日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

人の真実は

2009年09月30日 | Weblog
人の真実は

心の中にあるもので身分、出自、貧富 社会階級などで判断できるものではない。

唯円が17才のかえでという遊女と夫婦の約束を交わしたのは一重に純愛である。

その純愛がお互い生涯もち続けた場合、ハッピーエンドになるが、純愛を失ったときには、育ち、すなわち遊女と僧に戻り必ずしもハッピーエンドに成るとは限らない。
そして純愛を生涯貫けるかどうか、それは二人の問題であるにもかかわらず、二人にもわからない。


この世は魂の修行、磨く場なのである

2009年09月29日 | Weblog
この世は魂の修行、磨く場なのである。だから試練が有るのは当たり前だ。

宿命、運命、使命を背負い我々はこの世に出てきた。宿命は神の力をもってしても避けられないもの、

宿命は避けることは出来ないが、我々が受けるも諸々の試練という難を神の力を借りて、かえることは出来る。

ちまたでよく使う大難を小難に、小難を無難にという言葉である。ここに神の救いが有ると私は考えて居る。

時代には背景がある。

2009年09月28日 | Weblog

時代には背景がある。


その背景にナレ染まってしまうと、それで満足してその背景が変わることを厭う。
抵抗感が有るのだ。
生まれた、生きた時代背景に染まっているから、それが最高なのだ。
居心地がよい、昔のほうが良かったという言葉の中には背景は変わらない方がよいと言う意味が込められている。
縄文人は縄文時代が一番良いと思い、平成人は平成時代が一番良いと思う。これは一重に慣れ親しんだ時代背景に同化して生活しているからだ。

時代には背景がある。

2009年09月28日 | Weblog

時代には背景がある。


その背景にナレ染まってしまうと、それで満足してその背景が変わることを厭う。
抵抗感が有るのだ。
生まれた、生きた時代背景に染まっているから、それが最高なのだ。
居心地がよい、昔のほうが良かったという言葉の中には背景は変わらない方がよいと言う意味が込められている。
縄文人は縄文時代が一番良いと思い、平成人は平成時代が一番良いと思う。これは一重に慣れ親しんだ時代背景に同化して生活しているからだ。

僕は輪廻転生を信じるから

2009年09月27日 | Weblog

この世は魂の修行、磨く場度と考えている

この世は魂の修行、磨く場なのである。だから試練が有るのは当たり前だ。
宿命、運命、使命を背負い我々はこの世に出てきた。宿命は神の力をもってしても避けられないもの、
宿命は避けることは出来ないが、我々が受けるも諸々の試練という難を神の力を借りて、かえることは出来る。 ちまたでよく使う大難を小難に、小難を無難にという言葉である。ここに神の救いが有ると私は考えて居る。

遺憾に存じます。

2009年09月26日 | Weblog
遺憾に存じます。

遺憾に存じます。責任者の地位にある者がよく使う
自分に落ち度があり謝る場面でよく使われるが、これは残念に思うというだけで、自分の非を認めて謝罪するという意味は希薄である。
辞書には遺憾とは残念に思うといういみが書いてあって謝罪する気持ち、お詫びについて書いてない。

己に非があり、落ち度があり,やらかした失態によって結果的には損害や迷惑を与えたのだからわびるのが当然だと思うが、言葉のあいまいさによって自分の非を認めようとしないのである。

謝罪をするなら「迷惑をかけてすみません。こんなことになってまことに残念に思います」というのが筋道だが、謝る部分をすっ飛ばして後半の件,残念だといってごまかす。これでは謝罪にはならないし,慇懃無礼とはこのようなことを言うのだ。
この言葉は社会的に高い地位についている族が常套句としてよく使う
まさかこの言葉の意味を知らないままに使っているとは思えない。そんな程度の教育しか受けないで高い地位にいること自体がふさわしくない。
ごまかしをやめて素直に謝れ。こう言うきちっとしたけじめをつけないから、また似たようなミスを犯すのだ 。


常識

2009年09月25日 | Weblog
          常識

世に常識というものあり。
人々が経験的な智を積み重ねて作りだしてきたもので人々はこれを日常生活の立ち居振る舞いの指針として使っている。

常識は哲学的次元に掘り下げて、理解した知識ではないから、常識の間違いということもあるが、かといって、この常識のはみ出しには、たとえそれがよくとも悪くとも、社会から白い目で見られることは必定である。
そして人は大きく常識から外れた言動には、拒否反応を示すから、他人を納得させるためには、常識の線に沿ってなければならない。
しかし常識に埋没してしまうと何もできないから、そこの落とし穴には十分注意する必要がある。

「そんな非常識な」と片づけられてしまうことには気をつけるべし。非常識の中にはどんな宝物が隠されているかわからないから。

経済性で

2009年09月23日 | Weblog
経済性で
すべてを図る基準において
1,人を使いまくり
2,長時間労働を望み
3,経済効率でのみ人の値打ちを判断する
このような現状はどこかで狂っているとしか言いようがないと私は思います。
。こんな渦中に埋没して花鳥風月の喜びを受けることもせず、この世を去るとすれば、いったい何のために生まれてきたのか、何のための人生か、疑問がわいてくるに違いない。そう思うのです。
詳しくはないが華厳宗のお経にはきらきら輝く命の美しさ、生きる喜びなどが説かれているようです。

思うに今世界中の大半の人々は金融危機の余波をうけて不況の波をかぶり経済的な困難におちいって苦しんでいます。

その元凶はウオール街の金融界が引き起こしたものです。だのに懲りない面々はまたぞろ復活しそうな気配です。お金が欲しいのは誰も一緒です。自分の報酬さえ高額であれば、後のことは知らないというのは、あまりにもバランスを欠いた所業だと思います。

こういう考え方が世界中に蔓延すると、世界は平和にはなりません。それどころが回り回っていつかツケは自分にも回ってくるでしょう。それにしても金の魔力はすごいものがありますね。 金は使うべきもので、決して金に使われないように気をつけて毎日を暮らそうと思う次第です。


無為の中に時は流れて

2009年09月22日 | Weblog
無為の中に時は流れて

太陽は輝けど私はそれをとらえる術を知らない。
生から死へのスピードが稲妻のようなものであることを知りながら、私はなす術を知らない。

無為の中に時間は流れて、ああ 人生は酔生夢死か。
底のない杯に涙をためて生を忘れ、さめては涙を杯に注ぐ。

青髪も、黒髪も、白髪もその長さを知らず。目が覚めて髪の白さに驚き時の流れの速さに、顔色をなくす。

捕まえんとして、闇夜に姿勢を正し、紙と筆もてども、諸々の我が想いは
筆には乗らず、紙上にはとらえられない。

ああ 無為の中に時は流れ。、燃えたぎる青春の血はどこかに消え失せて、再び我に戻らず。

ああ 無為の中に時は流れて、、、

でんぼの神様石切神社

2009年09月21日 | Weblog
でんぼの神様石切神社

その地方地方によって、特定のことによく御利益のある神様がある。
その神様は古くから、先祖代々言い伝えられて、信仰心の薄くなった今日でも、尊崇をうけ信じられ、神社にはお詣りが絶えない。
例えば金儲けだったら大黒さん、ボケ封じだったらXX寺という風に、多くの人がお詣りするからには、何らかの実感や実績があるのだろう。

一才になる孫のおしりにデンボが出来た。すぐさま医者に連れて行ったが、内部にたまった膿を注射器で吸い取る事になった。子供はまだ小さいから局部麻酔も出来ないそうで、注射針を患部に刺して直接吸い取る作業が開始された。

原因はわからままに、お尻の皮下に出来た直径1cmくらいのドス暗く変色した血のかたまりになっている膿のところまで注射針をさして外科的治療をするのである。

麻酔なしだから痛みは全身に染み渡る。きゃーと言う悲鳴を聞いていると我が身の心臓にナイフを突き刺されたような痛みが走った。医者は他人事だから治療と称して平気で出来るが、目に入れても痛くないと言われる可愛い孫であってみれば、その痛さは我が身に直結する。

これで治ったかに見えたが、1週間ほど経つとまた同じような血のかたまりが患部に出来てきた。けれどもう注射針はゴメンだった。

僕は親の代から伝わるデンボの神様 大阪地方では石切さん(神社)に願掛けに走った。石切さんは難波駅から近鉄電車に乗って奈良に行く途中、生駒山の西麓にある。駅を降りてだらだら登坂を下り、10分ほどで神社に着いた。
早速受付で祈願内容を書いて本殿でお祓いをして貰い、名前と祈願内容が神官によって神前で唱えられて祈願は済んだ。

今日は幸運なことに、神様が出ていると言う話があった。神様は50才くらいの女性で巫女姿で座っていた。その人に祈願内容を書いた紙を渡し、オマジナイをして貰ってから本殿に上がった。

そのご利益があって、孫のデンボは数日の内に消えてなくなった。医者に行って再度あの痛みを味わうことなく、デンボは完全に治った。
こればかりは医者の手当てではなく、神様の御利益で治ったと僕は今心から信じている。医学に信頼を置いて病気になれば医者にかかって治すの現代の常識だが、常識をはみ出して、代々伝えられてきたデンボの神様
石切神社の神様には特別の感謝の気持ちを持っている。

病気は医者に治して貰うのが常識だが、それと平行して専門の神様にお願いして治して貰うのも1つの方法だ。要はどんな方法や手段を用いても病気は治ればいいのだから。

願掛けをするときも、心で般若心経を唱えながら、お百度を踏んだが、
完全に治ったときは、家族全員でお礼参りに行き、お礼のお百度を踏んだことは言うまでもない。

私は自分の体験を通して、関西地方の皆さんに、デンボ(できもの)の治癒は石切さんにお願いされるように勧めたい。 その効果の方は人によって違うかも知れないが。

連休 シルバーウイーク

2009年09月20日 | Weblog
連休 シルバーウイーク

初日は秋晴れの良い天気である。気温も30度をきって汗ばむが強い日差しは感じない。
高速道路はゴールデンウイークのような渋滞ぶりだ。新幹線も 飛行機も満席である。
旅をする人も多いが、ふるさとへ帰る人が多い。一体ふるさとには何があるのだろうか。

底には山がある。川がある。海がある。自然がある。人間がいる。
都会には山がない。川がない海がない自然がない。人はいるが彼らはほとんどがエトランゼでふるさとのような人間はいない。コンクリートと外人ばかりである。
どうしてそれが人間の自然な姿であろうか。
あああ ふるさと  ふるさと その叫び声こそ 人間の声である。

自民党の行方

2009年09月19日 | Weblog
自民党の行方

いよいよ官僚依存内閣から、政治家主導の内閣へと変わり始めた。この交代劇がどれほどの成果を生むか。今から期待したいところである。

130年間も続いた政治形態が変わるわけだから軌道に乗るまではがたがたするだろう。

それにしても、明治維新に活躍した、西郷さんや、勝さんみたいに腹の据わった人物が見あたらないのは淋しい。
優れた少数の指導者にリードされて、彼らの指導の下に 国作りをした時代には、とにかく官僚制度を国や地方に張り巡らせて、上意下達的発想で国を治める以外、方法は無かった。

明治革命も考えられるが、それは日本人の気質に合わないだけでなく、日本の歴史上革命によって政権がひっくり返る歴史を経験したことがない。
日本人の本来の姿は礼節を重んじ恥の文化が伝統的に日本人の心の中にあった。

科学技術の進歩による社会の変化。また国際交流が盛んになって世界がグローバル化した今日、国民意識もそれなりに変わってはいくだろう。それ
は展望が開けない自民党政治に飽き飽きした気分が蔓延して、自民党は自ら政権の座からずり落ちた。

民主党は早速始動しているが、自民党は、世代交代だの、派閥解消だの、まだその辺でうろうろしている。 えこひいきなしにどちらが国民のために働いているか、一目瞭然だ。

余計な事ながら、自民党は保守政党として、将来どのような展望が開けるのだろうか。私の感覚からすると、現在民主党が行っている政治が決して進歩党のみがやるべきことではなく、保守党が行うべき政治であると思っている。
官僚依存政治が悪いというのは、官僚達が国民の方に目を向けないで自分たちの利益を優先させたところに多数の問題が噴出した。
政治は三流だが官僚は一流だなんて、とんでもない話だ。

公務員は国家国民のために働くことが要求されているのに、手前勝手な保身構造を作り上げるなんてもってのほかだ。官僚体制の腐敗の上にあぐらをかいていた自民党が政権から放り出されるのは当然の理である。

民主党は初動の勢いで自らの政治形態を作り上げていくだろうから、それは彼らに任せておいて、気になるのは自民党が今度どのような政策を打ち出せるか、その方がよほど気になる。

二大政党時代には勢力は拮抗する方が緊張感があって良い。冷やかしの目じゃなくて、真剣なまなざしで自民党の行く末を眺めたいものだ。

人は同じとはいうものの

2009年09月18日 | Weblog
人は同じとはいうものの

同じ人間だから似たようなものだというのは大ざっぱすぎる。
遺伝子や気質や違った環境で形成される好みとか性向は人を区別する
ロケーション、歴史、文化、時代などによって作られた価値観がある。

基本的な条件食べ物と性の欲求の性向の上に 花開いた価値観は無数である。
こういうことによって顔かたちが違うように無数の個性化ができる

気が合う、馬が合う、というのは、、天からの贈り物だ 。
小異があっても常に大同を見つめて寛容な精神も忘れず、礼節を重んじながら好ましい人間関係を作るなら真の友人も得ることができよう 。

食欲の秋

2009年09月17日 | Weblog
食欲の秋

世の中高額なものを食べるよりも自分で食べたいものを食べた方が満足がある。
高級料亭でフルコースを食べた。見た目の美しさ、艶やかさ、豪華さ、雰囲気など場合によってはこういう食事も交際のひとつとして一生に何回かあッテも良い。

高価なものでも、定食でものど元過ぎれば同じである。要は満腹感である。うまい、まずいは一時の出来事である。

自分の好きなときに、好きなものを食べる。好きなだけ食べるのがいちばんのぜいたくである。
食欲をそそるとはいえ、それまでのことで、それ以上のものものではない。

どどのつまりは、この世の価値は食欲に限らず、すべて己自身が決めることだと改めて痛感した

日本人はどこへ行ってしまったのか

2009年09月16日 | Weblog
日本人はどこへ行ってしまったのか

日本人は親切で勤勉で礼節を知って高潔な精神に満ちあふれていた 。
日本人が日本人心を失ったのは高度成長のデメリットであった。
目標のない拝金主義の横行、質素、堅実、武士道精神などを忘れてしまった
この原因を作ったのは誰だろう。
マスコミは日本人を総白痴化した元凶である。これに携わる人品のお粗末さ
日本をリードしているという気でいるのが何とも幼稚で馬鹿馬鹿しい。
目立つことが価値ありとするお粗末さ。 タレントが幅を利かす社会のお粗末さ。