5月3日(火)曇り。この日は私の姪っ子と甥っ子を含むS家ファミリー6名と私と旦那さんの総勢8名で彼杵宿から松原宿まで歩きました。彼杵まではJRを使って彼杵駅で下車し、街道歩きスタート!
まず最初に立ち寄ったのは、こちらの鯨屋さん。和歌山で捕鯨の技術を学んだ深沢義太夫(1584~1663)が五島の有川など各地で鯨を捕り、彼杵港に運び入れ、ここから各地に搬出したそうで、彼杵は今でも鯨と深い関わりのあるところなのです。ちなみに深沢義太夫という人は、鯨の販売で巨額の財をなしたにも関わらず、本人は贅沢をせず、大村藩の社会事業や農民援助などを行い、その私財を投じて灌漑用のため池として野岳湖を作ったのを最後に亡くなったのだとか。世の中には偉い人がいるものですね
次に訪れたのは彼杵宿本陣跡に鎮座する彼杵神社。ここは1633年に幕府の役人や大名が宿泊するための施設である本陣が建てられた場所で、現在の神社は1880年に遷宮されたようです。
一の鳥居をくぐると、その先には石畳の参道が続いていました。
本道の前には立派な獅子狛犬が阿吽の呼吸で参拝者を見守っています。
お賽銭を入れて、二礼、二拍手。
『どうか家族みんなが毎日笑顔で過ごせますように』
そして最後に一礼。
私のお願い、神様に届いたかな~?
次に立ち寄ったのは脇本陣跡。当時商業をしていた森家の一部を本陣の補助的な宿泊施設として使っていたそうですが、1752年に改築し、脇本陣として指定され、上級武士の宿泊所として利用されていたのだとか。紫陽花の葉っぱの中にその名残のようなものを発見しましたが、建物は残っていません。
おっ!こんなところに「行こか戻ろか思案橋」の名前が 長崎の思案橋といえば、言わずと知れた飲屋街。川向こうの花街丸山へ行こうか戻ろうかと思案したことがその名の由来です。もしかしたらまだ彼杵宿が宿場町として栄えていた頃、この辺りにも丸山のような遊郭があったのかな?それとも小倉から街道を辿ってきた旅人が、このまま歩いて行くか、船で長崎に入るか思案したのでしょうか?
海岸沿いの道を辿っていくと、八坂神社に到着しました。元禄船着場跡と言われる歴史ある港の側に建てられています。航海の安全を祈願して建立されたのでしょうか。
本堂は現在修復中のようで、その姿を見ることはできませんでした。残念!
5歳の甥っ子kyouは大きな松ぼっくりを両手にご満悦 よかったね
ピンク色の花を咲かせる多肉植物を発見マツバギクのようだけど、ちょっと違うような…。姪っ子mizukiが葉っぱを一枚いただいてペロリと舐めるとしょっぱい味がするというので、私も試しに舐めてみると本当にしょっぱい味がしました。おそらく海水を吸収して成長しているのでしょうね。おもしろい発見でした
八坂神社から少し歩いたところに、二十六聖人乗船場跡があります。豊臣秀吉の時代であった1597年1月9日、罪人として境を発った24人のキリスト教信者は、見せしめのため極寒の中850kmの道のりを歩かされ、1月31日に博多に到着。翌日さらに二人の信者が捕えられ、2月4日にこの港から処刑場のある長崎の西坂に向けて船に乗せられたのだとか。翌2月5日には26人全員が処刑され、キリスト教信者であるという理由で処刑された日本最初の殉教者となりました。
ちなみにこちらが長崎市内にある現在の西坂公園。キリスト教信者の悲しい歴史を伝えるため、当時処刑された26人の信者たちは現在は二十六聖人として奉られています。
再び彼杵に戻りまして、 こちらは二十六聖人乗船場跡からほど近い場所にある本町万部塔。その周りには藤棚があり、椅子が設けられているので、ちょうど良い休憩スポットとなっています。
石碑には『南無妙法蓮華経』と刻まれています。大村藩では江戸時代の初期、キリスト教の追放が強化された際、キリスト教から日蓮宗に改宗させたことから、このような塔が数多く建てられたのだとか。自分の思想さえ自由に語ることのできなかった時代だったんですね。人が大きな権力を持つとろくなことがありません。本当に。
『長崎街道歩きその2』はまだまだ続きます
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