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めずらしく機内でスマホの電源を切っていた。着陸して電源を入れたらメールが2本。「お母さんの容体が急変したと電話があったので、これから向かいます」と義妹。「まにあわなかった」と弟から。
母は私達の飛行機が羽田を離陸したのとほぼ同時刻、2018年5月5日7時10分に息を引き取った。
空港で大きく手を振って迎えてくれた従妹のK美ちゃんに、開口一番「悪い知らせがあるんだ」。ふたりでちょっと泣いてから、お互いの夫婦4人で母の病院に向かった。
病院で対面した母はまだ温かい気がして、本当に穏やかな顔をしていて、何か話しかけてきそうだった。経鼻栄養のチューブからも点滴の針からも解放されて、認知症の哀しさからも逃れられて、と思ったら「よかったね、よくがんばったね、ありがとう」という言葉しか思い浮かばなかった。
病院の看護師さんが「最近のお母さまは、何かを待っていらっしゃるかのようでした」と義妹に伝えたそうだ。父の米寿の祝いにと、親族や家族が集まる5月5日が来るのを待ってたのかも、と思った。弟たちは亡くなってから1時間以内に、あたしたちは3時間後に対面できた。
枕経もお坊さんとの打合せも済ませ、気持ちが落ち着いたころ思いだし、米寿のために持参していたノンアルコールのスパークリングワインで献杯し、父に渡すはずだった花かごで母の枕元を飾った。今日はちゃんとした写真を撮ろうと義妹が持参するつもりでバッグに入れてたデジカメに残っていた母の写真が、素敵な遺影になった。「今日だなんて、お母さんらしいね」とみんなで思い出話。この日に母が逝ったことに、意味を見いださずにはいられない、みんながそんな気持ち。
午後、通夜や葬儀の日程の説明をするために、父に会いに行った。母が亡くなったことは弟が直接伝えに行っていたけれど、そのあと決まった今後の初七日その他の法要の手はずを伝えたら「どうすればいいかと(弟から母のことを聞いた後)いろいろ考えてた、自分がやらなければならないのにすまないね、頼んだよ」と。父はその日の朝気分が悪くて朝食が食べられなかった、とのこと。母は父にはお別れを言って旅立ったんだろうと思う。「自分が先にならなくてよかった」と安堵の表情。
ゴールデンウィークの混雑のため、あたしは翌日の十分遅い時間の飛行機が取れず、新幹線も満席だろうから、午後からに決まった葬儀・出棺・収骨・お寺での読経のどれにも参列できないことになった。ならば中途半端な気持ちで一人で帰るより、今日夫婦二人で帰ったほうがいいとの配慮から、お通夜を途中で退席して当初の予定通り最終便で二人で東京に戻った。翌日一人で帰る自信がなかったので、ありがたかった。帰り際、義妹が主人に「お姉さんを宜しくお願いします」と言ってくれたようだ。
主人によると初七日は三途の川のほとりに到着する日で、この時の裁きで三途の川の流れが急か緩やかかが決まるのだそう。都合上葬儀と初七日の法要はまとめて済ませてしまうのだけど、この7日間は母がなるべく緩やかな川を渡らせてもらえるよう、穏やかに仲良く暮らそうね、ということになった。四十九日は来世の行き先が決まる最も大切な日。それが終わると忌明け。
別れ際に弟が「父さんが気を落とさないように、次のイベントを考えなきゃね」と口にしたときに、ふと母が「お父さんの誕生日に合わせて米寿をお祝いしてあげなさい」とこの日を選んで息を引き取ったようにも思えた。母の四十九日は6月22日、父の88歳の誕生日は忌が明けたあとの7月11日だ。
それにしても5月5日、覚えやすすぎる日が命日になりました。これから母の葬儀が始まる時間。とりあえずいってらっしゃい。そのうちみんなそっちだよ。(写真は母の絵手紙、ただいま練習中の巻)
母は私達の飛行機が羽田を離陸したのとほぼ同時刻、2018年5月5日7時10分に息を引き取った。
空港で大きく手を振って迎えてくれた従妹のK美ちゃんに、開口一番「悪い知らせがあるんだ」。ふたりでちょっと泣いてから、お互いの夫婦4人で母の病院に向かった。
病院で対面した母はまだ温かい気がして、本当に穏やかな顔をしていて、何か話しかけてきそうだった。経鼻栄養のチューブからも点滴の針からも解放されて、認知症の哀しさからも逃れられて、と思ったら「よかったね、よくがんばったね、ありがとう」という言葉しか思い浮かばなかった。
病院の看護師さんが「最近のお母さまは、何かを待っていらっしゃるかのようでした」と義妹に伝えたそうだ。父の米寿の祝いにと、親族や家族が集まる5月5日が来るのを待ってたのかも、と思った。弟たちは亡くなってから1時間以内に、あたしたちは3時間後に対面できた。
枕経もお坊さんとの打合せも済ませ、気持ちが落ち着いたころ思いだし、米寿のために持参していたノンアルコールのスパークリングワインで献杯し、父に渡すはずだった花かごで母の枕元を飾った。今日はちゃんとした写真を撮ろうと義妹が持参するつもりでバッグに入れてたデジカメに残っていた母の写真が、素敵な遺影になった。「今日だなんて、お母さんらしいね」とみんなで思い出話。この日に母が逝ったことに、意味を見いださずにはいられない、みんながそんな気持ち。
午後、通夜や葬儀の日程の説明をするために、父に会いに行った。母が亡くなったことは弟が直接伝えに行っていたけれど、そのあと決まった今後の初七日その他の法要の手はずを伝えたら「どうすればいいかと(弟から母のことを聞いた後)いろいろ考えてた、自分がやらなければならないのにすまないね、頼んだよ」と。父はその日の朝気分が悪くて朝食が食べられなかった、とのこと。母は父にはお別れを言って旅立ったんだろうと思う。「自分が先にならなくてよかった」と安堵の表情。
ゴールデンウィークの混雑のため、あたしは翌日の十分遅い時間の飛行機が取れず、新幹線も満席だろうから、午後からに決まった葬儀・出棺・収骨・お寺での読経のどれにも参列できないことになった。ならば中途半端な気持ちで一人で帰るより、今日夫婦二人で帰ったほうがいいとの配慮から、お通夜を途中で退席して当初の予定通り最終便で二人で東京に戻った。翌日一人で帰る自信がなかったので、ありがたかった。帰り際、義妹が主人に「お姉さんを宜しくお願いします」と言ってくれたようだ。
主人によると初七日は三途の川のほとりに到着する日で、この時の裁きで三途の川の流れが急か緩やかかが決まるのだそう。都合上葬儀と初七日の法要はまとめて済ませてしまうのだけど、この7日間は母がなるべく緩やかな川を渡らせてもらえるよう、穏やかに仲良く暮らそうね、ということになった。四十九日は来世の行き先が決まる最も大切な日。それが終わると忌明け。
別れ際に弟が「父さんが気を落とさないように、次のイベントを考えなきゃね」と口にしたときに、ふと母が「お父さんの誕生日に合わせて米寿をお祝いしてあげなさい」とこの日を選んで息を引き取ったようにも思えた。母の四十九日は6月22日、父の88歳の誕生日は忌が明けたあとの7月11日だ。
それにしても5月5日、覚えやすすぎる日が命日になりました。これから母の葬儀が始まる時間。とりあえずいってらっしゃい。そのうちみんなそっちだよ。(写真は母の絵手紙、ただいま練習中の巻)
弟が今日まで休んでいろんな手続きをしていたので
父とも話をしていたと思いますが
明日からは仕事に戻るので、意識して父に会いに行こうと思っています。
kebaさん、お忙しい中で精一杯の事をなされましたね。
お父様がお気持ちを落とされないかと案じられます。
kebaさんもまだ気が張ってらっしゃると思いますが、どうかご自愛下さることを願っています。
哀しみってじわじわ来るらしいですね…
母は我が道をいく人でしたが
それは自分のためじゃなくて
家族のため、でした。
父の兄弟もお葬式に参列したのは
みんなそういうことがわかってたからだと思いました。
読みはじめたら、胸が一杯になりました。
何といったらいいのか分かりません。
でも、お母様はこんなに想われて幸せです。
これから寂しくなります。
私がそうでした。
母の日のイベントの場所を通りすぎすのが辛かったです。
でも、たくさんみんなで思い出を語ってくださいね、それが供養だと思います。
色々書いてごめんなさい。
実感があるようなないような不思議な感覚です。
当分忙しくてしんみりする暇がないのが救いかも
心よりご冥福をお祈りいたしております。
お疲れをゆっくり取ってくださいね。
母らしい逝き方でした、
最後まで母らしかったです。
きっと先に行って準備してるんだと思います。
行かれるあなたを いつもまぶしく見ていました。
仕事をされつつ最大の親孝行をされご立派でした。
なんと字の上手なお母さまでしょうか。
ご冥福をお祈りします。
母は本当に頑張ったと思います。
父には平日に会いに行こうと思っています
がんばられましたね、お母様。
だんだんと 寂しさが追ってくるかもしれませんから
お父様を大切に。
父の米寿の予定の日を待っていたかのように、でした
昨日無事葬儀を終えました
娘さんであるkebaさんのお気持ち、さぞやとお察しいたします。
心より、ご冥福をお祈り申し上げます。