日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

恋衣 

2008年04月30日 | Weblog
  
恋衣            

赤い夕日に 身を染めて   北を指して帰る鳥たち

白い翼に悲しみ乗せて    お前達かえるのか

かなわぬ恋に 身を焼いて  北を指して帰る私

つらいさだめを一人逃れて 私は帰るのよ

ああー貴方は今も  私のそばにいる

ああー貴方は今も  私を愛している

誰よりも誰よりも   私を愛している


朝は5時起きして僕はとりあえず京都を目指して車を飛ばした。京都からはサバ街道を北上した。小浜についたのは午後1時は回っていたと思う。
まず市立図書館へ行った。彼女に関する本を出来るだけ集めてあると思ったが、案外少なかった。彼女自身の著作物は少ないのは判るが、彼女に付いての研究書や解説書ならいくつもあるはずだ。

図書館には確かに山川登美子コーナーがあったが、ほんのわずかなスペースでお添えものと言う感じがした。その土地の名士であれば、郷土史家がいて詳しく掘り下げて調査、研究をしている人がいそうなものだが。そういう思いが強かった。ひょっとしたらそういう人に出会わなかっただけかも知れない。僕は彼女が学んだ梅花学園に電話して関連事項をコピーしておくってもらい、それだけでは足りないから、ここで彼女に関する本は全て借りることにした。

図書館を出ると、僕は駅へ走った。線路を渡って、これから彼女の墓に詣でることにした。彼女は発心寺の墓地に眠っている。お寺の庭掃除をしている、修行僧に彼女の墓の在処を尋ねた。

墓地の中央の坂道を登って行って、左側の奥にあるという。朝5時起きをして車に8
時間ほど乗って到着したこと。主人公の墓参りをしたこと。我ながら彼女の悲劇に対する、思い入れの大きさに驚いていた。

若狭の空を天がける雲は恐ろしいほど険しい。その姿を若狭湾に映して、北陸の秋は早くも冬の到来を告げているようであった。                   


今は幻の恋人であっても 離したくない 離れない
恋の戦に敗れても     恋衣は破れない
例えこの身は召されても  私の恋は終わらない
あなた色に染まる     恋の炎は
激しくもえるのよ
ああー貴方は今も  私のそばにいる



最近思ったことだが、コンピューターでは作曲は出来ないと言うこと。アレンジは確かに便利ですぐ出来る。

最初にひらめく曲想は人間以外のものでは出来ない、ということが判ってきた。やはりギターとかピアノを演奏(さっきょくのための)することの方が便利である。

今年こそはとかけ声ばかりで、まこと今年こそはヒットする作品を書きたいものだと頑張るつもりです。
今書いているのは、鉄幹をめぐる2人の女、すなはち鳳晶子と山川登美子の恋愛もので、これを登美子サイドから書いてみょうと思っています。彼女については、かなり調べたので後は、作詞して曲をつければ良いのですが、さて歌手を誰にするか、が問題です。

恋争いで晶子に破れはするが、彼に対する思いは決して負けるものじゃないと言うところを強調して書くつもりです。人間の真実なんて誰にもわかったもんじゃない。ただ調べるほどに彼女が気の毒な運命にあったような気がします。

僕は彼女の実家のある福井県小浜まで車で行ってきました。1人の人間の命が掛かっている作品だけにふさわしい作品を作らなければと、はりきっています。

登美子に限らず、恋愛は成就したほうの数が圧倒的に少なく、人は切なく、苦い思いを経験させられる方が多いようです。何故なら人生は自分の思うようにならない運命みたいなものがあるからです。

だから登美子のことを書いても実は大多数の庶民感情をすくい上げてると考えています。どんなものが出来るか楽しみです。

人生の様相は人様ざまです。しかしなべて人生は思うようにならない上に孤独です。これは当たり前の話しですが、気持ちとしてそう思いたくありません。

ああー貴方は今も  私を愛している
誰よりも誰よりも  私を愛している
私を愛している

これがサビの部分で 絶叫調で書くつもりです。人生って思うようにはならず、哀しいものですね。20代後半でこの世を去った山川登美子に比べて、僕は彼女の二倍半は生きてきて、そう思います。罰当たりかも知れませんがね。

淫行も均等で

2008年04月30日 | Weblog
淫行も均等で


 二五歳の女性が一八歳の少年に、性的交渉を迫り、その少年を追いかけ回して、警察に捕まり送検されたと言う世間の常識とはまるで反対の事件が起こった。蛙が蛇を飲み込んだ類いで面白い。
時として人間社会では面白い事が起こる。

 私は何故こんなことが起こるのか、神様にお願いかたがた、聞いてみることにした。

「神様。女が男を追いかけ回して、性交渉を強要するという、面白い事件が起こりました。神様が人間に授けなさった性エネルギーの発現形態は違っているから、男は能動的で、女は受け身だとばかり思って参りました。
が、これをみる限り、男女平等です。
神様。よくぞ、このことを今度の事件でお示しくださいました。何でも平等平等と言う御時世、それも結構でございます。
 
そして願わくは、たとえ十年間だけでも、結構でございます。性エネルギーの発現形態を逆にひっくりかえして、つまり、女が能動、男が受動と言う形にはしてもらえますまいか。
そうすると世の中の有り様が、様変わりするのではないかと思います。

 我々男には手出しができると言う特権がありますが、時としてそれは手負い傷となって、心はうずきます。
 能動的に、積極的にモーションをかけると言うのも、気分の良いことばかりではありません。特に小生の様な、この面にかけてはドジな男は、自分で手だしするよりも、むしろ先方から、モーションを掛けられる方が気が楽です。
気にいればうけりゃいいし、気に入らなきゃ
ノーサインをだせば良いと言うのは気楽なもんですぜ。 それに自分のモテ具合が分かるのも、自分自身を客観的に眺め、評価する上で、必要な事だと思います。
それよりも神さん。なんでっせ。

現代の社会は男と女の現状に合わせて、何事もフィックスされているから、逆の行動パターンになると、いろんなところで、チグハグがでて来て面白いじゃないですか。
 ええ?何ですか?。お前は暇人じゃと。
仰せの通りです。
齢も五十を越えると、普通ならば第一線を退かなきゃならん年代。
どちらを向いても、楽しい事などありゃしませんよ。金をかけた子供は巣立つわ、住宅ローンの支払いはまだ残っているわ、それにくわえて、自分たちの老後の人生に向けて、なにがしかの準備をせにゃならんわ、それはそれは、ほとほと疲れます。
 その上、心ときめく様な事が、日常生活の上に起こってくるかと言えばそんな事一つもおこりっこない。
 せめて世の中をひっくりかえしてみて、何か面白いものはないかと探すぐらいがオチです。

 立場が逆になると言うのは、逆転の発想にもなり、新鮮な気分にもなること必定。中々面白いとはおもいませんか。

 神様は私と違って、この位のことをするのは、朝飯前の筈。
一度いたずらにやってみられたら如何です。














金色堂不思議体験

2008年04月27日 | Weblog


平泉駅から金色堂を目指して 、20分から30分歩いた。自転車に乗らずに歩いたほうが出来るだけ当時の様子に近い状態が、味わえるのではないかと思ったからだ。

柳御所跡は今は水田。小高い丘にのぼると柳御所のあたリが一望できた。

同じ血を分ける兄弟であリながら、又平家追討では、兄頼朝の為に、多大の貢献をしながら、最後はここ奥州で殺される義経とは、何という悲運の持ち主か。 丘の上では頭の中は、人間は正義、不正義に関わらず、一歩まちガえれば、死に至る、恐ろしい運命を持ってる。そんなことで一杯だった。ぼくは焦点を定めることもなく、惟ぼんやりと、辺りを眺めるともなく眺めていた。

結果論だが、歴史の流れから見てみると、確かに頼朝のほうが先見性がある。後白河法王や取り巻きの貴族なんて信用はできないし、義経のやっていることは貴族政治に従属した考え方である。

確かに頼朝の第一の家来梶原との確執もあるようだが、それは歴史の流れについての判断の理解の仕方によるというよりは、感情的な対立のほうが大きい。

義経の言い分もわからいではないが、彼の考え方は歴史の新しいページを開くものではなくて、従来の貴族政治の下での、政治体制の維持、すなわち現体制の維持が根底にある。

ところが頼朝は違う。貴族政治から脱却して、新しい武家政治を打ちたてようとしている。ここのところに両者の決定的な違いがある。意見が分かれ、共通理解がなく、紛争の火種はここに内包されている。

人間には感情と理性があり、両者のバランスが必要である。
情の面においては、義経に涙を寄せる人は多いことだろうが、歴史的にみると、やはり頼朝の決断の方が新しい歴史の方向を模索して、新時代を切り開こうとしている点、正しいようにも思える。

いずれにせよ決定的な対立となり、生死を分けたことは、歴史上の出来事とはいえ、いつの時代においても、日本人は悲劇のヒロー義経に同情して、涙を流すことであろう。

まるで小説で、悲劇のヒーローを描いたかのような義経の悲劇である。ひょっとしたらこのストーリーは神が書いて、役割を演じたのが、頼朝であり、義経であり、片方の主役をになった平家なのだろうか。


覆堂は何百年か毎に移動(移築)するみたいである。僕が見たのは杉木立の方へちょっと段になっていた。
名所であるから、連休とも重なって、全国から大勢の観光客が来ていた。

とくに有名な金色堂は、我も我もと押しかけるので、ラッシュアワーの満員電車のように肩が触れあって、堂内見物をするのが難しい状態であった。

そこで私はいったん金色堂をでて、入り口のそばにたたずんでいた。人の切れ目を待っていたのである。しかし人は切れ目なく続いて、出たり入ったりしている。
少なくなることはあっても、人が途切れるということがないので、私はあきらめ、堂に入った。金色堂内は管理人とおぼしき人がいて、ブースの中に坐っていた。

私はぼんやり、須彌壇の方を眺めていたが、突然人波が途絶えた。管理人も席を外している。堂内には私を除いて誰もいない。ほんの一瞬の出来事である。

そのとき私は体がまるで、雷にでも打たれたかのように、脳髄から背骨のあたりにかけて、ジーンと音がして、頭の髪の毛が逆立つのをおぼえた。髪の毛が逆立つ?確かに逆立っていた。
そこには誰もいない。管理人さえもいない。助けを求めても、誰もいない。

存在するのは藤原3代のミイラと私しかいない。ぞぞっとという身ぶるいと髪の毛が逆立ったことしかわからない。不思議な恐怖体験である。

いったい何が起こったというのであろうか。強いてこじつけをするならば、千年余りの時を経て、この藤原の誰かの魂と私の魂が感応現象を起こしたということではあるまいか。

そうでも考えなければ、私には何故、こういう現象が起きたのか、説明がつかなかないし、また納得がいかなかった。

確かに肉体は7、80年もたてば、この世から姿を消すが、魂は果して体の消滅とともに、消滅するものであるのだろうか。、、、その答えは誰も知らない。わからない。 輪廻転生を固く信じている人は別だが。


夢のような体験をして、夢遊病者のように自分の魂を浮遊させて、しかる後にこの世に戻って正気をとりもどすと、気がついたときには、再び大勢の人が身の回りに、がやがやと立ちさわいでいた。

今の未知体験の正体はいったい何だったんだろう まさに夢のような不思議体験であった。間違いなく正気は何者かによって奪われていた。 薄気味の悪い、奇っ怪な感じとその記憶だけが残った。

そのあと何か変化が起こったかというと、それは何もない。 一体何だったんだろう。
謎は今も解けていない。





















ネパール行き

2008年04月25日 | Weblog
               ネパール行き  

 ネパール行きの目的は確たるものがなかった。無目的ではなかったが、さりとて、なにかを目指して、というものは何もない。確かにヒマラヤの山を見たいとは思ったが、行ったのが九月で、まだ雨季であるから、期待はしてなかった。ただインドと比べると天国だという話はよく聞くので、それならば、という思いぐらいである。

実際にカトマンヅに来てみて、確かにインドとは違う。だいいち、人情がネパールの方が日本人に近いような気がする。インドで味わった、あのいやな思いがなく、ネパールの人とは気を許して付き合える。

それにインドの、あの暑さはなく、風は限りなくさわやかで、やさしい。やはりお釈迦様が生まれなさった国である。ルンビニは時間がなくて行く事は出来なかったけれども、ネパールはさわやかで、親切な人が多いような気がした。

インドでいやな思いをした時には、貧しいから人を騙したり、脅したり、嘘を平気でついたりするんだろうと思って、ある程度は仕方がないと自分なりに解釈をして、納得していたが、ネパールへ来てみて、必ずしもそうではないということが分かった。貧しさの点から言えばネパールの方が上であるから、インド以上のことがあっても良い筈だ。

しかしわずか1週間の滞在だったが、北東インドで味わった、あの不愉快さはたったの1回もなかった。こんなによい人の集まった国でありながら、貧しいというのは何が原因しているのだろうか。
 
知恵がないのか、技術がないのか、教育がないのか、いろいろあろうけれども、自分なりの結論は工業国でないからだということであった。

農業や観光収入では、いつまでたっても豊かにならない。そんな事は百も承知はしていても、現実には何かが足りなかったり、社会がそこまで成熟していない上に、宗教上の禁忌などが重なって社会の発展のテンポを、遅々たるものにしているのだろう。 
 やはり時間が必要という事なのだ。

仕方がない。大それた事を考えないで、自分の甲羅の大きさにあわせて、何か出来ることがあったらさせてもらおう。僕がネパールへ来て考えたことはこの程度の事であった。

航空業界の実情

2008年04月22日 | Weblog
        航空業界の実情

関西空港は、1994年9月4日に華々しく開港した。予期されたことではあるが、連日万単位の人々が、関西空港へやってくる。モノ珍しさもあろうが、海外旅行へいく人々も、大勢やってくる。マスコミの発表によれば、年間、海外へ向かう人は、ビジネス・観光含めて、1200万人とか。
わが国では確実に海外旅行は大衆化された感じがある、そのわけは、格安航空運賃に、円高が相乗効果もたらせて、国内旅行よりも割安感が出てきたことなどで、スキーを楽しんだり、ハワイでダイビングを楽しむなんて、わざわざ海外にかけなくても良いのに、もったいないことをすると戦後のが貧しい生活を体験した私は一人ぼやいたこともある。世の中は、僕ら世代が見るような、そんな時代ではないのだろう。
ところで、1000万人からの日本人客がありながら、日本航空をはじめ、我が国の航空会社は軒並み赤字経営だという。こだけの客がありながら、儲けることのできない企業体質とはいったいどんな経営をしているのか不思議に思う。
赤字に、陥っている日本航空は背に腹は代えられないということで、来年は時給1300円のアルバイトスチュワーデスを採用することによって、人件費の負担軽減を実施しようとした。その発表があった直後に亀井という運輸大臣が待ったをかけた。彼の言い分はこうである。
 待遇の違うスチュワーデスを同一機内で働かせると、安全上問題が発生する。リストラをかけるなら、安全に直接結びつかない部署から手をつけるべきだ。もし、俺の言うことを聞かない場合は、増便などで考えるざるをえない。
この発言は、問題だと思った。案の定翌日、朝日新聞は、漫画を乗せた。背中に、背負ったロケットを約逆噴射させながら、垂直尾翼にまたがって、鶴のマークをふんずけている大臣の姿が描かれている。
事の本質をズバリ、一目瞭然に、また、簡単明瞭に、描いた絵の下に
「逆噴射さ亀さんにお手上げする鶴さん」
とコメントが入っている。この亀井発言に対して、各方面から反対や批判の声が上がったのは当然だろう。

反対論
1、規制緩和を目指している内閣にあって、緩和に逆行指示を出した大臣発言は、実情をよく理解したものではない。
2,安全上の問題というが、アルバイト、スチュワーデスをしっかり訓練できたら解決できる問題である。
3,、外人の乗組員との方がもっと問題があるが、外国では、リストラの一環として当たり前のことで、これをしなかったら、日本の航空業界は、世界の業界で後れをとることになる。
4,民間企業に圧力発言したのは問題である。
5,、自己顕示欲や政治力の誇示に利用としている。本音が見え見えで
、今回の問題は彼の人柄によるところが大きい。

私の主張
彼の主張する論理には無理がある。
 第一に、安全上の問題について、端的に言えば、アルバイトスチュワーデスでは安全でないという発想自体がおかしい。これは訓練によって、解決できる問題である。また、外国では、自分の国よりも、賃金の安い外国人スチュワーデスを実際に採用して、乗務させているが、問題が起きていない、この実情を知っているならばこのような幼稚な発言はできないはずである。この程度のレベルのことを行政の長が発言すれば、安全上という論理は、あくまで隠れみの。本当はもっと違ったところに、彼の本音は、あるのではないかと勘ぐりたくもなる。そしてなによりも、世間の人から批判されたのは、彼の人柄の問題である。
このような横柄な態度がたたかれるのは、当たり前の話である。権力を笠にきた強圧的態度。俺の言うことを聞かない官僚はやめてもらうと言ったとか。なんと己を知らない傲慢なバカなやつだ。
さらに、こういう類の発言をして、自分の政治力を誇示し、自己顕示の具に利用。恣意的な態度。どれをとっても、世間の人の反感を買うモノばかりである。

これらを総合すると、今回の発言によって、彼は自分の人柄の資質のお粗末さを余すところ無く、はしなくも人前に露呈して、ひんしゅくをかった。
またこの発言内容は、まことに根拠が、乏しく、幼稚なもので、ハチのひとさし、じゃないけれど、リストラも分からず、経営に口をはさむ、大臣の[アホはあんたです。]という週刊誌が、事の本質をズバリ端的に言ってのけている。このフレーズに共感した人は多いはずで納得。納得。

結局、何だったのか。運輸省のアホ大臣と、日本航空経営陣のけじめのなさを浮き彫りにしただけで、何の問題の解決にもなっていない。



















火宅の人々

2008年04月22日 | Weblog
火宅の人々
我々がこの世に生まれているということはもうそれだけで十分火宅の住人である。
地位を求めて、名誉を求め、金を求めてヨーイドンを始めるから、
自分よりに先を走るやつらの足を引っ張り、同じレベルのもの当然のこと、まして後を追いかけてくるやつは蹴飛ばして人生競争を夢中で突っ走る。
こんな状態に巻き込まれてどうして、心豊かな人生が送れるだろうか。
これは素足で火の上を走るようなものである。

そしてこれは火渡り神事に似ているところがある。

神事の場合は、各おのの作法にのっとって順序や要領が決められており
ヤケドをする確率は最小限に抑えられている。
それでも偶にはヤケドして救急車で運ばれる人もいるみたいだ。
ゴマ木を燃やし、その残り火の上に、大量の塩をまいて、その上を素足で渡り歩く。

一見炭のように見えても、先ほどまでは赤々と燃えていたものだから、表面は炭でも、中には熱があり、火のついたものもある。右足左足を早急に、こ走りに走るようにして渡って行かないと、熱さを感じるだけでなく、文字どおり、ヤケドをしてしまう。

この世に生まれて、人生コースを走り始めると、ゆっくり歩いていくと間違いなく、ヤケドを負うし、小走りに走れば、ヤケドを負わないかというと、そういうものでもない。途中で転んだら、やけどを負うだけでは済まない。
場合によっては、人生そのものを失う可能性だってある。
宇宙からこの様子を眺めてみると、いかにもウジ虫的なものか、我々の生存競争は。

ところがまれには悠然として歩調を確かめながら、自らのペースを守り他人に乱されることもなく、堂々と人生レースを生きる人間もいる。
さような人は人生をフルに生きて、この世を去るときは、人生に思い残すことなく、ただ次の世界でも、なるに任せてと達観している。
確かになるにまかせないと、来世が自分の意思どおりに展開すると言うものでもなさそうだ。でも、普通人は自分にはこだわるものだ。人生を渡り切ったという自己満足充実感があると、悔いもなければ、後悔もない。歴史上の人物にはこんな傑物もいる。










甲子園の砂

2008年04月22日 | Weblog
          甲子園の砂

先生。これ土産だよ」
ぞろぞろと教卓を取り囲んだ野球部員のなかの一人が、私に紙袋を差し出した。中を覗いたら、砂。私はとっさに「甲子園の砂だ」と思った。

 何千何万という球児たちの青春の汗と涙を吸い込んだ甲子園の砂。
己と己の戦いに死闘を繰り返し、青春の思いのすべてを打ち込んだ砂。
それがこの小さな紙袋に収まって、いま私の手に重くのしかかっている。
「ありがとう。大切にするよ。」
私はクールに礼を言った。

 自分が毎時間、教室で顔を合わせている生徒が出場するということが決まってから、私の心もはずんだ。

本校は文武両道の学校である。有名大学に合格する数は県下で3本の指に入るし、以前はサッカーでも全国優勝したキャリアをもつ。
甲子園出場が決まって、この狭い地方都市は沸いた。

私も胸を高鳴らせながら、甲子園へ行った。そして、今まさにグランドへ降りていこうとする選手一人一人に両手を出して、握手を求めた。

 「勝負は時の運だ。君達は同じ世代の誰もがあこがれる甲子園の土をいま、その足で踏もうとしている。君達の青春をあの砂の中に投げ込んで、この素晴らしい体験を生涯の記念にしてくれ。全力を出せばそれでよいのだ。手抜きは許さないぞ。さあいけ」

私は一人一人の背中を突いて、グランドで送り出し、彼らの健闘を祈った。

私や地元の熱い期待とは裏腹に、彼らは勝負にならない大差で、この試合に敗れた。一方的に打ちまくられて
出鼻をくじかれたナインは最後まで、本来の力を発揮することができずに、試合はおわった。私は言いようのない腹立たしさと、いらだちに覆われたが、それでもナインは最後まで球児らしく振舞ってた。
その姿は立派だったが、一人一人は背中で泣いていた。


グランドの隅でしゃがんで、せっせと何かしている姿は、甲子園を去る。球児がよくやっていう仕草だが、彼らもきっと涙をこぼしながら、この作業をやって、土産に砂を持って来てくれたのだろうと思うと胸が熱くなる。

私は10年らい、大切なものとしてその砂を机の中に仕舞い込んでおいた。それが今年引越しの際に、行方不明になった。おそらく、作業員が単なる砂としてそのへんに捨ててしまったんだろう。丁寧に見れば、自宅の床下にでもバラ巻かれたのだろう。

 この世から蒸発したわけではないのだが、あの懐かしい袋と肌触りの良い砂は今はもうない。しかし、彼らの青春は私の心の中で、いつまでもいつまでも燦然と輝き続けることだろう。









縁・ えにし

2008年04月21日 | Weblog
縁・ えにし


どこで手に入れたのか、まったくわからないのに、クリーム色のこの紙に書かれた「奈良の大仏さん」という詞は東大寺長老・清水公照師の御作であるとすぐわかる。字の形が先生そのものを表していいるからだ。すばやく眼を走らせた。私の胸はあつくなり、たかなった。

詞の字数や形式からすると、これは曲がつくことを前提に作詞されたものである。
よーし。作曲してみよう。
どうせ、誰かが作曲してはいるだろうが、良い詞に、何人もの作曲家が、それぞれの趣の曲をつける例はいくらでもある。
 厚かましくも私はこの詞を作曲して、テープに収め、東大寺の塔頭・宝厳院の主人、清水公照師を訪ねた。

 師は快く、付曲を許可してくださり、師の著書「泥ドロ仏」をくださった。そして、「今日は急ぐので、この次にサインしてあげよう」。という言葉を残して、車上の人となられた。

 届けたものの、前回のテープで、満足できない私は、早速の録音のやり直しをした。テープができあがったのが夜の7時。
「できました」。と電話したら、「12時まで起きているから、いらっしゃい。と師の声。
 めったに会えない人に会えるのだから、と、女房をせきたてて、車に乗せ、西名阪国道をひとっ走り。
家を8時にでて、9時過ぎには、もう師の前に女房と二人でチョコンと座っていた。

 周りをぐるりと人々に、取り囲まれながら、師はたっぷり墨をつけた大きな筆を紙の上に滑らせて、心の中の思いを、思いのままに残されていく。周りの人々と、にこやかに話をかわしながら、精神・ご自身の心を紙の上にしたためていかれる。
それを見ていると、その昔、聖徳太子が一時に10人の話を聞き分けたという伝説が真実のように思われた。
 
現に師は気安く言葉をかわしながら、一心不安に、異次元の墨跡作りに、精を出しておられるではないか。作品はみるみるうちに出来上がっていく。わずかに2,3時間の間に10幅はは下らないだろう。

絵がかけ、書ができ、随筆がかけ、陶芸でき、俳句や短歌はお手のもの。師の心は真っ赤に燃える創造のマグマ。
それが、絵となり、書になり、エッセイとなり、あどけない泥ドロ仏となって、床の間を飾る。

 そんな多才な先生と、私はふとしたことから、ご縁をいただいた。師の書物にはこんなフレーズがある。
「縁に従い、縁を追い、ふとしたご縁は、またしても、エニシを広げていく」。実感実感。
                

穴場はどこだ

2008年04月20日 | Weblog
毎年のことではあるが、相変わらず、初詣は大勢の人出だ。初詣が多い神社を見ると、いつものように、明治神宮の355万人を筆頭に、川崎大師が317万。住吉大社が283万。ラストが、京都の伏見稲荷で、223万人。

全国では、7742万人の人々が初詣に行ったと新聞、テレビが報じている。それでも去年に比べて、216万人減ったそうである。理由は、
3ケ日に降った雨のせいみたいである。

いったい何を求めて、こんなに大勢の人々が、初詣に出かけるのだろうか。生まれてこのかた、こうすることが、慣習となって、ただ何となく出かけるのか、。それとも御利益を求めて初詣するのか。
人々は、濃淡の違いこそあれ、現世利益を求めて初詣するのだと私は推測している。
現世利益。あの世ではなく、今生きて生活しているこの世で、御利益を授かり、日々の生活を安穏なものにするということは、人々共通の願いである。私も人後に落ちず、1日から3日までの間に、現世利益を求めて何カ所かに初詣に行った。

 我が国には、神無月というのがある。その神無月には、神さま方は、みな、出雲に集まり、全国の神社は空っぽになる。この時ばかりは
出雲は別にして、全国津々浦々どこの神社に参っても、御利益はなさそうだ。ご当人の神様がお留守だからである。

ところで、私は近頃とみに出雲に集まる神々の会議の様子が知りたくなった。というのは、会議の内容を知ってこれにうまく、対応すれば、御利益がたくさんもらえるような気がしてきたからである。つまり、穴場を知りたいのである。

推測するに会議のメインテーマは民衆の欲望に、どうこたえていくか。如何に満たしていくか。その辺のことだろうと思われる。
そしてこのテーマに関しての役割分担を決め、御利益の配分の仕方について、いかに万人に公平に、行き渡ら出せるか、について協議されているように思われる。
 
と言うのは、人々の初詣を見れば分かるように、人間の神さん詣では、現世利益が中心だからである。神様としても、これを無視するわけにはいかない。人々の要求にこたえていかなければ、誰も初詣にこなくなるからである。

つまり、人々の素朴な願いを無視すると、人気が落ち、神社の存立そのものが、危なくなるからである。無限に近いと思われるう御利益を袋に一杯つめておられる神様でも、対応を誤ると、人気にかかわってくるから気を使われることおびただしい。


私は先ほど出雲に、集まる神々たちの会議の様子を知りたいと書いた。じつをいうと、この欲望はは抽象的な願望をいうのではなく、もう少し現実味を帯びたものなのである。すなわちテープレコーダーを使って、神々の話を盗聴して、記録しておきたいのである。

どの神がどれだけの御利益の詰まった福袋を持っておられるのか、
どこの神社に参れば、余計に福がもらえるのか、もし平等に福が詰まっていると言うのなら、あまり大勢人がお参りする神社を避けた方が良い。また逆に、お参りは少ないが、福袋の中身はぎっしりという。

つまり一人当たりにすると福の配分が多い神社ならば、それこそ、穴場だし。それなりの目見当をつけるために、いろいろ予備知識として頭の中にインプットしておきたいのである。それに加えて人々が実感している御利益話しにも、聞き耳を立てて情報を整理してみて、穴場をあらかじめ推定しておくと、たとえ、どこの神社に参るにしても、心構えが違うから、人より余計に福をもらえる確率が群を抜いて高くなると計算しているのである。


例年通り、我が家も家族全員、初もうでに行った。誰がどういう福を頼んだが、そんなことは知らないが、私が手を合わせてね一生懸命に御利益を頼んでいる最中に、神が現れて次のようなことを申された。
 「いつものことながら、欲を道連れに初詣に来たのだな。それはそれで良い。今年も、それなりの福は、授けてやろう。だが、お前は自分の足元をじっくり見たら、神のすばらしいプレゼントに気づくだろう。
お前をこの日本に生まれさせたのは、ほかならぬ神のなせる業なのだ。いま日本で何か困ったことが起きているか。何もないだろうが。
国民はウサギ小屋に住んでいても、経済は世界1で、治安も医療水準も世界の中でもトップレベル。この後半の半世紀には国民が互いに殺し合う戦争も一切なかった。平和そのものの社会じゃないか。しかもその平和を背景にして、国民生活は中流意識に彩られて、ほかのどの国よりも暮らしやすい国であろうが。神がお前ら人間特に日本人にこたえている最大の御利益とは、人生が大過なく過ごせるような平和を与えていることだ。そのことに目をつぶって、自分の目先だけの御利益を願うと言うのは、ある意味では神に対する侮辱だとおもわないか。

特にお前は、こすずるく福袋の中身さえも探ろうとして、テープレコーダーで神々の会議の様子を盗聴しようとしているではないか。熱心なのはそれは、それでよい。しかし、行き過ぎたのは困る。己の限度というものをわきまえて、神と付き合うというのが、人間と神の正しいあり方ではないか。これは決してお前に説教しているわけではない。神と人間の関係のあり方の常識を申しているだけである。そこのところをよく理解して、その上に立って、盗聴するのは、まあまあだがねぇ」

神様は以上のようなことを話された。目を覚まして考えてみると、神様の言われる通りである。

それを超えて己一人の現世利益を願うのは、やはり厚かましいというほかはない。言われるまでもなく、やはり自分でも、これは行き過ぎたと、思わざるを得なかった。
先ほどまで、あれほど盗聴したいと、思っていた気分は、神様のこの一言によって、どこかへ引っ込んでしまった。

穴場、それは、神の福袋の中身分配の事ではなく、実際に足元に、転がっている神の恵みを知るということ。それが現実の穴場であると、僕は考えた。盗聴など不遜なことを事を考えはしたが、これでひとつかしこくなったような気がした。

深いポケット

2008年04月20日 | Weblog

 雨季と言ってもバンコクの雨は1、2時間、土砂降りになるが、後はからりとはれる男性的な雨が多い。なのに、今日はどうしたことか、朝から霧雨のようなのがしとしと降っている。
 傘を差すほどでもないと思い、そぼふる雨の中を一人で、沢山の車が行き交うニュロードを西に向かって歩いていた。
 
ニュロードはいつものように混雑していて、走りゆく車の騒音と排気ガスが多く、僕はタオルをマスクの代わりにして口に当ててゆっくり歩いていた。その時、反対車線のほうで、タクシーの窓を開けて、女が何か叫んでいるのが聞こえたが、このバンコクで知り合いがあるわけてなく、何も思いあたる事がないので、聞くともなく通りすごした。窓から体を乗り出している女は必死で、こちらをみながら、なにか叫んでいるが、元々言葉が全然わからないので、僕は無視したような顔をしていた。

反応を示さない僕に諦めたのか、タクシーは僕の進行方向とは反対の方に走り出した。
僕はこのことを気にもとめず、今来た道を歩きだした。あがったり、降ったりしている雨は小ぶりから、ちょっときつく降り出した。そうはいっても、雨宿りしなくてならないほどの降りでもなかった。
 
 なんの前ぶりもなく突然、タクシーが僕のそばに横付けされた。びっくりして覗いてみると、先ほど大声でわめいていた女が窓を開けてまた何か叫んでいる。
 一体誰に向かってものを言っているのか、僕は立ち止まってあたりを見回したが、見あたるものは何もない。そこで女のほうをみた。
 
言葉では通じないと思ったのか、この女は、今度は身ぶりを交え、僕の方を指さして、しかも英語で話し掛けてきた。よくみるとヨーロッパ人ではない、勿論タイ人でもない。皮膚の色からすると東南アジア系である。大柄ではなく、どちらかと言えば小柄で肌色は小麦色だ。マレーシア?、シンガポール?、どうもこの辺からやってきたらしい。
 
ドアをあけるなり、彼女は英語で書かれたバンコックの市内地図を広げた。左手には500バーツ札を握っている。早口で言ったことを要約すると、こういうことになる。
 私は生まれて初めて今香港からこの町にやってきたので、町のことがからっきし判らない。空港でタクシーを捕まえたが、運転手は英語が分からないから、今何処を走っているかも判らい。 空港からは、もうかれこれ1時間も乗っているけど、ホテルにも行けない。どこかこの近くで良いホテルがないか。あったら案内して欲しい。とにかく英語が通じないと話にならない。

そこであなたに聞くが、英語の通じるホテルを教えて欲しい。
この運転手では言葉が通じないから、何を言ってもダメだめで、この車に乗って一緒にいってくれないか、ということであった。

僕は一旅行者で、バンコックはよく知らない。だから何処のホテルがいいかは全く判らない。適当に大きなホテルに飛び込んで、英語で話してみたらどうだろう、とアドバイスを残して、歩き出した。雨はかなり激しく降り出した。
 
しばらくすると、タクシーは追いかけてきて、また僕の横に止まった。これ以上聞きたくはないから、誰か他の人に聞いてくれ、そんな思いから、僕は相手にせず無視して歩き出した。

ところが今度は彼女はタクシーから降りてきて、僕を無理やりタクシ・ l[のそばまでつれていき、
「助けると思って一緒に、行ってくれ」と言って手を合わせた。左手に握った500バーツ札を示しながら、タクシー代は私が払うので、とにかく乗ってくれと、強引にタクシの中へ僕を引きずり込んだ。
 タクシーのメーターをみると390バーツをさしている。確かに空港からここまで、迷いに迷ってやってきたのだろう。昼間だったら空港からこの辺りまでは150バーツもあれば十分来れる料金だから、それをはるかに越えている。
僕はおなじく外人として、何かよいアドバイスが出来ないのもかと、頭の中で考えを巡らせた。


 道端とはいえ、交通量の激しいこの通りで車を駐車させておくことは迷惑な事であった。後ろがつかえた車は先ほどから幾度と無くクラクションをならしている。女は走ってくれと身ぶりで運転手を促した。車はのろのろと走り出した。後ろの座席に女と僕は座っていたが、何を思ったのか、女は急に服の上から僕の体を触りだした。彼女はシンガポールから来たマッサージ師だと言った。
 ははーん。僕に案内してもらったお礼としてマッサージでもしてやろうというのか、成る程。そうだったのか。僕はそれなりに納得したが、その反面、その時何かおかしいとは思った。

最初は香港から来たと言ったように思う。いや確かにそう言った。しかしいまシンガポールのマッサージ師だという。
しかも、待てよ。マッサージとは言いながら、どうもズボンのポケットのあたりに手が伸びてくる。僕はマッサージするなら、肩が凝っているから肩をしっかりもんでくれと要望した。

それにたいして彼女は全く答えることなく、必死になって、僕の金の在処を探しているかのようだ。
 これはひょっとしたらスリじゃないか。マッサージにかこつけて、財布からすろうとしているのではないか。

急に僕は正気にかえった。先ほどからマッサージぶりをみていると、まず左ケットあたりを盛んにさわっていた。それが済んだらさりげなく、今度は右ポケットあたりをさわってきた。しかし彼女の手は僕の財布にはとどかなかった。というのは右ポケットは用心の為に深くしてあって、簡単に手をつっこめないように改良してある。



 ポケットが浅いとスリにあう確率が高いので、自己防衛のために特別にふかくしてあるのだ。恐らく右ポケットには何も入れていないと判断したのだろう。その時財布は足の関節付近まで降りていて、通常の位置には無かったのだ。さらに腹に巻いているパスポートやら、現金の方へ指をはわしている。

こいつはひどい奴だ。道案内を頼む振りして、車の中に引きずり込み、身体検査よろしく体を触り回って財布や、ポケットにある金目のものをすろうとしているのではないか。僕は目がさめた気分になった。

なおもあちこちさわりまくっている女に対して、僕は「俺の体に触れるな。」
と大きな声を出した。
「俺の体にさわるな。もうマッサージはいい。俺はここで降りる。車を止めろ。」
彼女は何を感じたのか、今度はマッサージ、マッサージと叫びながらは腹巻きの中に、手をつっこみそうな気配である。僕は思いっきりその手をはらった。そして小柄な女の体を反対側のドアに向けて突き飛ばした。それから日本語で
「この野郎。人の親切心につけ込んでスリをやろうとしているのか。ばかもん。どつくぞ。
手を引っ込めろ。体にさわるな。今度さわったらなぐるぞ。」
 恥も外聞も無く僕は大声で怒鳴り、女をにらみつけた。

車内でのトラブルだが、何せ僕も大声で怒鳴りつけたものだから、運転手もこちらを見ている。僕は運転手にドアをあけるように言って、身ぶりでその仕草をした。運転手はドアをあけた。僕はすぐさま飛び降りた。やがて車はさまようにふらふらと走り出した。女は窓越しに鬼のような面をして僕をにらめつけていた。
 
 考えてみると奇妙なことである。日本人の感覚からすると、空港ではいくらでもホテルを調べることが出来るし、運転手にホテルと言っただけで、どこか大きなホテルにつれて行くに違いない。タイ語では何というか知らないが、ホテルは世界共通語になっている。ましてや、運転手をやっていてホテルを知らない人はいない。知らなければタクシーの運ちゃんはつとまりっこない。

だからあの女はタクシーを乗り回しながら、カモを探していたのだ。ニュロードへさしかかったときに、独り者の男が傘も差さずにふらふら歩いているのが目に留まり、カモにしょうとしたが失敗した、というストーリーが真実であるような気がした。         
「へえ、俺がカモに、」。これはやばいところだった。
 実は僕はこのときヨーロッパ行きの航空券を買うためにかなりの現金を持っていたのだ。幸いこの金は右側の深いポケットの一番奥に入れてあったから、あの泥棒女も手に触れることなく、僕をみなり同様の貧乏人と思ってあの程度のことしか、しなかったのだろう。
 はっはっはー。これは俺の勝ちだ。それにしてもポケットを深くしておいてよかった。

あの歳格好からすると、とうに40歳はすぎていように。本人の責任とはいえ、なんとかわいそうな人生なんだ、僕は被害に遭わなかった安心感からか、あの女に同情すら寄せる余裕があった。
 
財布をすられたら一大事である。すられないように気をつけることは勿論であるが、人間の注意力には限度がある。そこで僕は知恵をしぼって出来るだけ、とられにくくするという工夫をした。

ズボンのポケットの深さを普通の倍以上の深さにした。これだと余程中に手をつっこまないと、中のものを取り出すことは出来ない。腕をまるっぽつっこまないと財布を引き出すことは出来ないのである。

今回のこの件でも、彼女は通常のポケットの位置をさわりまくったが、ついぞ財布の存在に付いては、わからなかったようだった。ズボンの上から手を回して右ひだりのポケット付近を盛んにさわっていたが、財布のあるところまで指は伸びていなかった。

もしこれを知恵比べと言うのなら僕の完勝だ。
 ざまあみろ、お前ほど頭は悪くないよ。しっかり考えて旅をしているんだ。日本を一歩でりゃろくな人間が待ってやしない。だから生活の知恵として、事故防止に予防に予防を重ねているんだ。お前クラスにそう易々やられてたまるもんか。僕は思わぬ事件に遭遇して、こんな勝ち誇ったような気分になった。

雨は少し小降りになってきた。
  
ところで今回は僕は被害が無かったけど、あの手口からみると、どこかで、いつかきっと又やる。油断した誰かが被害にあう。僕は警察に届けたものがどうか考えた。しかし事の顛末を英語で、いやタイ語で説明しなければならないだろうから、とても警察に行く気にはなれなかった。後になって考えたことはこんな事だった。


田舎人

2008年04月17日 | Weblog
田舎人

先ほどから向かいの席に座っているおばさんは年の頃は50代。しきりに何か話したそうにしいる。僕は思いきって、見知らぬ彼女に声をかけた。
何を思ったのか。彼女は、身の上話を始めた。

彼女が生まれた年に、父が死んだ。母は再婚したらしいが、この人の、苦労が、しのばれる。
「人生って、大変ですね。」僕は同情した。
ところが、彼女は、次のようなことを語った。

「知り合いの奥さんは脳梗塞でもう14年も寝たきりで病院に入っている。何しろ38才の若さで発病したから、初めは主人もずっと自宅で看病していたが、仕事があるので看病に付きそう事も出来ず病院に預けて働いているが、そんな生活がもう14年も続いている。その奥さんや家族の事を考えると私の苦労など物の数ではない。回りを見渡せばいろんな形で苦しんでいる人が沢山いる。その人達に励ませれている訳ではないが、少しのことで不満を言うのは賢くないと思い、毎日を暮らしている。」

「奥さんは偉いですね。もし僕がそういう立場に置かれたら、僕は逆境に負けて不平不満ばかりほざいていたでしょうね。きっとそんな生活をしていたと思いますよ。」

「いや、人間その立場に立てば結構状況に合わせて円を描くものですよ。そりゃ最初はがたがたしますがね。
ところで奥さん今日はどちらに?」

「父の50回忌の墓参りに。田舎なもんで墓は山の奥に有るんです。後何年生きるかしらんが、私で最後でしょうね。父の墓参りをするのは。子供達は都会に住んでいるので山奥の先祖の墓参りなどしないように思います。また出来ませんよ。
それはそれでいいのです。

200年も立てば皆同じように忘れ去られていくのが人間でしょう。仕方がないことです。誰にいわれることもなく墓参りするのは自分がしたいからするのです。今日は3月20日。彼岸です。中日さんですね。喜んでくれるかどうか知らないが、お参りに行くだけでも心が落ち着きます。」

「そうですか。なかなか人生そうも行かないものですよ。お宅は人生をよく考えておられますね。おっしゃるとおりですよ。皆そうなるんです。近頃若い人達と話す機会が有るのですが、この手の話は話題にも上らないです。世代が違うのか、世相が違うのか、とにかくこんな真面目話はなかなかないですよ。」

「いやいや私は無学ですから難しいことは何もわかりませんが、単純にそう思っているのです。ほんなら次で降りますので。さようなら」
僕はしばらく考え込んだ。奥さんの話があまりにも新鮮に聞こえたからである

そういえば徒然草にはこう書いてある 第30段より

思いいでてしのぶ人あらんほどこそあらめ。
そもまたほどなくうせて聞き伝えるばかりの末々はあはれやとはおもう、、、
ふるき塚はすかれて田となりぬ。そのかただになくなりぬるぞかなしき

免許更新

2008年04月16日 | Weblog


 免許更新は優良ドライバー(無事故・無違反が五年の乗用車ドライバー)に限り更新を
五年に一度にするという案が行政改革の一環として提案された。            私の場合、免許をとってから40年にもなるが近項は余り乗らない
免許取りたての頃は面白かったが.本来ドライブは余り好きではないのだろう、乗りたいとは思はない。
 
年令は生活エネルギーの大小を表はす。三十~四十才は元気ハツラツだが幸にして事故はなかった。その代りという訳でもないが、スピード違反はよくやった。ネズミ捕りにひっかかって胃の熱くなる想いも人並みに味っている。
 
五十代になってからは、めっきり乗らない。車を動している限り、他人に危害を加える恐れがあり、また一方では.交通事故に巻き込まれる危険性がある。いずれにせよ事故は恐ろしい。それが一層乗らない理由となっている。
乗らないから.事故も違反も起らない.
 
無事故・無違反といったところでそれは真白なものではない。事故はさておいて違反は結構 たくさんやっている。今日、法定制限速度・40Kmを順守して走っている車なんて捜す方がむっかしい。車の走りには、流れというものがあり、それに乗らないとかえって走りにくい。
 
かといって無茶も困るが,法定速度に10Km上乗せして走って丁度いい加減つまり私は大抵の場合、法に違反して走っているのである。乗る回数が少くて、運よくネズミ捕りにひっかからないおかげで、無違反となっているだけのことである。
 
少々の違反をしても、ひっかかりさえしなければ、 優良ドライバーとして、五年に一度の切替の恩典に浴せるのである。ありがたいことだとは思うが、どこかすっきりしないものガあるのは何故だろうか。

世の中は矛盾にみちていて、永続性のある整合性を求めることはし難しい。
だが,何はともあれ、無事故無違反という実績のプライドはくすぐられるし、三年更新は煩わしい。五年延長賛成。行革審もたまには良いことも言うもんだ。 




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滋賀のさざ波

2008年04月15日 | Weblog
 
ある秋の季節、西国三十三箇所観音霊場巡りに行った。行き先は滋賀県にある3つの霊場である。13番石山寺のお詣りを済ませて31番、32番長命寺、観音正寺へ向かった。

新幹線が無かった時分、東海道線で大阪から東京へ向かう列車は、大津を出てから米原に着くまで、近江路は長い退屈な時間であった。西の方角には比叡の峯が輝き所どころでは、琵琶湖が顔を出すとはいうものの、車窓から見える風景は僕にとって単調だった。

それから何十年か経って、国道8号線を北上して、安土町や近江八幡市にある観音霊場を訪ねたのだが、今回は車でいったので、列車から見る風景とは違っていた。何故だか知らないが、近江商人の3方良しの哲学が頭にひらめいて、それが何回となく頭の中でぐるぐるまわった。

観音正寺は山の頂にある。麓から一段ずつ登るとなると、途中で、ばてていたかも知れない。上醍醐寺ほど高いとは思わなかったが、石段は500段以上を数えなければ、本堂にたどり着けない風情である。

幸い車であるし、8合目くらいまで登れる。それでも次の長命寺には5時前には到着しないと、納経帳に朱印は貰えない。般若心経を一巻唱えただけで、そそくさと下山した。

長命寺についたら4時45分。閉門まで残り15分しかない。まず納経所へ走った。集印を済ませば、後は本堂の扉が閉まっても、何の差し障りもない。ゆっくり般若心経と延命十句観音経を唱えおえて、湖岸道路へ出た。

秋の太陽はつるべ落しである。琵琶湖の西に見える比叡の山並みは黒くなっている。よく晴れた秋空はあかね色に輝き、それと反比例するかのように、山並みの麓に広がる、人家の火影が小さくチラチラと輝いて見える。

このようなシーンを人工的には作り出すことが出来るだろうか。これこそ天然の美である。時として人の言葉を超越するようなシーンを造物主は人にお与えになる。

僕は道ばたに車を止めて、忘我の一時を過ごした。
滋賀県に住む人達は幸せだなとつくづく思った。タイミングを選びさえすれば、
素晴らしい風景が楽しめる。

平和で、のどかで、湖岸を渡る風に吹かれて、こんなにも心が癒やされる。人工的に造形された美も、確かに心を慰め気持ちを和らげてくれるが、今僕が見ている琵琶湖と、比叡のお山と、その麓に灯火となって湖面に映える大津の街は、この上ない穏やか気分に僕を誘ってくれた。

それは母の背中に負われて聞いた、懐かしい子守歌を連想させた。懐かしさ、それは心のふるさとに通じている。心が和むはずである。

僕は我に返って、大津の街の風景を思い浮かべた。
堅田の里の浮き御堂、皇子山、三井寺の晩鐘、琵琶湖の水の美しさ、山風に乗って聞こえる懐かしい歌。琵琶湖就航歌、その昔憧れたお下げ髪、近江八景、等々。

キーワードは際限なく頭を横切る。僕は今ひらめいている、諸々の想いや感情をアトランダムにメモにとった。そうやって、この得も言えぬシーンと、そこからわき上がる感興の痕跡を、しっかりとどめ置いた。
それらを並べて整理してみるとそこには、感情の流れが整理されていた。つまり詞となって形を整えていたのである。

偶然だがこのような、安らいだ想いと癒やされた心から、この詞は出来たのである。

詞さへ出来れば、作曲はお手のものであるから、あのときの気持ちに添うように、メロデイをつけた。

この作品、「滋賀のさざ波」 はこういう状況の中から生まれた作品である。
コーラスで歌うも良し、ギターで好きなように、コードをつけ、リズムを切って歌うも良し。

そして願わくば、僕が味わったあの素晴らしい琵琶湖の夕暮れの1コマを思い浮かべて、人生の安らぎを得てほしい。人々の心に届いてほしいと言うことである。





         滋賀のさざ波         作詞作曲 武田圭史
              編曲歌唱 新井久美子

1,匂いもやさしい ふるさとの
  滋賀のさざ波  漕ぎ行けば
  瀬田の唐橋   懐かしく
  ああ  琵琶湖の 水の青さよ

風のハミング  聞こえますか
 青春(ハル)の歌声 聞こえますか
 ミミを済ませば聞こえてくる
 なつかしいふるさとの唄

2,皇子山の   いただきに
ささやく風を  訪ねゆけば
あの日の姿   そのままに
ああ 思い出す あなたの面影

あの人の唄 聞こえますか
愛の歌声  きこえますか
  後振り向けば かけてくる
  優しいふるさとの人

3,堅田の里の  浮き御堂
  鈴を鳴らして 手を合わせ
幸多かれと  祈れば
ああ  浮かび来る  観音浄土

三井寺(テラ)の鐘の音 聞こえますか
幸の歌声    聞こえますか
目を閉じれば  胸に浮かぶ
美しい     大津の街
  なつかしい   ふるさとの街

夫恋石プヨンソック

2008年04月13日 | Weblog
チェさんハーさん

釜山駅からバスに乗って太宗台までは30分そこいらかかる。案内所ではそう説明してくれた。地下道をくぐって駅と反対側からバスに乗った。
太宗台はウイークディのためか、がら空きでバスを降りたのは私を含めてたった3人だった。1人で歩いてもよかったんだが旅は道連れのほうが楽しいので、思い切って2人の娘さんに声をかけた。韓国語はまるで分からないから開き直って日本語で話かけたら日本語が帰って来た。僕は急に嬉しくなり、
話しても聞いてもわからない中で言葉を通して心を通い合わせることができて胸のつかえが1ぺんにおりた感じがして生き返ったのだ。
彼女はイマ、ソウル近郊の日本企業で働いていて日本はしたしみを感じるらしい。仕事の話はさておいて話題は旅の話になって佳境に入った。
3、40分も歩いただろうか、パンフレットで宣伝されている人魚の像のある島の突端についた。そこはほんの小さなスペースで下は崖をなして海である。高台にあるから眺望はすばらしい。 よく晴れていたら対馬が見えるとか。それは実感としてわかる。
島を1周する形で道を進んで行くと、下に降りる道があり、遊覧船があった。
彼女たちは乗るつもりらしい。2人で話す言葉は韓国語だからさっぱり分からないがチェさんは乗リませんかと声をかけてくれた。わたしは1瞬ためらった。と言うのは今回の旅行は誰にも言わないでおしのびできているからだ。実は太宗台公園には伝説がありそれをしらべて作詞作曲をする取材が目的なのだ。日本の題名は夫恋石(韓国語でプヨンソック)これはここに伝わる伝説を土台にして何時の時代も変わらない美しいが悲しい夫婦愛の物語を歌に載せたかったのである。
もし海で舟でもひっくり返ったらどうなるか、いやな思いをするのはかなわない。こういう気持と乗りたい気持ちが交錯したのである。
彼女は既に切符を買ってくれた。 「カムサハムニダ」ありがとう。僕はお礼を言って乗船した。
心が通じ始めるとここが外国、韓国だと言うことを僕は忘れた。時間は短かったが時を忘れて3人は語り合った。仕事のこと、流行のこと、恋人のこと若い女性だから当然の話題である 。
あっという間に時間は過ぎて太陽は傾き始めていた。彼女たちは今からソウルへ帰る。僕は今夜の飛行機で日本に帰る。バスの道は同じ方向だった。僕は空港に向かうためナンポドンでおりた。彼女たちはわざわざバスを降りて空港行きのバス停まで送ってくれた。
バスは発車した。彼女たちの姿はどんどん小さくなる。一番後部の席に腰掛けて僕は手を振り続けた。周りの人たちは僕の奇妙な仕草に何事かと目を注いだが、僕は恥ずかしいという気持ちよりも彼女たちとの別れの寂寥感に包まれていたので、何も気にならなかった。
2、3,分のうちに姿は見えなくなった。僕は正面向いて座り直した。そしたら涙が1筋スーット頬を伝った。空港に着くまで僕は今日の出来事を何回も何回も繰り返しては何とも言えない気持ちになった。まるで愛しい人と別れたあとで味わうかのように、切なくて甘くちょっぴり寂しさの混じった 初恋の味とでも言うのか、満たされながらも寂寥感の漂う気分だった。それはもう10年も前の旅の思い出だが、今も心の中で輝いている。まるで昨日のような鮮やかさで。