにつながる。

珍しく穏やかないい天気である。人の波に流されながら、私はこんなことを考えながら歩いた。冬の太陽というよりは陽光の中には既に早春の足音が聞こえてくる。


















ダキニ天、伏見稲荷

2008年01月02日 | Weblog
1月1日。私は夢を見た。なんの夢か。もうかすんでわからなくなってしまったが、丸24時間経っている今、ダキニ天、という言葉だけが頭に残っている。

ダキニ天。和名・稲荷大明神。稲荷といえば、京都伏見のお稲荷さん。商売の神様。
なんのご縁があるのか分からないが、伏見稲荷さんのおでましだ。普段手を合わせたこともないのに、なぜ?単なる夢か。
いや、おそらくつながっているであろう神仏の世界から「今年はダキニ天におすがりせよ」という御託宣をいただいたのにちがいないと受け止めた。

 女房、長女、私の3人で、歩くことを前提に伏見稲荷に詣でる。
今年はダキニ天に初詣である。つながらない部分を私は「かつぐ」ことによって埋め合わせた。
夢の中でダキニ天は「今年はお参りに来い。お参りにきたならば、御利益を与えてやろう。必要な銭を与えてやろう。」と言われたように思えた。
それにしても、正月早々おめでたい話である。

人波にもまれて、私は拝殿に進み、ダキニ天こと、伏見稲荷大明神に向かって、心の中で祈った。

「何のご縁かは存じませぬが、1月1日、夢枕におでまし下さってありがとうございます。来社祈れというというありがたいご催促なのか、福をやるから取りに来いというお招きなのかは知りませんが、早々と参上いたしました。家内と長女を連れてをはおりますが、あれは付録です。3人がかりで是が非でも御利益をという大がかりな仕掛けではありません。

3人3様です。夫婦親子といえども、皆、各それぞれの方向でお願いすることでしょう。とはいえ、私に福の神がとりついて、家の中に夢にも思わなかった大金が転がり込んでくるようなことにでもなれば、それは家内がいちばん願っていることゆえ、ありがたいことに違いありません。本人に直接たしかめてはいませんが、この男をなんとしても世に送り出して、どうしても男にしてみせるという、坂田三吉の女房・小春のような夫婦愛の発露抑えがたくというところから、ダキニ天にお願いするという情熱をもって、女房が本日お参りしているようには思えません。

ダキニ天。夫婦といえども、一心同体ではない身の哀しさ。どうかその点は女房に直接本心を聞いたうえで、彼女お願いを叶えてやってほしいのです。なお、今年が始まるにあたって、その当初、1月2日の日に願掛けをする以上、かけた願が聞き届けられて、心願が成就した暁には、何をほっておいても、お礼参りさせていただくことは言うまでもありません。何事もよきようにご介錯賜りまして万事よろしくお願い申しあげます。」

ダキニ天が私の願いをどう受け止められるか、それは確かめようがないからそっとしておくこと以外には手は無いが、私の方でははっきりと記憶しておいた。
 
生まれてこのかた1月1日に神様の夢を見るなんて初めてである。
おめでたいこと限りなし。