日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

生存競争

2013年10月30日 | Weblog
生存競争

生き物すべてが自己の生命を守るために生存競争をして、生き残った者のみが生存を許されると言うのが自然の掟である。
大自然が生物に生存競争とい掟を与えた、大きな力のおかげで、生物はどれも大きく進化を遂げたり、進歩中である。

これ自体は悪くはないが、競争が過ぎると落伍者ができ、彼らはこの世から消えていく運命にある。
生存競争は人間界においても激しいものがある。
そこで思うのだが、
人間界では競争に置いて落伍者が出ても、人間として生存できるように知恵を使い、万人が1人残らず人生をまっとうすることができる仕組みを作るのが、人類の英知であり使命であると思う。

1万円のお値打ち

2013年10月29日 | Weblog
1万円のお値打ち

今仮に家族は4人家族とする 。可処分所得が月収50万と10万円とでは
数字以上は5対1になるが、生活上では決して5対1では無い。
1万円の効用は前者にとっては、無視できる金額であるが、生活限界線上にいる後者にとっては、この1万円は大した値打ちのある1万円である。

消費税が合計で5%に上る時、この生活限界線上にいる人々の事を考えて生活破壊が起こらないように、国家が諸政策を講じる必要がある。
それは限界線上で暮らしている人々の真面目な意見を反映させる諸策でなければならない。

伊豆大島 これぞ真の故郷だ

2013年10月28日 | Weblog
伊豆大島 これぞ真の故郷だ

小さい島だが火山が噴火する。有毒ガスが充満する。大雨が降れば土砂崩れで山津波が発生する。台風がよく通る。
とりわけ産業があるわけでもないのに、こんな島に居ついてしまのがいいのか。しかし人々は島にかじりつく。島外避難の際はまさかの時は命失うことを覚悟して島に残ると言う。
思うに生まれ育ったところには人の魂までもが、息づいて生活しているのだ。

ふるさとの山はありがたいかなと詠んだ石川啄木の住んだ地方は寒くて大変なところである。にもかかわらずありがたいと固執する人々が、
そこに住み着くとその周辺は最も居心地の良い環境が出来るのだろう。

たとえそれが伊豆大島のような危険極まりない所。小さな島でも。
そこは住み慣れたところだから離れられないと言う。その土地は血肉化
されている。人間も同化しているのだ。
これぞ真の故郷だ。

昭和10年以降に生まれたもの

2013年10月27日 | Weblog
昭和10年以降に生まれたもの

日本歴史始まって以来最も命が保障された世代である。日本史が始まって昭和20年まで戦いは絶えることがなかった。古くは大伴と物部の戦いより奈良 平安 鎌倉 戦国 江戸 明治維新と続いたが、さしもの殺し合いも西南戦争で国内が一本化されたと思いきや、日清 日露 日中戦争という大きな戦争があり殺し合うことは、昭和20年の敗戦まで続いた。その間若者は戦場に赴き命を失った。
終止符を打つまでは否応なしに戦に駆り出された命を失うのがの当然のことと受け止められていた。

敗戦。1945年から現在に至る青年はまさに昭和10年以降に生まれた者達で日本開闢以来、戦で命を失わなくてすむ世代である。
戦争にいかなくてもよい最高齢は現代は80歳代にも差し掛かっている、

荒城の月6-44

2013年10月26日 | Weblog
荒城の月

小学校や中学校で習ったというよりはいつの間にか身についた歌である。春高楼の花の宴、、、、、、という書き出しで始まる漢詩風の詞は20代の作者のそれではない。土井晩翠なんて名前からして、かたそうな人物の作品。
で40代以降の作品だろうと想像したところが、調べてみるとこの詩は現在の東京芸大から依頼されて28歳の頃に作ったそうである。明治生まれの人は漢学の素養があったから、あんなふうに作ったのだろうが、彼は英文学者で教鞭を執っていたそうだ。

この詩にぴったりの曲をつけたのが滝廉太郎。弱冠21歳の時である。
作詞者も作曲家も現代の作品とは比べ物にならないほどその格調が違う。現代の歌は軽くなりすぎて鼻紙のように薄っぺらで、生まれてはすぐ消えていく。荒城の月の格調の高さとは比較するまでも無い。

その違いのよってきたるところは専門に勉強した人々の作品か、素人にちょっと毛が生えたくらいの作者の作品かという点であろう。それにしても21歳でよくもあんな荘厳で重々しい深みのある曲を作るものだとその才能の偉大さに思わず脱帽する。
時代が人を作るのかのかそれとも人が時代を作るのか考え込んでしまう。

イル・デイーボ

2013年10月25日 | Weblog
イル・デイーボ

人気歌手コーラスグループ ・ イル・デイーボが「花は咲く」を英訳した。
これによって世界中で歌われ、その意味が理解されるであろう。
この歌は世界レベルの品位の高さだろうと僕は評価する。

夢や希望や絆を思い起こさせるこの詞に立体感を与える素晴らしいメロディー 。
この4人のコーラスグループに歌われることによって、「「花は咲く」は最高の地区ポピュラーソングになると思う。何よりもこの4人の和声の美しさは心にしみる。

東北大震災によって打ちひしがれた東北の人々の応援歌と言うよりは、
万人に前進する勇気と希望を与える歌として世界的なポップス歌謡となり得た。
現代の日本の歌謡界だけでなく世界に通用するレベルまでになった事は誠に嬉しいことである。

小人閑居して不善を為す

2013年10月24日 | Weblog
小人閑居して不善を為す

昨今の新聞やテレビで報じられるさまざまな事件をみて言うと無職の人が圧倒的に多く事件を起こしている。
他人様だけではなくて親子間でも怨念の骨肉の争いが起こっていることは言うまでもないことだが。
いずれにせよ、人間としての体面とか犠牲 尊敬 感謝と言うような心は喪失してしまっている 。
これを政治の貧困だとか社会がわるいとか、言う向きもあるが、そんな事は遠因にはなっても影響ないように思う。無職でイライラがたまった人が
小人閑居して不善を為すというように事件を起こしている。

人間というものは社会活動に加わって心身共に疲れるのが、犯罪をなくす(不善を為さない)一つの手段なのかも知れない。

学徒動員

2013年10月23日 | Weblog
学徒動員

10月21日は学徒出陣式が代々木競技場で行われてから70年がたつ。
学徒出陣の何パーセントが生還できたのか知らないが、国家の為にという大義名分をつけられて戦地に赴き若い命を散らした。

スマホと言う便利な機器でLINE遊びをする現在の若者とは大違いである。学徒には青春と言う春がなく、当時では想像もつかないような便利な機器を使って青春を謳歌する今の学生とは大違いである。

昭和5、6年を境にそれ以降に生まれたものとそれ以前に生まれたものは世代的には、天国と地獄との違いがある。

出陣しても生還したかっただろうと戦没者の心中を察するとき、彼らを
偲んで建てられた記念の碑が2,020年のオリンピックには邪魔になるから
引っ越される運命にあるのは何か淋しいものがある。
何十年たとうが、すべてを国のために捧げた英霊にたいし
敬礼をする事を忘れてはなるまい

過去の歴史に鑑みて

2013年10月22日 | Weblog
過去の歴史に鑑みて

まず最初に中国や韓国が口にするセリフであるが、現実的に見て、これほど非現実的なものはあるまい。過去の歴史と言うと、日中戦争や朝鮮の植民化のことを言うのだろうが、侵略をしたものと侵略されたものが同等であるはずではなく誰だって侵略したものを悪とみなし、次世代に語り継ぐ教育を国家レベルで行うのは当たり前である。

構図とすれば侵略した国家が縮こまり、侵略を受けた国家が声高に正義を叫ぶとしたら未来志向なんて言う事はありえない。


過去は済んだ事として、明日以降をどのように良好な善隣外交をするかと言うところから、話を始めないと、善隣外交は成り立たなくなる。そしてそれは単なるお題目に過ぎないのだ。




天賦の才

2013年10月21日 | Weblog
天賦の才

僕は色や形には敏感に反応しない。だから花を見て、美しいとは思うものの、それ以上の感動は無い。反応は普通である
しかし音には敏感でメロディーを耳にすると、ぱっと夢が広がる。メロディーに誘われて、悲しい気分になったり、ロマンチックな気分になったり、いろいろな感情が湧き出てくる。

色や形に敏感な人は画家になるだろうし、に敏感な人は音楽家になるだろう。人それぞれに備わった才能というものは画家にしても音楽家にしても、天与の才だろう 。

知識と知恵

2013年10月20日 | Weblog
知識と知恵

知識と言うものは、経験に裏づけされて、初めて生きるものだ。それを知恵とか教養とか言う。
経験に裏打ちされていない知識は磨かれないで放置された宝石のようなものである。自ら光を放ちその値打ちを出していないも同然である。

知識を知恵に転嫁させている人は少ない。磨けば輝くものを、そのまま宝石として持っているのはデッドストックとして倉庫に山積のママ放置された宝石である。
宝石は原石に磨きをかけて輝かせるものである。知識は経験に裏打ちされて知恵となる。

ナヒモフ号9-13

2013年10月19日 | Weblog
ナヒモフ号

1980年秋、長崎県対馬沖に時価一兆円の財宝を積んで沈没したとされる帝政ロシア時代の巡洋艦「ナヒモフ号」の引き揚げに笹川は巨額の私財を投じた。
日本海海戦では第2艦隊に属し、海戦初日の夜に津島沖で沈没したのであった。この船は金銀財宝を積んだ船だと信じられていた。
笹川が私財を投じてまでナヒモフ号にこだわったかというと、世界の視線を北方領土問題に集中させるためであった。
北方領土問題解決にはナヒモフ号が絶好のチャンスだと思った。本当に財宝が引き揚げられれば、ソ連は必ず自らの所有物だと主張し、返還要求してくるに違いない、と考えていた。

財宝が見つかったという噂が流れると、すかさずソ連はそれは自国の物だと主張し始めた。返還要求をしてきたわけである。

ソ連が返還要求をしたとき、その代わり、日本から取り上げたままになっている北方領土を返還させることが交換条件であると笹川氏は主張した。
それ以後ソ連からはなんの返事も無かった。おそらく財宝は積んでいないと判っていたのだろう。
中味はなんだたのか漏れ聞こえてくることはなかった。
だから中味は何だったのか未だに僕は知らない。勿論笹川氏の投資のバランスがどうなったんかも知らない。


ギブミー チョコレイト

2013年10月18日 | Weblog
ギブミー チョコレイト

終戦間もなく進駐軍は物資を貨車に乗せて運んだ。
いわゆる貨物輸送である貨車の真ん中が扉になっていて、そこにアメリカ兵が乗っていた。
貨物列車が駅に止まるとプラットホームに駆け寄って、ギブミーチョコレートと声高く叫んだ。
アメリカ兵は笑いながら両手いっぱいに持ったチューインガムやチョコレートを豆まきのように我に向かってまいてくれた。

当時は食糧難で特に甘いものに飢えていたから、大人も子供も我先にとばらまかれたチューインガムやチョコレートに飛びついた。

あれから70年。当時と比べると世の中は一変した。今やスーパーにはチューインガムもチョコレートもあふれている。だのに1つも欲しいとは思わない。大人と子供と言う年齢差もあるのだろうが物が豊富なときにはいつも食べられるから1という想いがあって、余裕があるだからだろう。

今から思えば当時のアメリカ兵は優しかった。占領軍の余裕なのだろう。

ビワの実がうれる頃

2013年10月17日 | Weblog

ビワの実がうれる頃

彼岸が過ぎてから大阪から福山に墓参りに行った。国道2号線を突っ走ったが、大阪約5時間ほどかかった。

もう45年も昔の話になるが、尊敬していた叔母が亡くなった。
彼女は若い時から継母と反りが合わず学校を出るなり、家を飛び出して世間の荒波をひとりで生き抜いてきた苦労人だった。
子供の頃もよくかわいがってもらったが、大人になってからは世間と言うものや世渡りの仕方や大人の知恵など随分多くのことを教えてもらった。
若い時に苦労をしてきてやっと一段落したというとき60歳で他界した。
ぼくはひた隠しに隠したが、彼女は自分がガンにかかっていたと言う事はきっと知っていたことだろう

医者は体力が失われていているから外出は禁止にした。梅雨の頃になるとビワが熟れ出す。叔母は病院を抜け出して枇杷を買ってきて病室で食べていたらしい
梅雨時で体を冷やしたのだろう肺炎にかかってそのまま亡くなった。
60歳と言うとまだまだ元気な年頃である。もう少し長生きしてほしかった。しかし考えてみると、伯母はお召を予感して悔いのないように枇杷を食べたのだと思えば悔やむというより得心が行く。
医者の指示通ていたら 、ガンが治るというほどでもないので、枇杷を買ってきて食べたという事は、案外正解だったのかもしれない。
こんなことを考えながらお墓に向かって手を合わせ、そしてお寺にお布施をして供養を頼んでおいた。

3つの世界

2013年10月16日 | Weblog
3つの世界

人はあらゆるものを単純化して、白か黒かで決めて物事の黒白の判断をつける。
ところがこの世にあるものは、黒白で判断できないものがある。例えば昼と夜ははっきり区別がつくが、朝焼けや夕暮れを昼か夜かというか観点から眺めてみると黒白いずれともつけることが難しい。
また川と海が接する地点は川でもなければ海でもない。色で言えば灰色である。だから全てのものを黒白で判断つけると言う事は、もう一つの世界灰色の世界をなおざりにしている事になる。
灰色こそ真実であるという場合も多いから、
白黒をつけるときには、必ず灰色の世界の存在を念頭に置いておかなければならない 。