日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

国家がやらせー原子力問題

2011年07月31日 | Weblog
国家がやらせー原子力問題

国家がヤラセをやって国民を欺いた。そう言われても仕方があるまい。
保安院が中国電力と四国電力電力会社にヤラセともとれる指示を出したのだ。
自民党は国策としていたから、黙認か、後ろで糸を引いていたのだろう。
実に卑怯な政党だ。国民の一番大切な安全をないがしろにして、献金システムを作った。国民から覧れば、無責任も限りない政党だ。土下座して国民に謝れ。

自民党は聞かれると「ゆゆしき問題だ」とまるで他人事を言う。国民を騙してその結果今重大な事故によって、どれほど多くの人が苦しんでいるか。その現実を前にしての発言だ。
片言隻句をとらえるようだが、小池は調査してからと、取り合わず逃げた。これが自民党の政治の実態である。国民の安全に対してどこまで責任を持っているのか。無責任きわまりない。
どうして社会常識に従ってものを言わないのか。こういう国民をバカにしたような発言が、そしてその無責任さが、国民感情を逆撫でする。
どこまで思い上がった人種なんか。こんな輩に政治を任せておけるはずがない

保安委員長の発言はこれに勝る。もうあきれてものが言えない。あるのはその責任感の無さで、それを罵倒するくらいである。こんな働きをして一人前の給料を貰うとは ,給料泥棒に等しい。
曰く。
保安院は当初、海江田万里経産相が第三者委員会設置を説明したのを踏まえ、「それ以上の話はない」として、寺坂院長の会見を拒んだ。しかし、中部電力が「やらせ」を要請した保安院職員を特定しているため、報道陣から寺坂院長の説明を求める要望が相次いだ。一転して会見した理由を、寺坂院長は「批判を受け、改めて検討した」と釈明した。

 一方、「第三者委員会の調査には全面的に協力する」とし、内部調査の実施については「第三者委員会で一元的に調査するのが望ましい」として否定。「いま一度、原点に立ち返り使命感を持って職務に精励することが大切だ」と述べた。指摘された中部電力と四国電力の両原発でのやらせについて、「記憶を呼び起こしているが、そのようなことが行われたという認識はない」と強調した。【比嘉洋】

つまり俺は知らないよと言っているのだ。それが責任者の発言なのだ。
こんなものがまかり通ると言うことが国民がバカにされている証拠だ。国民はもっと賢くならないと、こんな輩に何時もしてやられているのだ。善良な国民をこんなかたちで欺くなんて、犯罪行為だ。
国民よ。目を開け。この事態を直視せよ。

恐ろしいことだ

2011年07月30日 | Weblog
恐ろしいことだ : 11/07/27

新興宗教の信者が、教祖のあとを追い、和歌山の海岸で7人集団焼身自殺をした。恐ろしいことだ。もう10年ほど前の話である。

事の善し悪しは、第三者が、単純に入れない部分があるので何とも言えないが、客観的に見れると狂信の恐ろしさのみが心に残る、

理性のみでも生きられないが、宗教心だけでも生きられないことを露呈させた事件でもある。

これを防ぐことはできたであろうか。

取り憑かれた狂信は、何人も寄せ付けないから、自殺を防止することはおそらく不可能であったろう。

与えられた生命。 生かされている生命。
生命という観点から、生命を眺めてみると、自殺はとても考えられないことだが、自分の命をどのように考えても、それは自由だから、自殺するのも自由。また、生きるのも、本人次第ということなのだろう。 とはいいながらも自殺者が3万人を越えると言う現実を見ると、何とかならなかったのか、とため息が出る。

高校野球甲子園大会

2011年07月29日 | Weblog
高校野球甲子園大会: 11/07/27

全国高校野球甲子園大会を見てごらんなさい。
どちらかが勝ち。どちらかが負けるんだ
だが、その結果が出るまでは、ストーリーのないドラマ(誰にも、正確には筋書きの読めない)が展開されるんだ。
面白いのはここである。

それを見るために、炎天下の甲子園が満員になるのだ。

人は死ぬ。それは結果である。どんなドラマを演じるかによって、人生が面白いゲームになったり、退屈人生になったりするものだ。

そんなわけで、決して、勝ち負けの結果だけを深追いしてはならない。そう思った。

10-9話をしないと判らない

2011年07月29日 | Weblog
話をしないと判らない

人はどんな人でも、話をしないと何も判らない。時々講演をするがそのたびごとに、僕は生涯で何人の人間と言葉を交わすことが出来るのか、アバウト考えたことがあるが、60億人(実際はもっと多いのだろう)の内で精々、生涯で10万人と話を交わせば良い方だろう。
自分の方から積極的に話しかけていけば別だが、総人口から考えると、微々たる数字である。

その中に今日、私の話を聞いて下さる人々が居られるのを考えるとき、私はその人達との出会いをご縁と称している。

今日ある会合で、作家の難波先生の話を聞くチャンスがあった。
先生は実家が島根の方で、帰郷され近くの温泉に入浴に行って時の事を話された。
温泉に入ろうとすると、先客が有り、その人と会話を交わして入浴中の人は女性であるが目が見えないので入って下さいと言われたという。彼らは夫婦で奥さんは若い頃から一度山陰の温泉に入りたいと希望していたそうな。

入浴をすませた後で先生は考えたそうな。もしご主人と話す機会がなければ、こちらが話しかけなかったなら、盲目の女性が入浴中の話なんか想像外のことであったろう。主人と会話をしたからこそ、全容がわかった。話をすることが如何に大事なことか痛感した。そして何事も話をしないと始まらないと結ばれた。

わずか十分足らずの講演だったが、平凡な毎日に作家独特の「人間エッセイ」
を聞かせて貰って、成る程な、と感心した次第。
私も今後この事を心にとめて、積極的に、人と話をしようと、心に決めた。

五つの太陽

2011年07月29日 | Weblog
五つの太陽

この世の中見えているように、存在するものでもない。

私は自分で認識できるものはすべて真実の存在だと固く信じてきた。

中国西安では太陽が5つに見える現象が起こった。と新華社電は伝えている。

私の考えていけば、確かに5つの太陽を視認できるわけだから、太陽は五つ存在することになる。

しかし、太陽は実際には、一つしか存在しない、

見えた視認することと、実際に存在するということは大違いである。

私が見ているような状態で、すべてのものは存在すると今の今まで思っていたが、物事というのは必ずしも自分が、見ているように存在するものは無い。ということをこの五つの太陽から教えてもらった。

我とは不確かな存在なんだ。

極楽の中身:

2011年07月28日 | Weblog
極楽の中身: 11/07/27

真夏だ。35度を超えている。地上はうだっている

だが地下鉄のプラットフオ-ムにはいると涼しい。

地下鉄電車に乗ると、冷房が効いていて、もっと涼しい。
列車が走る騒音も、レールの継ぎ目を超える車輪の音も、ほどよい睡眠剤になる。

隣の席の中年のおばさんは、ひとりこっくりこっくり、体をゆすっている。車中で舟を漕いでいる。
おばさんは、意識と、無意識の世界をいったり来たりしている。

夢とも現実とも、区別のつかない世界をさまよいながら、こっくりこっくりやっている。それはまさに菩薩の境地だ。

彼女は今、地獄の中にある。極楽を存分に味わっている。

菅総理に思う

2011年07月27日 | Weblog
菅総理に思う

解任の3条件は誰が総理になろうとも、やらなければならない事である。

現総理がやろうと、次期総理がやろうとも,とにかく急ぐ事だ。
野党自民公明は民主のマニフエスト放棄を主張している。考えるに自民公明の時代にもう戻れるか。もう飽き飽きしている。
1,脱原発を国民レベルで議論してほしい
2,事故発生直後逃げようとした東電をしかりつけて、現在の状態にまで持ってきた
3,ストレステストを行うように決めた 。
このどれもが重要なことである。菅総理だからやれることかも知れない。
総理を誰に変えようとも、民主党に人材がいない限り、似たような政治しか行われない。

復興にあれだけ足を引っ張った自民党が勝てるとでも思っているのだろうか。近頃は解散にまで言及しているが、、、
権力闘争にうつつを抜かす政局はもう見飽きた。

それにしても置き去りにされている、被災者の方々はお気の毒だ。
明日が困る被災者を思って義援金を送ったのに、まだ手元に届いていない部分も在ると聞いて、このくには情けない国だと思った。

愚痴

2011年07月26日 | Weblog
愚痴

思うようにならない人生。夢も希望も見いだせない人生。
死んだ方がましじゃないかと時々思う人がいる 。僕もそんな思いが頭をかすめるときがある。

死んだ方がましだというのは、死の世界にはいった方がと言う意味だったら、
死後の世界を知っていなくてはならぬ。

死後の世界がどんなにか平安に満ち、少なくとも現世よりも安楽が保証されるのなら良い。
しかし死後の世界は、生きている限り味わうことが出来ないから、中味は判らない。
極楽が待ち受けているのか。地獄が大きな口を開いて待ち受け、地獄の火が燃えさかっているのか判らない。両方あるとすれば、そのどちらに自分が行くのか判らない。

そんな訳の分からんことを口にすること自体がおかしい話だが、人は苦しくなると、頭の中に「死んだ方がまし」と言うフレーズ思い浮かべる。
そうおもうのは自由であるが、本来、軽々しく死んだ方がましだなんていうセリフは言わない方が良い。
こういう種類の愚痴が出るとき、こういう理屈で、この種の思いに、歯止めをかけている。

政界再編

2011年07月25日 | Weblog
政界再編

今回の東日本大災害について思うこと
1,自民党は相次ぐ首相交代劇で国民から嫌気をさされて民主党に政権を明け渡した。
2,いざ民主党になってみると、マニフエストの見積もりが甘くて実行不可能になった項目も多いし、看板倒れになった。特に予算措置も出来ない公約は国民に大きな嘘をついた、かたちになった。
3,民主党の実力が知れてしまったから、地方選挙では軒並み惨敗した
当然の結果である。所詮政権を運営するにはその実力には無理がある。
4,こういう状況だから選挙をすれば、自民党に投票するかと言うと、そういうことにはならない
要するに今の政党は既存のままでは、目くそ鼻くその類で国をリードする力はない。
5,震災は自民党失地回復のチャンスだったのに、政局に持ち込むことによって実力の無さをさらけ出した。
6,やはりガラガラポンして政界再編成を望むしかない。

10-72神様がいる

2011年07月24日 | Weblog
神様がいる

W杯サッカー、世界一になった、なでしこジャパン、の沢さんが言った。
優勝が決まった時、神様がいる。

アメリカのチームの誰だったか忘れたが、今日の日本チームには後ろに大きな力が、働いていた。と言った。
WBCでイチローが奇跡の逆転劇を果たしたとき、彼は神様がおりてきたと言った。

夢を実現するために、死力を尽くしている人にのみ、起きる奇跡である。
神が奇跡を起こすのか、人間の死力の行動に神が降誕して奇跡が起こるのか。

どちらにも解釈できようが、神が降誕するような所まで死力、努力する人って滅多にいない。神の存在はこういう人によってのみ、うかがい知れるのだろうか。
危機存亡の極に立たされたときこそ、無我になり、そこに神が宿るのだろう。

バラの花に心を込めて

2011年07月23日 | Weblog
バラの花に心を込めて

作詞大木惇夫  作曲山田耕筰

山田耕筰先生の歌曲数は、有名無名を加えて700曲余りだったと記憶している。
個人の好みもあろうが、私は全歌曲の中で、最高傑作だと思うのは、
「バラの花に心を込めて」 である。
この曲はまれに見る美しさである。ちょっとオーバーないいかたをすると、宗教的な境地まで引き上げられた響きのある歌だ。

主旋律が美しい。それを倍加させているのが対旋律の美しさである。和声の流れもそうだが、ストリングスアンサンブルが醸し出す神々しさは、ダントツである。
先生ご自身も生涯のなかで最もきれいな曲とおっしゃっているが、まさにその通りである。

曲はゆったりと流れていて、音符の流れ、進行は極めて自然である。人間が作ったにしては、自然すぎるくらい自然である。

特に印象深いのは、セブンスからトニックに戻る音の流れの美しさで、思わず引きづり込まれてしまう。 一般的には山田先生といえば、赤とんぼ カラタチの花 この道 等であろうが、僕が聞いた限りでは、最も芸術性の高いと同時に品性の高い作品はと言うと「バラの花に心を込めて」と言うことになる。一度是非聞いてほしい。

そして先生が主張する宗教的境地まで高められた、即ち歌曲の味わいが魂の法悦境に達する実感を味わってほしい。

先生最後の指揮で、奥様山田真梨子夫人が歌われたレコードを、僕は持っているので、親しい人に聞いて貰っている。

歌について考える7-33

2011年07月22日 | Weblog
歌について考える

誰が一体、歌を作るのか。本当のプロがいるのか。
近頃の歌を聴いて心に残り、いつの間にか口ずさんでいると言う歌は1つもない。僕にとっては現代は、歌は不毛の時代である。
それは何故か
詞の中にも、メロデイの中にも叙情性が感じられないからである。
なぜ叙情性が失われたのか。本来叙情性は心の問題で、物質的即物的なものではない。
ところが現代の歌は目に見えるもの、肉体が小躍りするようなものばかり作られている。確かに心よりは肉体の方がわかりやすい。しかしこれをサポートする年代は限られている。つまりリズムに乗れる若者だけに限定される。今はやりの歌
例えばJ-POPUS に50代、60代のひとが乗っていけるには、よほどの叙情性を持ったスローテンポの曲しかないだろう。そしてこの種の歌は若者には受けないので、まず作り出されることがない。そこで人々は仕方なく、歌と言えば昔覚えた演歌に限るようになっている。

聴き方によってはしっかりしているように見えても、我々中高年の記憶にある2,30代の歌手が、75才や80才になっては、まともに歌えるとは思えない。大抵は音程が下がっているし、ロングトーンで高低がぶれている。昔のアイドルだと思えば、楽しむことも出来ようが純粋に歌を聴こうと思えば、昔のようにパワーがないし、30年、50年と歌い続けるとどんな歌手だってたるみが出てくる。だれてくる。これは避けようがない。 とすれば、中高年が歌える歌を作る必要がある。これは歌業界に求められているように思うのだが、そのような動きは見られない。日本人の心の歌はどこへ流れていくのだろう。

後30年もすれば演歌をなじむ層がなくなるので、日本的な歌は姿を消すことになるのではないだろうか。ロックはリズムが激しいからパワーを貰うこともあるが、これが日本歌謡の主流になるとは思えない。
僕は以上のような考えにたって作曲を考えているから、時代の趨勢とは一線を画すことになる。そこでアクが強く自分の考えを推しだして自己主張をするか、それとも、この考えを放棄して他の新しい立脚点にたって、奇抜は曲作りに走るか。思わないでもないが、究極の所歌は心に帰って行くので、時代がどんなに変わろうとも、抒情歌謡こそが、求められてる歌と言うことになろう。と言うところに結論ガ落ち着く。

歌と大衆

2011年07月21日 | Weblog
歌と大衆

大衆は歌に何を求めているか

1,懐かしさをかみしめたい
2,想い出に浸る
3,癒し
4,明日への活力

ノスタルジャ 団塊の世代はこのように考えているのではないだろうか
なじみのある曲70%新曲30%と言うところだろう。
新曲はなじみのある曲に似たような楽式で、メロデイとリズムは今風のものがよい
地元密着 ーなにか関連がある ーひっかっかるもの(関連付けられるもの)がある
地元 とは
1土地 2人 3,もの 4,環境 などがあげられる

近頃テレビ番組で音楽番組は少なくなった。NHKの歌謡コンサートやNHKののど自慢などを見ていると観客の年代層が判る。中年以降の人達が多い。

思うに今はやりのポップスは歌以外の要素が強く、歌う歌というよりは見る歌と僕の目には映る。つまり歌としては僕は受け入れていないのだ。
このような歌状況ならば、いずれこのままの姿では生き残れないか先細りになり悪くすると消滅するかも。
リズムに重点をいたものは、若い人達に受け入れられるが、中年以降になるとそのリズムに乗れないので、歌わなくなる。やはりメロデイ中心の歌が今後も重視されていくだろう。

色々思うところがあるが、結局は老若男女誰でも歌えるような歌を作るほかはないと言うことに帰する。これが優しいようで難しい。しかし僕は誰でも歌える大衆歌を最後の最後まで追い求めて作りたい。それが僕の人生であり、作曲の目標であるから。


最近の合唱曲について思う7-34

2011年07月20日 | Weblog
最近の合唱曲について思う

原点に立ち返って、合唱とはなんだろうか。考えてみたい。
合唱の第一の基本は主旋律が美しいメロデイであることだ。それに和音が重ねられて主旋律に重厚さが加わり、単旋律よりさらに高度な響きを作り、あじわい深いものにする。それが合唱の醍醐味である。
主旋律の美しさ、その美しさに和音を重ねて、幅を広げて響きをさらに深める。それは聞く人の耳に美しさを倍加して届く。
もう何年も前から 、合唱曲の流れが変わってきた。僕から見ると、合唱の意味あいがだいぶ変わってきた。それも悪いほうに。

どういうことかというと、単音を聞くとたとえばドという音を聞くと、その上に3度5度の音、ミとソが響いて聞こえるのである。実際にミ、ソの音がなっていなくても、人の耳には、そのように響く自然の力が備わっている。
ここに3和音の自然性がある。3和音 ドミソ ドフアラ シレソの響きが最も単純だけれどもこれが基本になる。メロデイに対してこれを支える3和音が屋台骨になるのである。然るにこの3和音が充分生かされないままに、副三和音が使われる。それも主旋律を生かすように使われているならともかくも、必ずしも生かすように働いてない場合が多い。

3和音だけを使うことからくる退屈さを逃れようと、複雑な和音を使うのはわからないでもないが、原則は主要3和音を生かしきっての話である。3和音からくる平凡さを克服して、何か新しい音の響きを作り出そうとして、主要3和音以外の和音を多用するのはよくない。
それは一種のごまかしで、楽曲の構成原則からずれている。そうなれば主旋律も損なわれるし、素人の耳に届く曲の美しさが損なわれて、何がなんだかさっぱりわからないものになってしまう。結果的には和音構成によって曲全体の響きを悪くしているのだ。

専門家と称する人が、ただ器用に、和声進行上の原則を破り、自分なりに満足する和音構成を持った曲に仕上げている。これはずいぶんと聞きにくい曲に編曲されて、素人には響きの美しさがわからないようになっている。

当節こういう合唱曲がはやっているのは感心しない。素人はわけがわからないものだからそれがいかに原曲を損なっているかは知る由もなく受け入れてしまっている。ただ満足をしているのは一人、それを編曲した人のみである。そういう和音使いをした人だけである
そんなに新しい和音をつけたいのなら、いっそう 12音技法の和音構成にしたらどうだ。おそらく誰もついていけないから、不評ですぐさま消えてなくなるだろう。
主旋律も和音も、聴衆の耳に届いてこそ、いいのである。不自然な音使いをして、なじみのない和音使いをして得意がっている音楽家は、今一度和音学(和声学)を勉強するべきだ。

神の恩寵

2011年07月19日 | Weblog
神の恩寵

,神様がチャンスをくれた。と沢選手は言った
2,アメリカのある選手は、今回の仕合について、日本チームには背後に大きな力が働いているといった。
ワールドカップのサッカー 大会で、沢選手やアメリカの選手が実感した事は、神が日本チームに、大きな力を貸して優勝に導いたということだ。

神のどんな力が働いたのかは判らないが、日本チームは間違いなく優勝して世界一になって成田に凱旋した。
今回の仕合で日本がアメリカに追いついて得点を上げると、アナウンサーは奇跡という言葉を用いて、放送した。側で見ていて奇跡が起こったという実感があったのだろう。

人間がただ一筋に、ひたむきに努力と忍耐を続けると本人も驚くほどの結果が出るときがある。普通の常識では考えられない大きな結果が出たときに 、当人以外の人は言葉では奇跡と言い、当人は神の恩寵を口にする。そうとしか言い表せないのだろう。これは謙虚な姿に思えるが、本人にとってはやはり自分が普段考えている以上の力が出て、大きな結果を生むのは、神が力を貸してくれたとしか言いようがない。
イチローはWBCで逆転優勝に導いたとき、「今日は僕に神様がおりてきた」
と言った。おそらく沢も同じ感覚で「神」と言う言葉を使ったのだろう。

これは何もスポーツに限ったことだけではない。予想も出来なかった、あるいは想像すら出来なかった大きな結果が出たとき、学者であれ芸術家であれ、政治家であれ、神という言葉を用いて成果(奇跡)を説明するだろう。
この感覚は僕も経験したから理解できる。

忍耐と苦労を重ねている時、普通ではあり得ない事、想像さえ出来なかった良い結果が生まれることがある。その時は自分の力を考えたうえでの想定外の出来事だから、神の恩寵という言葉になって表現されるが、このときばかりは神の存在をはっきり自覚している。信じ切っている。そしてこれは当人以外にはおそらく分からないだろう。
言い方を変えれば神が導いてくれたり、想像外の好結果をもたらしてくれるその辺まで認耐努力をして精進しなければ、想定外の好結果は生まれないということだ。忍耐と努力。ただそれだけだが、その中味たるや死闘の連続である。