日野原重明先生
98才 私の証 あるがまま行く 。というコラムで先生は音楽療法とは、
について、先日行われた昭和音楽大学の公開講座で
「感じる~心と音楽」について講演され次のようなことを話された。
1,私は人間は体と心と霊からなっていると考える。音楽は感覚器官を通してこころや霊にまで影響を与え、沈静、緊張緩和 うつの改善、鎮痛などに多くの効果があることが証明されてきた。音楽は患者に安らぎと幸福感を与える。
2,音楽療法の歴史は旧約聖書のサムエル記に、紀元前ユダヤの王様が鬱状態で悩んだときに竪琴の演奏を聴いて病気が治ったと言う逸話がある。
3,読者も癒しの芸術である音楽療法について関心を持って貰いたい。
と結んでおられる。
もう50年も前、私がまだ学生だったこと、先生だったろうと思われる人の姿をちらっと見たことがある。当時私は原宿にあった山田耕筰先生の自宅に音楽の勉強の為に、毎日通っていた。山田先生は、62歳の時脳梗塞を起こされ、左半身が不自由であった。歩くときはびっこをひいて、杖を頼りに歩いて折られたが、先生の主治医が、日野原先生ではなかったかと思っている。
姿を見た記憶をロールバックしてみると背は高くなく、どちらかと言えばずんぐりむっくりの小柄なタイプで手には黒色のカバンをもち眼鏡をかけ、見るからに優しそうな風貌だった。
ある時日野原先生の作曲された歌を聴いたことがある。歌から私の心に伝わったメロデイは、山田先生のあの気品のある叙情性あふれる歌だった。ピアノ伴奏で女性が歌っていたと記憶しているが、山田先生の歌そっくりじゃないかとその相似性に驚いた。ひょっとしたら日野原先生は山田先生の主治医でありながら、
音楽の弟子だったのかも知れない。
人間は肉体と心と 霊から成り立っているという考えは山田先生の考えと同じ軌道上にある。皆さんよくご存じの作品で言えば「赤とんぼ」これはまさしく癒しの歌である。
普通はお医者さんが霊等という事は、余り言わない。しかし先生は人間には3つの部分があると言われる。肉体、心、霊がそれである。
山田先生は芸術家として、神秘体験をして、神秘の世界について語られるが、その中に霊という言葉だ出てくる。その例を一つあげてみよう。
「音楽による喜びは、単に感情のみでなく霊の法悦境まで高められなければならない。」‘山田耕筰’百言集より。
音楽芸術と医学。分野は違うように見えるが、その行き着くところは、やはり霊の世界なのでは無かろうか。
98才 私の証 あるがまま行く 。というコラムで先生は音楽療法とは、
について、先日行われた昭和音楽大学の公開講座で
「感じる~心と音楽」について講演され次のようなことを話された。
1,私は人間は体と心と霊からなっていると考える。音楽は感覚器官を通してこころや霊にまで影響を与え、沈静、緊張緩和 うつの改善、鎮痛などに多くの効果があることが証明されてきた。音楽は患者に安らぎと幸福感を与える。
2,音楽療法の歴史は旧約聖書のサムエル記に、紀元前ユダヤの王様が鬱状態で悩んだときに竪琴の演奏を聴いて病気が治ったと言う逸話がある。
3,読者も癒しの芸術である音楽療法について関心を持って貰いたい。
と結んでおられる。
もう50年も前、私がまだ学生だったこと、先生だったろうと思われる人の姿をちらっと見たことがある。当時私は原宿にあった山田耕筰先生の自宅に音楽の勉強の為に、毎日通っていた。山田先生は、62歳の時脳梗塞を起こされ、左半身が不自由であった。歩くときはびっこをひいて、杖を頼りに歩いて折られたが、先生の主治医が、日野原先生ではなかったかと思っている。
姿を見た記憶をロールバックしてみると背は高くなく、どちらかと言えばずんぐりむっくりの小柄なタイプで手には黒色のカバンをもち眼鏡をかけ、見るからに優しそうな風貌だった。
ある時日野原先生の作曲された歌を聴いたことがある。歌から私の心に伝わったメロデイは、山田先生のあの気品のある叙情性あふれる歌だった。ピアノ伴奏で女性が歌っていたと記憶しているが、山田先生の歌そっくりじゃないかとその相似性に驚いた。ひょっとしたら日野原先生は山田先生の主治医でありながら、
音楽の弟子だったのかも知れない。
人間は肉体と心と 霊から成り立っているという考えは山田先生の考えと同じ軌道上にある。皆さんよくご存じの作品で言えば「赤とんぼ」これはまさしく癒しの歌である。
普通はお医者さんが霊等という事は、余り言わない。しかし先生は人間には3つの部分があると言われる。肉体、心、霊がそれである。
山田先生は芸術家として、神秘体験をして、神秘の世界について語られるが、その中に霊という言葉だ出てくる。その例を一つあげてみよう。
「音楽による喜びは、単に感情のみでなく霊の法悦境まで高められなければならない。」‘山田耕筰’百言集より。
音楽芸術と医学。分野は違うように見えるが、その行き着くところは、やはり霊の世界なのでは無かろうか。