日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

常識的と非常識

2013年11月30日 | Weblog
常識的と非常識

生活者・国民の大多数がそうであるが、常識という枠から大きくはみ出さないで生活しているので安定している。大勢の人間が生活しているのだから、その各生活を安定した最大多数の人が是認する方向に沿って生きるから無難な生き方ができる。

9時に出社して夕方5時に仕事を終え、いっぱい引っ掛けて、いざー母ちゃんの下へ と言う常識の世界に住む限り生活は安泰である。それと引き換えに平凡な生活がある。
こーゆー人が国民のほとんど大多数を占める。国家が安泰なのは、こーゆー人達の良識に支えられているからだ。

ところがどうしても常識の世界に浸っていては仕事にならない世界がある。芸能界というのは、何か芸能作品を創り出すクリエイター集団の世界である。
彼らは常識人に何かを提供する役割がある。そのためには常識人と歩調を合わせていては仕事にならない。
往々にして芸能人は常識を大きくはみ出して、クリエイティブな仕事をする。そのため常識人から見たら、眉をひそめるようなこともある。

とは言え常識世界に住んでいようが、非常識世界に住んでいようが、日々命をつないでいかなくてはならないので、常識を踏み外すといっても限度がある。

その道をある点で踏み外すと神のお咎めを受けて生活が立ち行かなくなる事がある。その点は注意しておかなければならない。非常識世界の住人であろうが、なかろうが、人間として生きる核心部分だけは守らなければならない。
この部分から解放されるのは天国地獄行きが決まった瞬間である。

議論がむなしいことも

2013年11月29日 | Weblog
 議論がむなしいことも  

本音と建前の使の使いは、それなりの論理があって筋が通っているが、かみ合う事は不可能である、と言うケースがある。こういう場合に甲か乙か決めなければならぬ時に、これを決める力とは一体何なのか。
すり替え、つまみぐい、だまし、一体こんな事をして何が信じられるか。
考える事はよいことだが、議論をすることはよくない場合がある。それは虚しいから。

小さな親切大きなお世話

2013年11月28日 | Weblog

小さな親切大きなお世話

巷間、町の中でよく耳にする言葉である。考えようだが、確かにこれは
言いえている。

さてどの小さな親切が大きなお世話になるのか。.場合によってそうなる場合も、そうならない時もある。

TPOにかなった、小さな親切は大きな親切になる。

考えてみると親切というものは、親切な心や気配りの心を持ったものが、表すもので、親切心のないものにとっては、小さな親切大きなお世話もない。

こう考えると小さな親切は、やはり、不親切よりもまだ救いがある。

さて大きなお世話についてであるが、親切心がありがた迷惑になることも重々承知しての話だが、親切が親切として役立つのは、その時の情勢やタイミングによる。
そのT POを的確に見極めると言う事は神業に近い。目の前にありがた迷惑状況がないときは、やはり小さな親切心を起こすのが人間として望ましい。
少なくとも何事でも親切心を持たない人よりはそのほうがいい。

男と女

2013年11月28日 | Weblog
男と女
 
基本的に女と男の関係は平行線である。
不思議にもその平行線が交わる時がある 。
平行線が交わる時、 それは女にとっても、男にとっても恋の高まりの
 時である。
だから矛盾が露呈する。男と女の間に在るドロドロした汚いものが噴出する。
   夫婦関係 一男一一一一一 日常性に埋没して
女一一一一一 交わることはほとんどない

恋愛関係 男一一\/一一一 一瞬交わっても後は平行線
女一一/\一一一

近頃困ることがある

2013年11月27日 | Weblog

近頃困ることがある

リビングで考えたことを隣室の机の前で書き留めておこうとする。そして机の前にすわり、浮かんできたアイデアを書き留めようとすると、一瞬のうちに頭からそのアイディアがすり抜けて落ちてしまう。そして今何をしようとして机の前に来たのかわからなくなる。、
そこでリビングへ戻ると今やろうとしていたことが思い出されて再度机に出向きようやく用が足せる。

最近こういうことがめっきり増えた。我ながら驚いている。寄る年波に脳の萎縮?が始まったのだろうか。
歳は取りたくないものだ。

人生 花の色

2013年11月26日 | Weblog
人生 花の色

人は生き方によって色とりどりの花を咲かせる

白黒赤黄 青灰みどり

そんな花の色に彩られて生きている

どの色の花をさかせるかは 人の好み

みんな人生を懸命に生きている

生きることが大切で

どんな色の花かは問題じゃない

明日も自分の色の花を咲かせよう

どんな花が好きですか

2013年11月25日 | Weblog
どんな花が好きですか

棘はあるけど薔薇は美しい

コスモスはロマンチックな秋の夢

スミレの花が咲く頃は私のことを考えてほしい

シクラメンに託されたはにかみ

モモの花はあなたの肌色の魅力。恋する女の肌の色

チンチョウゲ 何を棄てても棄てられないのは色欲

あなたはどんな花が好きですか

滋賀県が予測結果を公表

2013年11月24日 | Weblog
滋賀県が予測結果を公表

 滋賀県は18日、福井県内の関西電力美浜、大飯の両原子力発電所のいずれかで、東京電力福島第一原発事故と同規模の事故が起こった場合、琵琶湖(約670平方キロ・メートル)の約2割で、国の飲料制限の基準を超える放射性物質が検出されるとの予測結果を公表した。10日程度で拡散して濃度が下がるとみられ、「ただちに人体に影響を及ぼすレベルにはならない」としている。
 予測は過去3年間の両原発周辺の風速や風向き、降水量、琵琶湖の水の動きなどをもとに、水道水を取水している水深5メートルまでの放射性物質の量を日ごとに試算した。

ヨウ素(国の基準値1キロ・グラム当たり300ベクレル)の場合、基準を超えるのは、最大で琵琶湖の面積の21・7%、セシウム(同200ベクレル)も18・0%に上るとした。ただし、事故から10日程度で、下流に移動したり、湖底に沈んだりして、全域が基準値以下に戻るとしている。
平均濃度でみると、最高値は、ヨウ素が水1キロ・グラム当たり平均252ベクレル、セシウムも平均111ベクレルだったが、いずれも国の基準値を下回った。

県は8月、同規模の事故を想定し、水の移動のみで汚染予測を公表したが、今回は大気のデータも踏まえており、調査した県琵琶湖環境科学研究センターは「より精度は増した」としている。

 県原子力防災室は「ヨウ素は半減期が短く、セシウムは各浄水場である程度、吸着させることができる」としている。

 嘉田由紀子知事は「今回の予測は対策を立てるためで、不安をあおるものではない。琵琶湖を利用する府県とも共有し、今後の防災対策に生かしたい」と話している。
嘉田知事が言うまでもなく、琵琶湖の汚染は確実に起きる。
なん%の水が汚染されるか とか何日間汚染が続くのか、は問題じゃない。一旦汚染が始めると、風評被害やデマで混乱が起こり、収拾がつかなくなる恐れがある。しかも水は人間にとって生命線である。その生命線が不安で揺るぎ始めるとどんな事態が起こるのか、想像もつかない。
国富が五兆円失われるから、という理由は今後の新エネルギー政策の成り行きでどうにかなる話である。然るに原子力は未だに人間がコントロールしきれていない。一旦暴れ出したら収拾がつかなくなる。それは福島事故で実証済みである。
大切なのは日本国民である。経済界や政界人の都合ではない。福島のこんな大事故で一体誰が責任をとったのか。誰もとらないじゃないか。負担は被害者に押しつけられたままである。関係した政治家、経済界関係者、東電、国民にわびて切腹でもしてみろ。
真に国民の安全を考えるならば何故核のゴミの処分場が決まっていない段階で、なぜ減らす方向で物を考えないのか。これこそ国民に対する背信行為だ。小泉さんは即座に停止せっよと言う。それが無理であっても
停止する目安を立ててその目標にむかって政策を進め、国民を安心させる事が何よりも求められている。

八千草薫くじけない>

2013年11月23日 | Weblog

八千草薫くじけない>

>八千草薫さんは何とも言えない柔和な暖かさのオーラにつつまれて優しさが僕の心を突き抜ける。そんな感じの女性である。

明るく清潔でしかもカレンで楚々とした雰囲気を持つ八千草さんが主役を演じると聞いて映画を見に行った。この映画はパンフレットによると輝いていたい女子に送る3本の映画のうちの1本とある。

見た映画はくじけないという題の映画で柴田トヨさんの59歳から98歳まで八千草さんさんが演じていた。
彼女が主役を演じると言うので映画を見に行きたくなった。
原作は柴田トヨさんである。
どこからどこまで現実なのかは知らないけれども、映画から受ける印象は とても爽やかで勇気づけられるものであった。

感性の柔らかさ、優しさ、人の思いは年齢を重ねても衰えないどころか、さらに進化していくということを詩から学んだ。とても引き付けられた。日頃は高齢者とひとくくりにされて自分もその中の1人だと思い込んでいる。そういう自分に歳は関係ないと言う強いメッセージをいただいた。

こんなちっぽけなフレーズでも体がしびれるような力を持っている。大いに慰められ励まされ勇気つけられた。
もっと何か大きなことやらなくては、もっと前向きに生きなくては、もっと行動的でなくてはと、つくづく言われているような気がした。
詩の2,3行を紹介すると

98歳でも恋するのよ 夢だって実る 雲にだって乗りたいわ。

こういうフレーズを紡ぎ出せる感性の若さ。老人になるとみずみずしさを失う感性が、生き生きとして、また柴田さんの生き方が素晴らしい
第一詩集がくじけないでで、第二集が百歳という詩集である。早速図書館に予約をしてきた。
90歳の人がこのような若くて柔軟な発想を持っているのに、まだまだ年の若い僕がもう高齢者等だと思うこと自身が間違っていることに気づかせてもらった。
人の感性、思いの深さは衰えない。進化していく。この言葉に励まされて、また明日から歩き始めよう。

火葬場で生存が確認

2013年11月22日 | Weblog
火葬場で生存が確認

中国・安徽省で先天性の疾患により死亡認定された男の乳児が、認定から7日後に火葬場で生存が確認された。病院側は認定ミスを認めたという。中国メディア・人民網が伝えた。

 男児は先月28日に安徽省立児童医院に運び込まれた。診察の結果新生児肺炎にかかっていたほか、両側の内鼻孔が閉塞している先天性異常もあったことが判明、治療とともに外科手術が行われた。しかし回復は思わしくなく、今月12日に両親が治療の放棄を決定、その後の処置を病院に委ねて帰宅した。

 病院は治療を続けるも、18日に「生命反応が消えた」と判断した主治医が死亡証明書を発行。火葬場への移送を担当したスタッフが多忙のため1日病院内に放置されたのち、20日午前にほかの遺体とともに火葬場に運ばれた。

その後火葬場の担当者が、棺の中で男児が声を出し呼吸しているのを発見した。
 生存が確認された男児は、引き続き同病院で治療を受けている。

僕も日本でこういう話を聞いたことがあったので、火葬場を訪ねて釜に入れる前に生存の気配は感じたことがないかと尋ねだ。
係官は一度だけそれらしい経験があるといった。
どういうことなのか聞いてみたところ、ぎゃーという声が聞こえたので、すぐ子供の棺桶を覗いてみたが、異常はなかった。あれは猫がないた声だったのか、空耳か、本当にあの瞬間だけ子供が泣いたのか、洋として判らないが、ひょっとしたら子供生きていたのじゃないか、そんな気が今出もする。という話だった。
日本の場合24時間経過してないと、火葬できないそうだから,死亡診断書は完全な物だと思う。しかしながら死亡診断書が発行されてから
息を吹き返した人も現実にはいるわけで、ごくごく希には奇跡が起こって生還する人もいる。先日のイランの絞首刑執行後の生還などその例ではないか。生か死かはデジタルである。生存か死亡かどちらかで、その中間はない。
今回の場合中国の診断書を書いた医師は停職になったらしいが、人の生死の判断は医師に任されているので、慎重が上にも慎重であってほしい。今回が例外だと言わずに。

優しさとか思いやり

2013年11月20日 | Weblog
優しさとか思いやり

優しさとか思いやりということはも言葉の上では理解できる。
少なくとも気持ちはわかる気がする。これらの言葉は実際に行動に移してはじめて、優しさや思いやりが現実のものとなる。

ところで実際に行動に移すに際しては「そういう気」にならなければ行動に移せない。この部分が難しい。そして「そういう気」になるには自分が実際に体験することが最も大切だ。
すなわち、他人に対して同情や共感と言う感情的共有があることが必要不可欠だなのである。そのためには苦労して苦しんだ者だけが現実的に優しさや思いやりの心を持つのである。

自分が苦労して苦しんだ分、他人にも要求することもあるが、人間っておかしなもので、自分が味わった苦労や苦しみは自分だけでよく、他人には味わわせたくないとも思うのもまた事実である

苦労が少なく、のうのうとして生活している者の優しさや思いやりは、言葉上或いは教義上の優しさや、思いやりになりがちだ。
優しさや思いやりというのは中身の伴わない言葉上のものであったら、それは単なる概念に過ぎない。

ゲネラル、ポウゼ

2013年11月19日 | Weblog


ゲネラル、ポウゼ

僕は干支で言うとイノシシがかっているせいか、連続的に進むことばかり考え、後へ退いたり、立ち止まって考えたりすることが苦手である。
猪突猛進も時と場合には必要であるが、いつも猛進ばかりではしんどくてたまらない。ときには立ち止まって考えたり、休んだりすることは大切なことである。

音楽の中にはゲネラル、ポウゼといって何小節も連続的に演奏を休む箇所がある。前後の演奏と合わせて無音の空間部分も音楽をなすのであり、空白小節は無音の中に音楽を聞いてと言うことである。
この演奏休止は決して無駄をして、ということではないが、猪突猛進の人には、それは苦である。連続的に継続的に前進することが自然なのだ。時々こーゆー性格上の問題が頭をかすめることがある。

僕は干支で言うとイノシシがかっているせいか、連続的に進むことばかり考え、後へ退いたり、立ち止まって考えたりすることが苦手である。
猪突猛進も時と場合には必要であるが、いつも猛進ばかりではしんどくてたまらない。ときには立ち止まって考えたり、休んだりすることは大切なことである。

音楽の中にはゲネラル、ポウゼといって何小節も連続的に演奏を休む箇所がある。前後の演奏と合わせて無音の空間部分も音楽をなすのであり、空白小節は無音の中に音楽を聞いてと言うことである。
この演奏休止は決して無駄をして、ということではないが、猪突猛進の人には、それは苦である。連続的に継続的に前進することが自然なのだ。時々こーゆー性格上の問題が頭をかすめることがある。

スマート・ホン

2013年11月18日 | Weblog
スマート・ホン

のりものの車内で大きな声で話すのは品のないことである。少なくとも日本ではそうなっている。だからということなのだろうか、
車内にはどのようにして人々は過ごしているのだろうかと、辺りを見渡したら、若い人はもちろんのこと、中高年の人でも、スマートフォンのキーを黙々と操作している。

なんでそんなにと思うのは僕だけかもしれないが、きっとゲームとかメールとかあるいはニュースとかそんなものがいくつもあるのだろう。
それにしても器用に指先で画面を動かしたり文字を打ち込んだりしているのがうらやましい。

携帯端末を使うことによって情報量が急に大きくなった。連絡することも、物を買うことも、支払うことも、ニュースを見ることも指先で簡単にできてしまう。
それは単に情報量が多いだけでなく疎遠になった人間に間のコミュニケーションまでこの便利な機器が入り込んで毎日の生活が携帯端末なくしては生きていけないような状況になってきた。
今はまだパソコンすら操れない中高年がたくさんいるけれども、あと30年もすれば全ての人がパソコンや携帯を自由に活用することになるだろう
人間は本質的なものは、時代によって変わるとは思えないが、でも価値観や判断には、この種の機器の発達が大きく影響してくることだろう。


疑問が残る

2013年11月17日 | Weblog
疑問が残る

第1の問題は安価な電力を安定供給するのが政府の任務である。
これが原発推進や再開の根拠になっている。
原発稼働にはいつも事故リスクがつきまとう確かに将来は別にして、現状ではそうだ。リスクをゼロにする革新があれば。しかし現代科学や技術の力ではこの革新がないはずだ。

第二の問題は安価ということである。コストと言うものは最終終末までにかかる費用によって算出されるべきものである。

然るに終末処理段階が未だに決まっていないという事では正確なコスト計算ができていないということである。単に比べて安価であると言う終末処理費を含まない原価計算をしても安価だとは言えない。
終末処理費用含んだ正しい原価を算出してほしい。
それが議論のベースである

文化遺産

2013年11月15日 | Weblog
           文化遺産

1、現在に残る文化遺産の大半は搾取され、犠牲になった人々の血の跡がにじんでいる。
2庶民から搾取した金で権力者は文化遺産のパトロンとなった。だが文化遺産は1人権力者の者だけではなくその世代に生きていた人々全員のちからの賜物である。
文化遺産は人類の財産と言うのは、こう言う意味で正しい。
3、庶民の犠牲なくして、立派な文化遺産が残せたら、それは最高だ。作る側も支える側もこう言う事実に目を向けるべきだ。
4、いつも思う。文化遺産は人間の命を食うが、それでもやはり値打ちのあるものだ。ただ命の犠牲はできる限り少なくする。それが英知と言うものである。