日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

なべて絵は

2011年02月28日 | Weblog
なべて絵は音楽ほどに感動しないに負ける

音楽に涙する人は多いが、絵に感動して涙した人の話は聞いたことがない。
あっても数は少ない

音楽の効用     気晴らし     癒し   

心がうらぶれたとき      余計に落ち込むことがある

挫折や傷心の時 音楽に逃げない  正面から向き合う

心のささくれだった現代人には  時として音楽から遠ざかルことも必要


リビア情勢

2011年02月27日 | Weblog

リビア情勢

報道を見る限り、あんなに国民が独裁者から離反したら、おそらく長くは持つまい。
彼が無血革命をしたときに、今日の状況を想定したであろうか?40年の時を経て、若き革命家は独裁者に成り下がった。権力を恣にして、反体制派を厳しく弾圧した。
一説によると、パンナム期の墜落事故は彼の指示だったとか。もしそうなら全く許せない狂犬だ。

青年時代に国家国民のために、革命を起こしたという言葉は色あせて、結局は自分が権力を握りたいために、行動したと言うことになる。それにしても40年間の独裁は長すぎる

現代のような情報社会において、40年間の独裁は歴史的に見て、明らかにアナクロである。だとすれば彼の政権が倒れるのは歴史的必然性がある。この辺を悟って行動をしなければならない。歴史の流れにさおさして、生きようと考える方がどだい無理な話である。

にもかかわらず彼は反政府勢力と決戦をするとがんばる。無駄なことだ。兵をやとって自国民と戦争するとは言語道断である。彼が早く死ぬことがリビア国民にとっては望ましいことである。自殺か。殺されるか。彼の前には死がはだかっている。独裁者の末路はあわれなものだ


でんぼの神様

2011年02月26日 | Weblog
でんぼの神様

生駒山の麓に、関西地方では有名なデンボの神様 ・石切神社がある。祖母の時代からデンボの神様は耳にしていたが、こんなに効いてもらえるとは想像もしてみなかった。
実は言葉もしゃべれない乳児のおしりに直径1cm位のデンボが出来た。
皮下にどす黒い血と膿がたまっていて、見るからにいたそうである。外科医に診てもらうと、注射器でその膿を吸い取らなければと言う。その通りだけど、麻酔も打たないで、太い注射針でそれを吸い取ると言うことである。そしてその通り実行した。麻酔もないから乳飲み子は絶叫している。はたでそれを見ていると、こちらが気が狂いそうである。
かわいそうに!!一回目はそれで過ぎた。ところが3,4日するとまた今までより大きいデンボが出来ている。最初の時よりたちが悪そうだ。医者に行くと注射器で吸い取る他はないという。僕はちょっと待ってほしいと医者に申し込んだ。

このときデンボノ神様石切神社の話を思い出したのだ。
僕は急いで石切神社に願掛けに走った。偶然にもそのときは特別よく効くと言われている女性の神様・巫女が出ていて、でんぼ切りのまじないをしてくれた。それから拝殿にあがり、お祓いを受けた。それではまだ効き目がないように思えたので、お百度を一心不乱に踏んだ。孫のデンボが神様のお力で治りますようにと心の中で祈りながら。
それから2,3日すると不思議にもデンボは小さくなり始めた。医者に診せると前回やった治療が効いてきたのだと言った。僕はそれは違うと思う。最初の注射器による吸い取りから、後はもっとデンボは大きくなったじゃないかと思ったからである。
デンボが小さくなったなのは、神様のおかげだと思う。特によく効くと言われる先生が当日半紙に書いた孫の名前を指で何回も×印を切って呪文を唱えてくれたからだと思っている。お詣りして願掛けをして以降、デンボはみるみるうちに枯れてきて、元通りのきれいなお尻になった。あれ以降再発はしてない。おそらく今後も再発はないだろう。

朝日新聞の夕刊こころのページに大きく石切神社の事が載った。僕は実感あがるのでこの記事は僕だけではなく、多くの人が知っていて、また代々伝承されて今日に至っていると思った。そうでなければ、いくら神様だと言っても、御利益とその実績がなければ、時間という風雪には耐えられず、いつの間にはその御利益は風化してしまうに違いない。連綿と伝えられるには、それだけの力があるのだ。御利益がなかったら人間は現金なもので、いずれそっぽを向いてしまし、石切神社も過去のものになってしまう。連綿と今日までは続かない。

御利益の多寡は人それぞれだろうが、そこには不思議な何かがある。神のお力だ。とにかく僕は孫の悲鳴を聞かずに済んだ。しかもデンボは跡形もなく治った。それから4年ほど経って娘達夫婦に、当人の孫を連れてお礼参りに行った。孫は紙で作ったお百度のひもを、数えながら100回った。当人の僕がお百度を踏んでお礼参りをしたことは言うまでもないが、娘夫婦もそれぞれにお礼のお百度を踏んだ。石切神社は力の強い神様だ。今では我が家の語りぐさだ。

おれとおまえ

2011年02月25日 | Weblog
おれとおまえ

俺は男の世界で32年生きてきた。お前は26年間女の世界で生きてきた。お互いの世界のことは何も知らずに、ある日、何十年か前のあの日から突然一緒に暮らし始めた。
今年でなんと43年の月日が流れ去っている。毎年節分はやって来るが
今までそんなこと意識したことがなかった。結婚記念日だって?そりゃどこの国の話だ?

仲良くここまでこれたこと自体が不思議な感じがする。喧嘩をしては仲直りして
よたよたしながら、人生行路を歩いてきたね。子供も一人前に育て上げたし、結婚させたことって、丸で嘘みたい。そんな慌ただしい日々を過ごして、後ろを振り返ってみると、よくぞここまで来たものだ。

歌の文句じゃないが、人生七坂峠は実際にあるよね。これを乗り切ったのはお前と俺が手をつないで、渡ってきた人生峠そのものだ。その時は夢中でただ懸命に生きてきたけど、人様に大して、迷惑もかけずに、そしてお互いに大病もせずに、今日健康でいるのは、お互いにありがとうという言葉に、全てが集約されるよね。きざっぽく言えば、お互い様に、ありがとう、だ。
二人の間にはきらめくような愛はなかったが、地道なお互いへの理解と協力より他には何もする余裕はなかった。互いの愛を育んだのだろうよ等と言うがそれは後ろについて回った言葉だ。 もし愛という物がアルトしても、
愛は二人の間に深く潜り込んでいたのだろう。表面に決して顔を表すことなく。

八卦見による占い、「相性は凶」と言うことを物ともせずに、俺たち基本的には、二人の力を合わせて全てを乗り切ったことを思うとき、そこにあったのはお互いの人生にタイする真剣さだと言うことだろうよ。 八卦見の言うことが当たっている日もあれば、あれはでたらめだと笑い飛ばす日もあった。相性が良かろうが、悪かろうが、とにかく「生きていく」と言うことは時間に追いまくられているから、二人の相性よりは子供を含めた家庭を守る方が大切だった。家庭をきりもりするのに勢力を注いだから、相性云々なんてとんでもない話。生活と戦う他はなかった。

そんなこんなで、ここまで生きてきた。これからさきに何が起ころうが、今まで通りのやり方でやっていく他はない。健康に気をつけて、ぼちぼちいこうぜ。なあ お前。

リビアの反政府でも

2011年02月24日 | Weblog
リビアの反政府でも

中東の狂犬とあだ名されたカダフイ大佐政権が崩れようとしている。六百万の人口の国が、わずか一人の独裁者に40年も牛耳られたのはどういう力が働いての事だろうか。反体制派を押さえるために、裏ではどんなえげつないことが行われたか。想像に難くない。時間の経過と共に人権が開かれていくような時代に、独裁は似合わない。次は北朝鮮で争乱が起きるかも知れない。それはインターネットの力で、隠しようがないからである。この反政府運動が中国に及んだときは、一体日本はどうなるのか。中国へ中国へと草木もなびいた日本の企業はこの辺のリスクを織り込みづみなのであろうか。何事によらず一国集中はリスクも大きい。
先日インドの財閥タタとの提携をみずほがとりもっていこうとしていたが。日本独自のノーハウはいったどうなるのであろうか。技術の移転は亡国につながる危険を含んでいる。苦心惨憺して開発したノウハウが、いとも簡単に相手国によって利用されるようなことになると、日本産業界は取り返しのつかない事になる。 強みを失ってしまうからだ。世界情勢が大きく変わろうとしている今は、ものすごく難しい時代なんかもしれない

あるブーム

2011年02月23日 | Weblog
あるブーム


1970年代  、オカルトブーム

1990年代   ヒーリングブーム

 現代      スピリチュアル、ブーム

面白ければいい楽しければいいといった考えだけで、番組作りがなされている
だから見ない。関連グッズを買わないといったことが大切。

科学の名のもとに証明できないものは存在しないとか。人間は死んだら土に入るだけだという狭い人間観を振りかざす

仏教徒はスッタニパータによると

1,アタルバベーダバラモン教の祭式書の呪法

2,夢占い

3,観相

4,鳥獣の声占い

5,懐妊術  などをしてはいけない 

など何か訳の分からない事が、ブームのようになっては消えていく。
結局人間は自分の立ち位置、ポジッション が解らないからふらふらするのだ。
人生は闇の中と言うが現実世界においては、本当にそうだと思う


















ジャズに思う

2011年02月21日 | Weblog
ジャズに思う
すこし暖かくなったので、家から這い出して、演奏会に行ってみた。
無名だが、友達にジャズピアニストがいる。演奏を聴いていてジャズピアニストはある部分作曲家だと思った。全体の流れを見ながら、自分の演奏がどこまで、快適に、また発展させて自己表現できるか、演奏している人は自己表現を演奏という形をとりながら、観客の反応を見たりしながら、曲を紡ぎ出していく。
とは言え、勿論合奏だから周りの楽器の事も考えないといけない。その制約はあるものの、自由に動き回れるのは、ジャズが一番わかりやすい。
この部分で作曲家ににているなと思いながら、帰途についたが、どんな形にせよ、音楽は良いなと改めて思った。

永田死刑囚死亡

2011年02月20日 | Weblog

<永田死刑囚死亡>先鋭化、

先鋭化した武力闘争で71~72年に起きた一連の連合赤軍事件の指導者、永田洋子死刑囚(65)が5日、静かに息を引き取った。

彼女にとっては極楽死だ。なぜ天は彼女の行った残虐な行為に対して、厳罰を加えないのか。天誅を加えないのだ?

銃と暴力で血塗られた革命思想は「総括」と称して仲間を死に追いやり、あさま山荘での壮絶な銃撃戦で途絶えた。事件から40年。かつての最高幹部の死は一つの時代の終わりを告げた。

狂った思想がどれほど人を傷つけるか。この事件はその惨状を見せつけた。どんな場合でも人間は生きていく以上、あらゆる方面でバランスが要求されている。その鉄則を未熟な頭で考え出した思想とやらで大きく崩す。そんな者が長続きできると考える方がおかしい
はじめから結論はわかっている。命の尊重という根本を考えることなく、ただひたすらに偏りに突っ走った人間の哀れな姿がここにある。加害者も被害者もだ。なべて極端論は危険

群馬県の榛名山や迦葉山の山岳アジトなどで12人の同志の命を奪った「山岳アジト事件」(71年12月~72年2月)。永田死刑囚は同志の指導者として次々とメンバーに「総括」の名の下に自己批判を迫った。総括はエスカレートし、他のメンバーに「総括援助」と称して暴力を加えさせるようになった。取り囲んで殴打し、緊縛して極寒の山中に放置した。死亡すると穴に埋めた。兄弟でアジトに潜伏した同志もおり、弟は兄を泣きながら殴った。妊娠8カ月で暴行を加えられて死亡した女性もいた。

凄惨な同士討ち。その首謀者がこんな自己中心低能な女だったのか。逮捕以来その姿を見ているとこんな魔女みたいな女につい居ていった仲間も、仲間だとあきれかえる
彼らは生きることの本当の意味がわかっていない。命の大切さがわかっていない。だからこんな残虐で滑稽としか言いようのない世界に迷い込むのだ。 

13人の殺人罪、1人の傷害致死罪に問われた。1審公判で非を認め、反省を口にしたものの、証人尋問で当事者を前に大声で笑い、判決では「人命蔑視の精神を表すものとして見逃すことができない」と指摘された。2審では「武装闘争は今後も起こる。連合赤軍の武装闘争の経験の総括も、今後の闘争に生かさなければならない」とも語っていた。
一方で、、脳腫瘍の症状が表れた。93年には「腫瘍の治療が行われていない」として、病院への移送と、国と手術した病院に慰謝料を求める訴訟も起こしていた。

国民の税金でこんなやつの治療をする必要はない。そんな金があったらもっと気の毒なたちばにおかれている国民のために使え。どこまで厚かましい人間なのだ。社会の厄介者


第53回グラミー賞」の授賞式

2011年02月19日 | Weblog
米音楽界の最高権威

「第53回グラミー賞」の授賞式

、B’zのギタリスト、

松本孝弘(49)が、米ジャズギタリストのラリー・カールトン(62)との共演作

「TAKE YOUR PICK」で最優秀ポップ・インストゥルメンタル・アルバム賞

 日本ロック界の頂点に君臨するギタリストが、世界をも制した。
 日本のアーティストは、

これまで坂本龍一 中村浩二  和太鼓2008

喜多郎ら  4人    がグラミー賞を受賞しているが

、ポップス部門での受賞は初めて。B’zとしてシングル43作連続1位獲得など、日本で数々の金字塔を打ち立ててきた松本だが、ギタリストとして世界にも認められた。
 
受賞後「あしたからまた新たな音楽づくりに精進していきたい」と語った松本。

内田光子  最優秀器楽ソリスト 彼女の演奏を見ていると、彼女自身が楽器であると思った。
松山夕貴子  琴
上原ひろみ  ジャズピアニスト いずれもすばらしい人達である
一度に4人の受賞は日本人がいかにすばらしい民族かを物語る。野球のイチローといい、サッカーといい、オリンピックでは必ず入賞する。世界に誇れる科学者が何人もノーベル賞を受賞したり、IPS細胞の山中教授がでたり、宇宙では船長を務める人が現れたり。他人事ながら日本人の本質は誇れる民族だとつくづく思う。

願わくば政治の世界にもこの困難な時代を乗り切れるように国民を導いてくれる人が現れないものだろうか。哲学を学んで身につけた政治家が皆無である。松下政経塾は政治家になるための予備校みたいなもので 、たいした政治家は出ていない。これは政経塾の教育内容と言うよりは人物の資質の問題だろう。もともと 歴史上を眺めてみると世界に通用する哲学者は出ていない。しいてあげるなら聖徳太子(の哲学)くらいの物か。
ライシャワー博士は想像が足りないと言ったが、基本的には哲学はないのだ。だから信念が無く浮ついているのだ。
小沢は一兵卒として働くといった。その後の彼の言動を見てみるとどういう答えが出るか どうして彼を首相に担ぐ気になれるか。

民主党はホントにダメだ

2011年02月18日 | Weblog
民主党はホントにダメだ

また内紛だ。両成敗しないと国は良くならない。
日本の政治家はお粗末そのものだ。

日本の政治家には想像力はもともと皆無だった。ライシャワー
博士

この指摘の通りだ。政治家とはたいした人物がやる物ではないと今回は示した。何が国民に選ばれた人達だ?。そういう自覚があるのなら、もっと国のために働け。

壺阪寺常盤勝憲師

2011年02月17日 | Weblog
壺阪寺常盤勝憲師: 11/02/15

お里澤市物語で有名な、壺阪寺の住職をされていたのが、常盤勝憲師であった。58歳の若さで遷化されたのが、惜しいと言うより、口惜しい。

徳は一体、誰に対して積むのか。人に対するのであろうか、それとも、神仏に対すのであろうか。?僕が師に求めた事、この問いから始まった。

人に対する徳というのだったら、「ありがとう。」の一言で、チャラになる。
報酬を求めて、というなら、何をしても、徳を積むということにはならない。
何の見返りも求めず、他人様のお役に立つように、神仏に対して積む。このことを陰徳という。師は背中でこのことを示された。
表に出さず、黙々と徳を積むことこそ、神仏が認める徳ではないだろうか。

一般論として、人は何か役立つことをしたら、その手柄は、自分であると表に出したがるが、表に出してしまったら、それは、陰徳ではない。
自分が良しとする事は黙ってやればよいのであって、誇らしくいうことは無い。
先生はそう言われて実践された。そう考える根本の哲学こそ、仏教の教えであると言われた。

先生は日本の社会福祉の原点にたたれた第一人者だ。戦後間もない、昭和20年代に、僧衣を身にまとい、国が社会福祉に目を向けるように、厚生省に座り込みをされたという話を、当時の厚生省の担当者が、テレビで証言していた。
釈迦の説いた人間としてのあり方に、強い確信を持って、のぞんでおられたからその証言は、さもあらんと僕は納得した。

あるとき、先生に依頼されて、さるお寺の慶讃法要に、使う音楽を作曲したことがある。お経 舎利礼文 がそれである。これは、お釈迦様と、一体になるという事を強く願うときに使うお経らしい。
舎利礼文には「入我我入」という言葉がでてくるが、これはお釈迦様と一体になるすなわちお釈迦様の中に溶け込むあるいは、お釈迦様に一体になって貰う。言い換えれば、お釈迦様の教え、あるいはお釈迦様そのものと、一体になる。ということらしい。

仏教用語で、素人には難解なお経だったが、何とか曲をつけて聞いていただき、お経の内容がメロディーとリズムに乗って、うまく表現されているか確かめていただいた。その時はある4小節をオクターブあげた方が良い。というアドバイスをいただいた。
有名な作曲家・團伊久磨氏の作曲が、師の心を十分表現しきれていないので、再度作りなおさせたという耳の持ち主だから、適当にごまかして逃げるという手は使えない。真剣勝負したつもりで、今でもこのときの緊張感を思い出すことがある。

世には、不言実行の人の数は、有言不実行の人数にくらべて圧倒的に少ない。だから、先生の不言実行は、僕には輝いて見える。
先生が、不言実行と陰徳を念頭に置かれたのには訳がある。先生に、そのように、思わせたのは、長島愛生園の光田先生の講演だったらしい。
長島愛生園が、ハンセン氏病患者の隔離島であって、そこに生きる人々は世間の白眼視と絶望の中でしか生きていくことができなかった。その実態を見、実情の講演を聴かれた先生は、その人たちのためにお役に立ちたいと決意して立ち上がられた。
京都大学の宮崎博士がニュデリーの航空機事故でなくなられた時、インドにおいて、展開されていたハンセン氏病患者の救済事業を物心両面で、継続された。このことは、日本とインド両国に関係することでありながら、壺阪寺の福祉活動の一環でもあったのだろう。
そしてなによりも先生と、時の首相、インデラ・ガンジーとの信頼関係が不動のものであったという事だ。首相暗殺の1週間前に会われた先生にガンジー首相は、「寂しい。」ということを何回がつぶやいたとか。、
それが今から思えば、今生の別れだったのかと嘆かれた。そのことは直接僕がこの耳で聞いた。
八面六臂の活躍をされた先生は、無理がたたって、58歳で天上界に還っていかれた。最後のお見舞いで、奈良県立医科大学病院へ行って、握手したとき、いつもの力は全然抜けていて、もう長くは無いなあと僕は直感した。

常盤師の浄行に対し、インド政府は、謝意を表そうと、インドにおける文化勲章を受賞されたシエノイ博士の指導のもとに、デカン高原の石を刻んで、仏伝図と石像大観音像を作り壺阪寺に贈られた。

不言実行は大変難しいことである。これに加えて、陰徳を積む。その背中には、きっと菩薩の光が輝いていたことであろう。そして、どんな浄行もいっさい口に出さないで、仏の道を黙々と歩む姿こそ、菩薩道だと僕は今にして思う。
先生のまかれた種はインドでは確実に芽を吹き、多くの人々がを救われてきた。そして同時に、先生はグルジーとして、いまなおインドで尊敬されている。
このことは、先生自身の口からは公言されてはいないので、その実績をを知る人は少ない。知っているのは業病から助け出されて授産場で、生活の手段を学んだ元患者たちと先生の側近として協力を惜しまなかった。職員位のものだろう。
いや、このことをじっと見つめておられた釈迦如来と観音菩薩はきっとご存知の筈。
先生は今頃極楽の蓮の台の上で、静かに下界を見つめておられることだろう。いや、先生のことだ。持ち前の行動力でせかせかと立働いて、おられるかもしれない

探せば、師以外にも日本国中にはたくさんおられると思うが、今生でご縁があったのは、先生だけである。師の示された浄行は、今も僕の胸に輝いている。この教えこそ僕が理想として求めてやまなかった教えだ


























四天王寺105世管長瀧藤尊教師

2011年02月16日 | Weblog
四天王寺105世管長瀧藤尊教師 : 11/02/15

先生は頼まれて、あちこちで講演され、その法話は人々の心に深く届いて、今も輝いていることだろう。2010年12月8日。88歳の天寿を全うされ、遷化された。

「天花燦々」先生から頂いたこの額が、私を見下ろしている。

長い間、四天王寺学園高等学校の校長をされ、天下に「よんてん」と称される女子の名門進学校を作られだ、立役者であった。池田先生のお力を得て、今日の女子の名門進学校の地位を不動のものにされた。おそらく有名大学への進学率の序列では、日本で1,2位を争うだろう。

表面はいつもにこやかで、会うのが楽しいお人柄だが、心の中にはとてつもない修行を積まれ、苦しみを乗り越えた強靭な精神力を宿しておられた。
学徒出陣して鉄砲の弾もくぐり、比叡山の百日回峯行を体験されたこと、比叡山から毎日、京都大学まで通学されたことなど、とても常人では、できないことを体験し、心を鍛えられたお方である。(詳しくは師の自伝「慈恩の生涯」を一読されたい)

先生は聖徳太子を心から尊敬、敬愛されていた。先生の口から「タイシ」という言葉が出た時、僕は「ダイシ」弘法大師という言葉に馴染んでいたので、タイシ という言葉には少し違和感を覚えていたが、それが聖徳太子と弘法大師の違いである事が後になってわかった。

四天王寺は「和宗」の総本山であるが、天台宗・比叡山系で、真言宗・高野山系とはちょっと違った感覚を抱く。と言っても、四天王寺の境内には、四国88カ所遍路のお砂場があり、弘法大師の像もある。

1993年は聖徳太子が摂政になられてから、1400年になる。四天王寺では一山あげて、聖徳太子の恩徳をたたえる1400年祭がとり行われた。
その時、「聖徳太子讃歌」を作っては、とお声をかけてくださったのが、当時の第百五世管長。瀧藤猊下であった。

作曲家にとっては誠にありがたい話で、思いの丈を詞と曲に載せて、猊下の聖徳太子への敬慕の念と、私の太子への思いを重ねて作詞作曲した。当日は在校生400人あまりと、私が指導していた合唱団とで「聖徳太子讃歌」を歌い上げた。

聖徳太子が説かれた17条憲法の中でも、すべての命が支えあいながら、存在し共生きすると説かれた共生きの精神に、私は魅了されていた。作詞する際に一番力点を置いたのは、そこの部分だった。
単に、命が共存するということではなく、その奥にある命の関係系や、一つの命が全宇宙の命につながってお互いに支え合いながら生きているという考え方、すなわち、共生きの精神こそが、未来永劫に輝き続けてなければならないという聖徳太子の精神こそが、時間空間を飛び越えて、全宇宙生命の存在を確実な物にするものでなければならない。この点において、猊下も私も全く共通する思いを持っていた。

20年余おつきあいを願ったが、先生の人生の理想の世界であった「天花燦々」こそは、眼前に広がった世界であろうと、何時も羨ましく思った。。
「天花燦々」の世界とは、仏智によって万物がこの世で、燦々と輝いている世界を意味すると私は受け止めているが、私は未だに天花燦々(さんさん)と言う世界とは縁がない。そういう境地に達していない。

精神レベルでは、天と地ほども差がある私のようなガキでも、慈眼放光で教導された師は、その精神レベルはおのずと、大差があったけれども、少しも私を卑屈にさせないで、いつも暖かく見守りながら育てていただいたと感謝にたえない。

こうして、私は聖徳太子の教えと先生の慈言の中で、自分を広げることができた。
幽明を境にすると、先生の教えが心の中で鮮やかに蘇ってくる。
この世で先生のような師匠と巡り合えた事は、私の人生をどれだけ豊富なものにしたか。
つくづくそう思う。。


愛知選挙報道にタイするコメント

2011年02月15日 | Weblog
愛知選挙報道にタイするコメント


菅政権に痛手=執行部の責任問う声―「民主王国」で大敗

出て当然だ。勝敗の結果は責任問題に直結する。その厳しさがわからないで、ぐたぐた言ってると、落ちるところまで落ちる。

 2,民主党は6日の愛知県知事選、名古屋市長選でともに敗北、菅直人首相にとって大きな痛手となった。

今の様子を見てみると、民主党が決してよい政党だとは思わなくなった。完全に期待はずれ。鳩山においては なにおか いわんやだ。あんな宇宙人を首相に据えたのが悲劇の始まりだ。

3,
4月の統一地方選に向け、首相や岡田克也幹事長の責任を問う声が上がっており、首相の求心力が一段と低下するのは必至。2011年度予算案と関連法案を成立させる展望も開けておらず、政権運営は険しさを増している。

解散でもしなければ、、、お先真っ暗じゃないか

 4,
両選挙とも、県民税、市民税の大幅減税を掲げた候補が民主、自民両党など既成政党の推薦候補を大差で破った。
民主党の石井一選対委員長は6日夜、党本部で記者団に「責任を痛感している」と述べる一方で、「台風みたいなものがあった」と指摘。首相の責任論については「そこまで問題が発展するとは思わない」と語った。
 
自民党、民主党など既成政党はもうだめだと思い始めた。何か新しい風を期待するのが国民感情だと思うが、、、、。 みんなの党は言うことが極端で感情論のような気がする。そうでなかえれば、もっとプロセスをわかりやすく説明しないと、なぜそうなるのかが伝わって来ないじゃないか。ただ心配がある。本当に減税して、それでよくなるのか。無駄と人件費削減でまかなえるのか。 とてもそうはおもえない。

5,
民主党は、菅首相の下で大敗した昨年夏の参院選以降、主要な地方選挙で敗北が続いている。「負の連鎖」を断つため、岡田氏は党所属全国会議員に一度は愛知県入りするよう指示。岡田氏自身も1月20日の知事選告示以降、4度にわたって愛知入りするなど総力戦を展開
国会議員が愛知に来ればくれば、勝つとでも思って居るのか。ばかげてるよ。国民を甘く見るな。要は政策と実行力だ。それが問われているのに。なんで 国会議員が愛知に来れば勝てる?。つまり「負の連鎖」を断ち切ると考えるのか。

どうも納得がいかない。

科学と宗教

2011年02月14日 | Weblog
科学と宗教

近頃頭が少々ぼけてきた。有るところまでは考えられるのだが、そこから先となると壁にぶち当たったようで前に進まない。そんな状態で自分なりの科学と宗教について考えてみたい。

世間では科学と宗教は相反することのように思われている。僕の考えではそれは誤解で、両者は車の両輪のように思える。それぞれ分野は違っていてもどちらがかけても、人類の進歩や安寧に寄与するところが少なくなる。

宗教は信じるところから出発する。科学は基本原理から出発する。結果が同じでも、プロセスは違う。宗教が進んだとは思わない、が科学は日進月歩で確実に進歩している。
今までは神の領域のことだとされていたことの分野に科学のメスが入り出した。それも急速に。だから今は宗教の分野に属していることも、科学の分野に移行するのではないか。でも全てが科学の力で解決され、宗教の分野が無くなるとは考えられない。だから車の両輪のような位置づけが、良いと思うのだが。果たしてどんなものだろうか。 科学か、宗教かという二者択一の問題ではないように思うが。、、、

生きよう今日も喜んで・・・(平澤 興 恩師

2011年02月13日 | Weblog
生きよう今日も喜んで・・・(平澤 興 恩師)
『生かされて 生きるや 今日のこの命 天地(あめつち)の恩 限りなき恩』
(平澤 興)

(平澤 興 恩師と宮司の出会い)
宮司が、元京都大学の学長であった『平澤 興』恩師とお会いしたのは、安保闘争の真っ只中であった。

 「京大が極左暴力集団達に占拠され、学長を吊るし上げている、大学の封鎖解除に向かえ」という命令で当時、大阪府警機動隊員であった、私は、部下を連れ出動した。そこで、はじめて平澤 興学長に会った。
毅然として背筋を伸ばし、大きな声で学生たちに叫ばれていた。

「君たちの言うことは断じて聞けない・・今・・私が君たちに屈すると今後、君たちが社会に出てどんなことも、思い通りになると思うと困るからだ』・・今ではない、10年後の君たちは私ががんと聞かなかった理由がわかる・・・・とつぶやかれた。
宮司は、そのとき警察官として、真の教育者に出会った感動で体が震えた。
2日間の徹夜の監禁にも、平澤興学長は、断固として過激派学生に屈服しなかったことは有名である。
多くの学長は、極左の暴力に耐え切れず、学生の前に、屈服して紙に署名させられた。
多くのヘルメットをかぶり、角材を持った学生に「何故君たちは正しいことを言うのだったら顔を隠すのか・・何故正しいことを言うのに角材がいるのか?」と静だが厳然と言い放った。

平澤学長はさらに「今・・君たちの数の論理に屈服し、君たちに従うことは、将来の君たちに、暴力と数の論理が民主主義だと思うようになる・・・だから私は殺されても屈服しない」と言われた。

宮司は、学長を極左暴力集団から奪還したが、平澤学長は、学生の逮捕も希望されず「10年経てばこの子達も自分たちの過ちに気がつくでしょう」と微笑まれた。すばらしい学長だと感動した。

二度目は、安岡正篤師父と豊田良平師匠と宮司の3人でお会いした、穏やかで本当に仏様のような顔だった・・人生を超越した顔で光がさしていた
平澤 興恩師は、私に「ニコニコする人はこの世に沢山おられます・・でもニコニコだけでは駄目です、命がけでなければ駄目です」と言われたことを忘れられない。
生きよう今日も喜んで・・・(平澤 興恩師)

宮司の尊敬する平澤興恩師の語録『生きよう今日も喜んで』この本は、手放せない座右の書です。

宮司の「腹中に書あり」・・・・のその一冊は『生きよう今日も喜んで』です。、
○朝には、希望と張り合いをもって仕事をはじめ、夕には、その日の仕事を終わり、感謝をもって、緊張をときほぐし、静かに喜びながら、万物を拝む気持ちになることです。

○今が楽しい。今がありがたい。今が喜びである。それが習慣となり、天性となるような生き方こそ最高です。

○仕事は祈りであるということは、自らの最善を尽くして、それ以上は神に祈るということである。
この気持に徹すれば、いつも楽しく仕事が出来、たとえ仕事の上に、一時的にいろいろの波があっても、大局的には必ず仕事は順調に進み、しまいには楽しさのなかで、仕事が仕事を導いてくれるようになる。
○欠点をなおせというよりも、長所をのばしなさい。長所といえども癖である。この方の癖をのばせば、悪い癖もその大きさの中にかくれてしまう。
大木も小さい時は曲がっていても、大木になればまっすぐになるようなものである。そしてかくれた癖は時に応じてその人の味わいとなり花となって、その人に芸術味を与えることになる。
○感謝するということは、人間が楽しく生きて、周囲を明るくし喜びを与える最高の姿である。

○感謝ということは、よく見てよく考えて、他の人が見落とすようなところでも、見落とさずに見る。そうすると、平凡なことも平凡でないことがわかる、そこでありがたい、ありがたいことだなあと心から思うようになる。

○人間に生まれたことを本当に感謝し、その幸せを喜び、まあ、へまばかりやって来たが、しかし私は私なりに一生懸命生きて来た、更に、自分もご苦労であったが、他人様のご苦労もよくわかる、こういう風に思うようになると、この自分を拝み、他人様を拝むことが出来るようになる。

○顔は自分の顔であって、自分の顔ではない。人々から見る顔でもある。全体としていつでも明るい顔は、心に明るさをもっているからである。明るい顔は、明るい心。明るい心は、やすらぎの心、感謝の心である。
それは人を明るくし、自分の健康を保つためにも一番大事なことである。習慣的に、明るさを身につけることである。常に明るくあるためには長い修練が必要である。