日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

年の暮れ

2011年12月31日 | Weblog
年の暮れ

2011年12月31日。今年はまるで何も無かったように、関西地方は穏やかな日差し。
思い返せば生まれて初めての大自然災害に遭遇した。3月11日午後2時過ぎにM9クラスの大地震が起こり町を飲み込み多くの人が犠牲になった。
何とも無慈悲な自然災害だけれど、東北人は雄々しく立ち上がった。雪の降る冷たい海水でずぶ濡れに成りながら、助かった人。一旦は救助されたがその後に逝った人、未だに行方知れずの人達。
第三者の僕がどれほど悔し涙を流しても、事態は何の解決もしない。無慈悲にも、重荷は全てを失った人達の肩に掛かっている。お気の毒で言葉も無い。
一方全国的に被災者救援に立ち上がった姿、特に自衛隊の活躍は素晴らしいの一言に尽きる。その活躍には行動哲学が有り、救援の手には心がこもっていた。そして国民もバックアップに立ち上がった。

だがその中でも、とりわけ気の毒なのは、福島県である。自然災害の上に原子力事故が覆い被さった。その事後処理は大部分が手つかずだし、一部には手の付けようのないものもある。
東電、保安院、原子力安全委員会に非難の声が浴びせられるのは当たり前だ。これで原子力行政は、住民の同意が遠のき、困難になった。これを機会に電力会社のあり方を国家的見地から考え直す必要がある。

奈良和歌山の台風被害は平時なら大災害である。だが東北が余りにも大きかった災害なので、かすんでしまっている。広域連合に不参加の奈良は今回は身にしみたはずだ。不参加がどんなに不都合なことか。愚にも付かない不参加を決定した知事の愚かさが露呈した。

一方記憶に残る様な慶事は何も無かった。それは国家も僕個人も同じで
時間はむなしく過ぎ去った。

あれほど胸ときめかして聞いた、レコード大賞も、紅白も自分からますます遠のいていく。録画はするけど今すぐ見る気はない。
政治で言えば、支持した民主党は完全に期待を裏切った。唯一橋本市長が現れて大阪都構想実現にむかって一歩動き出した。

2011年 僕の歳末風景 11/12/31

区切りをつけ・新年を迎えることは世間では、家の内外の大掃除

神棚や仏壇の掃除などがあるが、面倒くさいから、何もしない、

30日になってやっと腰をあげて、お礼参りを始めた。

部屋は掃除しないから、埃だらけである。途中まで書きためた原稿用紙が、整理もせずに散らかっている。
雑然と積まれた本やノートやメモなどは、その重要性や順番などは、自分しか分からないから、誰にも頼めない。

途中で止まっている作曲のフレーズや、書きかけの文章、途中で気を抜いた作詞など、これだけは散逸を防ぐためにパソコンに打ち込んでおいた。
これで切りがついて、年越しができる。

新年を迎えるにあたっては、頭の中の整理だけで十分だ。身の回りの片づけや、掃除はしないから、その状態は、年が改まっても、引き継ぐだけで、自分なりには整理がつく。
自分の部屋に閉じこもれば、慌ただしいのは、世間だけだ。
僕にとっては、どこ吹く風だ。確かに身辺のざわつきには、自分も浮き足だってしまうように見えるが、それは表面的なことである。

これが僕の歳末風景である。2011年も、あと数時間で、2012年になる。
風呂でも入ってから、紅白でも見るか。

当てずっぽう 順位: 9,653位 / 1,667,723ブログ中

2011年12月30日 | Weblog
当てずっぽう

その場その場で処理しておかないと、後では何が起こるか判らないのが人間である。
例えば極端な話、明日は命があるかどうかも不確かなのが人間である。
だから今やっておくという理屈は、1見筋が通っているように見える。
とはいえ急いだために事故に遭うと言うこともあるから、`今だけ`を考えるというのには落とし穴もある。
後追い、と先取り。どちらがいいか、一概に言えない。

賢者ぶって、その時の状況判断をうまくして 等というのは無責任もいいところ、空理空論である。空中に舞うちりみたいなものである。それほど取るに足らないものである。
なぜなら、「人間は一寸先は闇」の中にいて、足下を照らす、灯りを持っていないから
何を言っても当てずっぽうになる。

おおらかでよろしい

2011年12月29日 | Weblog
おおらかでよろしい 順位: 6,657位 / 1,667,469ブログ中


クリスマスはキリスト教の年中行事の1つである。
花祭りはお釈迦さんの誕生日のお祝いである。
結婚式は多くの場合キリスト教式のウエデイング方式で葬式は仏式である。
神も仏も身の回りに合わせて、そこに違和感は無い。それが日本人の宗教感覚である。とはいえはっきりそう認識をしているのかどうか。おそらく認識などしてまい。そうだとしたら、結婚式も葬式も宗教では無くて単に習慣と言ってもいいだろう。
日曜日には教会に出向き、断食月が巡ってくると、食事も満足にとれない宗教上の取り決めなど、どこ吹く風で、神も仏もうまく利用している日本人はおおらかでよろしい。毎週日曜になるとお寺いお詣りに行ったり、お説教を聞きに行かなければならないとしたら、どれほど煩わしいことか。また食欲がさかんな時代にも、食べちゃいけないと言う決まりがあるなんて、とても窮屈だし、僕には実行不可能だ。

師走

2011年12月28日 | Weblog
師走

大掃除もまだである。窓ふきも、神さんのお礼参りも、まだ済ましていない
。だのに、年末は慌ただしい。気ばかりが慌ただしくて、身体はこたつに入ったままである。

物理的な時間は1日24時間。普段の日と何ら変わらないのに、気ぜわしい。
そのくせ手をこまねいて動こうとしない。一体これは何だろう。

年の瀬になると、気持ちの慌ただしさが違う。せかせかして普段通りの気持ちではいられない。そんな状態の中で落ち着かない1日がくれていく。

これは僕ひとりに起きる現象では無い。周りの雰囲気が気ぜわしいから、それに包み込まれて、地に足が付かないのだろう。と言うことは周辺が慌ただしいと言うことだ。
そんな中でもう5日も経てばまた歳を1つとる。ありがたくないなー。

もういくつねるとお正月、、、と歌った時の場面を思い浮かべるが、あの頃は正月が来るのは楽しみだった。父も母もいた。今は孫がいる。確実に時は流れすぎた。しかし幼い日の想い出を引きずっているので、あの頃と今が交錯する。
大して仕事もしないが、今日も気ぜわしさを残して、一日がくれていく。

年の暮れの31日紅白を見ていたら、電話がかかり、友人の急死を知らせてきた除夜の鐘を聞きながら、駆けつけた事を思いだす。あれからもう10年の年月が流れた。何事も無く師走をむかえる事は慶事なのだろうが。
特段喜びの気持ちが湧いてこない。同年配の人もこんな感覚で年の瀬を迎えているのだろうか。

人は死なない 

2011年12月27日 | Weblog
人は死なない   矢作東大救急センター教授著 9,663位 / 1,666,969ブログ中

新聞で広告を見てすぐ、図書館に行って予約を入れた。僕の前に数人が予約していてだいぶ遅れたが、12月27日に図書館に入るから取りに来るようにと連絡があった。

特段死を恐れたり忌避したりしているわけではないが、僕は命にはいつも関心を持っている。突き詰めていうと、答えは出ないのだけれど、魂の存在の有無についてである。
僕が調べた中では、カナダの脳医学者ペンフイールドは人間のすべては脳作用によると断言したが、死ぬときはそれには疑問を持ち、脳作用以外の何ものかがあると考え、
すべては脳の作用だという自説を誤りとして撤回した。
僕は彼の自説の撤回に賛成する。というのは人間は肉体と精神のほかに魂というものがあると思うからだ。その根拠や証明理論は難しくて歯が立たない。しかし理屈はどうあれ、何かがあることだけはわかる。今それを僕は魂と呼んでいる。

最近100歳でまだ現役の医者をしておられる日野原重明先生の著作の中で、先生も肉体、精神(心)魂(霊)の3つがあると主張しておられるのを知って、同じように考える人がいるのだと意を強くした。先生は医学上の経験から。4000人くらいの命を看取ってこられたらしい。僕は芸術という側面から考えたのだ。

そういうことが頭の隅にあって、「人は死なない」が目についたものだから、すぐ飛びついた。救急医はおそらく何回となく人の死に直面されたことがあるだろう。
その経験の中から「人は死なない」といわれるのだから、脳作用がすべてだとは経験的に思ってはいないのではないだろうかと思って、此の本に興味を持った。人間の死というものを現場ではどのような観点から見ているのだろうか。そこに特別な興味を持っている。

僕はよく鎮魂曲を作曲する。が、思うこと、知りたいことは、魂の存在である。
魂があるとすれば、それとどう向き合って、作曲すればよいのか。それが僕が持つ問題意識である。

付け足しをいえば、
僕は東北大震災の犠牲者、とりわけまだ見つかっていない4000名近くの人々の御霊に捧げようとして作詞作曲した。だがイントロのピアノの荒々しい表現が、目の前に迫ってくる大津波を連想させるから、お供えするのには生なましく、弱り目に祟り目の、気の毒な被災者のお気持ちを思うと、身動きがとれない。
だから自分の作品集の中に楽譜はしまい込んだままである。 CDは時々泣きそうな気持ちを抑えて、聞いてはいるが。


12月、26日に思ったこと

2011年12月26日 | Weblog
12月、26日に思ったこと 順位: 8,863位 / 1,666,637ブログ中

人を一人助けると、一人分の幸せがやってくる。100人の人を助けると、100人分の幸せがやってくる。

人の心の痛みが分からない。人間にはなりたくない。
人のお役に立ち、喜びをもたらすと同時に、癒しをもたらす人間でありたい。

壺阪寺の中興の祖・常盤師の影を踏みながら、与えられた命、生かされた命を精一杯自分なりに活用したい。


お釈迦様は、人生は苦満ちていると説いた一方、苦のなかの生き方について、人々に教えた。

その教えが、幾百年の時を経て難解な宗教哲学体系にまとめ上げられた


専門に勉強し、修行をして心を整えた人たちだけでなく、日々、無事を祈って暮らしている庶民にも教えの光が届くよう願ってやまない、

増税の前に

2011年12月25日 | Weblog
増税の前に 順位: 8,024位 / 1,666,312ブログ中

現在の制度やシステムを変えないままに、増税しても、しばらくするとまた、増税を考えないといけないときがくる 。
ここはイチバン。 現在のシステムをぶっ壊して新しいスリムな体制を作ることが大切だと思う。橋本市長はこれを行政の不連続という言い方で、表現していいるが、彼もいうように、新しいシステもを実施した上で、たらずまいは市民国民に増税をお願いしても、国家の非常事態の時だから、国民は納得して、増税を受け入れてくれるだろう。

今のままだとざるに水を入れるようになもので、じゃじゃ漏れ状態が続くだろう。
制度疲労を起こしているようなシステムでも壊すとなれば、大変な抵抗があるだろうが、それを作り上げて新体制を次世代に、最小限の迷惑で、受けついてもらうしか仕方あるまい。

民主党も制度改革を通して、資金を作り出して、それを不足している部分に使えば
増税は必要ないという考えの基に、あのマニフエストを作ったのではなかったのか

橋下市長のようなダイナミックな改革を短時間でやり遂げないと、国は衰弱するばかりだ。今日TVで橋下、前原が話をしていたが、前原よりはよほど実行力のある政治家だと思った。これじゃ人物的手腕は歴然としていて、地方と国政が逆になればよいと思った。

既成政党では駄目だ

2011年12月24日 | Weblog
既成政党では駄目だ

ここ20年ばかり、税収は少なくなり、五百兆円の借金が今回の予算で、一千兆を越える事になった。
国債の利払いと社会保障費が予算の約5割になる。これはもう完全に予算の硬直化を示している。
どう考えてみても、増税は不可避だ。だけど増税する前に、やっておかないといけないことが在る。現在の国家の仕組みを根本的に改革しないと増税もざるに水を入れるようなもので、じゃじゃ漏れである。
これだけの借金を作っておきながら、政治屋どもは気にならないのであろうか、
不退転の決意で増税をやると言う決意表明だけがむなしく耳に響く。

第一、ポットでの若造に何が出来る?柔道の谷は柔道でこそ光るが、国家の財政のなんたるかが判っているのか。こんな連中を寄せ集めて数を頼りに政治をおこなおうとする、小沢なんて速く政界から引退すべきだ。彼はとうに賞味期間が過ぎている。
国家のために一命を捧げるといいながら、大災害の時は雲隠れのような状態で、何のお役にも立たず、大きな面下げて、どこに彼の居場所が在るのだ。?

近頃目立つ大阪の橋下市長の方が、言うこと、やること、よく分かるし、切れがいいし,テンポが速い。彼に国を引っ張っていって貰った方が、よほど速く事態は変わるだろう。 中央が変わらなければ国は良い方に向いていかないことは誰もが承知しているが、
中央からと言う発想自体を変えなければ、国は変わらない。とすれば地方から変える以外には手が無い。ひょっとしたら大阪都構想は国を変える起爆剤になるかも知れない。
そうあってほしいものだ。既成政党のどこを見渡しても彼のような人物は見当たらない。自民、公明、民主などの既成政党は賞味期間が切れているのか?。日本の現状にあっていない。

美人はすっぴんでも美人

2011年12月23日 | Weblog
美人はすっぴんでも美人 2011/12/23


美人は化粧しなくても美人だ。
ブスはどんなにうまく化粧を施してもブスだ。
作曲家小林亜星さんの主張だ。

彼はいう。
曲作りの基本はメロデイである。どんなにうまくアレンジしても、曲は見栄えがしないし限度がある。。やはり曲の根幹であるメロデイをしっかりしたものに、作り上げなけれなならない。
という彼の作曲の信念である。
僕もアレンジは大切な要素であるが、基本はメロデイだと固く信じている。それでわかりやすく、べっぴんとおかめに例えてみた。

文明の光と影7-38

2011年12月22日 | Weblog
文明の光と影

田中正造は電気をはじめとする近代化には光と影があると日記に記したそうだ。
(朝日新聞記事から引用)
我々は文明の恩恵と同時に隠された非情さを今回の原子力事故で思い知った。やはり人間はいつも謙虚で、人間のコントロールが及んでいないことについては、不遜な気持ちで対応してはならないことが身にしみた。

事故を起こした、東京電力は実質国営企業にならないと倒産する憂き目に遭った。
もし事故が起こればどうなるかということを、保安院とともに真剣に取り組んでいたらと、今になって残念に思う。これは第三者の僕が心配することではないかもしれないが、原発事故は、一度起こると、取り返しのつかないことであることを今回の事故が証明した。

こういう事例があるのに電力会社は原子力発電にしがみつく。懲りない面々とはまさにこのことだ。もっとまじめに物事の本質から考え直してほしい。つまりふざけないでまじめにやれと忠告したい。電力関係の1社独占体制は近々崩壊するであろう。

将来の安全なエネルギーによる発電に最も知恵を出さなくてはならない当事者が目先の原子力発電の再開を急ぐ気持ちはわからないでもないが、関西電力の場合、今回の事故をきっかけにして、節電要請が実を結び、この冬を乗り切ったら、原発は1基も稼働しなくてもしのげることが実証される。その壮大な実験を成功させるためにも、世間の常識を覆すような電力会社経営の妙味を見せてほしいものだ。

100年も前に田中正造は文明の光と影を認識していた。電力の恩恵と裏腹になっている今回のような事故は、彼の指摘する光と影だ。心して彼の言葉をかみしめてほしい。



話をしないと判らない

2011年12月21日 | Weblog
話をしないと判らない

人はどんな人でも、話をしないと何も判らない。

講演をする度に、僕は生涯で何人の人間と言葉を交わすことが出来るのか、アバウト考えたことがあるが、60億人(実際はもっと多いのだろう)の内で精々、生涯で10万人と話を交わせば良い方だろう。
自分の方から積極的に話しかけていけば別だが、総人口から考えると、微々たる数字である。 その中に今日、私の話を聞いて下さる人々が居られるのを考えるとき、私はその人達との出会いをご縁と称している。

今日ある会合で、作家の難波先生の話を聞くチャンスがあった。
先生は実家が島根の方で、帰郷され近くの温泉に入浴に行って時の事を話された。
温泉に入ろうとすると、先客が有り、その人と会話を交わして入浴中の人は女性であるが目が見えないので入って下さいと言われたという。彼らは夫婦で奥さんは若い頃から一度山陰の温泉に入りたいと希望していたそうな。

入浴をすませた後で先生は考えたそうな。もしご主人と話す機会がなければ、こちらが話しかけなかったなら、盲目の女性が入浴中の話なんか想像外のことであったろう。主人と会話をしたからこそ、全容がわかった。話をすることが如何に大事なことか痛感した。そして何事も話をしないと始まらないと結ばれた。

わずか十分足らずの講演だったが、平凡な毎日に作家独特の「人間エッセイ」
を聞かせて貰って、成る程な、と感心した次第。
私も今後この事を心にとめて、積極的に、人と話をしようと、心に決めた。

五感でキャッチ出来ないものの存在

2011年12月20日 | Weblog
五感でキャッチ出来ないものの存在

この世には、人間の五感で感知出来ない、いろいろな事象が起こる。科学の力がまだそこまで及んでいないので、今は神秘の世界に包まれているが、いつかは人間の英知でもって論理解明がなされるだろう。そうは期待しつつも、今に生きる僕が、全ての解明を待つわけにはいかない。時間が無い。
それは必ず解明されるとは言い切れないからだ。解明されるかも知れないし、されないかも知れない。

だから僕は今は、キャッチ出来ないのだがら、五感を超越した者の存在は、ただ信じることだけによってきまる。と考えている。信じてこそ初めて存在するのだ。
それにしても弘法大師が言われるように「生まれ生まれ生まれ生まれ生に冥し」「死に死に死に死に死に暗し」で1200年昔も、今も何も変わらない。明日があるという確証は何も無いが、明日があると信じるところから、明日が生まれるのだろう。そこだけは信じたい。


政界再編以外に道無し

2011年12月19日 | Weblog
政界再編以外に道無し

民主党は大きく嘘をついた。
社会保障と税金の一体改革で今回は消費税のアップを提案している。高速道路の無料化、など言ってたことと、やってることは違う。自民党も自民党だけど、民主党も似た様なものだ。
無駄を省いて増税しなくても良いと言うことをアピールしていたが、現行のシステムを変えない限り、無駄を省くことは出来ないことがよく分かった。現在の借金体質は構造的なもので、表皮をむけば出血が止まるようなものでない。税収は増額は望めない限り支出構造を改めなければ、雪だるま式に借金は増えていくだろう。

地方分権を言うが、全然行動に移さない。それでやることもやらないで、税金を上げることばかり主張する。現状を変えない限り支出の額は変わりっこない。それを税金を上げることによって、何とかごまかして、政党の命をつなごうとしている。
事業仕分けは目新しいもので、気を惹かれたが、結果は成果が十分上がったとは言えない。自民党や民主党の限界が見え始めた。既成政党は時代の要求に応えられない 。
これ以外の政党がどうなのかは知らないが、次回の選挙は自民・民主、公明党には絶対投票をしない事に決めた。
国民もそろそろ、こういうことに気がつき始めているのじゃないの?

肢体不自由な君に思う

2011年12月18日 | Weblog
肢体不自由な君に思う

片田舎の高校で机を並べた君がまさか、肢体不自由になるとは想像もつかなかった。
現在君は妻君の介助がなければ、明日の命が繋げない。

そんな条件の中で君は最近口に筆を加えて書を書くことを覚えた。血のにじむような厳しい訓練の継続で、文字らしいものを、かけるようになった。書については僕はそのできばえはわからないが、ここまでになる君の精神力には、負けた気がした。別に勝負をしているわけではないが、もし僕が君のように手足に麻痺が起こり、手を使わないで筆を口にくわえて字が書けるようになるまで訓練できるかと、自問すると確信の持てる答えは出てこない。だが君は現にそれをやってのけた。
その精神力はすばらしい。ちょっとオーバーな言い方をすれば、何者にも屈しない、君の不屈の魂がそこに顔をのぞかせている。君の字には不屈の魂が宿っている。

五体満足な僕が君のことを思うとき、人間の精神力の大きさや強さは、肢体の自由、不自由には関係ない。それはひとえにやる気の問題である。

肢体の自由に恵まれていても、その気がなければ、結果的には自分の人生そのものに結果を出すわけにはいかない。やはり君は僕に何か結果を出すように無言の圧力を与えているのだろう。君を見習って来年こそは、何かを成し遂げたい。そう思う。

ホワイト・クリスマス

2011年12月17日 | Weblog
ホワイト・クリスマス


I am dreaming  of the white Xmas ,,,
12月にはいると、商店街のスピーカーから ホワイトクリスマスの歌が流れる。
此の歌を聴くと無性に懐かしくなる。

昭和30年代、僕は代々木にあった進駐軍のワシントンハイツ(現NHKの敷地になっている)のオフイサスクラブで働いていた。
毎夜生バンドの演奏と当時有名な歌手が交代で出演していた。
当時のバンド名はオール ブルーコーツ。小原重徳(ベースマン)がバンマスで、出演歌手は、ペギー葉山、ジミー笈田、雪村いずみ、武井義昭など当時日本のトップミュジッシャンが出演して、日本のジャズに親しんだ。

特におもしろかったのは、演奏の興に乗った、ジョウジ川口が、ドラムをたたきながら
舞台を歩き回り、やんやの拍手を受けていた。ドラマーのタック村田のお父さんは外交官村田省三氏だと記憶している。
タクトを振っていた小島正男さんは早稲田の出身ながら、慶応ボーイのダークダックスを育て上げた。

服部良一先生が著した「我が音楽人生」にはこの辺のことが書かれていて、納得しながら
戦後の日本のジャズ歌謡史を思い返した。

僕の青春の原点はまさに ここにある。今から考えるとあの時代の音楽は輝いていた。若いせいもあったが、胸がわくわくして歌いたくなるような曲が多かった。
今の歌と比べてみると、結構新しい。特に服部先生のリズムたとえばブギウギなどは今でもついていける。時代が進み8ビートが16ビートになりアップテンポになるに従って、僕は置き去りにされた感じがする。
毎晩聞いたムーンライトセレナーデの柔らかいメロデイが、今でも時々頭の中でなることがある。
ホワイトクリスマスの歌が流れると、シャープ アンド フラッツ やブルーコーツなどのビッグバンドを思い出す。
ホワイトクリスマスで思い出される 我が青春の一コマ。