日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

カラオケ審査員

2011年10月31日 | Weblog
カラオケ審査員: 11/10/31


昭和60年代になり、カラオケの審査員をよく頼まれた。
日本作曲家協会の依頼で、東京からは、作曲家の三木たかしさんが来られ、関西では、在住の僕ともう一人の作曲家が審査に当たった。
この催しは、全国カラオケ大会・関西地区の予選会である。
当然のことではあるが、厳正にに審査した。

ご近所では、カラオケ大会をやると、のこのこ出かけて行って審査をする。
競争ではないから、弱点をアドバイスする時、コメントはいつも気をつけることによって、カラオケの楽しみを、より深いものにしてもらうように、ものを言っている

例えば「ここが悪い。」と指摘するのではなくて、同じことをいうばあいも、必ずホメ言葉を使うように心がけている。
この心がけは、古賀政男先生にから学んだ。先生はプロには厳しいが、素人には特別気を使って、
「こうすればさらに良くなります。がんばってくださいね。」と、相手の気持ちをそがないように、やんわりと指摘された。これを学んで以来、僕は必ず先生のやり方をまねるように心がけている。
人間はほめられてこそ向上するものだ。それは、教育の基本である。

ある母子の会話 。
「お母ちゃん、僕60点取った。えらいだろう。」
「たったの60点が、もっとがんばらないといけない。」
次のテストで、
「お母ちゃん僕は80点取ったで、」
「なんや、80点が、百点。取らないと意味ないで、」
また次のテストで、「お母ちゃん。僕90点取ったで、」
「まだ百点取れないのか。あれだけ勉強して、何か頭が悪いのと違うが」
「お母ちゃんのバカ」

この会話で、子供が言うように、「本当にお母ちゃんはバカ」
なのだ。これでは子供の成績が伸びるはずがない。
































母の背中の子守歌

2011年10月30日 | Weblog
母の背中の子守歌

ちかごろ街で見かける乳幼児を前におんぶした母親が多いのには驚く。
今の今まで、子供は背中に背負うもとのだばかり思っていたが、どうも近頃は見かけない。どうして子供を背負わないのだろうか。
人間ひっくりけるというのは後ろ向きに倒れることは少なくて、こけるというと前にひっくり返ることのほうが圧倒的に多い。だから子供がけがをする確率が高い。
前におんぶひもでくくりつけるとは、いったい何事だ。これじゃ子供の安全第一が最優先されないではないか。若い母親が自分の格好よさを気にする前に、転んで子供にけがをさせること回避するすることが背中のおんぶの意味ではないのか。

歌の文句じゃないけれど、
背中に負われたのはいつの日か、、、、、母の背中で聞いた歌を道連れに 、、、
むかしから、子供は背中に背負うものと決まっている。そこには子供を育てる伝統的な知恵が凝集されている。
曰く。安全、体のぬくもり、眠りを誘うゆったりとしたリズム、それにゆっくりした単調な子守歌。等々。
母の背中に背負われた時に子供が感じるのは、何よりも母の体温のぬくもりである。ねんねこ、母の背中の体温の暖かさ、それに子守歌はセットじゃないかと僕は思う。

まだ西も東も分からない幼児にとって、もっとも安心していられるところは、母の背中である。だから、だだをこねて泣きじゃくる嬰児も背負われると、安らかな顔して夢路をたどるのである。
後ろに手を回して、ねんねこの上からとんとんとたたく、あの優しい拍子に促されて眠りにはいるのが、嬰児の常態である。

前おんぶ(と言うのかどうかは知らないが)では子供の顔は見えるかもしれないが、人格形成に大切な皮膚感覚のふれあいはない。前向きじゃ、子守歌も歌えない。
人間はどんなに大きくなっても、母に背負われた時のあのぬくもりや、母を思い出さずにはいられない。それは盲腸のように体内にへばりついている。それは時としてノスタルジアとして、失いかけた人間感覚を取り戻させてくれる場合だってある。

前に背負うほうが良いという特段の理由も見つからないのに、見てくれと言うだけで本質的は背中のおんぶが持つ、人格形成にとって貴重な皮膚感覚(これは理屈を超えている)をあえて放棄している現状を見るとき、どうも腑に落ちないと思うのは僕一人だろうか。 昨今のように人間関係が希薄になり、それが家族にさえ及んでいることを考えると、家庭における人間的なふれあい、口先だけで言うのではなく、体温を通してと考えることは 大変重要なことだと思うが。、、、、

ときめき料

2011年10月29日 | Weblog
ときめき料

白川園。飛騨川の川沿いの国道4号線。白川茶売っているドライブイン。
年の頃、22,23才くらい。 ぽちゃぽちゃの色白べっぴんさん。
ひな壇から抜け出たようなべっぴんさん。
赤い口紅とオチャボ口が何ともかわいらしい。
耳に付けている、三日月型のイヤリングがとてもにあう。

山深い、山里には平家の落人の末裔がいるとか。彼女に見とれた。
買わなくてもい湯飲みを300円で買った。
彼女の顔の見物料と胸のときめき料は300円。 我独りの秘めた想い。

お墓

2011年10月28日 | Weblog


お墓:   11/10/24

都市化、過疎化の影響で、田舎の方では、檀家制度が急速に崩壊し始めている。それを加速しているのが、人心の宗教離れである。

なのに、都心では、墓バブルが起こっている。

東京の青山墓地とか、大阪の四天王寺境内の墓地は、とても庶民が手の出せるような価格ではない。
先日、四天王寺境内の墓地を見に行ったが、1区画90cmx90cmが、500万円だという。あまりの高さに驚いた。もちろん、手が出せなくて帰ってきた。

そこで考えた。徒然草によると、よほどの名家でない限り、250年も経てば、田畑になるという。生きている間は、墓に収まることを望むが、死ぬと、そこが墓のもままであるか、あるいは、破壊されて、ビルに立て替えられるのか、まったく不明である。したがって、今では墓は、ついの住処にはなり得ない。

そうだとわかれば、極端な話、僕のように後継ぎのいないものは、「それもアリかなあ。」と思う。
万葉集挽歌には妻を失った葬儀で、妻を火葬して散骨。白い骨が太陽に輝いていたとはある。古墳時代が過ぎて、600年代に入ると、火葬へと移りかわるが、その後のケアーやフオローやがなされていない 。


万葉人の基本的な考え方
人は必ず死ぬ。だから、男とし生き、女として生きる。相聞歌を歌い交わし今日を楽しむという考え方は、いつの世も、変わらない。
そういえば、哲学者ニーチエも同じことを言っていた。



膝上30センチ

2011年10月27日 | Weblog
膝上30センチ: 11/10/27

山の神と二人で、久しぶりに繁華街に出た。
年齢のせいか、人込みの中にはいると、目が回り、疲労を覚える。
今日こうしてできたのも、1年ぶりだ。だから余計に目が回る。
普段は、団地の一室の我が家に鎮まっている。外出するのは、徒歩五分のスーパーに行けば、すべて事が足りるから、このように、街中にやってくることは滅多にない。そんな都会出身の田舎者二人連れ、が、30分地下鉄に乗ってやってきた繁華街だ。
すぐ目についたのは、賑やかな商店街を闊歩するギャルのスカートの短さであった。膝上、30センチというと、股下10cmくらいで、危険水域すれすれである。
若いぴちぴちギャルの中でも、突出した感がある。
一目見たとき「おお。これはこれは」と好奇心でいっぱいである。目は釘付けにされた。
一体、どんな顔立ちの娘だろうかと立ち止まって、よく観察した。
眉毛は、つけまつげである。お化粧は、チンドン屋まがいの派手さである。髪は金髪を通り越して、銀髪である。
茶髪でも派手だと思っていたのに、金髪が出てきた。それに驚いていると、今度は銀髪が出てきた。白色でもなければ、灰色でもない。強いて言えば、シルバー色である。
若さゆえに目立ちたいのだろう。本人はこれで十分輝いていることを表現しているのだろうけれども、私のような田舎者には見慣れないだけに、なんだこれはと驚きが先に立つ。。

しばらく立ち止まって、突っ立って彼女を見ていると、お尻のあたりをどやされた。何だと思って振り返ると、山の神が鬼のような面をしている。あれっと思っていると、手を引っ張られて歩かされた。
それから山の神のお説教が始まった。
「としがいもなく、若い女と見れば、涎たらすような顔をして。自分の年齢でも考えたらどう?」
「あんた。やいてるの?」
「やくものですか。アホらしい。大勢の人の前で、アホ丸出しじゃないの。しっかりしなさい、」
なるほど。そういう見方もあるものだ。見慣れていれば、ともかくも、今までの常識しか持っていない、田舎もんが、あのような格好をみると、ついつい見惚れてしまう。
頭の中は、やはり先程のギャルのことで、埋まってしまっている。山の神が、何と言おうと、こちらは目の保養を楽しんでいるのだ。
男には、目の保養という楽しみがあるのに、女にはそれがない。そこが女と男の違いの最先端である。

しかし、世の中変わったものだ。とは思いながらも、次々に、現れるニユーファッションには、驚く。これが現代か。感心したような、驚いたような、思いが頭をよぎった。
テレビで見るのと、現物、本物を見るのとでは、雲泥の差がある。都会に住む田舎者とは、オレのことか。現代についていってない。
自分が、社会から、阻害されているようだ。そんな錯覚?に、陥った。


































歌声喫茶の復活7-22

2011年10月26日 | Weblog

歌声喫茶の復活

僕たちは夫婦である。何十年も連れ添っているから、お互いにすれ違う部分もだいぶ、こすり合って角がとれてきた。それはちょうど川の石がお互いにぶっつかりあいながら時を経て、丸くなっていくみたいなものだ。が、歌に関しては好みが全然違う。
母ちゃんは未だに歌声喫茶である。
歌声喫茶と言えば、昭和30年代にはやったもので、青春時代の若者が集まって、アコーデオンの伴奏で入り口で、もらった歌詞カードを見て全員で歌うのが常だった。
誰が言ったのかしないが、清く正しく美しくみたいな感じがあって、そこで歌われる歌は、ロシア民謡、や日本の叙情歌、童謡、などの青春歌であった。
歌には恋心があったが、それは恋愛感情をオブラートでくるんであり、何となく高級趣味みたいな感じがした。まさに青春時代にはふさわしいものであった。
高齢者になった今でも、叙情歌は心の底に沈殿している。が、何かリアルな感じがするわけではない。幼き日のノスタルジャである。いつまでもつきまとうあこがれの世界である
それに比べて演歌は大人の歌である。そのテーマは愛して、恋してという基本的欲求にそったものであるが、これは時によれば、実感を思い起こさせるだけに、リアル感がある。そして演歌にはまってしまうと、歌と言うより現実を追い求めるような気持ちになる。詞と曲の力なのだろう。よる酒などが入れば、酔いが回るせいか身につまされるような切ない気分になる。
しばらくは夢の世界か、幻の世界か、訳が分からないが、さまようことになる。この世の憂さを忘れて明日の活力を、あるいは英気を養うならば、演歌は生きるためのある種のビタミン剤であろう。
往年の歌声喫茶の復活はあるのだろうか。恐らく復活はしまい。というのはその頃に青春を謳歌していた人達は、ぼつぼつこの世を去る年齢に達しているから。


体罰

2011年10月26日 | Weblog
体罰

体罰は学校教育の現場では、国の法律によって禁止されている。
近頃教師が生徒に体罰を加え、けがを負わせる事がよく新聞に載る。
体罰に至った経過など細かくは出ないで、生徒が殴られて、、、、と言う部分だけが報道されているので、その当否は分からない。が、体罰はいかなる場合でも禁止されているから、やはり教師が悪いということになってしまう。
現実の場面、たとえば親はしつけのために、つねったり、たたいたりすることが今日でも、しばしばあるのではないか。
安全パイは何事が起きようとも、体罰をしないことだが、それで果たして教育指導という責任がもてるのだろうか。
やむを得ず体罰を加えることもありだと僕は思う。
その時は校長の面前で、主任や同じ学年の先生達と連携の上、尻をたたく事だ。顔や頭を殴ることはとんでもない。それは指導の範囲を超えて暴力になるから、やめるべきだ。
柔道の出来る先生がいたら、道場でけがをしないように技を掛けて、投げて貰うのも、1つの方法だ。学生時代は誰でも親から、たたかれたり、つねられたりした経験があるのでは無かろうか。それもこの年になると懐かしい。

現場の声としては、要は口での指導には、限界がある。滅多にないことだが、悪いことをすれば道場で技を掛けられて痛い目に遭うと言う指導と、経験は必要だと思う。
生徒にとって学校に怖いものがいなくては教育は成り立たない。悪いことをすれば
痛い目に遭う。これは卒業しても生徒の記憶に残ると思う。そこにこそ教育が成り立っていると思うからだ





今を楽しく、:

2011年10月24日 | Weblog
今を楽しく、: 11/10/24

人間は必ず死ぬ。しかし、そんな自覚がないままに、日々を暮らしているが、光陰矢のごとくということわざを忘れ、時間を忘れちゃっている。

無駄なことをしたり、余計なことをしたりし、考えたり、せずに、今を楽しむことを集中的に考えた方が良い。
古代人は、この人間の宿命をよく悟って生きていた。

現代人は、楽しみ方も、いろいろ多くありすぎて、人間の本質的な喜びを見いだせないままに時間をさ迷ってよっているように見える。
ここいらで、一度生き方を再点検してみたらどうだろうか。提案したい。

それは判るが、じゃ現実に何をしたらよいのか。それがわからないじゃないか
といわれたって、人は皆おかれている状態が違うので、自分で考えなさいと言うほかはない。

アラフオー7-23

2011年10月21日 | Weblog
アラフオー

石走る 垂水の上のさわらびの 萌えいずる春になりにけるかも    志貴皇子
(現代仮名使い) 

 志貴皇子は天智天皇の7番目の皇子で、のち光仁天皇になる。上記の歌は普通なら、中学 高校で習う万葉集の4500首のなかでも、代表的で、美しい短歌である。
中高生が読んでも、差し支えない1首である。相聞歌は深読みすれば、大人でないと分からない意味が歌われているし、あからさますぎて、気恥ずかしさが先走る。
とはいうものの、当時の平均寿命は現代のように、70や80代と言うことはあり得ないから年若くして、現代の大人がやっと理解できるような歌を詠んでいるのは、短い寿命を精一杯生きることを本能的に直感して、生きたのであろう。そして日々の想いを素直に歌に込めたのだろう。それは相聞歌に限らず、雑歌でも、挽歌でも同じだ。
40代にもなれば、もう老婆の域で現代のアラフオーとは大違いだ。アラフオーはどこからみても、老婆には見えない。時代の進歩だろうが、さて心の中身はと言うと、
どう変わったのか。彼女たちは美容にあらゆる手立てをする。これって女磨きかそれとも、男の関心を引こうとするのか。どちらでも結構でござる。見目麗しい女は多い方が世の中明るくなる。

万葉人の生活でも最も大切なことは男として生きることであり、女として生きることであることからして、相聞歌では率直に、時には生々しく歌い上げているのだと思う。
現代人は社会や家庭崩壊の危機にさらされ、殺伐とた時代をさまよっている。
そんな日々の生活に潤いを与えてくれるのが万葉人の生き方ではなかろうか。
古代言葉でわかりにくいが、逐語訳の必要はなく、好きなように想像できるのが嬉しい。

ある日万葉世界の実感を味わいたくて、飛鳥地方を独りで旅をしたことがある。
大都会にすんでいる僕には、飛鳥はひなびた田舎である。のんびりしている。そして夕暮れになって甘樫の丘が黒く姿を変えるとき、空はあかね色に染まり、やがて夜の帳がおりるころ、僕が感じる飛鳥地方のノスタルジャは最高に達する。一方で僕は大都会で、
現代という時代の風に染まって暮らしているので、こんな不便(住めば都だろうが)な所にはとても住めそうにもないという想いが頭をよぎる。
。ここが万葉の故郷でなかったら、ふらふらすることもなかろう。

僕は詠んだ
甘樫の丘は明日香風 采女の袖を吹き返す
思えばここは 古代の(いにしえの)大宮人の夢のあと

応用動作を効かせる。

2011年10月21日 | Weblog

応用動作を効かせる。

信号が赤の時、歩道を横断してはいけないのか。
法律では信号は守るように決められている。そのほうが、安全を守れるからだ。

ところが僕の場合、急いでいるときには、よく信号を無視して、道路を渡ることがある。もちろん信号は赤だから、左右両方から来る車はないか、念には念を入れて調べて安全確認をした上での話ではあるが。
法律は守るべきものである。しかしそれに縛られて、いつの場合も身動きがとれないのは、いかがなものか。
人は自分の状況というか、都合というものを抱えて、それにあわせて行動している。時と場合によっては、決まりと状況が衝突する場合がある。そのときではどうするか。僕の場合は自分の都合を優先する。最もその行動が他人に迷惑をかけないか、かけるとしても最小限にするという前提が付くのだが。
周囲の状況をよく飲み込んで、行動することは、言うまでもないことである。
状況さえよく把握して行動すれば、安全が損なわれることはない。絶対ないのかと言われると、そこまでは答えかねる。というのは、人は常にハプニング(想定外の)と言うものが起きる可能性があるからだ。そうなったらそうなったときのことで、対処しなくてはならない。

僕の場合は、「信号はみんなで渡れば怖くない」とは違う。
「信号は独りで渡っても怖くない」のである。
そしてここには独りよがりがある。僕自身のことについて言えばこうだが、それを普遍化して、いえることではない。あくまで自己判断自己責任の世界での出来事である。

脚下照顧7-24

2011年10月20日 | Weblog




脚下照顧

さる寺の門をくぐったら、半紙に「脚下照顧」と、黒々とした墨書で扉に張ってあるのに気がついた。
たまにこのフレーズを思い起こして、我が身を振り返ってみるのはよい。が、毎日毎日足下を振り返りながら、、、、なんてことをしていたら、人間が身動きもとれず萎縮してしまう。
ちょうど百足が自分の足の動きを確かめながら、歩くようなものだ。100本の足の1から100までの動きを、意識しては歩けまい。百足は恐らくたちまちにして歩みを止めてひっくり返ることだろう
 
実際に歩く際に、つま先をながめると、砂利道の歩道の砂利は飛ぶように早く動いて、見つめていると目が回る。頭を上げて行く先の前方を眺めると、辺りの景色は固定したままである。素早く動くと言うことはない。そういう現実からすると、足下を見つめるのは大切ではあるが、足下ばかり見つめていると、つまり「脚下照顧」ばかりでは現実にそぐわない。
脚下照顧はいったい誰のためにあるのかというと、浮ついてすこしも自分の足下を見つめようとしない人に、「たまには足下も見ろよ」と進言しているのである。
その程度に解釈しておかないと、身が持たない。足下を見つめ直せなどというフレーズは、「一瞬立ち止まれ。お前のしていることは完璧か」と言うニュアンスがあるように聞こえる。
完璧な人間なんて誰もいないわけで、したがってこのフレーズは人の気勢を制する言葉に聞こえる。
相手の隙を突こうとする場合には使える言葉だが、あまり好きではない。というのは人は完璧なことを積み上げて毎日生活しているわけではないから。「お前完璧か」といわれると、誰だって虚を突かれた感じがするものだ。「よけいなおせわだ」とは思ったが、ここはお寺である。お寺は説教所でもある。
僕は顔でふーんと言うそぶりを見せたが、腹の中では「馬鹿な」とつぶやいた。




朝日新聞夕刊素粒子

2011年10月18日 | Weblog
朝日新聞夕刊素粒子

昨日長々と九電の問題を、ブログに載せたが、10月18日の夕刊で、素粒子氏は本質を短歌でも詠むような調子で、看破している。

器用な人もいるものだと、いつも感心して読んでいるが、今日は参ったなと思うので全文を書いておく

見えるものには真実なく、隠されたものに実態がある。世に真理を知らしめた九電社長と 佐賀県知事の名コンビ。

九電社長・会長殿

2011年10月18日 | Weblog

九電社長・会長殿

自社が立ち上げた第三者委員会の答申を無視して、九電独自の最終報告者を経産省に提出したがこれは何の意図が在って作成したのですか。趣意がよく判らないのでお尋ねします。

1,第三者委員会答申を割愛して、古川知事についての報告をしない理由は何ですか。
これでは県民はぐちゃぐちゃの癒着を疑うのは当然のことですが。県民の目にそう映るとは想わなかったのですか。

2,海江田前大臣に言われて、辞任すると言いましたね。だが今は今後も続投すると言ってますね。前言はどうなったのですか。適当に政府高官を欺いて良いのですか。貴方の発言はそんなに適当で軽いものなのですか。

3,枝野大臣も君たちのやることは理解不能といってますよね。あの報告者を読んだら誰だって理解不能です。読後感に残るのは、自分の事を一体何様だと思っているのか。社内でならいざしらず、天下にあの報告種は行き渡って世間の常識と大きくずれている。という不快感だけです。あれで再稼働への理解はさらに遠のいたのと違いますか。
あんないい加減なご都合主義の最終報告書を誰が信じますか。あんた達は国民をバカにした報告書だとは想いませんか。

4,枝野大臣は,国が地域に働きかけて、と言う前に、九電が周辺住民を納得させて再稼働が始まると言っているのです。国の指示に従わない組織は無いと今頃になって、まな板の上の鯉を演じてる。
どこにあなたたちの主体性があるのですか。再稼働したいのが本音でしょう。だったら住民が納得するように言動しなくてはならないと想いますが、、如何ですか

5,今回の原発事故を見て、国民は原発のことを真剣に考えているようです。皆この問題に関しては、真剣なのです。まかり間違えば子孫にだって悪い影響を与えるのです。そう言う重大問題を、貴方達は当事者として、どういう風に考えいるのですか。
社長風を吹かして、社内では通用するかも知れないが(心ある重役は苦々しく想っているだろう)、世間では全く通用しない理屈をこねていると言うことに、気がつきませんか。大臣に言われたからまな板の鯉になりますとは、肝心なところが欠落してますね。よーくそれで大企業のリーダーがつとまりますね。いやー、実にあきれました。お粗末そのものです。


死刑執行について

2011年10月17日 | Weblog

死刑執行について

弁護側の証人として出廷した元検事は死刑の現場に立ち会って、死刑は憲法で禁じた残虐刑に当たると、生々しい死刑の状態を語った。
そうだろう。合法的に殺人をするのを目の前にして、実感を述べるのはよく分かる。だが君。想像してみろよ。罪もない人を殺したその残虐性は、死刑以上のものじゃないか。君は検事で取り調べをしたから、その辺の情景については詳しいはずだ。現行は無実の人を2人以上殺した場合が死刑に該当するようだ。何の罪もない善良な市民を2人も殺した、その残虐な場面を想像できないのか。
苦しみもだえながら殺されて行った被害者の苦しみを。ある人は燃えさかる火の中に放り込まれて焼き殺されたのぞ。またある人は命乞いをした人を残虐な殺し方をしたのだぞ。君は死刑囚の刑執行を目の前にみてきて、殺人というものがどれほど恐ろしいものか。むごたらしいものか。君は想像しないのか。出来ないのか。君は先日TVで「(一般の人は)むごたらしいからふれないという態度、、、」と発言した。
ちょっと待て。
君は「国民の80%以上の人が、死刑もやむなしだとおもっている」と言うことをそんなレベルでとらえているのか。それはまじめに考えている国民を愚弄するものである。君が目の前で死刑を執行されているのをみて、残虐だと言うかも知れないが被死刑人は、君が目の前にしている以上の残虐なことをしているのだ。しかも二人以上だ。自分の欲のために2人も殺した奴に、死刑が相当するのは常識に見て当たり前の話じゃないか。
死刑執行の残虐性をアッピールしようという、そしてあわよくば死刑廃止に繋げようとする魂胆が、許せないのだ。
君の言うようなことに耳を傾けて死刑反対という世論が巻き起こるとでも思っているのか。君が個人の意見として、死刑に反対しても一向にかまわないが、
死刑は社会正義実現のために、在ることが大前提にある。その執行方法について、絞首刑が残虐だと言うなら、銃殺でも良い。潮の満ち引きを利用して、誰も立ち会わずに、水死させる方法だってある。薬殺でもよい。いずれにしても犯した大罪については、自分の命でもって償う他はない。社会正義はそこにある。君のような検事という取り調べる立場にいる人間が、バランスを欠いた自己主張のみを公の場で 発言するのはいかがなものか。
もっと納得いく説明をして発言したらどうか。

格差

2011年10月16日 | Weblog
格差

大阪維新の会が提案する教育条例で、提案した維新の会のある市議は、教育上の格差は認めるとした。
今までそう思っていた人達も、世間を吹く世論の風は格差是正というものであるから口に出せなかったのではないか。

格差にもいろいろあって、たとえば、いまアメリカで言われている経済格差は当然是正されるべきだろう。しかし一方ではある程度の格差はあって当然だとも思う。格差というとすぐ格差是正を連想するのではなくて、格差の中身を十分吟味した方がいい。

教育上の格差でいうと、東京都がかって公立高校を学校間格差是正しようとして、高校の序列をばらばらにした。つまり勉強好きで出来る子も、勉強嫌いで勉強はさっぱりという子も同じクラスで授業をするという極端なことをして、格差是正をしたつもりだった。
例を挙げるとあの名門校日比谷高校を秀才校ではなくて、その他の一般校にしたものだ。
その結果どうなったか。名門校日比谷高校は東大合格者が激減した。秀才は私立高校に流れたのと、その受験のための塾を増やしただけだった。学校間格差是正の名のもとにとられたこの施策は愚策だったと言うことが分かった。今になって昔の序列に戻すこ方がよいということで、6年間一貫教育にしようとする動きもある。
あまりにも有名私立校に偏りすぎるので、東大では特定の私立高校からの入学者数を限定しようという意見が出たくらいである。
これは社会の自然な姿で、つまり人間の現実は、知能優秀児から遅滞児まで知能は分布して、それは正規分布であるというのが 現実の姿なのである。そして世間の要求で優秀児が集まる学校が出来て有名大学への進学率をアップさせているのである。言い換えればソーシアル・モービリテイ(社会的強制力とでもいおうか)の風が吹いているのである。
考えてみれば分かる。人間の知能分布は正規分布である。それを数だけ均一化してしたら、よく出来る子供から見れば、たいくつ な授業であり、苦手な子共にとってみれば難しすぎて退屈な授業である。これは善し悪しの問題以前である。教育によって知能指数を簡単に引き上げたり、引き下げたりは出来ないのである。

現実論からすると、秀才は秀才なりにそのレベルの教育を、また苦手な子はそれなりに楽しく学べるようにしようと思うと、授業だけは進度別とか、習熟度別にしないと現実論になってこない。そこがポイントだと僕は思う。だから知事の言う高校教育の望ましいあり方の教育論と僕の意見はこの点では一致する。昔のナンバースクールの復活は単なる
ノスタルジャではなくて、教育に携わってみてそう思う。能力別の学校ができて、そこに格差が生じることは、当然のことで、それは自然の原理として認めなければならない事柄である。