日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

毒入り餃子事件

2013年07月31日 | Weblog
毒入り餃子事件

記憶もうすれかけた5年前の中国で製造した毒が混入された餃子を食べた日本人が中毒症状を起こした。
当時事情を調べ上げた日本の警察は毒入り餃子の原因は中国の製造過程にあると断定したが、中国はこれを受け入れなかった。
どうしてそうなったのかは分からないが、2年半ほど前に犯人は捕まえたらしい。
それから3年経ってつまり発生から5年余りが立って初公判が始まるという話である。

あの時強固に反対した中国が実際は中国人が毒を入れこの事件を起こしたことを知っていたのだろう。

犯人逮捕に3年かかり初公判までにあた3年近くかかる。つまり発生から5年の月日が経って裁判が始まる。
こういう事実を見ると中国という国は一体なんだと思う

新幹線の事故では事故車両を現場近くの土を掘ってその中に埋めてみたりそれをまたほじくり返して車両基地に運んでみたり。全く理解できない国である。こういう理解のできないような国と親しく交わる必要は無いのではないか。

 自由に生きる

2013年07月31日 | Weblog


              自由に生きる

ゲタをはいて着物を着た人が、大山澄太、その人だとは,私は知らなかった。
中々上品な風貌で知性が漂っている。とても80歳を越えた人には見えない。

「お宅も作曲したりして自由人ですな。」
「いやいや、これでなかなか苦しいんですよ。」
「延命十句観音経が合唱曲になるなんて、びっくりしましたよ。なかなかやるじゃないですか。」
「ありがとうございます。この娘たちは今日もコーラスで延命十句観音経を歌いますが、いま手元にこの娘たちが吹き込んだテープがありますので、差し上げたいと思いますが、どうか貰っていただけませんか。」
「それはどうもありがとう。松山に帰ったら、山頭火の本を送りますよ。お礼に。」
「それはそれは、ありがとうございます。どうかよろしくお願い致します。」

 間もなく松山の消印ご押された小荷物が私の手元に届いた。茶色の紙に紐を掛けた包みをほどくと、本が2冊出てきた。その本のページには、便せんにひょうひょうとした文字で、本を贈る旨が書かれていた。

 多少とも仏教と芸術に関心を寄せている私ではあるが、山頭火は失念していた。緑色の表紙には、黒い文字で山頭火と表記されている。

山頭火。漂白の俳人。頭蛇袋を首から下げて日本全国を放浪し、心に去来する想いを自由律の俳句に託した徹底人。その生きざまは西行にも似て、一種のあこがれさへも感じさせてくれる。
 自分の人生、時空を含めて、自分の欲するままに生きた人。生涯は貧しさと引き換えに、いつも心の自由を確保していたことだろう。
大山澄太も彼にあこがれて著作したのだろうが、私も同じく彼の心の自由さにあこがれている。
生き方をよく考えて人生をすごさくちゃ、とつくづく思った。
山頭火は私に良い見本を見せてくれている。大山さんも良いことを教えてくれたものだ。

そういえば、かって、山田耕筰先生は
「歌詞といえば詩人はすぐ定型に当てはめて作ろうとするが、付曲する側、つまり作曲家は定型に縛られてたまるものか。メロディの流れには、それ自体に必然性があり定型よりは自由律の方がよい場合だっていくらもある。」といわれたのを思い出して、大山さんの「山頭火」を大変ありがたく思った。

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2013年07月30日 | Weblog
サンダーバードの車内で

強姦事件が起こった。

乗客は安全に目的地まで行けることを信じて運賃を払ったはずだ。ところが暴漢によって安全は完全に破られた。車内でこういう事件が起こったのは1度だけではないらしい。想定外のことでと言うことは1度は言い訳として使えるかも知れないが、2度3度と起こったら安全対策はどうなっているのかと問題にしたい。

朝日新聞は社説で「遺族の不信感に応えよ」と問題点を指摘している。その中に他にも首をかしげたくなる事があると指摘しているが、今回の事件についても「列車内の犯罪、自分が居合わせたら」と社説に載せている。
社説氏曰く。乗客は冷淡な傍観者だとこの指摘は当っていると思う。
細かく見てみよう

1,男に注意する。被害が自分に及んでくる場合は誰もが見てみないふりをするものだ。これが世間の常識。この常識を破って勇気ある行動をもとめることはもとめすぎだ。

2,非常ボタンをおせばいい。非常ボタンがどこにあるか周知徹底されていないのが現状だ。押すことは簡単だがそこに至る過程に困難がある。

3,乗務員に知らせばよい。理屈の上では可能だ。現実にはそれが出来るか。今回は誰もやらなかったではないか。乗客は冷淡な傍観者であることを忘れてものを言っているのじゃないか。

4,携帯電話で110番すればよい。その通り。しかし現実には誰もしなかった。めんどくさい。関わりを持ちたくない。気がつかない。という冷淡な傍観者心理が読めていない。

最後にこういう場合はどうすれば良いか一人ひとりに突きつけられている。と結んでいる。

社説氏よ。

これは乗客に向かって言う前に、乗客にこれをもとめる前に、この指摘事項をなぜ運行責任者であるJR西日本に突きつけないのか。

安全についての責任は運行会社にあるわけで、乗客にあるわけではない。指摘事項は全て会社にもとめる事項ではないか。会社は責任者として当然の具体策を回答すべきである。

この件について私は会社に電話した。受け付けた人は「係に伝えます」で終わりだ。こういう体質が問題だ。担当部署に直ぐつなぎ、「社内だけでは気のつかない安全管理上のご意見を聞きます」という姿勢が何故とれないのだ。「係に伝えます」という返事に「録音機を置いておく方がましだ」と怒ってやった。
安全に対する社内の責任感覚が欠如している。

宝塚線の事故といい、今回の社内犯罪といい、責任者が「冷淡な傍観者」になっているのではないかとさえ思う。
車内放送で車内犯罪時における乗客へのお願いとして防犯や緊急事態の行動を事細かく放送するのも1つの方法だし、マスコミを使ってあらゆる人への広報もその手段ではないか。

総括してみるとこういう事になると思う。
会社は乗客の善意など当てにしないで「冷淡なる傍観者だ」という前提の下に、
車内犯罪については安全対策を見直して、それを乗客にわかりやすく伝える事が大切だ。

例の強姦事件発生から後に会社から事件防止の広報がなされたのか。再度会社の車内犯罪防止や緊急事態発生時の対応マニュアルを一般乗客に徹底するのが責任者のすることだ。

そして願わくば乗客も勇気を出して行動してほしいとは思うが、さて自分がとなると、冷静沈着に行動できるかどうか自信がない。これが本音である。

自分自身もお粗末だとは思うが、携帯から110番に電話するという事はすっぽり抜け落ちていた。

終戦のエンペラー

2013年07月29日 | Weblog
終戦のエンペラー


昭和20年8月15日玉音放送を聞いたぼくは、アメリカ軍のやりとりや考え方を知りたかったので早速映画を見に行った 。
これはアメリカ側から見た天皇の戦争責任の追及問題である
アメリカ本国の国民感情は正義感によるもので、当然戦争責任のある天皇を処刑する事を求めていた。

ところがマッカーサーを始め進駐軍の幹部は日本統治のためには、天皇の力を活用することが大切だということに気がつく。

日本国民の心情に流れる天皇の忠誠心は天皇を処刑する事によって一挙に崩れ、怒りは進駐軍のほうに向かってくる。
それを考えるならば天皇陛下を象徴的存在として、皇室を存続せしめ
これを利用して日本統治を行う事がベターだと考えたのである。

そのためにいろいろな手段を使って天皇に直接的戦争責任がないことを証言させる。その結果東京裁判では天皇訴追はせず、天皇制を容認した形で責任回避に向けて裁判を主導した。

このやり方は、アメリカサイドの映画製作ではあるが、あの当時の日本統治のストーリーとしては最も現実的で穏便な統治方法であると思った 。ついてにいうならいつもは座席に余裕があるのにほとんど満席に近い客で埋まっていた。年齢層は中高年ばかりだった。

赤い靴

2013年07月28日 | Weblog
赤い靴

コツコツコツ、、、  赤い靴が私を追い越して行った。
私は慌てて赤い靴を追いかけた。追い越しざまに、振り返り私は赤い靴の女を 
チラッと盗見した。
彼女はべ一ジュのコートに身を包み、白のブラウスをのぞかせていた。髪はポ二一テ一ルに束ねて黒いリボンで結んであった。
胸ときめかせて追いかけたのに、何の変哲もない女である。私はがっかりした。



車内放送

2013年07月27日 | Weblog
車内放送

列車に乗ると車内放送がある。その目的は次の駅の案内が主であるが、宣伝も放送される。

それはそれで良いのだが、問題はボリュームの大きさである。乗客が聞き取れる大きさの放送が丁度良いのであるが、時として声が小さすぎて案内の用葉をなしていないこともある。また声が大きすぎて音が割れてはっきり聞き取れない場合もある。この車内放送のボリューム調整を適正に行い乗客に不快感を与えないようにチェックして確かめてほしいものだ。
地下鉄各私鉄JR 。車内放送のボリュームの仕方は皆違うようだ。
僕が1番快適に受け止めているのは地下鉄である。女性アナウンサーのテープ放送がいちばんわかりやすい。
車内放送による案内は乗客へのサービスの一環であるから、大切にしてほしいものだ。

2013年07月26日 | Weblog


神の実在証明は非常に難しい。とても人の及ぶところではない
僕は言う神は哲学言う神ではなくて、宗教的世界に存在する神であるからだ。
これは科学的発想や論理外の、次元の違う事だから科学的手法が及ぶところではない。

神がこの世に実在すると実感できる人、そう思える人 思いたい人、頭から信じている人 などは世界共通でその中味はともかくも神の存在は全世界の共通概念である。

9-15振り込め詐欺から

2013年07月25日 | Weblog
振り込め詐欺から

振りこめ詐欺にひっかかった人が支払った金額を見て唖然とする。
最低でも何百万、多いときには千万単位の金が騙されてとられている。これを見て驚くのは、金額の大きさである。そんな大金が直ぐに用意できると言う事は、金がある証拠である。日本全国に直ぐにこれだけ多額の金を支払う事が出来る人がいると言う事だ。

この人達は年金受給者だろうから、今後30年くらいの間になくなるだろうと推定される。その時の国の勘定は一体どうなっているのだろうか
3000万人ほどがなくなり、年金を支払う必要がなくなり、それどころか彼らがの遺していった財産を相続税という形でとりあげると国の会計は一体どうなるのだろうか。往復びんたで国の財政はかなり豊かになるんではないか。高齢者の医療費負担を本来の3割に戻す様なケチなことをしなくてもつじつまが合うようになるのではないか

老後の不安解消のためにある程度金は持っていないと困るが、それにしても詐欺に掛かってはき出す金の額の大きさを考えるとき現在の65才以上の人達が消えていく30年後は一体どうなっているのだろうか。考えたくもなるというものだ。

指定廃棄物とは、

2013年07月24日 | Weblog

指定廃棄物とは、

放射能濃度が8,000ベクレル/kgを超える、特措法に基づき環境大臣が指定する廃棄物です。国が責任をもって処理することになっています。
- 環境省

何が問題なの?
東京電力福島第一原子力発電所の事故で放出された放射性物質は、風や雨、雪などの自然現象により降下、地表や樹木などに付着しました。
指定廃棄物のほとんどは、その処理の過程で放射性物質が濃縮され、発生したと考えられています。

現時点では、既存の施設において処分されず、さまざまな場所に分散して保管されていますが、保管場所が逼迫している場合もあり、市民生活への影響が懸念されています。
課題は何か - 環境省


廃棄物は? 膨大な量処分先未定
 除染が進めば進むほど問題となってくるのが、除去した土壌などの廃棄物をどう処分するのかという問題だ。

〈今後はどうするの?
国は、既存の廃棄物処理施設の活用について引き続き検討を行いつつ、今後3年程度(平成26 年度末)を目途として、指定廃棄物が多量に発生し、保管が逼迫している都道府県において、必要な最終処分場など(福島県において、10 万ベクレル/kg 超の指定廃棄物は中間貯蔵施設)を確保することを目指す。

指定廃棄物の最終処分場を新たに建設する必要がある場合には、都道府県内に集約して設置し、その設置場所は、必要な規模や斜度を確保し、土地利用の法令上の制約がなく、最終処分場建設に適している候補地を、国有地の活用も含め、都道府県毎に複数抽出。その後、複数の候補地の中から、現地調査などにより立地特性を把握した上で、国が立地場所を決定。
今後の処理方針 - 環境省

現在はまさにこういう状態である。この実情を無視するかのように原発再稼働をするという。入り口が見えて出口が見えない核ゴミ廃棄を国の責任においてやると言うけど、場所も確保されていないのに、核のゴミを増やすことを行うというのは、理解に苦しむ。市民生活に影響するこういう問題を放置したような状態でいいのか。為政者の国民安全に対する姿勢が問われている。

自治体は賛否さまざまな意見

 県内処理に「反対」は19%(37市町村)で、74市町村が賛否を示さず、関係自治体の間で十分な理解が得られていないことが明らかになった。
 指定廃棄物の県内処理に賛成する理由(自由回答)では、「やむをえない」(千葉市)、「排出された県の中で処理するしかない。他県のものは反発が強いと思われる」(群馬県下仁田町)などの回答が目立った。県内処理に賛成の自治体のうち、自らが最終処分場候補地となった場合に「前向きに検討する」は宮城県亘理町のみ。
指定廃棄物の県内処理、「賛成」自治体4割だけ - 読売新聞(6月2日)

「福島へ集約」意見も相次ぐ
福島県への集約を求めたのは栗原、丸森、大河原の3市町長。佐藤勇・栗原市長は「政権交代があっても(方針が)何も変わらずがっかりした。国が(福島県内で)土地を買い取り、集約するのがわかりやすい」、保科郷雄・丸森町長は「当初は『県内に』と思ったが、住民にいくら説明しても仮置き場も決まらない。やはり『宮城にはいらない』とならざるを得ない」と主張した。
福島第1原発事故 指定廃棄物最終処分場「県内設置」に反発--市町村長会議 /宮城 - 毎日新聞(5月30日)
 指定廃棄物は現在、各自治体の仮置き場で保管する。期限は2年。登米市など今秋から期限切れを迎える自治体が出てくるが、事態打開のめどは立たない。

環境省は新手順案をまとめ、候補地絞り込みへ

地域を絞り込む際は(1)植生の自然度(2)水道水や農業用水の水源からの距離(3)集落からの距離(4)廃棄物の発生量-の4項目を軸に判断。
「指定廃棄物」処分場選定問題 環境省が新手順案 - 産経新聞(5月21日)

指定廃棄物の最終処分場候補地の選定手順等について(PDFファイル) - 環境省(6月3日)
井上副環境相は記者会見で、福島県が拒否しているので(集約処理は)現実的ではない」と強調。「仮置きの状況が続き、住民は不安に感じている。市町村長に賢明な判断をしていただけると信じている」と述べた。
<指定廃棄物>県内処分、改めて表明…環境省 - 毎日新聞(6月20日)

県ごとに議論進む
実際の処分方法に関しては、処分場を建設し1カ所に集約するとの意見と、現在の分散保管場所で放射能濃度の低下を待つべきだとの意見に分かれた。
首長ら、県内処分に大筋理解=指定廃棄物で―茨城 - 時事通信(6月27日)
福田知事の発言は、県内への設置に慎重な市町長に対し、議論の進展を促す狙いもあるとみられる。
指定廃棄物 最終処分場 議論打ち切り国が選定も - 東京新聞(6月26日)
 国は2012年7月、福島県を除染廃棄物の最終処分地にしないことを閣議決定した。その約束の下で、30年間に限って県内保管する中間貯蔵施設の設置を目指す。
 だが県内では早くから「最終処分場」になりかねないと心配されてきた。県外に除染廃棄物を運び出せるとは、とても思えないからだ。
第8部・核廃棄物の行方(3)袋小路/最終処分場化を懸念 - 河北新報(6月4日)

昨日除染費用の概算が発表された。5兆円を超える金額だ。被災者の間ではそれでも除染をして、わが家にすみたいというひとや除染費用を貰って故郷には帰らず、別なところで住む方がいいという意見。

一本化される様子はない。5兆円という驚くべき金を用意したとしてもこういう状況だ。
原発事故の代価は一体いくら掛かるのか。再稼働推進組はよくよく考えねばならない事だ。それは自分たちの責任の範囲を遙かに超えるからである。


9-16そうだよな啄木さん

2013年07月23日 | Weblog
そうだよな啄木さん

1,が抱く思想はすべて金なきに 因するごとし 秋の風吹く

全く全く

2,友がみなわれより えらくみゆるひよ 花を買い来て 妻と楽しむ

うん この気持ちは僕にもある。 自信喪失病患者かも知れない

3,新しき心求めて 名も知らぬ 街など今日もさまよいぬ

精神的に行き詰まると見知らぬ街をさまようって本来の自分を取り戻す事は在るよね。。同感だ。

































師匠

2013年07月23日 | Weblog
師匠

誰からか勧められるわけではなく、自分自身で心の中に師匠を持つことは幸せなことである。

師匠は例えれば、はるか高くそびえる峰のごとくごとく、いつも仰ぎ見る存在である。

何かことに突き当たった時に師匠はどう考え、対処されたか
考えることによって、より多くのヒントをもらい判断ができるか、またそれを引きあげてもらう、高めてもらうことができる。

師匠はどうして求めたら良いのだろうか。
これは人それぞれだろうが自分から求めないと向こうからやってくることはまずありえない。




自民党の一人勝ち

2013年07月22日 | Weblog
自民党の一人勝ち

戦い負えて日が暮れて、開票結果は民主党の大敗と自民党の一人勝ちであった。これは選挙前にすでに大方が予想したことである。

今後自民党の政権運営には奢りという部分が見えてくるだろう。が、ある程度仕方がない。奢りと言うよりは自民党の方針が色濃くでるのは仕方がない。それが奢りと映る。また実質的に奢りだと思われるようなものも出てくるだろう。それもやむを得ない。

今後向こう3年間政権は安定するのだから、何とか良い方向で成果を出してほしいもの だ。

13/07/21今回参議院選挙

2013年07月21日 | Weblog
13/07/21今回参議院選挙

前回に比べて投票率が約7%も下がった。


なぜだろうか。それは選挙結果の大勢が読めたからだ。
自民公明の両党が圧勝するだろうと
いう予測は大抵の人が持っていた思いだろう。

結果が読めるのだったら、別に投票所へ足を運ぶ必要は無いじゃないか。まぁこんな素朴な風が吹いて投票率は下落したのではないだろうか

ネットが解禁になってそれが少しはポイントアップにつながるかと思ったが結果は繋がっていないようだった。しかし場合によっては候補者の主張を理解するための密度の濃い選挙戦だったかもしれない。

自民党は経済政策でアベノミックスを宣伝できたが、これに対抗する経済政策は民主党は何も出すことができなかった。こんな頼りのない政党に政権を渡したら大変なことになると、ほとんどの人がそう思ったことだろう残る選択肢は自民党の大勝と言う以外にはない。

追い出し部屋6-65

2013年07月20日 | Weblog
追い出し部屋

会社にとって「戦力外」といえる社員を集め、自己都合退職に追い込むための部署――名だたる大企業に、「キャリア開発室」、「人材強化センター」などのもっともらしい名前をつけた「追い出し部屋」が実在することが、続々と明らかになっている。

「追い出し部屋」もさまざまで、雑用や他部署の応援ばかりで仕事をほとんど与えないところもあれば、逆に達成不可能なノルマを与えるところもあるようだ。しかし、有形無形の圧力で社員を追い込む手法は共通している。

存在を否定され、精神はズタボロ。あまりにも酷い仕打ちと言えるが、表向きはれっきとした「仕事」という建前だ。精神的にきついといっても、正規の辞令で異動し、会社の命令に従った「業務」をするという点では、他の部署と変わりはない。もし「追い出し部屋」への異動を命じられた場合、その社員は違法だとして会社を訴えられるだろうか。板倉由実弁護士に聞いた。

●会社の「配転命令権」の濫用にあたる場合もある

「まず、会社の『配転(異動)命令権』は、当然に認められるわけではありません」

と板倉弁護士は言う。必ずしも会社に言われるまま「追い出し部屋」異動に従わなければならないわけではないのだ。

「『労働契約』で職種や勤務地が限定されている場合は、会社は、契約外の職種や勤務地へ配転を命ずる権利はありません。しかし、実際は、就業規則などで会社に幅広い『配転命令権』が定められていることが多いでしょう。とはいえ、会社は『配転命令権』を濫用することはできません」

このように板倉弁護士は説明する。

では、人事異動が、配転命令権の「濫用」になるのはどういう場合なのか?

「判例では、その異動が業務上の必要性のない場合や、他の不当な動機・目的をもってなされた場合、労働者に通常甘受すべき程度を著しく越える不利益を負わせる場合は、『配転命令権の濫用』として無効になるとしています」

●「追い出し部屋」への異動を命じた会社に、裁判所は賠償を命じた

最近も、この「追い出し部屋」問題で、裁判になって会社が負けた例があるという。

「オリンパス社員の訴えに対し、東京高裁が2011年8月に出した判決ですね。会社は、上司らの不適切な行為をコンプライアンス室に内部通報した40代後半の営業職の社員を、経験や能力とかけ離れた高度な専門知識が必要な技術部門に配転させた上、達成困難な高い業務目標を設定させました。

この社員が目標を達成できなかったことを理由に評価を下げて、さらに、別の部門へ2回目、3回目の異動を命じました。3回目は新入社員レベルの勉強以外に仕事がない状況に追い込み、『○○くん改善計画』と題した文章を配るなどのパワハラも続けました。東京高裁は3回の異動すべてを人事権の濫用であり無効と断じ、さらに一連のパワハラ行為についても、会社と上司に対する賠償を命じました」

このような判例は、「追い出し部屋」で苦しんでいる社員にとって参考になるかもしれない。さらに、追い出し部屋への異動は「その経緯や『部屋』での業務内容などによっては、人事権の濫用として無効となるのみならず、人格的評価をおとしめる不法行為として損害賠償が認められる場合がある」と板倉弁護士は言う。「追い出し部屋」に異動されたら、泣き寝入りせずに裁判で戦ってみるのも一手だろう。


最後に僕が一言

会社は利益追及という使命のほかに人を養うという社会的な責任がある。追い出し部屋なるものは、企業の社会的責任という面からその存在が問われなくてはならない。追い出し部屋というような姑息な手段ではなくて正面から退職を迫ればいい。やめざるをえないような状況に放り込んで自主退職に追い込もうとするところが、僕の正義感では納得出来ない所である。過去にオリンパスでこうしたことが裁判沙汰になったように記憶しているが、追い出した側(経営者)は犯罪者ではなかったか、社長は粉飾決算をして実刑を食らった犯罪者だ。その犯罪者が追い出し部屋に労働者を放り込んだとすれば、話は逆である。追い出し部屋に放り込まれなくてはならないのは経営者である社長だ。

中央塔より 4

2013年07月20日 | Weblog
中央塔より 4
 
ここまで登ってきたが、降りる石段は怖い。階段が急すぎる。登ってくるときは後ろを見ないが、降りるときは前向きにならざるを得ない。僕は一つ一つの石段を、丸で何か捜し物でもしているのかと思われるほど、慎重にゆっくり降りた。どうも危ない気がしたので、途中からは後ろ向きになって降りた。人が見てたらお笑いものだろう。だが転落してけがでもしたら、お笑いものどころではなくなる。こんな時こそ、人は慎重でなくてはならないと自分に言い聞かせながら足を運んだ。

時計を見ると3時を過ぎている。
西正門を入って一直線に通ってきて、この中央塔のてっぺん迄のぼって、降りて正門まで戻るまでには4時間かかった。それで何が分かったかというと、心の中に取り込んだワットの姿をのぞいては、中央塔のてっぺんから回りの様子を見渡して、近郊のアウトラインがつかめた程度である。一番記憶に残ったのは、塔の最上階は眺望がとてもよいという印象である。
 360度全開と言うわけにはいかないが、プノン・バケンの石造遺跡もかすかながら、ジャングルの木々の間に見え隠れする。西側から遥か前方で光っているのはきっと西メボンの水面だろう。南側からは僧院が見え、茶黄色の衣まとった僧が一人二人と姿を現して、生活の一端を覗かせていた。中央塔から見ると、石畳の参道を歩く人々の姿は、豆粒のように小さい。それほどまでにこの石造建築物は高さもさることながら、スケールも大きい。西側はまっすぐに延びた石畳がかなり小さく見える。

 これだけ大きいスケールの寺院を作るだけの財力とは。今のカンボジアの国力だけでは、到底このような、大きな建造物は作れそうにもない。
アンコール・ワットを作る、当時のカンボジアの支配権が及ぶというところは、
インドシナ半島の大部分だったことだろう。カンボジャは勿論、タイも、ラオスも、ミャンマー、もベトナムもその一部或いは大部分がアンコール王朝の支配権の及ぶところだったのだろう。
「栄枯盛衰世の習い」と言うが、それはひとり人の一生にとどまらず国家の盛衰にも及ぶものなのだとつくづく思った。
 
 時がたてばどんなに栄えた国でも必ず衰退に向かい、その姿を変えるというのは歴史の物語るところである。
そして今を花よと栄えるところはいいが、単に遺跡だけしか残っていないというのは哀れを誘う。今僕が見ている此の壮大な石造建築物は国際協力で修理や補修を加えて、保存がなされているが、当初完成したときの壮麗さは、いかばかりかと思うと胸の詰まる想いがする。
どのようにイメージを描くのも、それは個人の自由だが、各人が描くイメージはバラエテイに富みすぎはしないか。というのはここがけた外れに大きいからである。どこかで往時の姿の一部を忠実に再現して、後は各人がご自由に、というプレゼンスがほしかった。

暑かった熱帯の真昼の太陽も、夕方近くになると光が弱くなり、その分吹く風は涼しく気持ちがいい。
もうしばらくすると、太陽は沈む。その時アンコール・ワットはどんな姿を見せてくれるのだろうか。そして漆黒の闇に包まれたときのシルエットは。
 いや朝まだき、東の空がぼーっと薄赤く染まるとき、この寺はどんな姿を見せ、どんな雰囲気を辺りに醸し出すのだろうか。
興味はつきなかったが、いかんせん疲れた。これらのことはまた後日と言うことにして、今日はこれまでにしよう。

 僕はあんちゃん(兄ちゃん)が運転するバイクの後ろの座席にまたがって、定宿に向かった。