驚いたことに先日哀愁波止場のカラオケで
哀愁出船を唄っていた
夜だったので
何かヘンとは思っていたが無理舎利伴奏に合わせていた。
次の日やはりヘン・・・と録音を聴いた
イントロ一発で哀愁波止場のカラオケだと気が付く
起きてきたと爆笑・・・
目ン無い千鳥のカラオケで哀愁出船を唄ったんで無いから
まだいいんじゃないの・・・クッククク
同じ哀愁だから似ているんだょー
私って音痴かも・・・シュン
天才かもよ・・・ケッケケケ
夜は魔物だ・・・
驚いたことに先日哀愁波止場のカラオケで
哀愁出船を唄っていた
夜だったので
何かヘンとは思っていたが無理舎利伴奏に合わせていた。
次の日やはりヘン・・・と録音を聴いた
イントロ一発で哀愁波止場のカラオケだと気が付く
起きてきたと爆笑・・・
目ン無い千鳥のカラオケで哀愁出船を唄ったんで無いから
まだいいんじゃないの・・・クッククク
同じ哀愁だから似ているんだょー
私って音痴かも・・・シュン
天才かもよ・・・ケッケケケ
夜は魔物だ・・・
北の家族の後は
スナック酔処へ・・・
ここも一年振り
ナナント
私は95点を出した。
三曲全て90以上
も90以上だが最高点は93点
娘は最高88点・・・一年振りだからね。
それにしても採点が甘いのでは?
と言うと
ママは糖尿なのよ・・・と頭を指した。
心配していたの体調も良く久しぶりの
息抜きになったかしら・・・?
朝は野菜ジュースと茶碗蒸しの軽い朝食
そして二紙の新聞を読む
その時に必ずBGMを
入れる。
ジャズだったり抒情歌 演歌 クラシック
その時の気分による・・・。
今日は演歌だった。
珍しく影を慕いて・・・はっとした
やっぱり名曲はいいもんです。
この歌には思い出がある
若かりし頃
K中学校の開校100周年記念のアトラクションの出し物で
職員のバンドに合わせてこの歌を唄った。
音域が広かったがその頃は楽に声が出た。
が
伊達に移住して演芸カラオケクラブに入部して施設訪問でこの歌を
唄おうとしたが高音部が汚い・・・でも今年は挑戦しょうと楽譜と
CDを探した。
そんなこんなで
今日も今日とて
午前中はつぶれてしまった。
二木紘三氏の「二木紘三のうた物語」より拝借させていただきました。
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 まぼろしの 影を慕いて雨に日に 2 わびしさよ せめて傷心(いたみ)のなぐさめに 3 君故に 永き人生(ひとよ)を霜枯れて |
《蛇足》 昭和初期の深刻な不況のなか、将来への不安や苦学の疲れなど困難な状況にあった明治大学生・古賀政男は、手痛い失恋を被ってしまいます。
昭和3年(1928)年夏、友人と宮城県の青根温泉を訪れた政男は、絶望のうちに自殺しようとその地の山中をさまよいましたが、彼を捜し求める友人の呼び声で我に返り、自殺を思いとどまります。
その夜、友人とともに泥酔するまで飲んだ政男は、音楽一筋で生きてゆく決心を固めました。帰京後は、その創設に参画した明大マンドリン倶楽部の定期演奏会を通じて、音楽活動を続けて行くことになります。
昭和3年(1928)11月25日に催された明大マンドリン倶楽部の第13回定期演奏会では、プロ歌手の佐藤千夜子が出演して、『波浮の港』など4曲を歌いました。
佐藤千夜子は、当時すでにスター歌手であり、学生のコンサートに出演するとは考えられませんでしたが、政男の熱意に打たれて、出演を承知したのです。
彼女は、翌年6月の第14回定期演奏会にも出演し、『野薔薇』など4曲を歌いました。
このとき、古賀政男作曲の『影を慕いて』が、ギターの合奏で演奏されました。それを聴いて、政男の作曲の才能を見抜いた佐藤千夜子は、それを歌謡曲にすることを勧めました。
歌謡曲となれば、歌詞を作らなければなりませんし、歌詞が生きるようにメロディを編曲することも必要になります。なかなか思うような作品に仕上がらず、彼は悩みました。
そんな折、スペインの世界的ギター奏者アンドレアス・セゴビアが来日、政男は同年10月26日の演奏会を聴きに行きました。自伝によると、セゴビアの名演に酔いしれ、「その興奮が収まらないうちに、私は一気に『影を慕いて』の詞と曲を作り上げた」とあります。
歌詞は、失恋して自殺しようと青根温泉の山中をさまよったときの心情がモチーフになったようです。
できあがった曲は、昭和5年(1930)10月20日、佐藤千夜子の唄で録音され、日本ビクターから発売されました。ところが、このレコードは期待されたほど売れず、評判にもなりませんでした。B面だったことも影響していたかもしれません。
古賀政男は気落ちしましたが、この曲を聴いた日本コロムビアの営業マンが彼の才能に気づき、専属作曲家として引き抜きました。
そして、『影を慕いて』を、当時まだ東京音楽学校(現東京芸大音楽学部)の学生だった藤山一郎に歌わせました。昭和7年(1932)3月にレコードが発売されると、空前の大ヒットとなり、以後、古賀政男は順調に花形作曲家の道を歩むことになります。
(二木紘三)
暮れになりなんと私とTが体調を崩した。
は異常なし・・・良かった。
午前ウロコに行き
煮しめとうま煮を作り
そのまま夕方まで寝ていた。
最近風の盆歌を練習している。
ネットより
作詞:なかにし礼、作曲:三木たかし、唄:石川さゆり
1 蚊帳(かや)の中から花を見る 2 私あなたの腕の中 3 生きて添えない二人なら |
《蛇足》 富山県のひなびた町・八尾(やつお)の伝統行事「おわら風の盆」を背景とした歌。八尾は、ついこの間まで婦負(ねい)郡内の1つの町でしたが、平成の大合併により富山市に組み込まれました。
「おわら風の盆」は毎年9月1日から3日間、越中おわら節の哀調を帯びた旋律に合わせて、坂の多い町中を町衆が無言のまま踊り続けるという独特の祭りです。
郷土史書『越中婦負郡志(えっちゅうねいぐんし)』によると、町外に流出していた殿様のお墨付文書を町衆が取り戻したことを喜び、3日3晩踊り明かしたできごとに由来するそうです。
その後、二百十日の風害をやわらげる行事となり、今日まで続いています。
昭和30年代ぐらいまでは、ほとんど近隣の人たちしか知らないローカルな祭りで、見物人も大して多くなかったといいます。
その頃までは、深夜家の中にいると、闇の中から胡弓・三味線・太鼓の音が次第に近づいてきて、人びとの踊る足音とともに家の前を通り過ぎ、次第に遠ざかってゆくという、幽艶な情趣に満ちた行事だったといいます。
「おわら風の盆」が全国に知られるようになった最大のきっかけは、高橋治の小説『風の盆恋歌』(昭和60年〈1985年〉刊)のようです。
若い頃、たがいに心を通わせながら結ばれることなく別れた男女が、20数年を経て再会し、愛をはぐくむという物語。それぞれに家庭をもつ2人は、毎年「風の盆」の3日間だけ、密かに八尾で過ごします。
不倫には違いありませんが、それだけでは片づけられない哀切な恋愛小説です。
小説はベストセラーになり、テレビドラマ・演劇化され、さらに平成元年(1989)に石川さゆりの同タイトルの歌が発表されると、「風の盆」は一躍ブームとなります。
八尾は人口2万人ほどの町ですが、おわら風の盆が行われてきた地域は住民数千人ほど。そこに3日間で30万人前後の観光客が訪れるようになりました。
祭りは盛り上がり、観光業者は潤うようになりましたが、かつての素朴で静寂な雰囲気は失われてしまったと嘆く人もいます。
(二木紘三)
先月のカラオケ店で
お客さんが古い曲を唄っておられ
美智子さんがとっても気に入り
その曲をネットで購入してと頼まれた。
早速検索したが古すぎて販売していなかったが
唯一ヤフオクでゲットすることができた。
どんな曲かなと動画を開いたが
本人さん歌はなく
いやに
大田ブルースなるものが出てくる
どんな歌なのかと開いた
イントロで鷲掴みされた。
それから大田ブルースのネット難民
これもまた
やっとこヤフオクでゲット
が
伴奏なし楽譜なし
またまた
ヤフオクでカラオケをゲット
楽譜がないのでこれまたネットで購入。
カラオケはテープだったのでCDにダビング
やっと今日カラオケに合わせてレッスン
録音もしてみた
まぁまぁかも・・・。