日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

さあ何かを始めよう

2009年08月31日 | Weblog
さあ何かを始めよう


人生列車は退屈列車。時間のレールを走るだけ。乗客は黙って一点を見つめている。皆おし黙ったままだ。黙ったままの灰色のカオ。
人はなにが面白くて生きているのだろうか。通勤電車の人たち。疲れた顔、押し黙った人々元気がよく威勢よくはしゃいでいるのはガキばかり。
皆死んでいるのであろうか、、、、、。黙って目を閉じている。
目を開けた人はうつろな目で一点を見つめている。
笑いもしない、泣きもしない。皆退屈しているんだよなぁ。

さあ何か面白いことを始めよう。胸のすくような、胸がワクワクするような何事か、何でもいい。始めよう、始めよう。座して死を待つ愚は後悔の種。



人生の師が欲しい

2009年08月30日 | Weblog
人生の師が欲しい。

人生には必ず、苦労がつきまとうが、そういう中で、自分が最も住みやすい心地の良い世界を、探し当て、その中で、ゆうゆうと生きている人こそ、人生の成功者であると思う。
人生を、たった、1度しかない人生を、悔いのないものにするために、人生の師が欲しい。
1本スジの通った人間をつくり上げるために、自分が全力で、ぶつかっていける人。
師を目標にして、自分で自分、を磨きあげる。自分に負けない自分を、作るために、人生の師が欲しい。


涙を流さずして

2009年08月29日 | Weblog
涙を流さずして

他人の飯は食えない。他人の飯を食うて初めて我が家の居心地の良さがわかる。かわいい子には旅をさせようとはよく言ったものだ。他人の飯を食うその中に一人で生きていく本当の人生があるのだ
艱難辛苦汝をたまにす。これは至言だ。
人生の味はそれだけわかる。だが、人生の味を知らなくてもよい連中にはこれは至言どころか愚の骨頂の見本みたいなものになろう。

高校野球・

2009年08月28日 | Weblog
高校野球・

九回裏。スコアは専攻が七後攻が六。二死満塁。ボールカウントツースリー。あと一本。
こういうときもしヒットがでれば、あるいは最後の1球がボールになってホアーボールになると、今までの勝者、敗者は元通り五分五分になる。その次の打者がヒットをもう一本打てば、あるいはフオアボールをもう一本連続させるとたちどころに勝敗は逆転する。そういう瀬戸際では、人間の力というよりは神の力によって結果は決められいる。少なくとも人間である限り正確に推定する事は難しい。それが分かるのは神のみである。

十人十色。

2009年08月27日 | Weblog
十人十色。
思想、信条、利害、生育歴、あるいは現在置かれている状態などによって、人は複雑に分かれる。まさしく、10人十色である。
そこで、1番目の人と、10番目の人とでは、同じく人の姿形をしていても、信条が違うために、話の通じあわない、異邦人みたいなところがある。
つまり、極端ないい方をすれば、1はどこまでいっても1で、10にはならない。
そのため孤独感、を癒すには、人は自分と共通項より多く持つ人間を探すことが肝心である。
Aも、Bも良いが、私にはAしか話が通じないから、私はこのAグループの人としかつきあわないということが多いが、それは、現実の問題をとしては、理にかなっている。
人類は皆兄弟だから互いに、仲良くしというのは、人類の悲願でるが、そう簡単に、現実のものになるようには、私には思えない。

井戸は、水がわくまでほれ。

2009年08月26日 | Weblog
井戸は、水がわくまでほれ。

ある程度の事前調査で、水脈があると信じたならば、井戸は水がわくまでほれ。
せっかく、水脈が、あっても、そこに達するまで掘らないと水はわかない。
水がわかないと、それまでの作業はすべて徒労に帰す。
新製品、あるいは、新しい、方法や手段などを開発する場合において、ここに問題がある。
第1に、水脈の存在が確認できるのか、
第2に、水脈に達する作業の適否
において十分の検討を加えることはもちろんだが、はたして、人知で、感知できるものばかりだろうか。
結果が、出た場合、分かるのだが、その過程で、的確に結果を、予測できるのだろうか。
どうも、この辺のことは、神の領域のような、気がしてならない。


手に入れて反対に失った。

2009年08月25日 | Weblog
手に入れて反対に失った。

富と名声には誰しも憧れる。そう両方を手にいれた人は、どれほど、満足のいく人生かと思うと実際には必ずしも、さにあらず。

森繁の自伝によると、無名の頃の自分が懐かしいとしみじみ語る。今は指名手配されているがごとく、全国どこへ行っても、森繁は知られている。そのために立小便も自由に出来ない

富と名声は得たかもしれないが、反対に1番大切な自由を失った。目に見えない鎖でつながれているようなものだ。と彼は言う。

しかし、山の頂上を征服した人でなければ、その素晴、は判らない。山にあこがれている人は、その山の登山に成功した人の話を聞いて、素晴らしさを味わい。つまらんなさも実感できるのだろうが、人はみな、そのよさも悪さも自ら体験しない限り実感はできないものである。

従って、森繁氏のこの実感で私は富と、名声に憧れる自分の夢を放棄して、無名の今が1人生最高の幸せだと思えるか。実感できるか。答えはノーである。

大学を出てない人に大学なんて、つまらん。高卒でもできる人はできる。と口を酸っぱくして、いっても、大学生活を経験のない高卒者しの耳には、この実感は、まやかしで、あるいは慰めとしてしか響かない。

人はみな夢を見る。その夢が実現されたとしても、結局はむなしいことも多いが、彼はその夢に、命を預けて、美しい彩りを添えるものである。

そしてもしこれが名実ともに分かるようになったら、お迎えがやってくる。

人間界

2009年08月24日 | Weblog

人間界
霊界=心---人間界ー--現実界=肉体
人間は現実界に住みつつも、霊界にも属している。我々はこの二層の中に住んでいる
パンなくして人は、生きられないがパンのみでも、生きられないゆえんである。

1月3日護摩木
初詣で。護摩木にもいろいろのランクがある。特別ご祈祷五千円也を見ると考え込んでしまった。 宗教改革の、発端となった免罪符を連想したからだ。祈祷僧が、秘術の限りを尽くして心願成就を願うならば、それは、僧にたいするご苦労料であって神仏の守護、に、大小があるとは思えない。
5,000円払おうが、1万円はらおうがそれで御利益があると、納得するならば、あるいはそれで気持ちが済むならば、それはそれでよい。

選挙戦

2009年08月23日 | Weblog
選挙戦
選挙戦まっだたなかで在る。残暑厳しいなかで 候補者は大変な思いだろう。
ところで不思議に思うことがある。麻生総理が民主党の揚げた政策の揚げ足取りに重点を置きながら自民党の政権構想を述べていることである。
他党のやり方や思想をいくら批判したところで、だから自民党がよいと言うことにはならない。

良いか悪いかの判断は、選挙民がするもので政党が他党の政策を批判する前に自党の政策について徹底的に説明すべきである。

ソレを聞いて善し悪しを判断するのは選挙民である。  
そういうわかりきったことを ことを無視して例の如く他党の政策攻撃をする。
この現状見ていると麻生という男はアホだとおもった。民主党日の丸の扱いがどうだとか、小沢と鳩山の選挙資金違反がどうだとか。そんなことを選挙民が聞いて自民党に一票を投じるとでも思っているのか。

かれは自民党総裁と言う立場が判っていない。他党の悪口を我々は聞きたくもないし、直接彼の口から聞きたいのは彼自身の哲学である。漫画は語るが政治哲学が語れない。なんて程度の低い人間なんだ。

きっと若いときに勉強した人間とは思われない。政治家は崇高な哲学が必要である。そこから生まれる信念でもって世を動かして国を治め、人々の生活安寧や、国際平和を求めるために、自己を捧げる。

これがなければその時どきの風に流される政治屋に成り下がってしまう
この状態だったら僕だって民主党に入れざるを得ない

賽銭目当て

2009年08月22日 | Weblog
賽銭目当て
アンコールワットでもバイヨンでもそうだった。回廊や祠で仏像の守をしている人達、尼僧がおおかったが、近づくと拝めという。

それは信仰心からというよりは賽銭目当てであろうと思われた。線香を供えたら仏教徒の日本人のこと、なにがしかのお賽銭をあげるのは常識だ。

僕は思う。理由が何であれこの堂守の尼僧も明日に命をつなががなくてはならないから必要なのだ。賽銭は正当な生活費だ。

篤く三宝を敬えと言う教えがあるが、その中の三宝の一つ、僧については納得しかねることがある。

我われの僧への期待やイメージが強すぎるのか、平安の昔から、僧に対しては表面は敬意を表すが、心の底では坊主とさげすんでいる節がある。僧は確かに聖職者であり、尊敬を受ける立ち場に居る人間で、それにふさわしい振る舞い を要求されてはいるが、僧とて人間飯を食わねばやっていけない。

つまり聖職的立場にいながら、どろくさい飯の種を考えて生きていかなければならない。この面を取り上げると僧も俗人も営みは同じである。しかし僧は俗人とはイメージが違う。そのずれが坊主という侮蔑的な言葉が使われることになるのだが、僧とて人間。いくらでも間違ったことをする。
僧も人間だと認めるところから始めなくてはならない。

岐路

2009年08月21日 | Weblog
岐路
分娩室でうめき苦しんでいる時に双子の母は出血多量で死んだ。生と死の紙より薄い隣り合わせ。なんということだ。僕はこのニュースを知ったとき言葉もなかった。

そのことに関して自分のいのちのことを考えた。平均的な寿命からすると後15年の命しかない。この年になって命とは、という原点はもうどうでもよい。
このされた15年の生命をどう満足のいくように使うのか、その一点である。

主体的に生きるためにも聖人の知恵に学ぶことが大切だ。仏教ならお経
聖徳太子 弘法大師の教えに学ぶ。

今までボヤッとして生きてきた。中身がない。なるにまかせて時に身を委ねた。

また生きることの意味を知るよりも楽しく生きることが大切だ。と今は考える

縁なき衆生、縁は自分が求めて作るもの。そして神仏がつくってくれるもの。
人生を考え直して見ようと思う姿勢が大切だ。それがなければお経を読んでもただの読書にすぎない。

不満とも後悔ともつかない生き方を今頃になって、考えて見る。


葬式

2009年08月20日 | Weblog
葬式

知人のおばあさんが99才の大往生を遂げた。おばあさんの顔は満足げである。見送る肉親達も基本的には満足で誰も式場で涙をこぼしている人はいない。
これがいたいけな子供や、働き盛り、まだまだ社会や家庭のでその役割を果たさなくてはならない立場の人を見送るというのなら、式場は悲しみと嗚咽が充満することだろう。

おばあさんは五木ひろしのフアンクラブの会員でもあった。そのせいか
式場に持ち込まれたエレクトンからは 千曲川 や 夏の思い出 やふるさと がバックグランドミュジックとしてエレクトン演奏で流れた。その歌がおばあさんを偲ぶのに格好の雰囲気を醸し出した。

葬式という感じは全くしない。それは静かに99才まで生きた老女の生死になんの未練も残さない心静かな別れの儀式だった。

式場に集まったのは近親者のみ20人ほどであったが、今までこれほど心安らかな葬式に参列したことがなかった。

僕も死んだらこうしよう。こういう葬式が良い。ところで僕は神様仏様のフアンではあるが、みそらひばりの、五木ひろしの、フイッシャデイスカウのフアンクラブ会員でもない。

葬送の曲は何にしようか。
「延命十句観音経」 を流し貰おう。東京芸大の声楽家が歌ったこの自作曲はことのほか、僕のお気に入りの作品である。既に京都清水寺の秘仏の観音様には奉納演奏してある。一曲で淋しいというなら「壺阪観音」 をついでにテープで流して貰おう。前者はモル(短調)だが、後者はDUR(長調)だからバランスがとれて良いかも知れない。

何はともあれ自他共に十分生きたと感じられるように生きたいものだ。そうすると、今回のおばあさんのようにスマートなわかれができるから。

幸不幸

2009年08月19日 | Weblog
幸不幸

人の幸不幸を作りだすのは心の働きによる。心をどのようにコントロールするかによって幸福感、不幸感が生まれる。

さればどのように自分の心をコントロールするかと言うことが問題になるが、自力で自分の心をセルフコントロール出来る人はまずいない。

これは心の持ち方、心の持ち方を変える方法を学ばなくてはならい問題でもあるが、学んだからとてセルフコントロールが完璧にできるというものでもない。

こういう問題を扱うのが宗教である。 しかし宗教が問題を解決するのではなく手助けをしてくれることをよく考えて、宗教に接することが大切だ。

街宣車

2009年08月18日 | Weblog
街宣車

大勢の人通りのあるところでがなり立てている、右翼だって、イエスキリスト教の布教だって同じ騒音にすぎない。

布教はがなり立てる。

「地獄にいかぬために、命を失わないためにもキリストにすがりなさい」と。  
よけいなお世話だ。 だから騒音にすぎないといったのだ。

選挙運動じゃあるまいし、神様の話は心静かに対面で話してこそ、心が通じ合って崇の心も湧いてこようというもの。

マイクを通して大きな声で宣教するのは、神様の意に反することじゃないのかと思う。

自業自得

2009年08月17日 | Weblog
自業自得

深夜彼女は疲れた足を引きずってプラットフームにたどり着き最終電車を待っていた。

傘を持った酔っ払いが彼女に近づいて話しかけてきたが、彼女は気味悪いというよりは疲れていたので、うとましいこと限りないこの輩を無視してた。

酔っ払いはまるで獲物でも狙うかのように執拗に彼女にからみつき、果ては体をさわろうとさえした。思い余った彼女は力任せに彼を突き飛ばしたら、彼は足元も定かではなかったので線路上に転がり落ちた。
そこへ運悪く電車が入ってきて、彼は轢かれて死んだ

彼女は当局の調べをうけて起訴されたが、裁判では無罪になった。他人に迷惑をかけた挙げ句の果ての事故だから、自業自得だとしか言いようがない。迷惑をかけるバカの人権なんて守ル必要はさらさらないと思う。