あけましておめでとうございます。
ブログをお読みくださいましてありがとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
短歌を始めてもうじき11年になります。
ひと区切りをつける意味で、2013年10月に上梓しました第一歌集『ふたりご』の一部を、
書き記しておこうと思います。
2004年から2013年までの歌を、ほぼ作歌順に収めています。
2007年~2013年までに「題詠blog」に投稿した歌は、かなりの数になります。
それらを普通の章立てに入れられるものは入れて、入らなかったものは
「題詠blog2007~2013」に収めました。
お読みくだされば幸いです。
地球を感じよ
空砲の鳴る畑道(はたみち)をゆく朝(あした)やらねばならぬこと何もなし
つややかな辛夷(こぶし)のつぼみに触れたれば仔犬のような温もりのあり
抱擁のごとく芒(すすき)に巻きついて荒れ地に葛のつるの幼き
ゆるき風わが身に受けては押しかえし太極拳を庭に舞いおり
山おおい送電線をものぼりゆく葛という字を子は嫁(か)してもつ
超音波画像に胎児と会える子の涙は枕につつっと落ちぬ
赤黒き顔ぬめぬめとひかりいる羊水を出(い)で二時間経(た)つも
たんぽぽの綿毛のような髪を撫でひしと抱(いだ)けば乳の匂いす
みどりごの重みの腕に残りいき ぬるき風ふく地下鉄ホームに
〈すしのこ〉の匂いがすると女子(おみなご)の髪をむすめは拭きてまたかぐ
意志をもち歩き初(そ)めたる孫ちひろ地球を感じよその足裏(あなうら)に
新毛斯
一瞬に真鯉あらわれ泳ぎくる鈍色(にびいろ)のさざなみ押し分けながら
強風に羽ばたきいたる雲雀(ひばり)の子たちまち凧(たこ)のごとく落下す
風にゆれ凌霄花(のうぜんかずら)ひとつ落つ母に背(そむ)きし夏の思わる
リウマチの指に包丁重ければ果物ナイフに菜(な)を切る母は
木棚より新毛斯(しんモス)ひと巻き引き出(い)だし母は裁(た)ちにき曲れる指に
新毛斯=綿織物。
割烹着(かっぽうぎ)のポケットにいつも入ってた母が拾いし輪ゴムが二、三
茄子(なす)の実の地につくままに朽ちてゆく ひとつの町に母は生きたり
生前に母はノートに記(しる)しいき「香典返しは敷布(しきふ)にすること」
火屋(ひや)の母 灰となりたるその中に人工関節あかく光れり
火屋=火葬場。
母の頭(ず)のまろきかたちを覚えおり髪洗いいし右の手のひら
ひゅるひゅると気管支の鳴る秋の夜は母の胸にて泣きたきものを
煮こぼれし醤油のにおい立ちこめて誰かの子供でいたき夜なり
シュプレヒコール
三十年返しそびれしままの本『ゴドーを待ちながら』われの書棚に
『ゴドーを待ちながら』=ベケットの戯曲。
サナトリウムに憧れていし若き日の一時期 喘鳴(ぜんめい)という言葉を知らず
曼珠沙華(まんじゅしゃげ)のまっ赤な花が咲いていた おもいで少なきはたちの恋は
愛しさの風化するまであとすこしメタセコイアの針の葉を踏む
西日受けバターの溶けるアパートが初めてわれの砦となりき
冬空に拳(こぶし)をかざす花梨(かりん)の実シュプレヒコールも遥けくなりぬ
メルシーのラーメンいまも健在と婿は言いたりGABANが置かれ
ギャバンの缶コショウ。
ラーメンの汁飲み干して汗ぬぐうこの煮干し味三十年ぶり
子と過ごす夏
人間を南瓜(かぼちゃ)のように積むHONDAラッシュ・アワーのタイのハイウェー
散歩することはないのか バンコクの路傍にねむる痩せた犬・犬
巨大なる足裏みせる涅槃仏(ねはんぶつ)タイの暑さはかなわぬ、かなわぬ
全裸にて少年ひとり飛び込みぬ夕陽かがやくチャオ・プラヤ川に
ピシピキと薪の火はぜて煙立つ いつかは終わる子と過ごす夏
朝の蓮池
音階の狂ったオルガンめく音にウシガエル鳴く朝の蓮池
朝の陽(ひ)に睡蓮の葉の揺らぎいて鯉のうろこのひかり浮かび来(く)
睡蓮の葉をくわえたる鯉は今ヘディングするがに縁(へり)をちぎりぬ
雨の日のわが間脳はゆるびいてとろとろとろとろ魚のねむり
次女の引っ越し
玄関にピンクのサンダル置きしより娘のいるごと華やぎ初(そ)むる
ひとさし指くちにふくみて眠る児(こ)とエレベーターに乗り合わせたり
むらきもの心の置き処(ど)のなき昼はひとり茶漬けに山葵(わさび)を入れる
むらきもの=「こころ」にかかる枕詞(まくらことば)。
みどりごのよだれのような粘液にまみれたる手にアロエベラ剥(む)く
いちだんと重くなりたる孫を抱く夢のなかでも成長しており
ブログをお読みくださいましてありがとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
短歌を始めてもうじき11年になります。
ひと区切りをつける意味で、2013年10月に上梓しました第一歌集『ふたりご』の一部を、
書き記しておこうと思います。
2004年から2013年までの歌を、ほぼ作歌順に収めています。
2007年~2013年までに「題詠blog」に投稿した歌は、かなりの数になります。
それらを普通の章立てに入れられるものは入れて、入らなかったものは
「題詠blog2007~2013」に収めました。
お読みくだされば幸いです。
地球を感じよ
空砲の鳴る畑道(はたみち)をゆく朝(あした)やらねばならぬこと何もなし
つややかな辛夷(こぶし)のつぼみに触れたれば仔犬のような温もりのあり
抱擁のごとく芒(すすき)に巻きついて荒れ地に葛のつるの幼き
ゆるき風わが身に受けては押しかえし太極拳を庭に舞いおり
山おおい送電線をものぼりゆく葛という字を子は嫁(か)してもつ
超音波画像に胎児と会える子の涙は枕につつっと落ちぬ
赤黒き顔ぬめぬめとひかりいる羊水を出(い)で二時間経(た)つも
たんぽぽの綿毛のような髪を撫でひしと抱(いだ)けば乳の匂いす
みどりごの重みの腕に残りいき ぬるき風ふく地下鉄ホームに
〈すしのこ〉の匂いがすると女子(おみなご)の髪をむすめは拭きてまたかぐ
意志をもち歩き初(そ)めたる孫ちひろ地球を感じよその足裏(あなうら)に
新毛斯
一瞬に真鯉あらわれ泳ぎくる鈍色(にびいろ)のさざなみ押し分けながら
強風に羽ばたきいたる雲雀(ひばり)の子たちまち凧(たこ)のごとく落下す
風にゆれ凌霄花(のうぜんかずら)ひとつ落つ母に背(そむ)きし夏の思わる
リウマチの指に包丁重ければ果物ナイフに菜(な)を切る母は
木棚より新毛斯(しんモス)ひと巻き引き出(い)だし母は裁(た)ちにき曲れる指に
新毛斯=綿織物。
割烹着(かっぽうぎ)のポケットにいつも入ってた母が拾いし輪ゴムが二、三
茄子(なす)の実の地につくままに朽ちてゆく ひとつの町に母は生きたり
生前に母はノートに記(しる)しいき「香典返しは敷布(しきふ)にすること」
火屋(ひや)の母 灰となりたるその中に人工関節あかく光れり
火屋=火葬場。
母の頭(ず)のまろきかたちを覚えおり髪洗いいし右の手のひら
ひゅるひゅると気管支の鳴る秋の夜は母の胸にて泣きたきものを
煮こぼれし醤油のにおい立ちこめて誰かの子供でいたき夜なり
シュプレヒコール
三十年返しそびれしままの本『ゴドーを待ちながら』われの書棚に
『ゴドーを待ちながら』=ベケットの戯曲。
サナトリウムに憧れていし若き日の一時期 喘鳴(ぜんめい)という言葉を知らず
曼珠沙華(まんじゅしゃげ)のまっ赤な花が咲いていた おもいで少なきはたちの恋は
愛しさの風化するまであとすこしメタセコイアの針の葉を踏む
西日受けバターの溶けるアパートが初めてわれの砦となりき
冬空に拳(こぶし)をかざす花梨(かりん)の実シュプレヒコールも遥けくなりぬ
メルシーのラーメンいまも健在と婿は言いたりGABANが置かれ
ギャバンの缶コショウ。
ラーメンの汁飲み干して汗ぬぐうこの煮干し味三十年ぶり
子と過ごす夏
人間を南瓜(かぼちゃ)のように積むHONDAラッシュ・アワーのタイのハイウェー
散歩することはないのか バンコクの路傍にねむる痩せた犬・犬
巨大なる足裏みせる涅槃仏(ねはんぶつ)タイの暑さはかなわぬ、かなわぬ
全裸にて少年ひとり飛び込みぬ夕陽かがやくチャオ・プラヤ川に
ピシピキと薪の火はぜて煙立つ いつかは終わる子と過ごす夏
朝の蓮池
音階の狂ったオルガンめく音にウシガエル鳴く朝の蓮池
朝の陽(ひ)に睡蓮の葉の揺らぎいて鯉のうろこのひかり浮かび来(く)
睡蓮の葉をくわえたる鯉は今ヘディングするがに縁(へり)をちぎりぬ
雨の日のわが間脳はゆるびいてとろとろとろとろ魚のねむり
次女の引っ越し
玄関にピンクのサンダル置きしより娘のいるごと華やぎ初(そ)むる
ひとさし指くちにふくみて眠る児(こ)とエレベーターに乗り合わせたり
むらきもの心の置き処(ど)のなき昼はひとり茶漬けに山葵(わさび)を入れる
むらきもの=「こころ」にかかる枕詞(まくらことば)。
みどりごのよだれのような粘液にまみれたる手にアロエベラ剥(む)く
いちだんと重くなりたる孫を抱く夢のなかでも成長しており