音楽の源泉
弘法大師の言葉に「生まれ生まれ生まれ生にくらし、死に死に死に死にくらし」と言う言葉がある。
人生というのは闇の中を手探りで生きている。ただ1つ大師によれば、だから真の智(人知を超えた)にすがって生きることになる。
言われてみれば、確かにそうである。自らが欲してそうなることもあるが、我々の意思を離れて、幸不幸がやってくる。明日が見えないのが人間の実相であることが、70年あまり生きてみて名実ともに実感できることである。
深く考えてみてこの世のことをすべてが宇宙の真理(神々)によって支配されているとは思いたくない。
いずれの場合も人間も宇宙の存在の中の1員としてその影響の埒外では存在し得ない。とは思いつつも。
Something great、神、宇宙の真理、超越者、絶対者、etc呼び名はいくつもあるが私の生活実感からすると、それらの存在から絶大な影響を受けていることを肌身にひしひしと感じるのである。
なぜ以上のような文章を書いたか、それには訳がある。
私は50年ほどずっと作曲してきたが、メロディーが生まれてくる不思議は、作曲プロセスを詳述すれば、ある程度納得が得られるかと思う。
楽譜が読めるわけでなし、楽器を演奏することもできない私が、頭や心を受け皿として、メロディーを受け取ることができる。
意図しようがしまいが、メロディーができてくるのである。
私は今なっているメロディーを五線紙に書き留めれば曲が出来上がるのである。後は楽典に沿って清書すれば曲が完成するのである。私はこの方法であらゆるジャンルの曲を1000曲ほど作曲した。普通の常識ではちょっと考えられないことである。私はこれを自分の才能特技だとは思わない。
宇宙に充満して鳴っているメロディーを感度の良い私と言う受信機が受信して、そこに新しく曲が生まれるのである。それが本当の実感である。
私の率直な感じでは自分の意思で作ったものでない。
鳴ってきたあるいは聞こえてきたメロディーの作曲法を何と言えば良いのだろうか
。
明確な自己意識が働かないで、できるものは自分の作品とは言い難い。
私なりの言葉を用いて表現すれば、それは宇宙、神からの授かり物である。
言葉を変えれば、神が送信機で、私が受信機である。
もちろん、私を通して作品が出来上がるわけだから、私と言うフイルターを通るのだが、その根源は私が震源地では無い。
フィルター的私、を自覚して、できた作品は私の作品として発表してはいるが。
こういうことを言うのは私1人だけではない。ほとんどの作曲家が似たような経験をするみたいである。
山田耕作先生の非売品、100言集によると
作曲とは作るのではなく、生む、」
また作曲家の服部良一氏によると、それは神の与えた、天の妙音」なのである。
昨日見たNHKの番組、立花隆氏の生死に関する問題の中で心というのは神経系が集まって作り出すものだという話であったが、果たしてそれはどうか。僕にはまだ疑問が残る。
人間の知恵が及ばない、すなわち科学の力が及ばない未知の世界というものが、永遠に残るのではないだろうか。
音楽の源泉はどうもその辺にあるような気がする。