日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

 ある限界

2020年02月29日 | Weblog
        ある限界


芸術作品は、作者において、すべてを表するとしても、受け手には、そのすべてが伝わるわけではない。

人は、各個性によって、生活経験によって万人万様に作品を受け止める。

そして人は、己の内部に沈潜するもろもろの感情を作品を媒体にして、引き出し、自分の好みの感情にひたる。

ある人は、悲しみの音楽を聴いて、悲しみの感情にひたるのであって、喜怒哀楽そのまますべての感情に包まれるのではない。

そういう意味では芸術作品は一切を言いつくすというのはオーバーな表現だ。


土から生まれて土へ還る0

2020年02月16日 | Weblog
人の命の根源をさかのぼって考えて見る。

この世の中には 水 空気 土があるが、そのうちのどれから命は発生したと考えられるか

水からいのちがうまれたとは考えにくい。

空気 空中に命を生む要素はない

土  可能性としては一番考えられる。土の中に含まれるいろいろな元素が組み合わさって

   何かの弾みで細菌のようなものが生まれ、その命の芽吹きが長い時間をかけて

   水性動植物になり、それが陸上に上がっていわゆる動植物になったと考えるのが

   自然ではあるまいか

だとすれば、人間もやがては土に還っていくのだろうと思うのは自然だろう。

動物は死んだら土に埋もれて、あるいは焼却されて最終的に元素レベルでは土に還っていく

という理屈は理解できる。

こう考えると死者を埋葬するということは、人間は土に還るという事になり、自然の原理

にかなう。火葬してカルシュームの塊になっても、やはり時間の経過とともに土に還って行く

すなわち土から出て、土に還っていく、という循環の中に一瞬に過ぎないかもしれないが、

我々の命の現象があると考えるのは、自然な考え方である。こんな事を考えてみたが、

どうだろうか。

マスコミ報道による判断9-4

2020年02月09日 | Weblog
マスコミ報道による判断

マスコミ報道による判断だが,今回の関西電力の案件を見ていると,まさに原発マネー還流事件の構図である。

もしこれが金沢税務署の調査が入ってなかったら、そのまま時が過ぎて時効となり,

免罪になっていたかもしれない。

送る側も受け取る側も同じ穴の狢であり、この問題は犯罪の匂いがするから

警察が調べたら良いのではないか。

第三者委員よりも警察案件だと思う。特別収賄罪、背任罪などが頭をよぎる。

関西電力は有力会社であり、特に八木は関経連の副会長までやっている。

一般に範を示さなければならない立場の人が、犯罪者の立場に立たされるような情勢である。

こんな輩が日本の経済を引っ張っていっているとすれば、単なる不祥事だけではすますことができない。

すぐにでも解明して己の責任を世間に問うことが強く求められている。

それで初めて、庶民の溜飲が下がるというもんだ。

後ろで何をやってるかわからんという状態だが、前看板は関西電力と言って押しも押される

日本の中の大企業である。

こういう疑いが持たれると、原発や火力水力発電までも、後ろに何かがあるのではないかと

庶民は勘ぐりたくなる。

社内処分で減給ととか言っているが頭がおかしいんじゃないの

その程度では全く庶民の感覚とずれている。

こんな奴らに電気代の上前をピンハネされていたかと思うと、悔しいやら腹が立つやら、

絶対責任をとらせなければ、とらせてやれという感情論が先に立つ

会見の様子を見ると、実に矛盾したことをシェアシェアとしゃべるが、このレベルなのかと

呆れた。大会社をひっぱってきた大物なら大物らしく大うそをつけばよい。

今から本番が始まる。まだ今は序幕である。高みの見物をしよう

歌おうと思う歌がない0

2020年02月03日 | Weblog
歌は人々の生活に根付いたもので大衆の心を歌ってこそ歌といえるのです。

だからグループで派手に踊ったり、サーカスまがいのパホーマンスなどは一切不要です

人生の苦悩や故郷や、青春へのノスタルジアを思い起こさせない歌や、

歌付のパフォーマンスは歌と言える代物ではないのです。

辛い思いを経験する大人の心を癒し、勇気づける歌こそ、いつの時代にも必要不可欠のものです。

ところが現在の歌は一体何者でしょうか。

グループでやる踊りも、パホーマンスの中にも歌がある。あれは歌ではなく

BGM 化した心なき単なる音の羅列に過ぎません。それを歌だと思いますか。

一部の未熟者を除いて、大多数の大人はあれらを歌だと認めているでしょうか

だからテレビのスイッチを切ることになるのでしょう。

歌でないものを歌として取り上げる低レベルなプロデューサーが癌になってますね

彼らを一掃して歌の本質がわかる新しい感覚のプロデューサーを求めないと、歌は大衆の心には届かない。

昔 NHK に後藤田純生さんという有名なプロデューサーがいたが、40年前に彼が選んだ歌

は今でも歌われています。

考えるに日本人の心情に最もより添って、捉えているのは演歌だと思います。

演歌が無くなれば日本人のこころの歌はなくなります。

世相の移り変わりや、時代の流れに影響されながらも、基本は演歌の心です。演歌のメロデイ流れです。

だから我々作曲家は怜和の演歌の歌づくりに邁進しなければならないと思います。

しかしどんなに良い曲を作ったとしてもそれを評価して世に広める最前線にたつのはプロヂューサーです。作曲家だけではどうにもなりません。

作曲家は評論家であってはいけないと自戒してはおります。

次の世代に受け継がれる歌の素地を作って、若い世代にバトンタッチをすることが使命です。
それは昭和演歌をそのままにと言うものではりません。怜和の演歌です。

当然平成・怜和の世相を受けたもので、時代の飢餓感にこたえたもので無くてはならないと思います。