日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

宗教がらみの悪徳商法

2008年03月31日 | Weblog
人生行路は後も先もみえない。ある日突然、この世に産み落とされ、自力で人生航路を渡って行けと運命つけられる。
そして人生航路は後も先も一寸先は闇である。
どんなに英知を絞っても、判らない部分が多いが、そこに宗教に名を借りた、まがいもの宗教の悪徳金儲け、悪徳商法がつけいる隙がある。

新聞報道によると、下記のような事件がまた起こった。
真実の宗教人だったら、こういう事を宗教人としてやって良いことか、悪いことか、判断がつくはずである。もし宗教に名を借りてこのような銭もうけをするというなら、それは宗教人ではない。宗教に名を借りた詐欺師だ。

仏教では僧侶はごくわずかな生活費を除いて他に金は不要のはずである。お金が必要だと言う時点から、まともな僧の道からドロップアウトして、餓鬼道に陥った、そこらそんじょの人間だ。こういう類の輩を宗教人とは言わない。従って信用するに足りない。

高島易断といえば、我々は、暦で、よく見かける。これは運勢暦の発行部数が多い高島易断所や、高島易断総本部神聖館などと、今回の団体とは関係がないらしい。しかし通称高島易断XXを語っているところを見ると、一般庶民はうさんくさいとは思いつつも、先の見えない人生に何らのアドバイスを得て、困難の打開をはかろうとする。

大体相談に訪れる人は何らかの問題を持った人達である。当面する問題に困り果てて、ワラをもすがりたい気持ちや、状況に陥っている人から、差し迫った問題はないが、将来にむかって漠然とした不安を持っている人まで、多種多様であるが、宗教がこれらの人に対応する時は、相談料を取るなんて、とんでもない話である。相談した人がお礼として、金品を提供するのが筋で、鑑定士とやらが金品に定価をつけて買わせることは、基本的には宗教と何の関係もないことである。
あくまで志しつまりお布施の領域を越えてはならない。これが常識である。
前後特に未来にむかっては何も判らない、何も予知できない、人間にむかって相談者の未来に不安があるかのように、言うことはとんでもないことである。ある種の脅迫だ。

普通の人間は自分や近親者の死を初め、就職や縁談などには関心を持っている。そう言う人たち向かって、死について確定的なことを言ったり、結婚が出来ないと言ったり、することは鑑定士ごとき人間に出来る事ではない。こんな事が判るのは神仏だけのことで、例外的にごくわずかな霊能者しかできないことである。とにかく人間が出来ない事は確かだろう。

経済産業省は、根拠のないことを吹き込んで商品を買わせたり、相手を困惑させた状態で契約していることなどが、特定小取引法違反に当たると見て、業務停止命令を出すらしい。当然だ。
鑑定士は訪ねてきた人たちに、最初は2000円で鑑定する。
数十分かけて、家族関係や自身の過去の病歴などを詳しく聞いて、おもに不安要素を話題にして、このままでは、2年後に病気になり、お墓に入るとか、因縁をとり払わなければならないと、1時間も2時間もかけて相手を不安にさせる。
そしてそのとり祓い料として特別な鑑定料が必要だとして、特別鑑定料を要求。 寺での祈祷や石塔仏具の購入を勧め、供養塔を立てて祈願すれば、因縁をとることができるなどと進める。

  コメントすれば鑑定料の2000円は常識的なこととして、受け入れても
相談者の事情を聞いて、その事情につけ込み、死ぬだの、病気だの、お墓だの、結婚できないとか、誰にも正確なことが判らないのに、それを因縁と言うところに問題集約し、因縁を取り払う為の処方として、特別の祈祷やら、物品の購入やらをするようにしむける所に詐欺ペテンの類が隠されている。

これをうまく説得したり、その気にさせる為の方法として、鑑定士には、相談者を不安にさせる鑑定結果を出す内容の詳細なマニュアルがあると見らる。と新聞には書かれているが、これこそ悪質そのもので、宗教という仮面をかぶった薄汚いペテン商法そのものである。

業務停止は当然であるし、この手の悪徳商法にひっかからないように気をつけた方がいい。
ちなみに因縁と言うことは確かに仏教書にやお経には出てくるが、解消出来るのは当人の行いで、決して他人頼み(坊主頼み)ではない。当人が神が認める善行や徳を積んだときに初めて、ヘドロのようにたまっている悪い因縁を解消する手段に手をつけることになる。
そしてその積徳が神仏に認められたときは、悪因縁は解消されていく。因縁解消は自分自身がするもので、間違っても他者に金を払ってしてもらうものではないし、そう言う性格のものではない。
もし金を積んで宗教関係者に因縁の解消を頼み、実際に解消されるならば、ルターの宗教改革は起こらなかったはずだし、金の多寡で因縁解消をしてくれる宗教があるとすれば、それは全くのインチキ宗教だ。近寄らない方が良いと思う。

何の意味があって

2008年03月29日 | Weblog
京都山科にある醍醐寺の広い境内をつっ切って、山道を登っていく。目指すは、西国33ヵ所観音霊場上醍醐寺の観音にお参りして、納経帳にサインしてもらうことである。

醍醐寺に着いたのが午後2時半過ぎ。閉門が5時だから、2時間半で、この山道を登り降りしなくてはならない。

上醍醐寺への参拝はかなりきついものがあると聞いていたが、山道の登りには予想外にきついもので、途中何回も四つばいになって犬のような歩き方をした。休んでいては閉門までには帰着できない。

非情にも時間は刻々と過ぎ去っていく。途中で降りてくる人には何人がであったが、お寺までの距離を聞くとと、まだかなりの山道を登らなければならないという話が多かった。
そのために、余計に気はあせった。 上り坂ばかりで平たんな道は1カ所あったぐらいかな。という感じである。

坂道を登りながら考えた「智に働けば、角がたつ。情に棹させば、流される。とかく、この世は住みにくい」夏目漱石の小説草枕の一節が頭をよぎるが、とてもそれを味わうような余裕のある行軍ではない。心臓は常時、パクパク音を立てているし、息切れがひどい。
それでも、2時間半という時間制限の中で、集印しなくてはならないという絶対的な命令がある。

生まれて初めて醍醐寺を訪れるわけだから、門を閉められたら、外へ出る場所が分からない。何が何でも、閉門時間の5時までには、この門を無事通過しなくてならないのである。

こういう状況の中では、観音様にお参りするという目的は、どこかほかへ飛んでしまって、ただただ納経帳に集印することに、目的は変わってしまっている。

わずか4、500mの高さの山だと思うが、時間をかけて、というならまだしも観音お参りを含めても、2時間半しかない時間制限の中では、目的の変質もそれはやむをえないと自分では言い訳をした。

観音お参りをしているのではない。上醍醐寺に、お参りしたという証拠づくりをしているだけである。つまり、集印ラリーをするのが目的になってしまった。

観音様は、このような参拝人の心を見通して、いったい何を思い、なさるのだろうか。お参りの心を失った参拝者は、観音様にとってどんな意味があるのだろうか。

口では、ご宝前で般若心経を唱えではいたが、心は果たして閉門時刻までに門を通過することができるかどうかで、いっぱいである。とてもゆっくり観音様と対面するような時間的な余裕も、心の余裕もない。

時計を見ると、残り時間は、40分しかない。この40分で、門まで到達しなければいけないと思うと、歩いていては、とても間に合いそうもない。幸い、下り坂だから、小走りに走った。

門の近くまでくると、係の人が門を閉めようとしている。思わず大声で待ってくださいと叫んで声をかけた。門番は、こちらを向いて、手を大きく振り早く早くと催促している。時計を見ると、5時10分過ぎである。つまり10分遅れているわけだ。そこからは、門まで、走りに走った。息も絶え絶えだったが、とにかく門の外へ出ることができた。

西国33ヵ所の観音お参りのいちばんの難所はどこかと聞かれたら、僕は、いの一番に上醍醐寺の観音様お参りだと答えるだろう。今でもいったい何をしにお詣りに行ったのだろうかと思う。お詣りなんて心を込めるから、それなりの充実感があるのに、タッチ・アンド・リターンのお詣りなんておそらく意味はなかろう。
しかし集印帳だけは一箇所も抜けてはないし、額だってちゃんと上醍醐寺の朱印が押してある。
生涯の悔いごとではあるが、集印完了の安堵はまた別なところにある。

放送の良識

2008年03月29日 | Weblog
何故そのようなことが起こるのか、わけのわからない殺人事件が二つも連続して起こった。

一つは、荒川沖駅で起こった殺傷殺人事件であり、もう一つは、岡山駅で起こった線路への突き落し事件である。

犯人はどちらも「殺すのは誰でも良い。」とうそぶいて、何の落ち度もない人を一人ずつ合計二人の命を奪った。

人間が持つ心の闇の深さは、計り知れないものがある。テレビは、コメントとして、いつもその道の専門家の意見を求めて、放送する。が、これは果たして意味のあることだろうか。事はもう済んでしまっているのだ。そこには、殺人という厳然たる事実だけがあって、これをいかにコメントしてみても、現実には何の役にも立たない。おそらく、人間の心のそこに潜む悪魔の分析までにはいたるまい。

さらに不可解なのは、被害者の告別式や葬式の模様を放映することである。著名人ならいざ知らず、被害者やその家族は放映されることを望んでいるのであろうか。

一般の視聴者は、殺人と知っただけでも、犯人に対して怒り、被害者の身の不運を嘆き、遺族の悲しみに共感して、嘆き悲しんでいるのに。それに追い打ちをかけるような葬式の悲しい場面を放映する。
いったいこれはどういう目的があって、放映するのだろうか。

被害者やその家族と共に、その無念さの悲しみを静かに共有したい僕は、この種の放映は人の道に反すると思う。
見る人にマイナス感情を与えて、さらに追い打ちをかけることが、果たしてテレビの役割であろうか。

これは放送倫理以前の問題である。いわゆる良識という類のもので、マスコミはこの種の事件の報道のあり方を再検討すべきではないか。

この世で、楽しくて楽しくて仕方がない日々を送っている人はいざ知らず、思うようにならない人生の苦悩を背負って、まじめに生きている大多数の人々に、さらに気分的に、重荷を負わせるようなマイナス感情を与える放送は、人々を決してハッピーな気分にしないし、悲しみや苦悩というマイナス感情に、追い打ちをかけて、何の意味があるのだろうか。

重大な事件であれば、隅から隅まで放送すべきだというものでもない。当然そこには、人間の良心的なチェックが働いて、不要なものはカットするのが、マスコミ人に良識だと思う。

東洋のモナリザ

2008年03月26日 | Weblog
ガイドブックに紹介された東洋のモナリザといわれるデバターは、シエムリアプの市街地から北東の方に向かって、40キロくらいの所にある、バンデアイ・スレイ寺院にあるという。

 僕はバイタクの後ろにまたがって悪路をひた走りに走った。
普通なら時間と時速を掛け合わせて、大体の距離を出すのだが、なにせこの道は土の上に、にぎりこぶしの5倍はあろうかと思われる石を敷き詰めて、というより土の上に幾重にも転がして、今からブルドウザーで平らな道にしようという工事を始めたばかりの道である。

 たいていのことは我慢するが、がたがたと揺れる後ろの座席に2時間もすわってると、もういい加減にしてくれと悲鳴を上げたくなった。それは僕だけではない。ここ2,3日バンデアイ・スレイの遺跡を訪れる人はみな同じ思いをするはずだ。バイクだけにとどまらず車とて条件は同じである。時速10キロで走れないから、途中でオーバーヒートして立ち往生している車を何台も追い越した。
ブルドーザーで整地されてまともな道路として使えるのは1ヶ月先のことだろう。
此の悪路に耐えかねて、バンデアイ・スレイってそんなに値打ちのあるところかと何回も疑問に思った。これ以上此の石道を走れというなら見ないで引き返してもよいとさえ思った。

 そのころになってようやく、つまり走るのも限界に来てやっとバンデアイ・スレイ遺跡は姿を現した。
ちょっと見は赤色砂岩で作られたこじんまりしたチンケイな寺院である。それは今まで見たどの遺跡よりも貧弱に見えた。確かに規模は小さいが、保存はましな方である。

 東塔門を一歩入ると屋根近く、ひさしの辺りに彫られた浮き彫り彫刻が目に飛び込んでくるが、確かに見事なものばかりである。完全にヒンズー教寺院である。
こういうタイプの寺院はインドではよく見かけた。紅砂岩で作られているので建物も彫刻も皆赤灰色である。楼門をくぐると主祠堂の両側に経蔵があり、中央にはシバ神殿、左側にはブラウマン神殿、右側にはビシュヌ神殿があり、どの建物にも浮き彫り彫刻があった。その一つひとつに意味があるのだろうが、僕の頭の中は 
東洋のモナリザ でいっぱいだったから何を考える余裕もなかった。

 ただ全体的に見るとこれがシバ寺院であることはすぐ判った。というのはバンコクのメインストリート・シーロム通りにも同じ形式の寺院がある。僕はその寺院の前を毎日のように通っているからだ。バンコクにあるワット・00は大抵は仏教寺院でこのような赤れんが色ではなくて、白壁と金ピカ仏である。
そのバンコックに在ってこのシーロム通りのシバ寺院は孤立して何か異様な雰囲気を辺りに醸し出している。
バンコクのヤワラ通りの中華街を通りすぎると次はインド人街があるからヒンズー教寺院が在ってもおかしくはない。

正面向かって右側の神殿、即ちビシュヌ神殿の正面から見て左側に
「東洋のモナリザ」は在った。フランスの有名な作家・アンドレ・マルローがそのあまりの美しい魅力にとりつかれてこれを国外(多分フランスだろう)に持ち出そうとして逮捕され、それが王道という小説に書かれたと言う。そのことが頭に在ってそんなデバターって一体どんなものだろうという思いが強いために、胃腸がでんぐり変える思いをこらえてここまでやって来たのだ。
そのモナリザと今出会ったのである。
彼女は背丈が1mに満たないデバターで、顔はふっくらと丸みをおび、謎の微笑を秘めている。胸は豊満で全体的にふわっとした感じで、つられて心がふわっとなった。緊張がほぐれる一瞬だ。1人の彫刻家の魂にふれて僕の心は緊張感から解放された。

 僕はいろいろ角度を変えて出来るだけ多くの方向から眺めるように努めた。彼女は正面を向いているのではなく、首を少しだけ右に振って、物静かに何かを考え事でもしているかのようであった。聡明そうな上品な顔立ちと高貴な姿態が僕を魅了した。このとき僕はこの世から離れた別の世界の住人だった。忘我。そう。忘我の世界にいたのだ。

 よかった。あの悪路を乗り越えてここまでやって来た甲斐があるというものだ。僕はつくづくそう思った。
これだけの芸術作品はきっと1人の彫刻家の思いが、ここに込められているのだろう。どう考えても共同作業とは思えない。もし何人かの彫刻家が集まって共同作業の結果此の神像を作ったとすればどこかに作家の顔の端くれが見えるはずである。モナリザは絵画であるのに対し、「東洋のモナリザ」は浮き彫りの彫刻である。
立体感がある分素人に対しては迫力が在る。彼女は1000年の間微笑み続けた。これからもこの遺跡がこの地上から消えてなく無くならない限りここにこうして鎮座して訪問する人に微笑みかけることだろう。こんなすばらしい作品がポルポト一派の破壊の手を免れてようこそ昔のままの姿でここにこうして在ったものだと安堵の息がもれた。
美に関しては東洋、西洋の別なく人間であれば美しいものはあくまで美しいのであって理屈はいらない。

 ところで此のモデルは一体誰だったんだろう。きっとなにがしかのモデルがあったはずである。これだけの顔つきからすると、そこらそんじょの女性ではあるまい。王妃か。王女か。位の高い女官。いや作者の永遠の恋人か。作者が祈る女神像だったのか。僕には全くの架空の人物とはおもえない。

 西洋人のマルローも東洋人の僕も共にこの像が放つ魅惑の虜になっている。この虜の思いが強すぎてマルローは国外持ち出しを決意した。それに対して僕は此の神像だけを切り離すよりは此の壁全体を構成する1つの部分として保存した方がより高い価値を生み出すように思える。

 余計な事ながら、顔に注目した人は顔だけを切り離して持っていこうとするのだろうか。顔の部分だけが無くなっているデバター像はたくさんある。もし今完全な形で保存されていたら、ひょっとしたら僕の目の前に在る此の像よりももっと優れた芸術作品が在ったかも知れない。もしそうだとすれば、盗難や破壊から此の遺産を守るために遺跡保存係の警官を配置する必要がある。此の像や装飾品の価値が判らず削ったり、切り取ったりして持ち帰ろうとする連中や、価値が判りすぎて我がものにしたいというつよい欲望を持つ両極端の人間の思いから、此の人類共通の芸術作品遺産を守らなくてはならないと思った。 

 恥も外聞も気にしないで、僕はこの「東洋のモナリザ」の横に顔をよせて記念撮影した。僕と同じような思いの人だろうか、僕と同じような事をする外人がいた。
写真のシャッターを押してあげると、メルシボクーという謝辞が返ってきた。
そう言えば、ここはフランスが植民地にしていたところだ。この寺院を丸ごと本国に持って帰ったところで、大した金はかからなかった筈である。でもフランスは大して保存もしなかった代わりに、持ち出しもしなかった。文化遺産というものはそこの場所にあって初めて真の値打ちをだすものだと考えたのであろうか。その辺がイギリスのやり方と違う。イギリスはロゼッタストーンをエジプトからちゃんと持ち返っている。
 それは外国の宝物をうばって持ち帰るという考えのほかに世界人類の遺産として王者イギリスが完璧な保存をして人類遺産を守るという決意をしての行動だったのだろうか。

確かにアンコールワットという壮大な建造物には発見以後手を加えているが、このような小さなデバターに目をくれたという話は聞かない。マルローがいうまで気が付かなかったのか。それとも価値を見いだせなかったのか。はたまたこの程度のものは無視したのか。

 誰か物の値打ちの判る有名人が、それについて何かをかいてくれれば、それが人目を引くことになり、より多くの人が関心を持つようになる。現に僕だってマルロー逮捕という話は決して見逃すわけには行かない。逮捕という犯罪を犯してまでこの著名な作家が手に入れたかった神像彫刻作品とはどんなものかと関心が集まるのは当然である。見方を変えれば偉大なる宣伝だ。
もし彼のこの事件がなかって、ここに黙ってそのまま鎮座していたら、このように有名にはならなかった筈だ。

 なぜならアンコールワットを初め、カンボジャの遺跡群には数え切れないほどのデバターが在るからである。一つひとつ丁寧に踏査する専門家がいてもいいくらいだ。しかし今のカンボジャは往年の王都とは比べものにならないほど落ちぶれて往時との国力の差があり過ぎる。現在のカンボジャの国力では、現状保存さえままならない。精々破壊や汚損を防いだり、自然崩壊を防ぐ手当が出来るくらいのことである。この地方に在る膨大な石像遺跡群を守ることは負担が大きすぎるだろう。世界遺産だというなら世界がまもる手立てを講じる必要があると思った。

 カンボジャはさしたる工業がなく、特産もなく今まで通り当面は農業を続けるしかあるまい。それはそうとして偉大な先祖がのこしてくれた、これらの遺跡を観光資源として活用して観光立国を目指したらどうか。僕はこんな余計なことまで考えた。
ところでもし僕に東洋のモナリザを選べとお声がかかったら僕は自分の美的感覚で今目の前にある物とは違ったデバターを選んだだろう。僕には心に決めた楚々とした僕好みの美人デバターがある。それはちゃんとカメラに収めて自宅で焼き増しが出来るようにしてある。
今後はアンコール遺跡群を自分なりの東洋のモナリザ探しに歩いてみるのも面白いと思った。

徳寿宮のペテン師

2008年03月24日 | Weblog
彼は赤と白のポロシャツをきていた。靴は白いエナメルの革靴である。頭はMの字にはげ上がっている。
歳の頃は40歳位か。顔には不敵な笑いを浮かべている。見るからに、いけすかん奴だ。

 その時僕は、徳寿宮の入口の門の前に立って、英文で書かれた看板を読むのに、夢中になっていた。彼がここへ来たのが、全く気がつかなかった。だから彼の姿を見たときは、ハット身をかわした。どこからか、やってきたというよりは、足元の地中から俄かに湧き出でてきたと、いう感じだった。

 彼は愛想を笑いをしながら、私に近づいてくるなり
「観光ですか」と聞いてきた。
「ええ、そうです。」 日本人と韓国人は顔かたちがよく似ているが、それでも彼が韓国人であることは、彼が持つ雰囲気でわかる。
「今どちらに住んでますが」
「大阪です。」
「それはにぎやかなところですね。今年の年末には、私も日本へいかなければならないのですが、韓国では50万ウオンしか、払い出し出来ません。旅行者のあなたに頼むのは、気の引ける話だが、円とウオン交換してくれませんか。
えーっと。今はレートはいかがですか、損はさせませんよ。」
「 私は旅行者だから、円の現金は持っていません」
「それでもお金がいるでしょう。この国ではウオンしか使えないじゃないですか」
「それはそうですね。だからウォン少し待ってますが、円は持っていません」
「韓国では貨幣の価値が1桁違いますよ。ウオンなどは、すぐなくなるから円の両替をしておいた方がいいですよ」
「そうですね。必要なときには替えます」
どこまでもしつこい。

「ところでドルは持ってますが。」
「ええ少しだけ」
「今レートはいくらですが」
「さあ替えてないからわかりませんが」
「円でだめならドルに替えてくれませんか」
「両替するほどのドルは持ち合わせていません」
「あなたに損は決してさせません。今多分1ドルは124円です。1ドル140円でいかがですか。これだったらあなたは絶対に損をしないでしょう。私の友人がすぐそこの銀行に勤めています。彼にいえば便宜を図ってくれますよ」

言葉は丁寧だが、中身には強迫的な言葉が増えてきた。
僕は先ほどから、どうしてこいつから逃げるか、そればかりを考えていた。最悪は少しぐらい両替しなくてはいけないかなと思ったが、理不尽なことだから、彼の要求を受け入れることはないと頑張った。
第一見知らぬ旅行者に両替頼むなんて常識で考えると、そこには何らかの、わながしかけてあるはずである。彼は自分の仕掛けたわなに私を押しかけようと、あっちから、こちらから攻めてくる。私は彼の話を聞くふりをして、どうやってこの場から逃げるか。そればかり考えていた。

 彼の表情から、薄暗笑いが消えたとき、もうこれ以上彼と話しているときっと暴力的になると思ったので、とっさの判断ではあったが、9時に友達と門の前で待ち合わせっているからというなり、一目散に徳寿宮に向かって早足で歩き出した。
後ろを振り返らなかったから、彼がどんな顔をしていたかはわからないが、多分鴨をのがした悔しさは、満面に出ていたであろう。

生まれて初めての海外旅行である。西も東もわからないソウルである。日本語を話すとしても、相手は外国人である。韓国人である。喧嘩すれば不利なことおびただしい。無傷で逃げることが最上である。僕は顔でこそ、彼の相手になっていたが、心は全然別なところにあった。

 別に彼から逃げなくても堂々と、彼を煙に幕だけの力があればいや自信があれば、彼をからかってやればいいのだが、なにせ生まれて初めての経験で、とてもそんな余裕はなかった。
日本を一歩出ると、海外は少しも油断のならないところだ、と心にしみた。







沖縄の旅

2008年03月21日 | Weblog
僕が沖縄へ行きたいと思った裏には、親友が見た沖縄の海の色の話を聞いたことにある。彼は言った。
「早朝から夕方まで、海岸に佇んでいると、沖縄の海は、七色に変化する。日の出には、ダークブルーなのだが、日が昇りにつれて、薄い青に変化し、それが昼頃には、緑がまじる。そして夕暮れには、又もとのダークブルーに戻る」

僕は子供の頃から海が好きだ。海は眺めているだけで楽しい。
潮が差してくると、さざ波が立ち騒ぎ、満潮になると水面が穏やかになる。そして時間になれば、又もとのように、少しずつ、少しずつ大海原に潮は帰っていく。
これはかなり長時間にわたる自然の営みだが、見ていて飽きない。
だから、沖縄に着いたら、荷物を持ったままで、海岸へ直行しようとさえ思っていた。

 上空から海の色と、沖縄の島々を見ることを楽しみにしていたのに、あいにく空は雲ばかりで何も見えない。あたかも雪原をすべっているかのようであった。
那覇空港には、雲の切れ目から、飛び降りたといってもいいだろう。厚い雲の層をつき破り、視界が開けたなぁと思ったら、あっという間に、滑走路に滑り込んだ。
 
美しい沖縄の海を空から、堪能しようという当ては外れたが、那覇空港は、生まれて初めて見る空港で、機外に出ると、足元から暑さが、もわーっと全体ににじみ上ってくる。
 冷房の効いた、ぴかぴかのターミナルビルの上から、海岸を見ると、台風が近づいているせいか、波がささくれだって、白波が幾重にもたち騒いでいる。
 
 僕が沖縄に来たのは、まだ見たことのない自然の美しさを満喫するということも、さることながら、なによりも、非日常性の異国情緒を味わいたいという思いの外に、20万人以上の犠牲者を出した、60年も昔の太平洋戦争の犠牲者の慰霊をしたいという気持ちがあったからだ。

沖縄戦の激戦地というと、紛れもなく、犠牲者が多く出たところだが、今そこには、慰霊碑や平和祈念堂が、建っている。そこへ自分が作った鎮魂曲を持ち込んで、僕なりの供養をしたかったのだ。

 ところが空には、先程の通り、黒い雲は飛ぶように流れ、海は白波を立てて騒いでいる。予想通り、他に逸れたコースをとるのではなく、台風はどうも本島狙いのコースらしい。台風の襲来を告げる、あの独特の空の色、雲の流れである。だが
風は全くなく、野山は静かである。嵐の前の静けさというやつだろう。騒いでいるのは、空と海だけである。

 本当かなぁ。僕は旅装を解こうと、今夜泊まる宿を探すために、バスターミナルで、下車して、周辺を歩き回った。

観光パンフレットを見たり、テレビによって報道される沖縄は底ぬけに、明るいように僕には映る。が、その昔、中国と薩摩藩の二国に、両属し、搾取され、虐げられた歴史をもち、また近々では、太平洋戦争で日本最大の激戦地となり、多くの犠牲者を生んだのが、ここ沖縄だ。

過去の歴史は、まるでうそのように、沖縄はその明るさの陰に悲劇を隠してしまっている。行き交う人々の表情にも苦悩の色も、深いしわも刻み込まれていない。が、歴史は表面とは裏腹に、深い悲しみを腹の底に抱えている。
時が人間の悲喜こもごもすべてを洗い流し、消してしまうのだろうか。表情の明るさが、かえって不思議にさえ思えた。

マスコミが発達したおかげで、東京ファッションは、その日のうちに、繁華街、国際通りに伝わる。人込みを歩いていると、目を見張るような地元・沖縄スタイルをしている人はほとんど見かけない。都会ではありふれた茶髪や金髪の若者たちが、股を広げて床に座り込み、マクドのハンバーガーを食べている。この様子は大阪の繁華街の様子と何ら変わらない。

もう現代では沖縄特に那覇では、特有の心情や気質を別にすると、異国情緒は求めるほうが無理なのかもしれない。

ワープロソフト・ワードで、しゅり を入力すると、首里とは変換できなかった。地名変換だったら、できるのかもしれないが、首里は有名で、一般化しているから、東京や大阪というように、入力すれば、首里と変換出来るのが、当たり前だと思った。それは僕が沖縄びいきだからいうのではなく、首里城は、沖縄の代表的な歴史スポットで、首里を知らずして、沖縄は語れない。そんな首里が、代表的なワープロソフトで一発変換?できない。とは。

 那覇市は、平地と緩やかな丘陵地からなっている。狭い範囲で、上り坂下り坂があるので、自転車で市内一周しようと言うのは、かなりきついものがある。
 沖縄の風と太陽に、直接触れたいと思ったので、僕は自転車を借りて、市内見物に出かけたが、あちこちにある緩い上り坂に、ペダルをこぐ力を襲われて、体力が消耗し、疲れ果てて、途中で自転車を放置して宿まで帰りたい、と何回も思った。

 加えて、曇り空とはいうものの、時たま、漏れる太陽の光は、焼けつくように熱く、半袖シャツがからはみ出した腕は、指先まで赤く焼けた。 こういう経験をするとさすがに、首里城まで自転車で、という気は起こらなくなった。

 台風が来るということは、天気予報でよく知っていたが、心の隅ではコースがそれることを願う気持ちが、残っていた。そんな期待を吹き飛ばすかのように、台風は那覇市を直撃した。台風の通過中であっても、テレビの放送は途絶えることなく、消えることなく放送を続けていたので、状況は分かり、あまり不安はなかっ た。
 轟音とともに、家を揺さぶる強風にはさすがに、恐怖も感じたが、それは、最大瞬間風速58.6メーターの風が吹いたときだった。台風はかなり長時間居座って、雨、風ともに、強かったが、僕はこんなことは生涯経験できない希少な体験だと思い、ずぶぬれになることを覚悟で、体でこの強風と雨を受けてみようと、傘をもって外へ飛び出した。

 通りには、人影は、一つもない。車さえも走っていない、傘は何の役にも立たず、玄関を出た瞬間、強風に持っていかれた。
雨は横から、強風ともにやってきて、肌を刺す。ぬれるという感覚よりは痛いほうが先に立つ。時たま、引きちぎられた街路樹の葉や枝が、唸りをあげて飛んでいく。風速50メーターとは、体で受ければ、こういう感じするのか。
僕はこの感覚を体で体験しただけでも、沖縄に来た値打ちがあると思った。

台風の中心は、西方向に向かって進み、石垣島で、滞留した。そのせいで、雨と曇りの日が続いて、滞在中は晴れた日はなかった。
 旅の目的であった首里城の見学も、ヒメユリの塔や平和祈念館での鎮魂など所期の目的は、何一つ達成されたものはなかったが、それでも僕はこの旅に満足した。
さらに、また来ようという楽しみが、残って、沖縄の旅は終わった。


瞬間芸術.

2008年03月20日 | Weblog
瞬間芸術. その中に、永遠性があるというが、瞬間の中に、永遠性があるという言葉自体が矛盾そのもののように思える。しかるに、音楽は時間芸術である。時間と共に生まれ,時間とともに去って行く。
にもかかわらず、瞬間的に、去ったはずの音楽の美しさが20年も30年も、いや、一生涯、心の中で輝き、心の奥底深く私にとっては、永遠性を持つことができるのである。


私の感覚で判断すると、以前歌われていたような価値の高い童謡が、幼稚園では、歌われなくなった。したがって、幼児が、芸術的童謡に触れることがなくなった。そして、それは無理もない話である。
近頃の幼稚園の先生は、芸術的童謡を知らないからうである。加えて先生に、音楽性がない。そこで私はひとこと言いたい。

教師となって、いろんな子供の心に音楽という色を塗るなら、何色が、この子供の生涯にとって、よいものか。研究してほしい。つまり童謡の研究をしてほしい。そして自分が芸術的な質の高さを持つこと。童謡と、流行歌の差をはっきり認識し、会得してほしい。


お釈迦様は、物事の真理は中道にあって両極端にはないと説かれた。中道というと、加えて2で割る式のことをすぐ考えるが、要はバランスがとれているかどうかということである。知情意のバランス、心と体のバランス、知識と知恵とのバランスなど。


生まれてきて良かった。生きて見て良かった。と心から思えるような生き方をしなくては、。
命が、体中からほとばしり出るような毎日が楽しくてしようがないような、そんな人生は、私の心の中にある。これは自分の考え一つで、あったりなかったりする。   
生き甲斐のある人生を送りたいものだ。



テスト

テスト、テストの世の中である。その結果によって、色づけしたり、輪切りにしたり。色づけする方も、される方も大変である。

それは、誰だって、自分の能力が測定され、評価によって右往左往することは好まない。必要悪だと分かっていても、その能力を測定しなくてはならないのが、人生である。

人の生存は究極において、生存競争の上に成り立っているという現実の必要性から出ているようだ。
競争がある限り、そこには必ず評価が伴う。つまり、人間の生存には必ず評価が、つきまとう。

ところで、人間が下した評価によって、人間の値打ちを真実に測定し、断定することが果たして可能か。どうかは。
それはともかくとして、人類の進歩前進を導く原動力が、必然的に、競争を伴うものなのである。つまり、人類が続いている限り、競争とその評価はつきまとう。



情報網

会社の中の同僚と、4人で飲みに行く。同僚間の噂話そして、いつかそれが悪口につながって、心の憂さの捨て場所となった。

私は当たり障りのないように、のらりくらに逃げる。決して本心などはかしたりはしない。

井戸は水が湧くまで掘れ

ある程度の事前調査で水脈があると信じたならば、井戸は水が湧くまで掘れ。
せっかく水脈があっても、そこに達するまで掘らないと水はわかない。水が湧かないと、それまでの作業は全て徒労に終わる。
新製品や新しい方法や手段などを開発する場合において、この問題に、注目する必要がある。
第1に、水脈が存在するのかどうか確認ができるか。
第二水脈に達する作業の適否  十分の検討を加えることはもちろんだが、果たして人間の知恵で、感知できるものばかりだろうか。
結果が、出る場合、分かるのだが、その過程で、的確に結果を予測できるのだろうか。
どうもこの辺のことは神の領域のような気がしてならない。

















器量に従って

2008年03月17日 | Weblog
人はその器量に従って花を咲かせるから咲く花はいろいろである。
1. 毒々しい原色の花
2. 清楚な白百合
3. 平凡そのものの花 そこらそんじょの色花
4. 泥沼をかいくぐり抜けて清い蓮の花
えんま様はその花をごらんになって地獄行き、極楽行きを決められるのだろうか 

夢破れて

2008年03月17日 | Weblog
男も女も結婚前には夢を見ている。この夢は自分にとって都合の良い最高の夢である。ところが結婚して実生活に入ると、直面する現実の厳しさによって夢から覚まされる。

こんな結婚というシステムを作り、誰がいたずらをして、楽しんでいるのだろうか。悪魔か善魔か。

こんなワナにかかって、夢破れ離婚するか、それとも人生とはこんなものだとあきらめるか。

シエークスピアじゃないけれど「人生というものは、それほど良くもないが、悪くもない」というセリフはなかなか意味深である。
結婚という一線を越えた者にしか、判らない人生のある側面である。

それにしても神様ちょっとこくじゃあないですか。

2008年03月16日 | Weblog
それにしても神様ちょっとこくじゃあないですか。
1やみくもにこの世に送り出しておき、生きることのルールも教えない。
2.目隠しされた状態に、泳ぎ方も知らされずに、プールに放り込まれ勝手に泳げ、勝手に生きろ。
それじゃ間違いをする人がいくらでもでてきますぜ。
水を恐れながら、手足をばたつかせ向こう岸までたどり着ける人もいれば、途中でおぼれる人もいる。
人生とは結局、神の命ずる修行なんですかね。
それにしても殺生や

夜行寝台バス

2008年03月16日 | Weblog
日本を出るときから、夜行寝台バスが走っているのを知っていた。生まれてこのかた、乗ったことがない。僕は旅の目的の1つはこれに乗ることにした。子供じみた目標である。
 
 麗江から大理までは200キロ、朝9時にのって3時頃に大理についた。大理から昆明までは330キロ、こちらに来るときは大型観光バスで約10時間かかったから、夜行バスもそのくらい掛かるだろうと推測した。
 大理からバスは4台出た。どれも満員である。僕は一番後ろのバスにした。

 定員は33人。料金は一人分50元だと言う。寝台の広さは幅が50センチ、長さが180センチくらいで、1マスは二人用である。つまり1マスは100センチ掛ける180センチである。
 バスくらいは贅沢しなくちゃと思い、僕は1マスつまり二人分を一人で買い切り、ゆったりと寝ることにした。乗客は皆カップル、しかも皆若い。シングルは僕だけだった。
 交代要員の一人用ベットを除けば、皆二人用、真ん中を通路にして、両脇に上下4列に並んでいる。片側に8ベットだから16人、両側で32人。
 
 ところが僕の真後ろの二人組があられもない姿で抱き合い、絡みあっているのが目についた。
ええっ?バスの中で。公衆の面前で。おいおい、それはないよ。恥ずかしいとは思わないのか。他人事だけれども頭に血が上った。のぞき見したい気もあったら恥ずかしいという気が先にったった。僕は息を凝らしながら彼らのあえぎ声に全神経を集中した。中国語だから意味はわから無かったが、こればかりは世界共通で中身はわかる。僕は一生懸命に気をそらした。

 そういえば、中国のトイレには驚いた。日本のように一人一人が他から遮断されたブースにはなっていないのだ。囲いも仕切もなくすけすけだから、お隣さんの顔を見ながら用を足すことになる。それだけではない。ブースがないから、勿論前には扉もない。混み合うと、こちらがしゃがんでいる最中にも、前に人が立って待っているわけだ。これじゃ出るものも出ない。トイレを使う度に、こんな思いをした。
 旅行期間中ついぞ、僕はトイレになじめなかった。恐らく日本人は、こんなトイレにはなれていないから、恥ずかしいという思いが先立つだろう。
 しかし中国方式が悪いわけではない。思いが違うだけである。つまり習慣、大きくいえば、トイレ文化が違うだけのことである。

 後ろさんはますます激しく、大胆に愛し合っている。これはいかん。
 僕はズボンのポケットから睡眠薬を出して飲んだ。時計を見たら11時である。それ以後はなにも知らない。
 目が醒めたら昆明に着いていた。朝8時である。寝台夜行バスの旅はこうして終わった。
みなさん。お疲れさま。


大理レポ

2008年03月16日 | Weblog
大理は昆明から約400キロほど西にある。大型観光バスで約12時間掛かった。途中で昼飯、トイレ休憩が30分ほどあって、それ以外は走りづめ。礎雄迄60キロは高速道路、それから先は地道、舗装があったりなかったり、腸捻転をおこしかねない悪路を走る。道は山越えで上ったかおもへば下る。野を越え山越えてひたすら走る。10時間も乗ったら大概嫌になる。大理についたのは日もとっぷり暮れた9時近くだった。街の南の端にシェグアン(下関)があるが、ここはにぎやかであった。近代的なビルが立ち並び通過したどの街よりも立派だった。

大理は宋時代には大理王国として栄えた。今の雲南省(ほぼ日本ぐらいの広さ)は大理国のなかに含まれる。古い街だけに四方に城門があり特に南の城門から北の城門へは歩いて20分も掛からないで通り抜けられる。
その通りが一番にぎやかで、人通りの多い復興路である。
 街の北のはずれに三塔がある。一番高い塔は70メーターの高さがある)が、これが作られたのは今から約1000年ほど前らしい。
 ご苦労さん。千年間お前たちのお陰でどれほど多くの人間がが慰められてきたか。僕は三塔にお礼をいった。大理の観光シンボルとして、これからますます輝きをまして名物になるだろう。

湖の西にある山脈をツアンシャン(蒼山)という。19の山々でなっており高いところでは4000メーターある。3000から4000メーターの山々の頂には雪が積もって白く輝いているが、街を行く人は半袖を着ている。僕はこの峰峰のうちで中和山と呼ばれる山の中腹までリフトで上った。
 そこから見る市街の景色は、山と湖と点在する村々と、ほぼ正方形に見える古城都市の家並みなどでのすばらしさは何と表現したら良いのか。古ぼけてはいるが美しい。
 これはこれは。僕は思わす歓声をあげた。勿論眼下に三塔が見える。心なしか傾いているようだが、これは建てられて相当の年月が経っている年代物だ。建造年月日は判らないが、南紹の末期つまり大理になる前らしい。それ以後何回か修理はされてはいる。
 蒼山、湖、三塔、城門のある街、それだけで絵になる。鉄道はまだ敷かれてないがいづれシャグアン迄は来るのだからこれからは観光化が始まり俗化が加速する。

雑念1

2008年03月16日 | Weblog
独身は気楽だと君はいうが、同時に寂しさもつきまとう。老人になって、ただでさえ寂しさが押し寄せてくる黄昏時に、君はなにを以て寂しさをいやすというのか。子供は必ずしも自分の近くにいるわけではないが、それでも心の中ではそれが大きな支えとなる。子供がいるといないとでは大違い。僕はそう思うから君の独身主義には懐疑的。まぁすきに生きるがいい。人生は全て自分しかわからないからね。



盲人だ象をさわって、象とはこんなものだと自分の実感をいう。そしてその人にとってはその判断は正しいが、全体像から見るとそれは一部を言い当てているだけで必ずしも正しいとはいえない。全体像を言い当てて、かつ、部分的に正確なときに正しい判断となる。

部分と全体、常に両方にわたってものを見る習慣をつけておかないと、真実を見失う。つまり正しい見方ができないのだ。哲学的なことを考える場合でも、常に現実論の立場に立つ、この二つの見方をして視点にすえることが肝要である。

神は人間の魂の中に命を吹き込む。神は命の命である。魂に生命力を吹き込むという考え方はおもしろい。自分の経験でいうと、神社参りの日には決まって命が盛り上がってくるのが実感できる。


思考がこのごろストップする。1.2.3...と考えてそこから先が門がしまったようになって進まない。
もう考える力がなくなったのか。左脳か右脳か知らないが考えるという機能を司る部分が停止したのであろうか。悲しいことであり、恐ろしいことである。



見えないから見えてきた。心を統一し全神経をを集中するとこういう現象が起こる。


努力をすれば可能性が生まれるだけで、即実現性があるということには成らない。実現性とは可能性に神仏の力が加わったときに初めて生まれるものである。


思いを届けることのできない自分に心底から自己嫌悪を感じた青春の苦い思い出。これは私だけじゃあるまい。皆そうなんだろう。


決して八方美人じゃない。人にはそれぞれの個性があるから自分の個性と合う部分においてのみつきあっている。そこで、会う部分が多いほど、本音で話し合う部分が多くなり心理的距離が近くなる。


百メーターの長さをどう評価するのか。

1.百万キロメートルの尺度を用いれば百メーターは無視できるほど小さい。つまり、限りなくゼロに近い

2.一mmを基準単位にして百メーターをはかれば無限大に近いほど大きなものになる。

3.ある一つのものをどういう単位ではかるかによって無限に変化する。
個人の判断もその人の使う物差しによってゼロ~無限大にまで広がるのは、人間がそれほど複雑にできているという証明に他ならない。


人はなにが面白くて生きているのだろうか。通勤電車の人たち。疲れた顔、押し黙った人々。元気がよく威勢よくはしゃいでいるのはガキばかり。
皆死んでいるのであろうか、、、、、。黙って目を閉じている。
目を開けた人はうつろな目で一点を見つめている。笑いもしない、泣きもしない。皆退屈しているんだよなぁ。
さあ何か面白いことを始めよう。胸のすくような、胸がワクワクするような何事か、何でもいい。始めよう、始めよう。座して死を待つ愚は後悔の種。
さあ何かを始めよう.



ソンクラーン祭り

2008年03月14日 | Weblog
もう10回以上もバンコックには来ているが、水掛け祭りは今まで、唯の1回も遭遇していなかったのでこのソンクラーン祭りのことは知らなかった。
4月12日から13、14、と3日間はタイのソンクラーン、水掛け祭りでそれは正月みたいなものらしい。いやお祝いをしているのだろう。
それだけではなく、歩いて街ゆく人にも後ろから、前から無条件に水をぶっかける。
若い女の子などはブラウスが掛けられた水のために体にぴちゃっとくっついてボデイラインがはっきりと浮かび上がり、膨らんだ胸のあたりはすけすけで黒い乳房が二つ見えている。
おっとと、これは面白い。タイの若者はいいことをやってくれるじゃないか。高見の見物を決め込んで、僕は腹の内でにやにやしながらバスの手すりにもたれながら眼の保養をした。
水かけと言うくらいだから水をかけるほうも、掛けられる方も其れによってお祝いをしている気分に成るのだろうから、特に掛ける方は遠慮会釈は無い。何処でもいい、だれでもいい、辺り構わず水をぶっかけるだけでなく、追いかけてきて水を掛ける。標的は同胞だろうが外人だろうが全くお構いなしでる。
あちこちで誰彼かまわず水をかける。トラックに水瓶を積んで行き交う人に見境なく水を掛ける。町はそんな若者であふれていた。バンコックの4月は最も暑い季節らしく連日38度前後の気温だった。この祭りにとけ込めば暑さ忘れの面白い祭りかもしれない。
さて、今回のバンコック滞在はタイ旅行が目的地ではなくて、単なる通過地点に過ぎなかった。カオサン通りで格安キップを買った方が安く昆明に行けるから立ち寄った迄である。昆明が目的地だったから1日も早くバンコックを出発したかったのに運悪くソンクラーン祭りにひっかかってしまったのである。12、13、14、と3日間は官庁はおろか商店も閉まっている。
 勿論中国大使館もお休みだ。ビザはとれない。仕方なくバンコクに釘付けになった。
格安キップには有効期間があるので自ずと帰りまでの日数には制限がある。1日も早く昆明につかないと中国に滞在する期間はそれだけ短くなるのだ。僕は内心すごく焦っていたが焦ったところでどうにかなるものでもない。体こそバンコックに置いていたが心ははるか彼方の雲南省に飛んでいた

 大通りで水の掛け合いをしているのを見て、これはやばいと思った。満足に着替えも持たない僕に水が掛けられたらそれこそパンツ1丁で町を歩かなければならないことになる。どうしても水掛けから逃れなければならない。
そこで僕は大通りを避けて路地を通ることにした。それは車からの襲撃を避けるためである。しかし路地のどこから水が飛び出してくるかしれたものではないので立ち止まっては警戒をおこたらなかった。
だが途中でどうしてもスリウオン通りを歩かなければならない所が有った。しかたなく歩いていると、路地から中学生風の子供がかんずめの缶に入れた水を僕の背後から背中に掛けたというよりはそそぎ込んだ。彼はにやりと笑って僕を見つめたが、僕は驚きと怒りに声をふるわせた。水は背中から足下まで直行したお陰でびしょびしょということではなかった。
「やれやれ、たいそうなことをしてくれる。この野蛮人めが。」
僕はぶつくさ言いながら、なおもスリオン通りを歩いていたが、次に来たのは強烈だった。車に若者が数人乗ってこちらに向かってやってくる気配を感じた僕は、右折してタニヤ通りのほうへ小走りに逃げた。多分此処なら安心だと思ったのもつかの間、1団は歓声をあげながら僕を追いかけて来るではないか。これはいかん。僕は走って逃げた。蛇に追いかけられたら横に逃げるに限るという具合に僕は車が入れないような小さな路地に逃げ込んだがそこにはバケツを持った若者がいた。これはいかん、僕は驚いてまたもとの路を引き返さざるを得なかった。が、運悪く丁度そこへ先ほどの車が通りかかった。すかさず歓声と共に水がドバっと飛んできた。避けようもなく僕は頭から水を被った。あわてて僕は肩に掛けたカバンからタオルを取り出して急いでふいた。しかしカバンの中まで水が入ってしまっていた。
急いで取り出したがビデオカメラが濡れている。
「やられた。」
僕は大急ぎでカメラを取り出しタオルでふいた。綺麗にふいたが水は中まではいってしまったらしくどんなにさわっても微動だにしなかった。
「畜生。馬鹿者め。手前ら野蛮人か。水を掛けたいのならタイ人同士でやれ。俺は外国人だぞ。誰もかけてくれと頼みもしないのに、いやがる俺にまでかけやがって、一体どういう了見なんだ。」
僕は怒りまくった。びしょぬれの上にカメラまでやられてしまったのだ。腹が立たない訳がない。通り過ぎていく車に向かって僕は唾を吐いてやった。
 ビデオが動かないのにはさすがに参った。自室に戻って僕は電池をはずし本体をフアンの風に当てて乾かそうと懸命につとめたがビデオは動かずじまいだった。買ったばかりで今回が初めて使うのを楽しみにしていたのに。僕は何重にもむしゃくしゃした。
 かってにタイにやってきておきながら、こんな事をいうのははなはだ不謹慎ではあるが、僕にとっては祭りは出来るだけ早く終わって欲しかった。
ソンクラーンはタイ人にとっては1年一回の無礼講の祭りで暑い盛りのフラストレーションを発散させる楽しい祭りかもしれないが、僕には不愉快な祭りとしてしか映らない。所変われば品変わるというが僕は素直にこのソンクラーンを楽しい喜びの祭りとして受け入れることはついぞ出来なかった。           

九州の旅は

2008年03月13日 | Weblog
1週間ほどを続いた。宮崎を駆け足で回った。大分では、むっちゃん平和祭式典に出席し、市長から、感謝状をもらい、その足で宮崎に行く。

宮崎には、中学校高校の友達がいるから、どうしても彼らに会いたくなる。
人情のあつさと、人の心を打つ誠心誠意のこもったもてなしにはいつもながら、敬服する。これが友人が大成するための最大の武器になるんだろう。

もう一人の友人は信念の人である。その信念も、半ぱなものじゃなくて鉄のような信念なのである。この信念が彼の邪魔をしたことが、さぞ多かったろうが、彼の口から、「正義と同じ位、人情が大切だ」と、言われたのには驚いた。そして納得した。

そうだ。どんな論理の正確さや正当性でもってして、人の心に訴えるよりも、人情という情の世界に、訴えた方がはるかに人の心にしみとおりやすいのだ。
単なる記者の段階を通り越して、記者の心を読者にを通わせて、両者の間にとうとうと流れる命の水の交流を図らなければならない立場にいると彼は自認してるからだ。近ごろには全く少なくなった骨のある人物。なんとしても大成してほしい。

今まで日向といえば、日南海岸 青島 鵜戸神宮 などをいちばんとしたが、今回高千穂を訪ねてからは頭の中の観光地図は書き換えられた。

より歴史的で、心のふるさとを感じさせてくれる懐かしさがあり、道々は爽やかな風が吹いており、清水の滝は永遠の音楽である。古代から連綿と今も、そして私の死後も、何百年、何千年、同じ音楽を奏でると思うとき、ただ、その時間的なスケールの大きさに驚嘆するほかない。