日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

2012年04月30日 | Weblog


狭い団地の我が家で、最も大きい空間を占めるものは、本類である。3LDKのどの部屋にも本やファイルが、本棚に、所狭しと並んでいる。読んだあと、処分もせずに[また後で読み返す。]という口実をつけて、ためておくので、50年間には、たまりにたまって、足の踏み場もないくらいである。

「朝顔につるべ取られてもらい水」じゃあないが、狭い4,5畳には三つの本棚があり、その間にやっと床を延べてねているが、もうこれ以上増えると、処置に困るので、本は図書館で、借りて読み、どうしても欲しいものだけを買うということにした。

それでも今まで書いたメモフアイルや、読み溜めた本を片っ端から処分する気にはなれず、私がいなくなったらこの本の山は一体どうなることだろうかと案ずる。

それでも、眠くなるまでは、本を読まなければ眠れない。これは、読書癖というよりは、習慣になっている。
本はよみたし、されど増やしたくはなし。今日この頃である。

人という字

2012年04月28日 | Weblog
人という字

年をとると、全ての機能が弱ってくる。まず第一に感じることは何事にも自信が無くなって来ると言うことである。今までたやすくできていたことが、できなくなって、あれー?と思うことが多い。是は体力的にも精神的にも共通する事である。
足を上げて歩いているつもりでも、道でつまずいたり、走り出せば50mも走らないうちに、息切れがしたり。今まで気が付かなかったことが、目の前に浮かび上がってくる。その現実を知らされると、思わず年を考えて見る。
人間はウマクできていて、老齢になれば成る程安全に気を配るようになる。というよりはそうせざるを得ない現実にぶっつかる。
年寄り夫婦を見ていると、二人で支え合いながら生きている様に見える。わかいときのように一人ひとりが思う存分に生きている様には見えない。
人という字は男女ペアーになってこそまっとうな人生では無いか?
そんな思いがするが、それでは年代にかかわらず独り者は人の内には入らないのかと言う疑問が湧いてくる。僕は妻帯者だから独り者の気楽さや、寂しさや生活などは判らないが、人として人生を送ろうとすれば、やはり煩わしさを乗り越えて、ペアーで暮らすのがベストライフではないかと思うが。

もっと知恵を出せ

2012年04月27日 | Weblog
もっと知恵を出せ

関西広域連合に関電が電力状況を説明した。副社長が説明したが、どうして知恵の無いのが、上に立つのか。答えを聞いて腹が立ってきた。曰く。再稼働しないと駄目の一点張りばかり主張する。そんなこと誰だって判っているんだ。
だからこうもする、ああもする 。我々としてはこれだけ努力するが他に良い知恵があれば出してほしいくらいの前向きの話がどうして出来ないものか。

結局六ヶ条の要求を宿題に出されて検討することになった。再稼働しなければ電力不足に陥るとわざわざいわなくても、判ってるというのだ。今問われてるのはどう打開するかと言う知恵の出し合いだ。

民主党政府の決定ほど説得力の無い安全論はない。彼らの主張する安全論は問題外。手続きを踏んだだけの話。官房長官の話はお粗末そのものだ。こんな連中が国を取り仕切っていると言うのは橋本氏のいう国難だ。

凡人と非凡人

2012年04月26日 | Weblog
凡人と非凡人

「過ちの道でも良い。その道をひた走る勇が尊いのである。
稚が嬉しいのである。それは徹する心であり、あいまいを忌み嫌う心である。それはまた善悪を一如と観ずる真実さと呼ぶこともできよう。
すべてに、生き抜く誠である。生きの力である。そのひたぶるな心を私はこよなく、懐かしむのである。 中略
それは、私が作曲家として、指揮者として、日本という、不毛の音楽地帯に、展開した。芸術行動の実相であり、音楽活動の実際である。
無理解と嘲罵の奔流を単身横断する精神的行動の記憶あるのみである。そこでは、作曲者は、企業家と化し山師と誹謗され指揮者はピエロの悲し痴技をさえ演ずべく命令されるのである。  中略
しかし私は一切の妥協を排してわかき心を堅持した。真実一路を突進した。芸術の尊厳を護るために。人の世の誠を失わぬ為に。
山田耕筰著 遙かなる青春の調べ(若き日の狂詩曲)より

昔の人は偉かったと言うが、現代人と比べて根性の入れ方が違う。一歩誤れば奈落の地獄をみると判っていても、そこへ飛び込んで勇敢にも、死力を出して戦う。世間の毀誉褒貶など目じゃ無い。それこそ決死の覚悟である。
私が教えて貰った、行動を伴った猛獣的バイタリテイとフアイトと言う言葉の裏には、このような決死的覚悟と行動が隠されていたと言うことは、この本を読み返して、判った事だ。今頃気づくとは!!。非凡なる人と凡人の差がここにある。

松尾心空師

2012年04月25日 | Weblog
松尾心空師

西国33ヵ所観音霊場の第29番が、松尾寺である。このお寺は、舞鶴の市街地の東の方にある小高い山の上にある。小浜線に乗れば、松尾寺駅で下車。
ふとしたご縁で、住職の松尾心空師とは知り合った。師は西国33ヵ所霊場を歩いて5周が7周かされたはずだ。
距離にして、7000kmか。8000kmを踏破類されたことになる。もうは年齢は80才を過ぎておられると思うが、いまだに歩く会の会長をされているようだ。

三高から京大の哲学科に進まれた秀才で、著書も多く、何冊か読ませて頂いた。そのうちの一つに、
「人生往来手形」なるものがある。そこには、「人生は宿を借りているもの、」という意味のことが書かれているが、おそらく7,8000kmを歩くなかで、師が悟られた人生というものの結論がそうだったのであろう。
「人生。間借り人」か。考えさせられるキーワードである。

ソロでお経を歌う

2012年04月24日 | Weblog
ソロでお経を歌う

白隠禅師の作と言われている、延命十句観音経は、般若心経と違って、長くは無いから、作曲するには都合が良い、お経である。
ピアノ伴奏で、声楽家がとうとうと歌う美声が、会場に鳴り響いていた。

この作品を発表した、演奏会場では、ピアノの後奏の1番最後の際の、最低音が、なり終わって、ペダルから足を離した瞬間は、物音を一つしない無音の世界だったが、
次の瞬間に、うおーというどよめきと拍手の嵐が、巻き起こった。

僕はこのとき初めてブラーボーがかかる以上に深い感動に、包まれて、よいしれた聴衆の心を見た。
会場では、何人もの人に金粉現象が出た。手のひらや指先にぴかっと光る金粉が現れる現象だ。
あれ以降、西国33カ所の観音霊場には、感謝の念を持って奉納することができた。たった一周1000kmほどを20年ほど掛けて車で廻った。四国遍路は三周もしたのに、西国観音霊場は一周しかしていないので、なんとなく後ろめたい。

科学と哲学

2012年04月23日 | Weblog
科学と哲学

科学的手法において、科学の領域に取り入れられたものが、科学で有り、未発達の為に科学の領域に取り入れることができないものは、哲学の領域にとどめおかれる。そして総体から見れば科学はまだ進歩中でどの辺までその領域に取り込めるか、誰にも判らないし、科学がどんなに進歩しても、哲学の領域にあるものが、多数あるように思えてならない。

見ない 買わない

2012年04月23日 | Weblog
見ない 買わない

1970年代  オカルトブーム
1990年代  ヒーリングブーム
現代      スピリチュアル、ブーム

面白ければいい、楽しければいい、といった考えだけで、番組作りがなされている。
だから見ない。買わないといったことが大切。是は自己防衛のためにだ。
科学の名のもとに証明できないものは存在しないとか。人間は死んだら土に入るだけだという狭い人間観を振りかざす。

仏教徒はスッタニパータによると 下記のなどをしてはいけない。 
1,アタルバベーダバラモン教の祭式書の呪法
2,夢占い
3,観相
4,鳥獣の声占い
5,懐妊術  

しかしながら密教の時代になると、こういうことも崩れていく。専門家以外は何のことやらさっぱり判らない。


















大飯原発再稼働に思う

2012年04月22日 | Weblog
大飯原発再稼働に思う

これだけの大事故を経験したわけだから、これから再稼働するには、それなりの条件整備が必要である事は論を待たない。
立地では無いが周辺自治体として滋賀県、京都府の両知事が再稼働の7条件を出した。それに大阪市長も8条件を出した。いずれを見ても現状から、大きくそれた理想論では無い。
安全神話の夢覚めて現実に戻ったとき、この3氏の発言や主張は住民にとって納得出来るものばかりだ。理想論では無くて現実論だと思う。このような再稼働条件は地方の首長だから言えることなのだろうか。
国を預かっている政府与党は野党も含めて、これら三者の様な考えは出てこないのか。思いつかないのか。それともこういう条件を前提にすると、再稼働がより困難になるとでも思っているのであろうか。
本来ならこういうことを政府の側から発案されて、周辺住民に諮る事では無いだろうか。

政府の閣僚4,5名の寄り合いで安全基準が決められようか?。そこには政治的観点から検討された案だけが出てくる。、首長が言い出す前に、保安院や安全委員会が、これらの条件を踏まえて政府原案とならなければおかしい。
本当にこの程度の知恵が思い浮かばないのであろうか。
政府はこの程度のことしか考えられないとしたら、お粗末そのものだ。
周辺地自体で行われたアンケートも、政府のやることに不安を覚えたり不信感を持ったりして、反対意見が多い。
現実的には、やはり政府の行おうとしている再稼働には問題がありすぎると思う。もう少し地域住民の不安な気持ちに答えて、住民を納得させる手順と説明が必要では無いのか。
第二の安全神話でも作ろうとしているのだろうか?と疑いたくなる。


宮尾登美子女史

2012年04月21日 | Weblog
宮尾登美子女史

は著書の中で、小説執筆の条件としてまず第一に環境の長期安定の見通しかなくてはダメだとおっしゃる。
いつも四海波静かな状態を作るために、酒 タバコ 博奕はやらず、ボルノ等、一切遠ざけて自分ながら、つまらない人間の見本みたいな私に電話が掛かって来るほど、腹だたしいものはないという、くだりあった。
あれー。???
これ、俺そっくりじゃないか。どこがどう違う?。彼女は高名な作家。俺 無名な雑文屋。

図書館に閉じ込める

2012年04月20日 | Weblog
図書館に閉じ込める

自らが望んで、しているくせに、いやになったり、行き詰まったり、自信をなくしたり、することはよくあることだ。

そんなときどうすればいいのか、。行き詰まりの打開策はいろいろあるが、図書館に自分を閉じこめて、自由や気楽さを、奪うことである。
自由がありすぎると、あちこち気が散って、結局は何もできない。
時間的な、空間的な自由が、あるいは精神的な自由が、ありすぎるのは、怠け心を起こして何も生まれない。

立て。歩け、動け。

自分に号令をかけて、体を動かすことによって、怠け心を追い払う。こんなこと日常茶飯事だ。しかし考えてみると、こういうことも老化現象を起こし、掛け声だけに、終わることも多い。これからはこの事に抵抗しよう。

バックに流れる音楽は

2012年04月19日 | Weblog
バックに流れる音楽は

一体何の意味があるのか、
話を聞こうと、耳を傾けている僕にとって、バックに流れる音楽は、なんとも耳障りなことである。
話の内容のムードを盛り上げるというならば、話にふさわしい音楽を選べと言いたい。
全く関係のない音楽と、話のつながりをどう解釈したらよいのか、。
何でもいいから、バックに音楽を流すばよいというものではない。

話に集中しようとしている者にとっては余計な雑音でしかない、。その音楽によって、話の中身を広げようとか、あるいは深めようと言うなら、もっと適切な音楽を流したらどうだ。それも、耳障りにならない程度に。

素質もない、品位も無い、曲の善し悪しも、よくわかっていない、近ごろの音楽プロデューサーは、あまりにも質が低下しすぎている。

きっぱりものを言えば、アナウンサーが話をしている間ぐらいは、雑音は流さない方が良い。

汁掛け飯

2012年04月18日 | Weblog
汁掛け飯

導水路を作るために地下深く潜って、ハッパによって大きな穴を掘り、できたズリをトロッこで運ぶ土方仕事をしたことがあった。
飯場には忌み言葉があった。さる とか、汁かけ飯はご法度だ。これをやると、山崩れが起きるという、いわれがあるらしい。

飯場の朝飯は味噌汁とご飯と漬物だけである。そういういわれを知らない僕はご飯に味噌汁をかけて食べようとした。そこへ親方と監督さんが通り掛かった。監督さんは「お前やったな」と言ってにらみつけた。
「今からすぐ山へ登って神様にお詫びしてこい。」
「はい。すぐ行きます。」
監督さんのビンタが飛んでくる前に、僕は山のほうに向かって走り出した。山の神様にお詫びしたせいか、その日は山崩れは起こらなかった。


太安万侶

2012年04月17日 | Weblog
太安万侶 12/04/17

古事記と日本書紀それに、万葉集を加えて、記紀万葉と覚えたものである。
教壇に立って、現役パリパリの教師だった僕は、太安万侶の墓が偶然奈良市郊外の茶畑で見つかり、墓誌の銅板に刻みこまれた年月日が歴史年表上の年月日とわずか1年の差しかなかったという事実に驚いた。
その1年の差というのも、人間に例えれば、満年齢が、数え年齢かによる差で、すこしも狂いがないと、記録の正確さを、改めて実感させられた。

発見当時は1979年で、古事記が出来上がった712年からすると、1300年の歳月を経ての話である。
この偶然の大発見には少なからず、興奮を覚えた。あれ以来行こう行こうと思って、30年が経った。

本日の朝日新聞夕刊で、本来の出身地である田原本の多神社へ、発見現場である茶畑から近くの十輪寺から分骨されているという記事が載った。
なお、現在の多神社の宮司さんからさかのぼること、51代目が太安万侶。その人だったらしい。1300年の時を経て出身地の古里へ里帰りと言うことになる。

僕が教えていたのは18才の生徒だったから、彼らはもう五〇代のおじさん、おばさんになっている。それにしても、1300年以上も昔のことが、最近偶然によって掘り起こされ、時の流れと、言い伝えの時が一致するとは改めて驚いた。

今のままなら

2012年04月16日 | Weblog
今のままなら

消費税についても、その前提になっている行政改革を実現した上でなら賛成、
大飯原発の再稼働にしても、安全性が確保されたと国民が納得すれば、良いのだが、肝心要のところで、素通りしてしまっているから、いくら言葉丁寧に物を言っても説得力に欠けてしまうのだ。
橋本市長が言うように、条件が整わない再開には絶対に反対だというのが、
国民の思いだろう。
国を動かす政党が、一市長に劣る事をして、次の選挙でどうして勝てると思うのか。民主党というのは如何にお粗末か 。自分でさらけ出しているようなものである。