日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

日野原重明先生

2011年01月31日 | Weblog
日野原重明先生

98才 私の証 あるがまま行く 。というコラムで先生は音楽療法とは、
について、先日行われた昭和音楽大学の公開講座で
「感じる~心と音楽」について講演され次のようなことを話された。

1,私は人間は体と心と霊からなっていると考える。音楽は感覚器官を通してこころや霊にまで影響を与え、沈静、緊張緩和 うつの改善、鎮痛などに多くの効果があることが証明されてきた。音楽は患者に安らぎと幸福感を与える。

2,音楽療法の歴史は旧約聖書のサムエル記に、紀元前ユダヤの王様が鬱状態で悩んだときに竪琴の演奏を聴いて病気が治ったと言う逸話がある。

3,読者も癒しの芸術である音楽療法について関心を持って貰いたい。

と結んでおられる。

もう50年も前、私がまだ学生だったこと、先生だったろうと思われる人の姿をちらっと見たことがある。当時私は原宿にあった山田耕筰先生の自宅に音楽の勉強の為に、毎日通っていた。山田先生は、62歳の時脳梗塞を起こされ、左半身が不自由であった。歩くときはびっこをひいて、杖を頼りに歩いて折られたが、先生の主治医が、日野原先生ではなかったかと思っている。
姿を見た記憶をロールバックしてみると背は高くなく、どちらかと言えばずんぐりむっくりの小柄なタイプで手には黒色のカバンをもち眼鏡をかけ、見るからに優しそうな風貌だった。

ある時日野原先生の作曲された歌を聴いたことがある。歌から私の心に伝わったメロデイは、山田先生のあの気品のある叙情性あふれる歌だった。ピアノ伴奏で女性が歌っていたと記憶しているが、山田先生の歌そっくりじゃないかとその相似性に驚いた。ひょっとしたら日野原先生は山田先生の主治医でありながら、
音楽の弟子だったのかも知れない。
人間は肉体と心と 霊から成り立っているという考えは山田先生の考えと同じ軌道上にある。皆さんよくご存じの作品で言えば「赤とんぼ」これはまさしく癒しの歌である。
普通はお医者さんが霊等という事は、余り言わない。しかし先生は人間には3つの部分があると言われる。肉体、心、霊がそれである。
山田先生は芸術家として、神秘体験をして、神秘の世界について語られるが、その中に霊という言葉だ出てくる。その例を一つあげてみよう。
「音楽による喜びは、単に感情のみでなく霊の法悦境まで高められなければならない。」‘山田耕筰’百言集より。
音楽芸術と医学。分野は違うように見えるが、その行き着くところは、やはり霊の世界なのでは無かろうか。

ご臨終です

2011年01月30日 | Weblog
ご臨終です

霊柩車は、もう手配し終わったその時、 奇跡の生還をした人がいた。

愛知県津島市津島市民病院。50代の女性死亡宣告を受けた約20分後に、呼吸が確認され生き返った。
彼女は平成14年1月7日自宅で倒れた。午後3時20分ごろ。救急車で同病院に搬送されたが
到着時はすでに心臓停止状態だった 。
体温計で測定できないほど体温が低い状態だった。午後5時40分に再び心臓が停止
約30分後に医師が死亡宣告した。

ところが約20分後に家族が女性が、息をしていることに気付いた。その後意識も回復した
ご臨終との宣告後 20分後に生き返ったのだ。
死亡宣告から約20分後に息を吹き返す極めてまれな出来事がある
患者に機能障害は残っておらず、歩ける程度に回復し近く退任する予定 。

生きている間に分のおお葬式の話を書いた人もいる 自分の死を悼んで書いた
中国の陶淵明
1,納棺の場面
子供や親友が嘆く様を書いて、1000年も万年も経った後には、恥も栄誉も知ったことか
この世にいたとき、酒が存分飲めなかったことが、嘆かわしい。

2,葬式のとき手が出せないことのなげき
自分の意志は少しも生かされない。他人が意のままに事を勧めていく。何とも歯がゆいことだ。

3,埋葬
1000年たっても朝は来ない。これでは達人賢者もどうしようもない。
死んでしまえば、いうことはない。体を預けて、山の土となろう。

漢詩でいつも自分の酒や栄華への未練を詠み、それをまた自ら笑う嗜虐性について考えさせられることが多いこの頃だが、そんな時そんなとき、この超俗の詩人と杯をかわしたくなる。


ごちそう

2011年01月29日 | Weblog
ごちそう: 11/01/28

新聞の広告や地下鉄の釣かわの広告を見ると、宣伝文句は、たいてい蟹ずくしである。
今は冬の真っただ中。カニ料理が最高に美味しい季節である。

チラシを見ると、豪華な料理が、テーブルに、所狭しと並んでいる。それを眺めながら、一般論ではなくて、自分にとって、ごちそうとは、何なのか考えてみた。

宣伝されているようなカニずくしを普段から味わっているのかというと、そういうことは無いけれども、僕は、その時の体調に合わせて、好きなものや、欲しいものを好きなだけ食べるのが、ごちそうであり、贅沢だと考えている。基本的には金をけちっているわけではない。欲しくないだけの話である。こう考えるのは典型的な貧乏人根性なのだろうか。

人は誰でも、満腹の時、どんな豪華な料理も、欲しくない。目の前にあるものには、振り向きもしない。
偏食ではなくて、僕は若い時から、油ものが、駄目である。てんぷらは、2切れが3切りを食べると、もうだめで、無理をして皿に盛られたものを全部食べること胃につかえて、冷や汗が出る。揚げ物はどうも体質的に、受け付けない。

広告につられて、カニずくしを食べたいと思うことも時にはあるが、食欲につられて、この寒い時期に腰を上げようとは思わない。
思うに、人生は、食欲が旺盛である方が豊かである。食べる楽しみを失ったら、人間を廃業しなくてはならん。

人生は楽しみが多いほど、生きていて楽しい。食欲もなく、性欲もない人は、男でも女でも、ひからびた人間だ。

あの世に、期待しないで、この世で、生きている今を、いろいろな楽しみ方で、楽しむことこそ、上手な生き方というものだ。

女の碑

2011年01月28日 | Weblog
女の碑: 11/01/28

京都・嵯峨野に、常寂光寺がある。境内には、石碑がある。市川房枝女史の揮毫で
「女ひとり生き、ここに平和を希う。」と彫られている。

大正時代から、昭和1ケタ生まれの女性は、結婚相手になる男性の多くが、戦争に引っぱり出されて戦死したので、絶対数が足りない。

当時は、女性は結婚するものという、固定的な常識に反して、結果的には、独身の生涯を強いられた。
この年代に生まれた男性も女性も、戦争という不都合を背負って、生まれてきて、そして生きた。

平成も20年、近くになると、婚活という言葉が生まれてきた。男女とも結婚するために、出会いを求めて活動するということらしい。

現代は女性の人格が、尊重され、社会進出が奨励される。現実には、女性力という社会的評価が定まって、女性の自立が社会的に可能になった時代である。

その一方で、結婚したがらない女性も多く、また、結婚しても、離婚する率が、右肩上がりに多くなっているという。
現代でも結婚難の時代なのだろうか。

結婚相手を失った世代の女性が結婚するのが難しいのは、ある程度納得できる。しかし、当時に比べて、比べ物にならないほど、物質的に豊かになり、個人の自由が謳歌できる時代に、結婚難で、離婚率が上昇するというのは一体どういうことだ。
人間とは、自立的にも他立的にも贅沢極まりない欲張りなのだろうか。

道学者めいた結論になるが、結婚という幸せを求めるならば、まず己自身が、努力と忍耐をしろ。と、言わねばならない。
人生は考えているほど、自由ではないのだ。不自由が人生だということを知れば、忍耐するだろう。努力もするだろう。

それが分からなければ、人生を味わうことなど、ほど遠い話では、無いだろうか。

そこのお嬢さん

2011年01月27日 | Weblog
そこのお嬢さん: 11/01/27

おーい。そこのお嬢さん。今日をなんと心得ている。今日は1年中で最も寒い大寒だ。

だのに君は、太ももの素肌を出して。

元気なのは良い。若いのもいい。色気をふりまくのもいい。

しかし、この寒空では、君のお色気を感じる前に、寒気を感じる。

やめたほうが良いぜ。色気をふりまくのは。

今インフルエンザが流行って、ほらごらん。マスクしている人が、いっぱいいるじゃないか。

春にしないよ。春は皆、男も女も、色気の出る季節だから。

ねぇ、解る? そこのお嬢さん。

経験率で言うならば

2011年01月26日 | Weblog
経験率で言うならば

汝の運命は汝自身の胸の中にあり シラー

こういう事もあると言うことであって、一般化されたり、普遍的なこととは、僕は思わない。人生は恣意的な部分もあるが、大半は宿命的なものだと考えるからだ。その根拠は、今まで生きてきた人生の後を振り返るとき、経験率でいうと、人間の運命の大半が神の手の下にあると思うからだ。

我輩

2011年01月25日 | Weblog
我輩

地下鉄のつり革の宣伝文句に、「我輩」という言葉があった。
我輩というと、夏目漱石の「我輩は猫である」がピーンときた。これには特別の思い出がある。

忘れもしない。中学1年生の昼休みのことであった。それまで漱石のいろいろな文章は読んだけど、とりわけ「我輩は猫である」が面白かった。面白いというよりは、小説の中の場面を幾重にも想像し、それに没頭した。多分文中の学生気分でいたのだろう。

中学生はイタズラざかりである。それは、松山も九州も変わりはない。特に面白かったのは、猫が観察する所の、学生というたち悪い人種に首をつかまれて、人間の顔の線まで持ち上げられ、そこで猫が見た、人間の顔は異形であるというところと、何回か振り回されて宙にほり投げられて、ドサットと着地したときには、目から火が出た。という場面は声をあげて笑いこけた。僕はどちらかと言えば笑い上戸の方である。

午後からの授業は始まったが、頭は猫のことでいっぱいだ。目から火が出た場面が頭の中で何回もリピートされる。
そこが面白くて、授業中に一人で大笑いした。みんな静かに授業を受けている。不謹慎なこと極まりない。

その時は理科の授業だったと記憶している。よりによって、この先生は非常に怖い先生だった。悪いことをするとよく殴る。
「誰が笑ったのか。お前か。前へ出て来い。」
顔は神妙だが、心の中では笑いが止まらん。
「もう一度笑ってみろ」と言われたので、心の底から大声で笑った。
先生は呆れている。級友はきょとんとしている。なぜ笑うのか、その理由が分からない。
「あとで、職員室に来い。そのまま、授業は終わるまで、そこに立っておれ」
授業が終わったら、級友は「お前、度胸があるな」と感心する。
こちらは度胸というよりはおかしさが先立つ。笑いが炸裂したのだ。
職員室ではたんまり、タコをつられた。
今日は久しぶりに、中学時代の記憶に残る楽しい思い出を書いておこう。


おくりびと

2011年01月24日 | Weblog
おくりびと

「ハッツアンよ。最近おくりびとという映画が賞をとって話題になっているのを知っているかい。?」
「テレビや新聞で話題になっているあれだろう。知ってるよ。しかし内容が内容だけにいやな気分だね。」
「確かに気分的には厭な話題だが、死は万人に平等にやってくるわけだし、考えてみるのは悪くないね。」

「そんなこと言ったって題材は納棺が中心だろう?気分的には良くないし
第一、人に不快感を与えるのはどうかと思うよ。」

「気分的に?そうじゃなくて誰にも訪れる死というものを厳粛に受け止めるのは大切なことだよ。特に近頃は死というものが、遠ざけられて人目に触れないようにする傾向があるので。」

「クマさんに聞くが、納棺をリアルに見ると、何かえるものがある?気持ち悪いだけじゃないか。大体死人の姿をみて喜ぶ奴があるか。」

「ハッツアンは気分でものを言っているが、人間の一つの事実を冷静に眺めるところに おくりびと と言う映画が認められたのではないだろうかね。人生最後の場面だから、親族一同、後に残されたものは、いろいろなことをかんがえるもんだよ。そういう話題性に焦点を当てたところが評価されて受賞に成ったんだろうよ。やはり賞を受ける値打ちがあるものだと思う。」

「クマさんがどんなにいいと評価しても、気分的に厭なものはいやだ
俺は見ないよ。」

どこまでいっても話はかみ合わない。それはそうだろう。感情論一点張りの主張と、冷静に事を考えてみようとする立場には、大きな隔たりがある。先生はどちらの主張も認めている。そして交わらない議論を、腹の底では笑っている。


くまさん、はつあんの神仏談義

2011年01月23日 | Weblog
くまさん、はつあんの神仏談義

くまさん
人間以外のものというと、すぐ神仏と来るが、みんなわかっているじゃろうか?
ハッツアン
あたりめーじゃねーか。神仏が解らないでどうする?
くま
じゃ聞くが、どちらがえらいんだい?
ハチ
なに?神仏のどちらが偉いだって?そんなもの 区別はできんじゃろう。どうしてそんな野暮なことを聞くんじゃ?
ハチ
いやー。何時も気にしているんだ。例えば願い事をするときに、偉い方に頼んだか得じゃないか。、御利益あらたかなのは、偉い方じゃないのか。決まっているじゃろ。
クマ
なるほど。おめーは御利益の多寡で偉い方をきめるのか。それじゃ御利益のない神仏は用ないしと言うことか。神仏を御利益の多寡ではかるというのは考え物だ。ハチ
色々ご託を並べるけど、人間は神仏をその程度にしか考えてないのじゃないか?
クマ
それは神仏に対して失礼というものだろう。おめーのいう神仏の中味は何なのだハチ
仏さんというのは、この世に肉体をもって存在していたひとが亡くなると、魂だけになり、いわゆる仏になる。神さんというのは、それとは別格で、肉体を持ってこの世に存在したものではない。しいて言うなら、磨かれぬかれた魂のあつまりみたいなものだ。
クマ
よくもそんな話をでっち上げるな-。誰からヒントを貰ってそんなことを考えたのだ?第一死んだら魂の世界に帰って行くなんて、未だかって証明した人はいないのだぜ。それに死んだら魂の存在だけになるなんて誰が決めたのだ?
ハチ
誰も決めてはいないよ。それはね。この世では肉体と魂を持つのが人間とされているだろう 。死ぬと肉体は亡くなるが、魂の方はどうなるのか解らないじゃないか。もし肉体の生滅が全ての生滅というのなら、墓はいらないぜ。ところが
いまどき地域によると、墓ブームとか墓バブルと言うじゃないか。先生の話によると、大阪の中心部にある、四天王寺では墓地が畳半分くらいの聖地が1区画500万円するとか言う話じゃないか。とても庶民は墓どころではなくて、近頃はお弔いもしないで、死んだ肉体を燃やしてその骨灰を 業者に片付けさせて、それで終わりだというじゃないか 。墓も寺も仏壇もあったものじゃない。それでも一応仏さんじゃないか。
仏さんというからには、そこには魂は残るというのが前提だ。えーい。面倒くさい。人間は死んだら仏さんになるの!!。生臭い人間が死んだからと言って即仏になるというのは楽観過ぎるよ。中陰と言ってな。人間の世界にもいないし、仏の世界にもいけない、宙に浮いた時期があるんだよ。世にいう49日という奴だ。その間に色々調べられ審査があって、収まるところ決まる。閻魔さんがその役割だ。
それから地獄、極楽への道筋が決まる。

クマ
そんなアホな。一体誰が決めたのか。それはどうせ、この世の道徳家が決めたのだろう。何を根拠にそんなことがわかるのだ?馬鹿馬鹿しい。そんな俗世の考えは捨てて神様一本で行けばいいのだ。日本の神様の大本は伊勢神宮の天照大神だ。
これを「てんてるだいじん」だなんて読むなよ この神さんは日本中の神さんの大本締めだから偉いに決まってる。だから天照大神を拝むのが、一番だ。

ハチ
お前は神さんだと言うし、俺は仏さんだという。いずれにせよ神と仏は違うことだけは確かなことだ。その違いだけ確認しておこう。神仏と言わないで神と仏というのが正解だ。神は神だ。仏は仏だ。それさえ押さえておけば大きな間違いは有るまい。

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2011年01月22日 | Weblog
文藝春秋 最後の証言集山田耕筰
私たちが出会った20世紀の巨人

團伊久磨述

山田先生に初めてお会いしたのは、1938年。僕が14歳の時、

「作曲家になりたい。」と言い出した息子に手を焼いた父親が、赤坂にある先生のお宅に僕を連れて行った。日本一の作曲家に判断を仰ごうというのです。父と先生は旧知の仲でした。

自作の曲の楽譜を手に、僕は胸をどきどきさせていた。暫く話をした後、「こっちに来なさい。」と、先生がぼくに、手招きをする。薄日が差す廊下に出ると、先生は、両手で、僕の頬はさみ鋭い目で、僕の顔を見つめました。こっちも思わず睨みかえしました。そして、
「伊能さん。この子には作曲をやらせましょう。」と大きな声ではっきりとおっしゃった。ことのほか、大きな声に聞こえましたね。その一言で、僕の運命が決まったんですから、、、、。先生はぼくが持参した楽譜は一切ごらんにならなかった。
目つきや、音楽に対する考え方でお決めになったんでしょう。
「あれは大ヒットだった。」と死ぬまで御自身の判断を自慢しておられた。光栄なことだと思います。

じつは、これには裏話があって、お宅に向かう前日の晩、父はこっそりと先生に電話を入れ、作曲志望を断念させてくれるよう頼んでいたのです。先生も、「ようがす」。と軽々しく承たくしたというのです。その顛末はかなり後になってから聞きました。

裏切られた父は怒ってました。「あの人は天才かもしれないが、人間的には尊敬できない。あんな人に音楽を習ってはいかん!」とぷんぷんして、「あいつは信用できない、おかげでひどい目にあったよ。」って死ぬまで言い続けました。

42年、念願がかなって、僕は東京音楽学校の作曲科に入学しました。在学中から先生のお宅にはちょくちょく呼び出され、すき焼きを何度も御ごちそうになった。肉をビールで煮る。山田流特性すき焼き。そればっかり。先生とは妙に馬があったんです。話はおもしろいし、若々しい。先生の方でも、年代を越えた親しみを覚えてくださったようです。以下略

要するに山田流作曲才能判別法なるものは、作品を聞いたり、作品を見たりすることによって、才能の有無を判別するという常識的なものではなかったのである。
人間一人一人が持つ運命みたいなものを、人相とか骨相とかあるいは姓名判断などと組み合わせて、それに直接第一印象から受ける直感を働かせて誰もまねの出来ない、先生独自の方法を見いだし、音楽才能の判別法を身につけておられたようである。
後々になって人伝えに聞いた話であるが、あるバイオリン志望者は声楽家に転向することを進められ、その通りにされて大成されたとか、あるピアニスト志望の弟子は、先生に勧められて作曲家に転向をして成功を収めたとか言う話は列挙にいとまがない。
全く同じ方法で僕をいろいろな角度から調べられた先生の口からまず
「ホホー」と感嘆詞が出た。続いて「君には素晴らしい作曲才能が有る。心の中に美しいメロデーを持っているから、それを作曲して外に出しなさい」と言うのが今でも僕の作曲活動の原点になっていますし、その言葉に支えられて、今日まで作曲活動を続けてきました。     

徳について考える

2011年01月21日 | Weblog
徳について考える



陰徳とは他者が喜ぶような行為はしても、決してそれを表面にださないで、明かさないし、他人にも自慢しないで、自分ひとりの胸の内に秘めてるおいて、善行をしたという自覚もない。というも種類のものであろう。
そこにあるのは人の役にたてた、喜んでもらったということから来る、自分の喜びを、神や仏に感謝することだと僕は理解している 。
人間って浅ましいもので、ちょっと社会的に役立つことをしようものなら、大いに公表し、宣伝し自慢の種にする。ひどいときには善行をつんでいないにもかかわらず、あたかも善行であるかのごとく、言いふらし目立ちたがる人もいる。
陰徳は直接的には、ひとにかくして徳を積むことを意味する。社会的に役立つことして、それをした人の名前や業績を表面に出すならば、それは陰徳とは言わない。それは陽徳という。陰徳と陽徳には違いがある。
だいたい陰徳を積むということは、だれに積むのか。
人間社会に対してと、いう意味と同時に神仏に対してという意味がある。そのどちらに重きを置いて徳ということの意味を考えるか。
もともと陰徳というのは、仏教用語である。それを考えると、神仏に対しても済むというのが、本来の使いかたであろう。
先日新聞に大阪駅前の歩道橋を寄贈など、社会貢献を進めていた松下電器産業の社員が[これまでの企業の社会活動は、明らかにしない方が美しい隠匿の世界だからそれではいけない]
と説明した。松下幸之助が在世であれば,歩道橋を作る趣旨が、自社のPRをするためのものであるとするならば、そこに大きく宣伝文句をつけ加えたはずである。
にもかかわらず、歩道橋にはそのような宣伝文句は見当たらない。ということは彼の真意は素直に解釈すれば,徳は積んでも、それは陰徳で、という意向ではなかったのだろうか.
。だとすれば、この社員の発言は,真意とは異なった発言になる。どうでもいいようなことだけれども、社会的に貢献したことを、声高く貢献するというのは今まで使ってきた日本の慣習にそぐわないのではないだろうか。、
企業の社会的貢献などというものは、当たり前の話しで、それを声高に言うというのは、あくまでコマーシャリズムである。そこには徳を積むという精神が脱落している。この 1社員の発言は、真意はともかくとして、陰徳の意味がわかってるのかどうか、もう一度尋ねてみたい発言である。

現代の歌事情よ

2011年01月20日 | Weblog
現代の歌事情よ。本当にそれでよいのか??

昔日本には日本人の心情を歌った演歌があった。現在では演歌は古いという一言で片付けられているが、本当にそうであろうか。

確かに古賀演歌は時代には合わないように思えるが、古くさいとは思わない。曲もさることながら、詩はちょっとも古くさくはない。人間の心情というものは、時代がどのように変わろうとも、そんなに変わるものではない。

変わるというのは表現方法のみである。人力車がタクシーに変わったように 確かに人を取り巻く環境は変わっていく。もちろん人間の感情もそれに対応して変わっていくだろうが、コアになる部分は時代の波を受けないものであり、おそらく1000年単位でもかわらないものだろう。

時代に合わせて歌ったうた。

2011年01月19日 | Weblog

時代に合わせて歌ったうた。

特に青春時代に歌った歌にはいろいろな思いがまとわりついている。
歌は青春時代にだけあるものではない。良きにつけ悪しきにつけ、歌は生涯ついて回る
そして年を重ねるに従って、昔覚えた懐かしい歌が心の中で輝きを増す。それは自然な姿である。
だ、とすれば、作曲家や作詞家には何が求められているか、答えははっきりしている。
そういう次元とは無関係に、新曲新曲と騒ぐのは、コマーシャリズムだけで、人々は芯から新曲をガキのようになって歌いたがってるとはとうてい思えない。

従来の名曲演歌を繰り返し放映されているのは、視聴者が中高年だという事情もあろうが、古いと言われる曲を流している。これは正解だ。今の団塊世代に受け入れられる歌は、決してダンス付きの歌ではないし、彼らはそういう種類の歌にはなじみがなかった。

奇をてらわず、地道に心にしみる歌と詩がヒットする時の到来が、待たれると同時に作る側もこのことだけは心がけたいものである。

おおうつけ

2011年01月18日 | Weblog
おおうつけ


信長の名前を、天下にとどろかせたのは、桶狭間の戦いである。宿敵の今川義元は 25000人つれて駿河から尾張のほうへ攻めのぼってきた。
当時今川義元は東海一の弓取りといわれ、鉄砲を導入した。 また
より親より子の制度を作り、統制のとれた軍制を持っていた。
今川勢が桶狭間に到着した時に、彼らは織田軍は問題ないとたかをくぐっていた。
必死の信長は 6000の軍勢を 2000人減らし、精鋭の兵力を集中し、今川勢力の気の緩みをついた。彼は本陣に攻め入って、義元の首を打ちとった。彼が27歳の時で、この事件によって天下にその名をとどろかせた。
信長は奇抜は姿をして、またその行動も常識を破るものであった。そこで人々は彼のことを、おおうつけ、と評した。
ところが彼のおこなった言動は、当時の常識を破ってはいたものの、天下統一の第一歩であった。彼は楽市楽座をやり、これまで斎藤道三がいた、稲葉城を岐阜城と改め、駿河、尾張、美濃などを支配して天下布武の旗印を掲げて、京都へ上り、天下統一の道を切り開いた。
固まった時代に新風を吹き込み、時代を大きく動かすためにはこのような奇抜な天才を天は要求したのだろうか。何事によらず現状維持は保守的で、あたらしいものをうまない。
私は当時に生きていれば彼の本質を見逃して、たぶん彼をおおうつけと表した側にいただろう。
明智光秀をつかまえて、彼にとっては恩顧のあった朝倉のシャレコウベに金箔を貼った杯で無理矢理に酒を飲ますなどと言うことは、いったい 何をかんがえて、こういうことをするのかのか?気が知れない。僕から見ればこれは狂気の沙汰である。この狂気の沙汰のために、志半ばで信長は、本能寺の変で倒れることになる。当然の報いだ。
しかしこの狂気沙汰と思える考えや、行動が時代の流れを大きく変える原動力になっているのを考え時、天は予想だにできないことを、時には求めると言うことになる。
そうなると、僕も訳がわからなくなってくる。

Japanシンドローム

2011年01月17日 | Weblog
Japanシンドローム


少子高齢化の波が押し寄せると、消費は減少し、経済規模は縮小する。
このような負のスパイラルが連続し、国力は減少する

先進諸国の中で一番先に、このようなシンドローム中に突入する日本は、似たような手本がないだけに、その行く先を欧米諸国はかたずをのんで見守っている。
日本は今からこれを乗り越えるための手探りが始まる。
この報道を知って、思い出すのが、明治維新である。幕府政治を終わらせ、明治維新をやり遂げた青年たちの活躍である。
彼らは教育(心の鍛錬)を受けていた。国家のために身命を投げうつ覚悟ができあがった。
吉田松陰、西郷 勝海舟 桂 坂本 大久保などなど。何よりも優先すべきは日本国であった。時はあたかも帝国主義時代。英国とフランスに狙われ、日本列島は西と東2分割される危険があった。彼らにリードされた国民も偉かった。危うく列島分割の難を逃れた日本国は国民の間に、捨て身の覚悟がみなぎっていた。今の草食系団には想像すら出来ないことだろう。
さてこれからの日本の行く末を考えるときは、何が一番重要か、それを
歴史に学ぶとすれば、根本は人材教育であろう。草食男性が増える、現状
を乗り越えられるのだろうか。
国家に身命を捧げる教育とは、厳しく心の鍛錬をして、エリート意識や
価値観を養うもので、偏差値教育ではない。つまり次世代で国家有為の人材を
養成するためには、現在の教育体制や制度を大きく転換する必要がある。
未来は不確定である。過去は確定された事実である。だから歴史の中に潜む
普遍的な法則を基本にして、それに刻々変わる現状を加味して、未来を切り開いていく人材の出現が強く期待される。
それは日本だけではない。世界の少子高齢化に向けて、日本がトップランナーとして、他に範を示すことが期待されている。
いずれも武道(生死を決める重要なフアクターによって精神を鍛えた)できたえ、国家のためには、自己犠牲もいとわないりーだーの出現が望まれる。
日本は今から、これを乗り越えるために、これら時代の要請にこたえられる少数の特別エリート教育が必要である。松下政経塾。あんなものはだめだ。こさがしい連中ばかりで、一体誰が出たか。国家を担うまともな政治家は誰も出ていない。こんな連中で来たる国難を乗り切れる実力があるとは到底思えない。