日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

出発点

2010年03月31日 | Weblog
   
出発点

ある業種において、どんなに能力があっても、他の業種に移ると、低いところか出発しなくてはならないのが、通常の我々の社会である。
その業種内における出発点は、能力の、伸長した時点かの出発点、ではなく、いちがけからである。

あらゆる業種において、ずば抜けて才能があり、それが適切に、その場で発揮できる人も、いることはいるが、大多数は、いちがけからである。

どこまでとべるか

2010年03月30日 | Weblog
どこまでとべるか

ある一つのテーマなり、課題なり、意味からどこまで空想を広げ、連想するか
これは詩を書くときも、エッセーを書くときも非常に大切なこと手ある。
どこまで飛べるかがテーマである。叙事的に事実の羅列だけでは詞には成らない。心の中に入っているもやもやを引き出してそれを昇華させるところに作家の使命がある。

人生の成功者

2010年03月29日 | Weblog
人生の成功者
78/8/12
人生には必ず、苦労がつきまとうが、そういう中で、自分が最も住みやすい心地の良い世界を、探し当て、その中で、ゆうゆうと生きている人こそ、人生の成功者であると思う。

ただ呆然

2010年03月28日 | Weblog
ただ呆然

バイクには乗るなと注意した。それでも最後には、絶対乗らないでくれと、懇願調になって頼んだ。

、しかし、彼はある日、天国の住人になってしまった。

お通夜の日。僕は彼の亡骸を前に,悔しさと悲しさで涙を流した。

本来自分でできることは完全に成し遂げたかどうか自問した。これ以上できないというところまでは努力したつもりである。
ところが結果がこうでは,それはつもりの域を出ない。

体を張って彼をつなぎ止めておくと言うことは不可能だし,この事故は、避けられないことであった。と自分なりのいいわけをした。

かわいそうに、彼のお母さんにとっては、ひとり息子を失った。この息子が、いなくなると、彼女の人生もまた、なくなってしまうような惨劇である。そして、彼はすでに鬼籍入ってしまっている。

枕もとに立っている僕。座っている母親は、と見ると彼女は悲しみの涙を流さない。あまりにショックが大きすぎると涙も出ないのだろうか。悲しむと言う感覚はどこかに消え失せて、ただ呆然とした表情で,顔は蒼白、おそらく頭が真っ白に、なっていたのだろう。

こういうことって、人生にはあるんだ。なんの因果のめぐりあわせか知らないが、人生には、こういうことがある。
人間にはどんなことでも、おのずと限界がある。まして、教師が生徒に対する指導力なんていうもは限界ばかりで、直ぐに壁に突き当たる。
僕は自分の非力をつくづく感じた。いや思い知らされた。

徒歩 車 列車

2010年03月27日 | Weblog
徒歩 車 列車

旅は、テクルに限る。 車だと書き物ができない。
列車だと、のっている間、創作はできるし、読書もできる。

しかし物を考えるとき、身体は静止させるか。歩くことによって、ある種のリズムを身体に刻みこむのか。果たしてどちらが、適しているのだろうか。

発想するときは、歩いていると、アイデアがよくうかぶから、旅は出来るだけ歩こう。

生きていると言う実感から

2010年03月26日 | Weblog
生きていると言う実感から

、生かされて生きているという実感に転換するまでに50年の竿月が流れた。生きていると思う頃は何も考えなかった

人間が存在するための条件なんて考えたこともなかったし、全てがその調子で流れ去っていたから疑問に思うこともなかった。

が、にんげんの生存には書かせない条件がある事に気が付いたときに、生かされていることに気が付いた。

人間にはいろいろのタイプがある。

2010年03月25日 | Weblog
人間にはいろいろのタイプがある。

1.権力の座につこうともがく権力志向型
2.芸術作品の追及、制作に心血を注ぐタイプ
1.人を宗教的に教化しようと黙々と活動をするタイプ
4,金以外には目もくれず金もうけに生きがいを感じるタイプ。

金はなくても、地位や名誉がなくても、私には詞曲の世界がある。詞曲の世界に生きられるのはなんと恵まれたことであろう。

神(弁財天)は私に音楽を与えたもうた。そのおかげで私は豊かな感性と知性によって美しい詞曲を作ることができる。

それのみか、詞曲の世界に生きることによって、人生を広げ、豊かなものにできるし、生きる喜びをさらに増やすことも可能だ。恵まれた人生をあたえられた。
神に感謝しなくちゃ。

変わる

2010年03月24日 | Weblog

変わる


1、外の風景が変わる

2、進歩した科学の波をかぶり現代風になった

3、それに加えて私も加齢して心のフレームが変わり視点着眼点、が変わってしまった。

4、感覚的な鋭敏さにも、もわっとしたフイルター掛かり、曖昧のままで放置

5、いつのまにか真実の風景が見えなくなった

黄緑は自然の息吹

2010年03月23日 | Weblog

 土を持ち出した畑は緑の絨毯を敷いたように一面に若草が生えている。
野山では、今まで寒い冬を枯れ木のような形をして死んだふりをしていた森が、緑黄色の綿を身に付け始めた。自然の息吹が吹き込まれ、自然は、天も地も、すべて和して風景を作る。
天然の仕掛けによって、自然の姿は変わり、それに巻き込まれて、人の命も自然に新しい息吹に包まれる。命のリフレッシュとはこのことか

暖かくなく寒くなくこれが最高

2010年03月22日 | Weblog
暖かくなく寒くなくこれが最高

バンコクの4月はソンクラーン・ 水祭りが行われる。
1年中でいちばん暑い時期である。

インドのカルカッタはむっとする湿気と暑さである。

風邪を引いたときの高野山の冬は体にこたえる。

とすれば、暑くもなく寒くもなく、という今の時期が1年の内でいちばんしのぎやすい季節である。しかもすべての命が新しい息吹に包まれているので、自分の命までもリフレッシュされる気がする。


2本のレール

2010年03月21日 | Weblog
2本のレール

人は常に、2本のレールの上に乗っかっている。1つは、普通の日常生活をするための常識というレール。

人間として共通のルールに自分を合わせて、生きる、いわゆる常識人としての振る舞い。並の人間のするようにすればよい。

もう一つは、その人固有の才能を生かすレール。この上では、はっきりと自己主張と強烈は個性を発揮すること        

遺憾に存じます。

2010年03月20日 | Weblog
遺憾に存じます。

責任者の地位にある者がよく使う。
自分に落ち度があり謝る場面でよく使われるが、これは残念に思うというだけで、自分の非を認めて謝罪するという意味は希薄である。

辞書には遺憾とは残念に思うといういみが書いてあって謝罪する気持ち、お詫びについて書いてない。

己に非があり、落ち度があり,やらかした失態によって結果的には損害や迷惑を与えたのだからわびるのが当然だと思うが、言葉のあいまいさによって、自分の非を認めようとしないのである。

謝罪をするなら「迷惑をかけてすみません。こんなことになってまことに残念に思います」というのが筋道だが、謝る部分をすっ飛ばして後半の件,残念だといってごまかす。

これでは謝罪にはならないし,慇懃無礼とはこのようなことを言うのだ。
この言葉は社会的に高い地位についている族が常套句としてよく使う。
まさかこの言葉の意味を知らないままに使っているとは思えない。そんな程度の教育しか受けないで高い地位にいること自体がふさわしくない。

ごまかしをやめて素直に謝れ。こう言うきちっとしたけじめをつけないから、また似たようなミスを犯すのだ

うた

2010年03月19日 | Weblog
うた

歌を聞いて詞を味わって、自分や他人の人生を思いやると、それが基となってと心に波風が立つ。
その波風はあるときはあふれる涙を誘う。

熱い情熱であり、あるときは失望したときの、あのさんたんたる思いである。
人生に彩りをそろえる歌は、自分の命にまとわりついて命の一部とな。る

裏道

2010年03月18日 | Weblog
裏道

この世に存在するものはすべて表と裏がある。陰と陽と言ってもいい。

人間は目に見える事ばかりで判断するが、隠れた部分も見てこそ正しい見方ができる。

そして裏道、どちらかといえば見たくない裏面には、人間の本質的な部分がある。

つまり隠したがる部分を直視して真の在り方を正しく把握する必要がるある。
裏道を歩けば本当の姿が見えてくる。

死刑廃止派」千葉法相、半年で執行ゼロ

2010年03月17日 | Weblog
「死刑廃止派」千葉法相、半年で執行ゼロ

読売新聞
 
鳩山内閣では、「死刑廃止を推進する議員連盟(廃止議連)」のメンバーだった千葉景子氏が法相に就任し、死刑制度に注目が集まったが、昨年9月の就任以来、執行は一度もない。と読売新聞は報じている。

1,そもそも現時点で考えれば、この法務大臣は死刑執行業務を完全にさぼっている。個人として死刑反対は自由であるが、執行権を国民から付託された者が自分の主義主張をとうして法律違反してよいものか。
己の主義主張のために執行書に署名しないのは、完全なる法律違反である。日本では法務大臣自ら与えられた職務を果たさないで、その席にいることが許されてよいものか。
国民感情としてはとうてい納得できない。
法で決められたことを執行しない法の最高責任者の存在を許すこの国の法律の執行とはいったい何なのか。

筋の通る答えは1つだ。
死刑反対ならば自己主張を通して法務大臣になることを拒否すればいい。
法務大臣の職責につけば自己主張が何であろうと、法律に忠実でなければならない。
なによりも自己主張を貫くというのであれば、即刻辞職すべきだ。こういう自明の理をわきまえない人物は不適格者として更迭すべきである。
またこういう人物を選任した鳩山首相にも責任がある。彼の口から明確な答えを聞きたい。


2,千葉法相は昨年9月16日の就任記者会見で、死刑執行について「法相という職責を踏まえながら慎重に考えていきたい」と発言。 について。

こういうのをまやかしというのだ。国民を欺いて自己主張を通すための方便の発言である

3,内閣府の世論調査で死刑容認派が過去最高の85・6%に上ったことに触れた今年2月9日の記者会見では、「非常に高い数字で重く受け止めたい」としながら、、、、

重く受け止めたいとか軽く受け止めたいという選択の自由があるのか。己の職務の1つではないか。このようにまやかしをいって国民を欺く。これが国民の期待に応える法相の姿か。口も方便というが、うわべだけでものをいって国民をだまそうとしても、そうはいかない。国民を馬鹿にするな。

「一つの世論調査だけですべての世論を表しているのかどうかは、もう少し慎重に考える必要もあろうかと思う」と述べた。
こいつは徹底的に頭の悪い人物だ。現在のようなすさんだ凶悪事件続発の世相をどのようにみてしているのか。1つの世論調査ではないだろう。何回やっても現状の凶悪事件多発続発を見る限り、死刑存続派は過半数を超えることは誰でも予想のつく話じゃないか。死刑反対論者が8割を超えるとでも思っているのか。何回調査しても現状を見る限り過半数%を超えることは確実に予想されることだ。

凶悪犯を社会正義の名において死刑を科するのにどこに無理があるのだろか。
国民感情のどこにむりがあるのだろうか。えん罪だとか、自分の宗教上の理由だとか、残酷刑だとか、国際的な流れだとかいろいろ理屈をつけて死刑反対を叫ぶが、罪なき被害者の人権について考えたことがあるのか。被害者の人権回復こそもっとも重視すべきであるのに、凶悪犯の死刑囚の人権がどうして尊重されなければならないのか。納得のいく説明を求めたい。

4,死刑制度の存続の是非について、千葉法相は「国民的な議論を起こしたい」と繰り返しているが、省内で研究会を発足させるなどの具体的な動きは何も起こしていない。

国民的議論は辞職後にでもやったらどうだ。いまは職務に忠実なることを国民が求めているのだ。彼女の発言を時系列化してみると、執行書にサインしたくないと言う意志がありありと透けて見えてくる。
法律に定められたことを守らない法律の最高責任者。法務大臣 。
馬鹿らしくてシャレにもならない。

そこで結論
執行命令が出せないなら即刻辞職すること。法務大臣の職に就いているならば職責を果たすことだ。