日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

ねばならぬ

2012年11月30日 | Weblog
ねばならぬ

作曲家は曲を、作らねばならぬ。

曲を作るために、曲にする何かがなければならぬ。

その何かとは何か。それは諸々の感情である。

その感情は心の神と、結びついていなくてはならぬ。

そして作詞に盛られた感情は、一つ一つがイメージとして頭に浮かばなければならぬ。

イメージとなった映像と音を分離して、楽譜として完成させなければならない。
こうして作曲をする場合、ピアノ演奏能力は必ずしも必須ではない。
つまり作曲しようと言う気持ちを持てば、必ずしも楽器がなくても、曲は作れる。ただし猛烈な精神緊張を要する。



仏教歌作曲について

2012年11月29日 | Weblog
仏教歌作曲について

自分の性分に合っているのは仏教歌曲である。それは歌詞がどれも人生を語っているからだ。
人生を語るといっても、俗人のそれではなく、修行する中から生まれた非常に清く高邁で清潔と言う感覚があふれている。

自分がそうありたいと望んでいる修行僧であっても、仏の道から逸れることがあり、そこに懺悔や後悔の念が生まれ、それなりに悩むことも多い。

僧侶といえども、人間として煩悩を持ったものであり、修行の身は常に仏道に照らして、己の所作をチェックするものである。

このような心情から絞り出されるフレーズは凡俗には、どれも新鮮に映る。
その新鮮さにマッチした曲をつけるのは、それなりのセンスが必要だが、それが自分の性分に合っているということである。

そういうことで、仏教界で修行されている方々が読まれる詩には、共感を覚える。だからかれこれ100曲近く作曲したのである。



握手 黒川博士のこと

2012年11月28日 | Weblog
握手 黒川博士のこと

先生がガン研の総長をされていたときの話らしい。僕はある雑誌の対談で読んだ。

「ガン研に来る患者の大半は死におびえ、心が冷え切っている。
僕は患者さんに対面するとまず握手をする。そのためにズボンのポケットにいつも、カイロを入れてあり、それで手を温めてから、温かい手で握手する。
そうすると患者さんにその温かさが伝わって、安心するのか、心開いて心中のことを打ち明けてくれる。

たかが握手である。されど握手なのだ。死に怯えている人々に、少しでも暖かくなる手を差し伸べる、その心使いに僕がぐっときた。
先生はもう既に世を去られている。

だが僕は先生に手紙を書いた。本来なら御仏前に届け、供えるべきかもしれないが、その手紙はいまだに、僕の机の上でおいたままだ。

小さな心遣いと気配り。その配慮は患者の命を救うことにつながる。
これはすばらしい教訓だ。重く受け止めておこう。



バイトのおばちゃん

2012年11月27日 | Weblog

バイトのおばちゃん

「オタクいろいろと御託を並べてしゃべっているが、そんなことして1時間いくらになる?
私はバイトをしているので1時間働けば800円になる。言葉はどうでもよいから、体を動かして働きなさい。わけのわからん難しい話なんかして
ナンボの金になる。考えたら馬鹿馬鹿しいと思わんのか。?」

「おばちゃん。こういう人間がいてもいいと思わへんのか。?」
「思わへん。ご託並べるやつにはろくな奴がいない。昔からソレが通り相場や」

バイトすることこそ、体を使うことこそが大切なんだという信念を持っている人に、何故選挙に行かなければならないのかという話をしたら、こう言う会話になったなった。
「おばちゃんも言う通り。」
「御託を並べても何も生まれないから。健康のためにも体を動かすことや。」

う~ん。付ける薬がない。


中国の反日感情

2012年11月26日 | Weblog
中国の反日感情

基本的には中国の歴史教育にありそうだ。
近現代史を考えてみると、中国は日本から侵略を受けた歴史的事実を踏まえて、自国民に自主自立だけでなく、世界支配に乗り出す大国主義への希望を、教育の中に取り入れ、それを完成させるために共産党一党独裁を守っている現実を教えていると思う。

中国民感情の中には、残虐な日本人(本当は軍隊なのだが)に対する嫌悪感があるのはある意味当然だろう。そういった基本感情の中に今回尖閣諸島を奪われた(中国はそう見ている)のだから反日デモが起こるのは無理もない。

加えて経済の発展により大国主義の実力が備わったと自信を取り戻したのが現状だろう。彼らが歴史教育から受けた感情には、日本人は鬼子だという感覚がどこかに残っていると思う。そして歴史教育は近代史で帝国主義時代の領土分割と、その支配も教えることになっているだろうから、それは当然教えているだろう。

こう言う中から、なにかうまれてこようか。
過激な連中は反日デモや反日暴動という時限爆弾をいつも抱えている。いくら当局が押さえ込んでも、それは一時的なもので、問題があればいつ爆発するかわからないのである。

経済界は中国ビジネスをかるく見てはいけない。実力をつけた段階で日本企業ゴーホームの時が、必ずくると思われる。未発展な時代は日本の経済力や、企業は表面的には歓迎されたが、経済大国第二位の地位を占めるようになった今では、彼らの中には、日本何するものぞ、という優位感情が生まれてきている。

こう言う状況なので、真の意味での交流は無理だろう。加えて伝統的に中華思想もあるから、小国日本は彼らの属国であってしかるべきだという考えもあろう。心底ではなくて表面的には、彼らが利得を得る場合のみ握手をするだろうが。日中関係にはそんな歴史と国民感情が渦巻いていることを日本国民は知るべきだ。

彼らの自信とは裏腹に、まだまだ技術は日本の方が進んでいる。中国新幹線の事故では事故車両を検証もしないで、地中に埋めるような幼稚な方法で事故を隠そうとする国だから。



週刊朝日」が掲載して謝罪

2012年11月24日 | Weblog
週刊朝日」が掲載して謝罪

大阪市の橋下徹市長の出自を題材にした連載記事を、「週刊朝日」が掲載して謝罪・打ち切った問題で、
橋下氏は「朝日新聞社グループは鬼畜集団だ」といい、対決姿勢を維持。週刊朝日とノンフィクション作家、佐野眞一氏に記者会見での経緯説明を求めるとともに、第三者検証委員会の設置を要求した。

 週刊朝日の最新号(23日発売)は、河畠大四編集長名で見開き2ページにわたり、「地区を特定するなど極めて不適切な記述を複数掲載してしまいました」「企画立案や記事作成の経緯などについて、徹底的に検証を進めます」

意図が明白なのに、今更徹底的に検証するとはどういうことか。

佐野氏について「明らかにペンの力での家族抹殺だ。逆に僕は佐野を抹殺しに行かなきゃいけない」といい、
週刊朝日が橋下氏の母親に同誌を送りつけ取材を申し込んだことも「人間じゃない。朝日新聞社グループは鬼畜集団だ」と怒りを爆発させた。

問題となった連載は、週刊朝日が10月26日号から開始したノンフィクション作家、佐野眞一氏と取材班による

「ハシシタ 奴の本性」。橋下氏を「この男」と呼ぶなど、批判的トーンで出自などに迫っている

出自だとか、この男と呼び捨てにしたり、
ハシシタ 奴の本性とかく正義感や良心のなさ。執筆したS
は徹底的に糾弾されるか、社会的に抹殺されるか 。その程度の制裁を受けても当然だろう。

秋の奈良公園

2012年11月21日 | Weblog
秋の奈良公園

近鉄電車は、奈良市の中心部へ地下鉄となって乗り入れる。階段を上って地上に出ると、奈良公園はすぐ近くだ。駅前の行基菩薩の噴水を右手に、みながら、坂道を東の方に、200mも歩いていくと、左手に県庁. 右手に公園が広がる。寒い風に当たりながら、晩秋のよわよわしい日光を浴びて、右折して公園を横切る形で突き進むと、東の方に興福寺の五重塔が見える。

興福寺五重塔
五重塔の原型は、スツーパである。釈迦が入滅したとき、遺骨は八つに分けられて、その一つが、インドのパトナーの近くにある北側バイシャーリー遺跡の発掘によってここに、納められていたことが最近の調査で分かったらしい。
釈迦の遺骨を収めたのが、スツーパで、それが時代を経て、塔になり、今僕の目の前にある。興福寺の五重塔がそうである。これはインドへ行って見て来なきゃ。気のつかないことだ。

インドの旅がきつかった。自然条件の違いもさることながら、僕と接触する、インドの人々(インド人かどうかわからない。)面々とは、心情的に違うものを感じて、最後まで、気が許せないで、合わなかった。、釈迦を尊敬し、合掌してその教えを日常生活の中で、隅々まで染み込んで、できたはずの日本人の心情とはまったく異質なものがあると思った。
なぜだろう。

日本には現れず、聖なる大地マハーバーラタのインドに、聖人は現れたというのに、インドに生まれた、正確には、ネパール、ルンビニに生まれた釈迦。その人の教えを精神生活の支柱ともしているというのに。

そこで僕は考えた。その他大勢の雑魚は、インド人でも、日本人の僕でも、普遍的なことを考える前に、各々の立場を最重要視するために、言い換えると、己にこだわるために、溶け合わない部分が目立つのではないか。と、そういう理屈をつけてみても、じゃ 握手という訳にはいかない。まだ心に引っかかるものがある。

目の前の国宝のこの五重塔を見ていると、やはり日本をみてしまう。ネパールでよく見かけた特に、カトマンズ郊外のバクタプルで見かけた、木造建築の塔ともまた違う。しかし基本である尊いものをまつるというスツーパの原理は石造か木造か。スケールの大小か。そんなことには関係なく、仏教では重要な建造物である。

せっかくインドの仏跡めぐりの旅に出て、サルナートまで来ながらサルナートにある有名な石造のスツーパを見逃したのは、なんとしても、残念で悔しい。
バラナシには、何日も滞在したのに、サルナートの見学は1日で済ませた。なぜだろう。多分相当疲れていたのだ。境内にあるマハーボデイ寺院では、日本語を話せるインドの若い修行僧がいたし、僕が生まれる1年前に亡くなっている画家・香雪が、この寺に、壁画で釈迦の一代記を残している。

サルナートは、バラナシの北約15キロのところにある。境内は芝生の緑が眩しい。そしてなによりも静かである。小さい動物園があり、池にかかった橋を渡るとき、水面を見ると、小魚がたくさん泳いでいる。パンをポケットから取り出して、水面にほうり込むと、小魚がソレを知って、銀鱗が踊る。心が和む。一瞬だ。そして境内には、釈迦が初めて説法したときの様子が像で表されている。釈迦の説法を聞いている5人の弟子たちの像が、等身大で、設置されている。像は日本人の僕から見ると、ちゃちである。日本では、釈迦であろうと、その高弟であろうと、荘厳であり威厳があるのを見慣れているので、物足りないものを感じた。

どうしてあの大聖人をこんな軽いタッチの像にするのだろうか。人種によって美的感覚が違うのだろうか。
まず最初に、ブッタガヤのマハーボーテイ大塔にある釈迦の大像を見た時の第一印象は、日本のそれと比べてなんと軽いタッチの像だろう。まるでおっちょこちょいに仕上がっている。と不思議に思った。その印象が尾を引いているのだろうかとも思ったが、それは違う。
作りそのものが荘厳なものではなく、僕の目から見れば、軽いタッチで、作るのが、インド人の国民性なのかもしれないと思い直した。

どうしたわけか。興福寺の五重塔を目の前にして、次々と頭の中を駆け巡るのはインドの仏跡のことだった。ブッタガヤ、ラージギル ナーランダバラナシ サルナート。、、、
やがて初冬の西日を浴びて、塔は輝きだした。これを見納めに帰途についた。

















軽く言う

2012年11月21日 | Weblog
軽く言う

俺が責任とればいいんだろうと、人は割合軽く言う
責任をとるということは一体どういうことなのか。
おそらく言葉だけでければ良い、と思っているのではないだろうか。そんな場合もある

しかし責任をとるという手前、こういったことで命を投げ出す場合だってある。財産を失う場合、職場を失う場合もある。
かなりそれは重いものであるから、軽々しく口にする言葉ではない。
軽々しく口にする連中の責任感は、はったりで元々責任をとるという自覚が無い。

選挙が間近い。演説を聞きに行く気にはなれないが、各党の主張は丁寧に新聞で読む。テレビでは与党と野党が相手の非難ばかりしている。非難する前に他党が何を言おうが、我が党の主張はこうで、これを実現するために選挙戦に勝ち抜くと、言うのなら聞く価値もあるが、立場の違う党同士
が相手の足の引っ張り合いと、非難中傷合戦をいくら繰り広げようとも、何ら生産的なことは生まれないし、ソレを聞いて一票入れる気にも成れない。話を聞いていると口で言うだけで、予算的な裏付けの無い話が多い。

複式簿記的国家管理がまだ確立してないこの国では、結局景気を良くするという理屈を付けて、垂れ流しをやって来た。1000兆円に登る借金が残った。おそらくまた同じ事が行われる事だろう。

誰がやっても同じだとは思わない。新しい発想で、旧来の国の仕組みを根本から変えるという試みによって停滞は少しましになるのじゃないか。そこに夢をつなぐ。
これが今回の選挙に臨む僕の姿勢だ。

その理由

2012年11月20日 | Weblog
その理由

2011年、3月11日、東日本大震災が発生した。当日は、冷え込んで、零下五度まで気温は下がった。雨やみぞれではなくて、雪である。
人々は、押し寄せる津波に、逃げ惑う。だが、運の悪い人は、飲みこまれた。中には助かった人もいたが、例外なくと言って良いほど。、海中へ引きずり込まれた。
そして再び生きて姿を現さなかった。海水の中から引き上げられた。人たちは、運が悪いとかしか言いようがないが、さらに運が悪いのは、探せども探せども、見つからない。行方不明者である。

震災当時は、被災者に向かって、励ましの言葉や歌が多かった。ほとんどと言って良いほど、行方不明者に、思いをいたすところまではなかった。受難者の中でも、最も悲惨な状態であるにもかかわらず、目につかないものは置き去りにされやすい。名字や、名前は残ってもその人々はいない。
ある人は地中に埋まり、ある人はふるさとの海底に沈み、またある人は、遠い南の島の海底に流されて眠る。
けれども、その気の毒な行方不明者に、心よせるものが少ない。それで良いのか、果たしてそれで良いのか、まだなんとかする方法は無いのか。

震災当日から、2年が近づこうとしている。探しても見つからず、行方不明者として、死亡宣告はされ、肉体は消滅して、お骨だけが残っているだけだろう。
僕の世界観では、これで終わりではない。魂の世界がある。僕は、この世界に向かって、哀悼の意を、鎮魂の音声で示したい、幸いなことに僕は自分の胸の内を表現する方法をもっている。作詞作曲がそれである。
僕は心の中で渦巻くもろもろの思いを鎮魂歌という形で、作詞作曲した。特に、曲の冒頭には、大津波が押し寄せる状況を88鍵のピアノの最低音から最高音に至る全高低を使って描写した。潮がひいた後には、しばしの静寂があり、それから歌唱に入る。
悲しみの涙に暮れながら、「あなたたち」を探し求めて、そして祈る曲が、悲しい。しかし、その中で、「あなたたち」を探し出して見つけても、見つけなくても、まことの祈りを捧げる。、魂の世界では、思いが通じていることだろう。それは、自己満足かもしれないが。
だけれども、僕はそれでいい。「まことの祈り」を作った。その理由は、今まで縷々述べてきたところである。

年収200万円が1000万人

2012年11月19日 | Weblog
年収200万円が1000万人

年収200万というと、それから、社会保障費や税金でも払おうものなら、月収は15万未満だ。都会でアパート暮らし、水道ガス電気などの公共料金を支払うと、手取りはいくらくらいになるのだろうか。そこから3色食べなければ、とすれば、一食は、マックで、100円のハンバーガーで済まさざるを得ないこともあるだろう。

それがどれほど貧乏な生活が。これは体験者しか語れない。そんな状態が憲法違反に、ならないのか。
結局、年収2000万も稼ぐ国会議員が口では、弱者救済といくらとなえても、実行できるわけがない。

加えてこの国には、少子化対策の担当大臣がある。まったくの笑い話だ。結婚したくとも、できないようなカネで、しかも永続的な生活保障もなく、何が少子化担当大臣が。こういう発想は、おそらく官僚の作文が、ポストのほしい政治屋のでっちあげたものだ。発想も発想なら成果も成果だ。
どこか東南アジアの極貧国でもいい、15万円で暮らせと言うのなら、お大臣気分でおられよう。インフラが未整備などで、不満は、あるだろうが、悠々と生活していける。日本のように、基本インフラのベースが高い国では、飲み食いしなくたって、カネがかかる。インフラの維持費がかかる。だから、月収15万は生活のギリギリラインになってくる。
山上憶良じゃないけれども、どんなに困ったところで鳥のように飛び立つ翼のない人間は、どんな不条理にも、じっと我慢するほかはない、それが、貧しい国民なのだ。
問題にしたいのは、年収もさることながら、1000万人という数字は多すぎる。これは増収。つまり、給料をあげて、解決すると同時に、生活コストを下げる。両面から解決を図らなければならない。年収200万円が1000万人というのには緊急対策が必要である。


怪談めいた噂も残る大木

2012年11月18日 | Weblog

怪談めいた噂も残る大木

「クスノキさん」の愛称で親しまれる「楠木大神」。
 大阪市中央区の谷町7丁目の交差点を東に行くと、車道の真ん中にそびえる大きなクスノキが目に飛び込む。根元には鳥居と祠(ほこら)。陶器製の蛇もまつってある。樹齢は500~600年。

「もともと寺の境内にあったのですが、戦時中の道路拡張で現在の状態になりました」。蛇をまつっているのは「巳(み=蛇)さんが住んではるから」とのこと。「終戦間近、木の幹や枝に蛇がとぐろを巻いていた」といった伝承のほか、
「枝を切った工事関係者が急死した」など怪談めいた噂も残る。

ご神木はあちこちに存在する。三輪神社の本殿右手にあった、杉だか檜だかの大木の根元には大きな穴があってそこには巳さんが住んでいる。その巳さんに生卵を供えると願いが叶うというので、心願成就必勝を祈願して2つ入れてきた。
果たしてその年は念願は叶わなかったが、後年になって心願成就以上の御利益をいただいた。やはりあの卵の御利益だ結びつくし、それを信じてるのだから、裏目に出てたら、人が死ぬ事もあるのだとこういう事を信じている。だから道路の邪魔になるから、切って除去するという話が起こるとそれは罰が当たるから止めろと言うだろう。こういうことを単純に信じる自分を素直でおめたい人間だと思う。

大阪市の道路関係者の皆様。この大木は切らないで、ご神木として残してください。車が通るのに邪魔になっても、渋滞を巻き起こすわけではないから、このまま道路の真ん中においてください。何でもかんでも人間の都合の良いように、しようというのは人間のエゴだと思います。先住者は楠の方だから。


救命医療

2012年11月16日 | Weblog
救命医療

国の救命救急センターの6割以上が、過去1年間に高齢者に対して人工呼吸器や人工心肺などの装着を中止したり、差し控えたりした経験のあることが、朝日新聞社の調査でわかった。

救命医療で「最後の砦(とりで)」とされる救命センターでも、回復が見込めない患者に対し、家族や本人の希望があれば、延命治療を控える動きが広がっていた。 朝日新聞社


これを当然のことと割り切ってはいけないのだろうか。専門家が診て
どうしても助からない命を、人工的に何時までも生きながらえさせるのは、どうかと思う。ソレは治療という名を借りた残酷行為だと思う。
出来るだけ自然な状態で、つまり無理に延命しないように、本人、家族、医療従事者等が考えるのが、良いことだと僕は思う。このような状態ではおそらく本人の意識もないことだろうから、なおさらのことである。
自然の摂理からすると、残酷なようだけど、当然である。



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古賀メロディ

2012年11月15日 | Weblog
古賀メロディ

毎回見ているわけじゃない。偶然テレビをかけたら古賀正政男名曲集をやっていた。
じっと耳を傾けたら、先生の作品の中でも、異彩を放つのは、ギター伴奏である。
例えば、「影をしたいて」をピアノで弾いた曲を聞くのと、ギターのつまみ弾きでは同じメロディーでも情感が全然違う。
先生の心はギターの音色に凝集されている。

もちろん先生の曲は寂しいマイナー曲ばかりではない。たとえマイナー曲でも、明るく陽気な作品も多い。
例を上げると「芸者ワルツ」などはそういうことになるだろう。メジャー曲が陽気なのは言うまでもないことだ。
そこで考えた。同世代の当時の、歌謡界の大御所はクラシック系の歌曲・山田耕筰先生と一般大衆歌曲の古賀政男先生。

現代は、大衆歌でも、抒情歌でも、良い歌がない時代と言われているが、
それでも品格の良い山田先生の名曲でもほとんど聞かれなくなった。大先生の名前すら知らない音楽大学生もいる。
この道、ペチカ、赤とんぼ、からたちの花、など慣れ親しんだ名曲は、ほとんどきこえてこない。
それに比べて、古賀作品はカラオケで、名曲として歌われる。
どちらの歌の命が長いのかと問うと、古賀先生に軍配が上がるだろう。
芸術性とか品格とか、音楽教育という面から見れば答えが違ってくるだろう。
昨夜知って驚いたことがある。かの有名な、「酒は涙か溜息」昭和6年に作曲されている。この歌の年齢は80歳を過ぎている。現代の若者の歌状況を見ていると、百才までにはなくなるのではないだろうかと危惧するが。。



ポッポないない

2012年11月14日 | Weblog
ポッポないない

会社帰りに近所のコンビニに寄り、缶ビールとつまみを800円で買って、合計1000円札で支払いました。するとレジの店員が1万円札と勘違いしたらしく、9200円の釣り銭を手渡されました。こうした場合は、一体どう対処すべきなのでしょうか。

金額にもよるね。もしこれが万円単位だったら、やはり返しに行くだろうね。だが千円単位なら、まず猫ばばするね。
第一こんにち、千円単位の金は大した金額ではないから。それにレジが誰に余計な釣り銭を支払ったか、いちいち覚えてはいないだろうし、加えて相手が私に確たる証拠など出し示す事は出来ないだろうからね。

こういうのが大方の思いではあるまいか。勿論正直に気がついた時点で返金しに行く場合もあるが。
100万円でも1万円でも拾ったら交番に届けるのは、当たり前だろうが、じゃ10円玉1個や1円玉を拾って正直に交番に届けたら、お巡りさんが処置に困るだろう。

この分かれ道はその人の器量と常識によるだろう。器量の小さい人は正直をモットーとして、届けるだろうが,常識人はポッポにナイナイしても特段良心が痛むと言う事はあるまい。







不思議に思うこと

2012年11月13日 | Weblog
不思議に思うこと

いつも不思議に思うことだがこの国の経済界のリーダーたちは、目先の電力不足ばかりに目を向けて、原発の再稼働を主張する。

原発が人間のコントロールの下に置かれ、安全に運転されるという科学的保証があればともかく、現段階では、絶対安全の保証はどこにもない。

そして一旦事故が起これば、日本の国家が沈んでしまうかもしれない危険性がある。
一旦事故が起こったらその惨状は福島事故のように、大勢の人々の生活を破壊し、そのあとに除染問題や核のごみ処理の後始末が生じる。これらの費用は一体誰が負担するのか。
一企業では賄うことができず、国家よる救済を待つ他は無いとでもという、甘い考えを持っているのではないだろうか?。
これらは原発の問題として、目の前に突きつけられているのに、その問題は棚上げにして、電力の安定供給とか、安価な電力提供のみをPRして再稼働しようとする。
エネルギー業界人であれば、将来安全な電力供給について、新しい技術や、原発エネルギーに変わる、新しいエネルギーによる発電や送配電のあり方について、先見性は無いのであろうか。
僕は反原発を主張しているのではない。電力に関わる識者やリーダーが、あまりにも目先のことにとらわれて、再稼働を主張するから、その根拠は国民の暮らしに、真の意味で安全を保証できるのか、疑問に思うからである。
現実には大飯原発のみが動いているだけなら、後の40数基それ無しでもなんとかやっていけたと国民は思っている。業界人が反原発を口にすることは禁句かもしれないが、それでも脱原発の方向性をちらつかせるだけでも、どれほど安心感を与える事か。今の経済界や電力業界のリーダーたちは福島事故による惨状から決して目をそむけてはならない。