日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

共生き

2014年09月29日 | Weblog

共生き

イスラム曲は欧米人を殺すという。欧米はイスラム国を壊滅させると言う。どちらにも言い分があるのだろうが、要は力の対決である。具体的に言えば殺し合いをすることである。こーゆー状況の中で、共生きとはどういう意味を持つものなのだろうか。
とも生きが不可能な場合も多いだろうが、この理想の看板を掲げて、それを求めるのは人類の悲願である。
とも生きに完全に求めるというのは非現実的である。8分を実現されれば人類万歳だ。何事もそうだが、双方に言い分がある時は0対100はありえない。どこかで妥協点を見出すことが関の山である。とも生きに完全を求めるというのは現実的でない。




音楽の源泉6-33

2014年09月23日 | Weblog
音楽の源泉

弘法大師の言葉に「生まれ生まれ生まれ生にくらし、死に死に死に死にくらし」と言う言葉がある。
人生というのは闇の中を手探りで生きている。ただ1つ大師によれば、だから真の智(人知を超えた)にすがって生きることになる。
言われてみれば、確かにそうである。自らが欲してそうなることもあるが、我々の意思を離れて、幸不幸がやってくる。明日が見えないのが人間の実相であることが、70年あまり生きてみて名実ともに実感できることである。

深く考えてみてこの世のことをすべてが宇宙の真理(神々)によって支配されているとは思いたくない。
いずれの場合も人間も宇宙の存在の中の1員としてその影響の埒外では存在し得ない。とは思いつつも。

Something great、神、宇宙の真理、超越者、絶対者、etc呼び名はいくつもあるが私の生活実感からすると、それらの存在から絶大な影響を受けていることを肌身にひしひしと感じるのである。

なぜ以上のような文章を書いたか、それには訳がある。
私は50年ほどずっと作曲してきたが、メロディーが生まれてくる不思議は、作曲プロセスを詳述すれば、ある程度納得が得られるかと思う。

楽譜が読めるわけでなし、楽器を演奏することもできない私が、頭や心を受け皿として、メロディーを受け取ることができる。
意図しようがしまいが、メロディーができてくるのである。
私は今なっているメロディーを五線紙に書き留めれば曲が出来上がるのである。後は楽典に沿って清書すれば曲が完成するのである。私はこの方法であらゆるジャンルの曲を1000曲ほど作曲した。普通の常識ではちょっと考えられないことである。私はこれを自分の才能特技だとは思わない。

宇宙に充満して鳴っているメロディーを感度の良い私と言う受信機が受信して、そこに新しく曲が生まれるのである。それが本当の実感である。
私の率直な感じでは自分の意思で作ったものでない。
鳴ってきたあるいは聞こえてきたメロディーの作曲法を何と言えば良いのだろうか

明確な自己意識が働かないで、できるものは自分の作品とは言い難い。
私なりの言葉を用いて表現すれば、それは宇宙、神からの授かり物である。
言葉を変えれば、神が送信機で、私が受信機である。
もちろん、私を通して作品が出来上がるわけだから、私と言うフイルターを通るのだが、その根源は私が震源地では無い。
フィルター的私、を自覚して、できた作品は私の作品として発表してはいるが。
こういうことを言うのは私1人だけではない。ほとんどの作曲家が似たような経験をするみたいである。

山田耕作先生の非売品、100言集によると
作曲とは作るのではなく、生む、」
また作曲家の服部良一氏によると、それは神の与えた、天の妙音」なのである。

昨日見たNHKの番組、立花隆氏の生死に関する問題の中で心というのは神経系が集まって作り出すものだという話であったが、果たしてそれはどうか。僕にはまだ疑問が残る。
人間の知恵が及ばない、すなわち科学の力が及ばない未知の世界というものが、永遠に残るのではないだろうか。
音楽の源泉はどうもその辺にあるような気がする。


抱っこひも9-12

2014年09月23日 | Weblog
 抱っこひもは、

複数業者が年間百万個近く販売し、ベビーカーと並ぶ育児の必需品。腰ベルトと両肩のベルトで支え、抱っことおんぶを両方できるタイプが半数を占める。事故は、親が立った状態で発生することが多く、高さ約一メートルから硬い地面に頭を打ち付ければ、大けがにつながるおそれがある。

抱っこひもからの転落に注意!
抱っこひもからの転落により低月齢の赤ちゃんがけがをする事故が起きています。頭の骨を折るなどして入院に至るケースもあります。
転落事故は、抱っこひも(おんぶひも)の着け外しの時、抱っこの状態で前かがみになった時に多く起きており、注意が必要です。
と新聞は報じている。

昔はおんぶひもで子供を背中に密着させて、昨なればそれにねんねこを着たものだ
現代はだっこひもので子供を胸に抱きねんねこをかぶっている。
どうしてこういう悪習がはやっているのか。だっこひもで抱いて調理が出来るだろうか。

人間がころぶとすれば前に倒れるか、後ろにひっくり返るか。
僕は前向きにひっくり返る方が断然多いと思う。けつまずいて倒れるのは100%前向きにたおれる。そうするとまず子供の頭を地面にぶっつけることになる。
一体何のために子供をだっこしているのか。子供の安全を考えるならば、背中に背負うべきである。現代は誰がはやらせたのかしらないが、見てくれか、それとも子供の安全か?自ずと答えが出てくる。ホントに背中におんぶしている母親を見つけない。
一日も早くだっこから、背中におんぶのスタイルに替えて事故を未然に防ぐべきだ。

お題目とは裏腹に6-34

2014年09月22日 | Weblog
お題目とは裏腹に

内閣改造によって女性大臣が2人から3人増えて5人になった。これで女性の社会進出をPRしたつもりである。女性の社会進出のシンボルとしては意味があるかもしれないが、女性と言う一般大衆をから見るとまるでお遊びである。

子持ちの女性が沖縄で捕まった。彼女は売春していたそうである。彼女が言うには時給630円でどうして子供を養っていけるか。真面目にパートとして働いたとしても生活ができないのである。

女性が社会進出し社会的に輝く活躍をしようとするならば、何よりもも先にまず生活できる給料を彼女たちが得られることが前提条件になる。
たとえ沖縄といえども、時給 630円で生活していくことは非常に困難である。だから法律違反だと知っていても、食うためには何でもしなければならない状況に追い込まれているのだ。
この事件から見てみると首相が女性進出を叫べば叫ぶほど現実を知って物言えと言いたくなる。
女性の社会進出は出産育児と言うことが前提になる。それがスムーズに行われる時に初めて望むことができるのである。
何よりの急務は女性が安心して働ける社会を作ることである。それは理念ではない。現実の場面でその条件が満たされてこそ初めて女性の社会進出が可能になるのだ。大体時給が630円というのは生活できない、小遣い稼ぎの賃金である。
生活できないような時給を、最低賃金とは言え、給与体系を作って、いったい日本は何をやろうとしているのだろうか。


2014年09月21日 | Weblog



この小さな体に生命が宿っている。生命は魂だ。魂ダンケルト神奈川死んでしまう。魂は人の喜怒哀楽が詰まっているようになっている。だから魂を大切にして喜びと楽でいっぱいにする方が良い。魂は感情を含んだ言葉を使ったり受け入れたりすると、それに応じた反応する。
喜楽の感情を含んだ言葉によって喜ぶ姿反対に、哀怒の感情を含んだ言葉には悲しむ。そして悪い感情に切り刻まれて傷がつく。
身体と言う入れ物に入った魂をどのようにコントロールするのか。
それは人の幸不幸に関わってくる。



お大師さんは自動販売機じゃない

2014年09月20日 | Weblog
お大師さんは自動販売機じゃない

と思うけど

市内のまっただ中、一等地にある、55番札所・南光坊は、暇な老人の憩いの場所にはもってこいである。境内は広々しているし、町のど真ん中にあって、集まりやすい。
此処で僕は面白い話を耳にした。といっても日常ありふれた会話の内容である。
「いつも全国から大勢お参りになるが、この人達皆お大師さんを信じてるはるのやろか。」
「そりゃ、そうですよ。そうでなければ、全国から時間と金を使って此処まで来やしないですよ」
「ほんまやろか?どれだけの人が信じて来てるか判らない。観光の人や、連れ持って行こかと、いう人が結構多いのと違う?」
「そりゃ、人は色々よ。しかしなんでも良いじゃないの。信じる者は救われると言うじゃないの。」
「なるほど。そうやな。信じる者は救われる。信じない者はすくわれない。はっきりして、わかりやすくてええわ。」
この会話を聞いて僕は面白いと思った。
信じれば、救われるというのは、人がお大師さんを信じれば、お大師さんが救ってくださる。だからお大師さんを信じる人は救われる、という論法だ。
一見筋が通っているようだけれども、何か違和感を感じた。というのはこれじゃ、お大師さんは自動販売機にされてしまっていると思ったから。
つまりこういう事である。
信じるという原因があれば、救われるという結果が生まれる、という考え方は、丁度近所にある自動販売機にコインを入れる(信じること)と、コーラが出てくる(救われる)のを連想したからである。
果たして、遍路さんが遍路すれば、結果として、御利益がお大師さんから与えられて、救われる、と言うことになるのだろうか。
確かにこれも一理あるとは思うが、一歩つっこんで考えてみると、遍路出来る、遍路する、ということ自体に、既にご利益があるのではないのだろうか。信じるから救われるのではなくて、信じることが出来ているからこそ、救われていると、いうのが真実のように、僕には思えるのだが。
言い換えれば、信じる者が救われる、と言うのではなくて、信じることが出来ていることこそが、救われている何よりの証拠であると思うのだが。
つまり僕からみれば、遍路させていただくことが、まず最初の大きな救いなのだ。そのほかに遍路すると、お大師さんはいろいろなことに気づかせてくれるし、教えてくれるし、悟らせてくれる。さらには奇跡が起こることだってある。これは遍路した人たちが、一致して異口同音にいうセリフである。

信じるからすくわれて、信じないから救われない、そんな理屈はどうでも良い。遍路出来る幸せに気づいて、その幸せをかみしめて、それをバネにして、与えられた命の炎を精一杯燃やし続けて生きることだ。それこそがお大師さんの教えにもかなうことであり、遍路する御利益というものだ。ちょっとした何気ない人の会話から、僕はこんな事に気つかせてもらった。
ひと吹きの風のそよぎにも、真理が含まれているから、それに気がつくような人になれと、昔教えられたが、なるほど、こういうことなのかと、何か自分が偉くなったような錯覚に陥った。



男は顔より学問

2014年09月19日 | Weblog
男は顔より学問

兼好法師はそう言うが、学問なんて見てくれが良ければ、女性から見れば吹っ飛んじゃないの。そのくらい見てくれというものは大切なんだ。
女性だって別嬪は中味がどうあれ、男は飛びつくじゃないか。

男自身が己の顔と学問のどちらが大切かと、問うた時には答えは自ずから学問と言う事になると法師は言いたいのだろう。

学問も大切だが、見てくれも大切だ。人間の魅力なんてある程度時間が経たないと判らないのだ。見てくれはその瞬間に判断が出来る。
だから重要なんだ。

アッチ向いてホイ0

2014年09月18日 | Weblog
アッチ向いてホイ
      (一)
 八ッ目ホルゲンは八ツ目鰻油配合の栄養補給剤である。効能書きをみてみると、滋養強壮・虚弱体質・肉体疲労・病中病後・栄養障害等々、しるされているが、実際に服用してみると確かに視力はよくなるようである。夜寝るまえに飲んだら翌朝は目がよく見えるようになった気がする。
 なべて、五十歳を過ぎるころから目がしょぼしょぼして書物の字はかすむし、老眼鏡をかけないと、ものを見るのに不便を感じるというのが標準的な五十歳代の実態のようである。  
       (=)
知り合いの、薬局の奥さんとはカラオケ仲間である。彼女は歌うほう、私は歌いかたの指導をするほうで、特別に心やすい仲でもある。
「奥さん。やつめホルゲンある」
「あら、先生。どうしたのですか」、
「近ごろ、とみに目が悪くなったようで。老眼だけでなく目がショボショボして。 歳はとりたくないもんですな。真っ暗闇でも分かるのは、あれ、たった一つですわ。 アッハッハー」
「まあ、いやらしい。先生ったら。アッハッハー。それは皆同じですよ、先生。あれは近眼・老眼、関係ありませんよ。八つ目ホルゲンで精つけて頑張ろうと言うのですな。わかりました。」
「ところで、奥さん。ご主人はお元気ですか。」
「まあ、いやだったら、先生。うちの主人ときたら“あっちむいて、ホイ”ですよ。お父さんはもう六十に手た届く歳ですもの。」
「奥さん、それじや、私と同じ世代ですよ。 “あっちむいてホイか”わびしいなー。まだまだ現役でないと。」
 それにしても六十歳ごろになるとひとは皆、男も女も、あっちむいてホイぞくになるらしい。
「奥さん、お互いに頑張ろうと、ご主人にいっておいてください」。       (三)
 この手の話や、雰囲気で喧嘩になったという話は、私は聞いたことがない。クスクス、ゲラゲラ、の笑いばかり。目尻がヤニ下がっているかどうか、そんなこと知るよしもないから、お構いなしで、話は一直線に降下して、語るにおちるところまで落ちていく。
 私も夢中になって話にとけこみ、胃の痛くなる世界の住人であることをしばし忘れる。 アメリカとイラクの、一触そく発の危機もどこ吹く風である。砂漠の兵隊さんはアメリカ兵にせよ、イラク兵にせよ、ご苦労さんですな。
かくて、現在の日本は平和である。
かって騒然とした世の中で、世情とはまるで無関係に、「捜し物は何ですか、」と歌った御仁がいたが、その社会への無関心振りに驚き怒りすら感じたが、近ごろは社会の出来事に、敏感に反応しなくなった自分に、ハッと気ずくことがあり、空恐ろしく思うことすらある。
“あっちむいて ホイ”ぞくに近づいたせいかもしれない。
いや、総理大臣経験者が、二人も、リクルート事件に関係する程に、政治倫理は失われさらに、庶民には夢に見る事すら出来ないような高額の所得隠しをして、株屋がまちがって、大臣にまでなったと嘲笑された政治屋がでたりして、政治不信に追い打ちをかけるなど、昨今の政界の退廃振りから世の中がいやになり、無関心にならざるを得なかったせいかもしれない。
何事にたいしても “あっちむいて、ホイ”になるのはこういう事にも一因があるのだろう。世相はこんなだし、体力・気力もおとろえて自然に社会の出来事に関心を失っていくし、いやな世代に入ったもんだ。















記事のタイトルを入力してください(必須)

2014年09月17日 | Weblog
アメリカの9,11
人々は想像を絶する.テロだというけれども、よくよく考えてみるとこのテロを許したということはやはりぬかっていたとしか言いようがない。9月11日歴史上経験のなかったテロ攻撃を受けてアメリカは騒然となった。いや世界中が驚愕と恐怖の渦の中に巻き込まれた。
テロや犯罪を未然に防ぐ役目を持つCIAは完全にメンツをなくした。

テロリストたちはアメリカ国内定期便の航空機を使ってニューヨークにある二つの貿易センタービルを攻撃し完全に破壊した。犯人はもちろんのこと、飛行機の乗客やふたつのビルで働いていた人たち、約6000人と言われる人々を巻き込んで大惨事をひき起こした。
それにとどまらずアメリカの国防をつかさどる国防省にも同じく、飛行機を激突させて建物を大きく破壊させた。ここでも約200人の犠牲者が出た。
後の1機はおそらくホワイトハウスか議会の建物を狙っていたに違いないが、これはピッツバーグ郊外に墜落した。この事実・同時多発テロが報じられると全世界が騒然となった。
特にアメリカでは大統領がホワイトハウスを避けて別の場所から指揮するという異例の事態となった。
僕は日本のテレビ局が放映するテロニュースだけでは満足せず、アメリカのテレビ局たとえばCNNやABCの放映に目と耳をそばだてた。この冷酷無悲で冷徹な計算し尽くされたテロの計画と実行に激しい憤りを覚えると同時に罪もなくこの災難に巻き込まれて命を失った人々に対する哀悼の気持ちに心を奪われて寝つきが悪かった。

中秋の名月
あれから三週間がたった。今日は 10月1日。仲秋の名月である。
秋ばれの夜空に煌々と輝く満月は、ここ京都の秋の夜空をロマンチックに染めあげている。
水面を渡る風はかすかに頬をなでて通りすぎるが、半そでシャツ姿では寒い。

1960年代のことだからもう30何年も前のことになるがアメリカはアポロ11号によって月に人を送り込んだ。
そこはウサギが餅をつくようなロマンチックな場所ではなくて、ごつごつした岩肌や冷たい砂があるばかりでこの地上にたとえれば、それは人のすすめない砂漠のようなところであった.
それでも地球上から眺めると、何とも言えないロマンチックな雰囲気を醸し出すもので、昔から人々に多くのロマンチックな気分を与えてきた。平安時代の竹取物語から月の砂漠まで
月は見る者をロマンチックな気分に誘い込んだ。
平安貴族は大覚寺の隣にある広沢の池に船を浮かべて、澄み渡った秋の夜空に輝く満月を見るのに平安貴族特に女性は衣装にも凝った
緋の色に白い衣を重ね着して月見の雰囲気を盛り上げた。趣があるといえばそうだが
現代の生活テンポに重ねあわせてみると、ちょっと間抜けのような気がしないわけでもない。
優雅とはこういうことを言うのかもしれないが、気分的にはついていけないところがあるのは、現代という時代にどっぷり浸かってしまっているからかもしれない。
そうはいうものの、池に船を浮かべ、夜空に輝く満月と、池に姿を映す満月を両方を堪能するまで味わうというのは、なかなかの趣向である。
少なくとも現代のビジネス感覚が染みついた多くの人々が考えもしなさそうな発想である。
女性にしゃくをさせて酒を飲む平安貴族の姿が目に浮かぶ。

今回のの同時多発の首謀者は、アルカイダというテロ組織の頂点に立つ、ウサマ・ビンラビンという男とこの一派と言うことが判明した。確たる証拠は無いが、状況的には彼らが犯人と推定できる状況証拠はアメリカによって判明している。
一体なにを目的にこんな無法、非情なテロを起こすのだろうか。彼らはアメリカの世界支配に反対するための、または超大国
アメリカの覇権によって虐げられたイスラムの人たち、の恨みを晴らす復讐とする大義名分を建てるかもしれない。しかし今回の事件の結果を見ると、彼らの行動によってとりたてて何かが変わったと言うことは無い。ましてや彼らの主張が世界的に認められて
と言うことはなにもない。それどころか、彼らの主張ややり口は世界中から反感さえ買っている。
彼らの主張と行動は単に彼らの自己満足でしかなかったのだ。
彼らはこのテロを正当化するために聖戦・ジハードという言葉をよく使った。聖戦はイスラム教が他の宗教によって攻撃を受け、それを撃退するための聖なる戦いを意味するとすれば、彼らの主張する聖戦はもって非なるものである。何の罪もない大勢の一般市民を殺傷して無いが聖戦か。生きている人々をよりよく生かすためにあるのが、宗教で、多数の市民を巻き込んで死傷者を出し、人を不幸のどん底に陥れる聖戦なんてあり得ない。人の命を奪ってなにが宗教か。
宗教と言う次元からはあまりにもかけ離れた便宜的な主張でとても容認できるものではない。

今度のテロの結果としてアメリカでは貿易センターで働いていた人々を中心に、アフガン難民や戦争の巻き添えを食らって死亡したアフガンの人々など、また今回の戦争に参加して命を失った多くの兵士、犠牲者はどのくらいまで広がるかしれたものじゃない。このような事態を引き起こしたイスラム原理主義過激は責任を問われて当然である。
ウサマ・ビンラデインおよび彼に同調した者たちが、裁かれるのは当然のことである。
己を認め、彼を認めてこそ共存できると言うこと、それが現代の世界常識であり、世界のルールであると言うことをわきまえずに、大勢の人を苦しみの奈落に突き落とした ウサマ・ビンラデインは世界中から指弾されるのが当然である。

結論。
過激な主張には真実はなく、その主義主張を行動に移したところで、この世はなにも変わらなかった。ただそこには大勢の人々の命の犠牲が残っただけだった。

















からす

2014年09月11日 | Weblog
からす

松の枝に止まって荘重からカラスが鳴くので目が覚めた。拍手をして大きな音を出して追い払おうとするが、枝に止まったままである。
グアー グアーとい鳴き声はカーカーではなくて地獄から響いてくるイメージがある。
シッと声を出して追い払おうとしたが、完全無視だ。首を左右に振って敵がどこにいるか探りを入れている様子。
「こんちくしょう。嘗めやがって。」
怒りが爆発した。即座に家を出て、道に落ちている小石を拾って投げた。あたらない。
カラスはじっとしたままだ。2発目の石はすれすれの所をとんだ。
さすがのカラスも危険を感じたのか、白い糞を垂れてどこかへ飛び去った。
このとき僕の頭の中には動物愛護というスローガンはどこかへ、飛んでしまっていた。

朝日新聞

2014年09月10日 | Weblog
朝日新聞

ケチつき初めは、週刊朝日の橋下記事からだった。
朝日ともあろうマスコミがよくぞあんなにあからさまな差別記事を書いたものだとあきれてしまった。良識を疑ったのはこのときからだった。

従軍慰安婦の誤報によって大きく信頼を失った。此の記事は影響が大きすぎた
。にもかかわらず単純に謝ることをしなかった。反朝日キャンペーンを載せた週刊誌の広告の掲載を拒否した。
人の弱点やスキャンダルを飯の種にしている週刊誌が、朝日を叩いたのはうなずける 。

池上氏のコラム掲載拒否 は誰が見ても、これが朝日のやることか、思い上がりではないか、と思った。
後日朝日は謝罪して掲載したが、これらの失態は恥ずかしいことだ。
これら一連の判断を下した上層部は、唯我独尊で思い上がっている。総じて朝日のこういう判断は鼻につく、。
謙虚に反省すべし。

坊主丸儲け

2014年09月09日 | Weblog
坊主丸儲け

宗教心が薄れた現代社会において宗教界は変革時代に突入した。
これだけ急速に宗教離れや、檀家制度が崩れると、先祖供養は薄れ 、
僧の役割は,悩める現代人をどのくらい救済できるかということになろうが、
現代育ちの若い僧がどれだけ説得力を持って救済できるか。はなはだ心許ない。
時代の波にながされて、日本仏教界はどこえ流れ着くのだろうか。
うかうかしていると
坊主丸儲けという戯れ言が将来辞書から消える事になるかも知れない。

医療従事者

2014年09月08日 | Weblog
医療従事者

共通して言えることは、患者の気持ちや状態にできる限りより沿うことである。
患者はやんでいて正常ではない。つまり身体や心が弱くなっているのである。
そういう患者の心理状態に歩調を合わせながら、治療するのが医療従事者の仕事である。
時たま上から目線で言う医者もいるが、それは時と場合による。権威を保つのは良いが、患者の心を癒やすことが出来なかったら、ヤブ医者と評されても仕方がない。
近頃は患者に対する対応が「患者様」という考え方に変わってきた。良いことだ
病むのは身体だけではない。心も萎えてきているのである
だから両面から患者をサポートするのが医療行為の原点だ。
権威のみがまかり通るご時世ではない。

メロデイ平成のメロデイ

2014年09月08日 | Weblog

メロデイ平成のメロデイ

昭和育ちだから身びいきもあろうが、平成歌謡よりは遙かに良い作品が多かったような気がする。
日本の演歌は昭和時代に出尽くしたのではないか。
平成になると作品の質ががたっとおち、素人に毛の生えた作詞作曲家が現れた。
レコードがテープに、テープがCDに代わり、というふうに主体が移っていった。
昭和のレコード愛蔵品のような取り扱いが薄れ、歌は心にとまる前に耳を通り過ぎて行ってしまう様になった。
歌への思い入れがなくなるとCDは売れなくなる。そうなると売らんがために粗製乱造に陥る。此の悪循環は今後も続くだろう。