今週金曜日の新幹線に飛び乗って長崎に帰ることになりました。いつも帰省のたびに確実に太ってしまう気がしてこれまた憂鬱です。
なんか、こういうときだけ郷土愛ぶるのもちょっとどうか、ですが、清峰、勝ってしまいました愛工大名電に。個人的には、常総学院に小浜高校が19-1で打ちのめされたくらい負けなければ上出来かなとは思っていましたがまさかまさか。甲子園常連の長崎日大に10-0で5回コールドで勝っただけのことはあった、ということでしょうか。
正直、長崎の県北と県南って相当文化圏が違っててあんまり愛着がなかったのですが、がぜん、モチベーションアップ。えーと、次あたるのは、、、
済美 ですか、、、。ちなみに、なんかの間違いでまた勝つようなことがあれば、その次当るのは大阪桐蔭。
早めに観戦行ったほうがよさそうですねこれは。
そして、今日は原爆の日でもあります。だからこそ、郷土愛が強くかみ締められる日となります。当然のことながら、それ関係については幼少のころより徹底教育です。夏休みの登校日は必ず8月9日で、原爆フィルムを見た後、11時2分にサイレンがなって黙祷、です。大阪では当然サイレンなぞ鳴りませんが、心の中で鳴らしておかねばなりません。この時間今日の私は、取引先の人と言った言わないの喧嘩してて、思い返すとかなり何やってんだかモード炸裂となってしまいましたが。
ここから、少し政治的な話になりますがなにとぞ4649。たぶんこのブログでこういう話するの初めてなんでかるくきんちょうします。コメントしづらいのは承知で書きます。
さっき帰ってきたので、映像での今日の長崎の様子はうかがい知れませんが、新聞を見た限りでは、「非核三原則の堅持」とか、「核保有国へ強い憤り」という文字が躍っていました。いつもの通り式典が行なわれ、いつもの通り淡々と毎年同じことが繰り返されます。
被爆地教育を受けた私らとかは、こういう原爆の恐ろしさをこの時節にのっとって、可能な限り色んな方法で伝えていくのがある意味義務ではないかというコンセンサスがけっこうあったりするんですよ。私もすこしはなれた身内で被爆者とかもいますし。
でも、敢えてNOといいたいのです。いや、言わせてください。
核廃絶とか、非核三原則とか、崇高に理想を語ることは大事だと思います。でも、何より大事なのは「核を使わない」ことであり「核を使わせない」ことだと強く私は思います。日ごろの教育に加え、原爆資料館とか何度も行って惨状を見聞きしているレベルではありますが、それは非常に大事だと思います。
ただ、被爆経験をもとに、毎年毎年持つな持ち込むなと宣言したりアピールをしてみて、一体どれくらいの効果があるのでしょう。その行為自体は非常に行なう価値はあると思いますが、私にはその効果はわかりません。佐世保の米軍基地に原子力潜水艦が来るたびに抗議デモしたり、世界の何処かで核実験するたびに広島長崎の市長が連名で抗議文書送ったりとかがローカルニュースで流れています。それがきちんと相手に伝わっているのか、ほんとにわかっているんだったら、こういうことは繰り返されないのではないか、といつぞやから思うようになって来ました。
題材が題材だけに、デリケートな表現が多く回りくどくなってすいません。
要は、日本が核武装してもいいのでは、ということです。もちろん世界唯一の被爆国というアピールをしてきたことからの変換が土台無理なのはわかっていますし、このイデオロギーが冷戦チックで時代錯誤なのもわかっています。でも、持つものを持っていたら、報復を恐れられて少なくとも核兵器を使われることはない、と私は考えていますし、世界がそういう考えだったことも実際あったんですね。
繰り返しますが、方法論はどうであれ、使わなければいいのです。核兵器を。使った使われた、そのときのインパクトの大きさを散々教育されたゆえでの私の結論です。
じゃあその核兵器を、話し合いで放棄しましょうというのか、持つものを持っててにらみ合って使えない状態になるのか、ということです。
左に傾いている方々は、当然前者で解決を図るはずですし、長崎の方面での総意は間違いなくそうです。
でも、そんなに他人を信用できるのでしょうか。
北朝鮮は言わずもがなですよね。最近右傾化著しい中国へ、「日本は核兵器放棄しますので一緒にどうぞ」と言って、辺境の自治区あたりでやっている核実験をやめるでしょうか?地道に話し合いをして解決を、ってどこの責任ある誰が話し合いを地道にするのでしょうか?そんなこんなで、「日本語が通じない」周辺諸国にいつまでもさきの戦争で迷惑をかけて謝罪がああだこうだ、、、、、。
もうね、うんざりなんですよ。そういう責任の所在のない性善説。
被爆国というよりも、被爆地に育った人間として、現実的に「核兵器を使わない使わせない」ことが何よりも大事に思います。だからこそ、手段としては決してよくはありませんが、結果として、これ以上のヒロシマナガサキがないのであれば、それより望むことはありません。
この10年くらいずっとこのように思っていましたが、自己表現の場をブログという形で偶然にして持てたので、生真面目に記事を書かせていただきました。
賛否のうち否が多いのは当然わかっています。
もし、ここまで読んでいただいたのであれば、賛であれ否であれ、謝意をもって終わりとしたく思います。ありがとうございました。
なんか、こういうときだけ郷土愛ぶるのもちょっとどうか、ですが、清峰、勝ってしまいました愛工大名電に。個人的には、常総学院に小浜高校が19-1で打ちのめされたくらい負けなければ上出来かなとは思っていましたがまさかまさか。甲子園常連の長崎日大に10-0で5回コールドで勝っただけのことはあった、ということでしょうか。
正直、長崎の県北と県南って相当文化圏が違っててあんまり愛着がなかったのですが、がぜん、モチベーションアップ。えーと、次あたるのは、、、
済美 ですか、、、。ちなみに、なんかの間違いでまた勝つようなことがあれば、その次当るのは大阪桐蔭。
早めに観戦行ったほうがよさそうですねこれは。
そして、今日は原爆の日でもあります。だからこそ、郷土愛が強くかみ締められる日となります。当然のことながら、それ関係については幼少のころより徹底教育です。夏休みの登校日は必ず8月9日で、原爆フィルムを見た後、11時2分にサイレンがなって黙祷、です。大阪では当然サイレンなぞ鳴りませんが、心の中で鳴らしておかねばなりません。この時間今日の私は、取引先の人と言った言わないの喧嘩してて、思い返すとかなり何やってんだかモード炸裂となってしまいましたが。
ここから、少し政治的な話になりますがなにとぞ4649。たぶんこのブログでこういう話するの初めてなんでかるくきんちょうします。コメントしづらいのは承知で書きます。
さっき帰ってきたので、映像での今日の長崎の様子はうかがい知れませんが、新聞を見た限りでは、「非核三原則の堅持」とか、「核保有国へ強い憤り」という文字が躍っていました。いつもの通り式典が行なわれ、いつもの通り淡々と毎年同じことが繰り返されます。
被爆地教育を受けた私らとかは、こういう原爆の恐ろしさをこの時節にのっとって、可能な限り色んな方法で伝えていくのがある意味義務ではないかというコンセンサスがけっこうあったりするんですよ。私もすこしはなれた身内で被爆者とかもいますし。
でも、敢えてNOといいたいのです。いや、言わせてください。
核廃絶とか、非核三原則とか、崇高に理想を語ることは大事だと思います。でも、何より大事なのは「核を使わない」ことであり「核を使わせない」ことだと強く私は思います。日ごろの教育に加え、原爆資料館とか何度も行って惨状を見聞きしているレベルではありますが、それは非常に大事だと思います。
ただ、被爆経験をもとに、毎年毎年持つな持ち込むなと宣言したりアピールをしてみて、一体どれくらいの効果があるのでしょう。その行為自体は非常に行なう価値はあると思いますが、私にはその効果はわかりません。佐世保の米軍基地に原子力潜水艦が来るたびに抗議デモしたり、世界の何処かで核実験するたびに広島長崎の市長が連名で抗議文書送ったりとかがローカルニュースで流れています。それがきちんと相手に伝わっているのか、ほんとにわかっているんだったら、こういうことは繰り返されないのではないか、といつぞやから思うようになって来ました。
題材が題材だけに、デリケートな表現が多く回りくどくなってすいません。
要は、日本が核武装してもいいのでは、ということです。もちろん世界唯一の被爆国というアピールをしてきたことからの変換が土台無理なのはわかっていますし、このイデオロギーが冷戦チックで時代錯誤なのもわかっています。でも、持つものを持っていたら、報復を恐れられて少なくとも核兵器を使われることはない、と私は考えていますし、世界がそういう考えだったことも実際あったんですね。
繰り返しますが、方法論はどうであれ、使わなければいいのです。核兵器を。使った使われた、そのときのインパクトの大きさを散々教育されたゆえでの私の結論です。
じゃあその核兵器を、話し合いで放棄しましょうというのか、持つものを持っててにらみ合って使えない状態になるのか、ということです。
左に傾いている方々は、当然前者で解決を図るはずですし、長崎の方面での総意は間違いなくそうです。
でも、そんなに他人を信用できるのでしょうか。
北朝鮮は言わずもがなですよね。最近右傾化著しい中国へ、「日本は核兵器放棄しますので一緒にどうぞ」と言って、辺境の自治区あたりでやっている核実験をやめるでしょうか?地道に話し合いをして解決を、ってどこの責任ある誰が話し合いを地道にするのでしょうか?そんなこんなで、「日本語が通じない」周辺諸国にいつまでもさきの戦争で迷惑をかけて謝罪がああだこうだ、、、、、。
もうね、うんざりなんですよ。そういう責任の所在のない性善説。
被爆国というよりも、被爆地に育った人間として、現実的に「核兵器を使わない使わせない」ことが何よりも大事に思います。だからこそ、手段としては決してよくはありませんが、結果として、これ以上のヒロシマナガサキがないのであれば、それより望むことはありません。
この10年くらいずっとこのように思っていましたが、自己表現の場をブログという形で偶然にして持てたので、生真面目に記事を書かせていただきました。
賛否のうち否が多いのは当然わかっています。
もし、ここまで読んでいただいたのであれば、賛であれ否であれ、謝意をもって終わりとしたく思います。ありがとうございました。