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文科省構内の石垣は、江戸城周囲の外堀の一部。霞ヶ関コモンゲートの再開発の時に発掘調査を行い、地下鉄虎ノ門駅と中央合同庁舎7号館をつなぐ通路が完成した時に、発掘された石垣の展示コーナーが設けられた。
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東日本大震災の時には、文科省での会議のためにこ上にあるガラス張りのカフェにいて時間調整をしていた。揺れがいつまでも収束せず、だんだん振幅が大きくなり、カフェのグラスが音を立てて棚から落ち、客が皆外に避難した。外に立っていると足元がグラグラ揺れ、見上げると金融庁や会計検査院が入っているツインタワーがぶつかるんじゃないかと思えるほど揺れていた。一旦揺れが収まったら、外に避難していた客が順番にレジで普通にお金を払って立ち去っていった。
私たちも支払いを済ませて文科省で受付をして、何事もなかったかのように会議が始まった。でもあまりに余震が頻繁かつ大きく、館内放送で繰り返し避難を呼びかけているので、小一時間たってさすがに中止となった。揺れのせいではなく、アナウンスがうるさくて会議にならないと判断したんだと確信している。そのくらい文科省の職員の皆さんは日本の建物の耐震性能を疑っていないようだったし、真面目に職務を遂行しようとしていた。
今でもここに来ると、あの時のことを思い出してちょっと怖くなる。建物が崩壊しなかったし霞ヶ関からうちまで徒歩で帰れる距離だから、今となっては笑い話。だけど、避難の呼びかけを無視して会議を続けたことが、正しい判断だったとは到底思えない。首相案件だからと行政を歪めてまで突き進んだ文科省は、きっとあの時と変わってないんだな、と思う。
そんな時も石垣は崩れなかったんだねぇ〜。西日本の大きな地震、被害が出ないうちに収束しますように。
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コーナーから石垣をみるとこんな感じ
東日本大震災の時には、文科省での会議のためにこ上にあるガラス張りのカフェにいて時間調整をしていた。揺れがいつまでも収束せず、だんだん振幅が大きくなり、カフェのグラスが音を立てて棚から落ち、客が皆外に避難した。外に立っていると足元がグラグラ揺れ、見上げると金融庁や会計検査院が入っているツインタワーがぶつかるんじゃないかと思えるほど揺れていた。一旦揺れが収まったら、外に避難していた客が順番にレジで普通にお金を払って立ち去っていった。
私たちも支払いを済ませて文科省で受付をして、何事もなかったかのように会議が始まった。でもあまりに余震が頻繁かつ大きく、館内放送で繰り返し避難を呼びかけているので、小一時間たってさすがに中止となった。揺れのせいではなく、アナウンスがうるさくて会議にならないと判断したんだと確信している。そのくらい文科省の職員の皆さんは日本の建物の耐震性能を疑っていないようだったし、真面目に職務を遂行しようとしていた。
今でもここに来ると、あの時のことを思い出してちょっと怖くなる。建物が崩壊しなかったし霞ヶ関からうちまで徒歩で帰れる距離だから、今となっては笑い話。だけど、避難の呼びかけを無視して会議を続けたことが、正しい判断だったとは到底思えない。首相案件だからと行政を歪めてまで突き進んだ文科省は、きっとあの時と変わってないんだな、と思う。
そんな時も石垣は崩れなかったんだねぇ〜。西日本の大きな地震、被害が出ないうちに収束しますように。
さすが江戸城、石垣は見事ですけど。
地元、伊丹にある有岡城は築城に際し、領民に石垣にする大きな石を持ってこさせましたがそんな都合の良い物はない。困った領民は、墓石やらお地蔵さんやらを持っていったらしくて、阪神淡路大震災の時に崩れた石垣の中からもそんなものが見つかったとか。
比較するのもなんだけど・・・。
今皇居として残されているお堀からは
500メートルくらい離れてると思いますが
ここが外側の塀だったとすると、本当に大きかったんだなぁと実感できます。
墓石もお地蔵さんも・・・
よっぽど切羽詰まってたんですね、気の毒。
でも何年経とうが悪事は露見するわけだ。
天災のことを英語でact of godといいますが
まさに神のなせる技、で悪事もバレバレ、ってことか。
永田町と霞ヶ関にもそ〜ゆ〜のおこらないかなぁ〜