ロックガーデン風庭を我家の庭の一画に伊達に来てすぐに造りました。三年目のガーデンです。2008年度の春。 同じ年の花壇のクロッカスや水仙、福寿草達です。?家の前の鉢さん達です。 多肉さん達? 鹿児島知覧の武家屋敷の庭?家の向かいの空き地にあつた木々が眺めが良く、ヒヨドリも春に巣を作り、楽しませてくれたが、今は整地されて何もなく寂しい。
今までの成果 伊達西浜にて、H17年5月以降
初めて西浜で釣りをした年(17年)昭南さんは、鮭がかかったのに逃げられてしまった。その後、鮭は一度もかかりません。私はあなごを二匹釣りました。
上の写真三枚は平成19年、町内会での地引網大会に参加した時の嬉しそうな昭南さんです。
1月、26日
伊達浜の釣果はカレイ、アイナメ、ウグイ、アナゴ、その上カニまでと盛りだくさん、これだけ釣れても浜はプライベートビーチです。毎回ゆったり気分で時には、ジンギスカンも楽しんでますよ。イワシやサッパにばかり入れ込まないで、たまにはこちらに遠征しませんか。川越のおじんへ・・・・と昭南さんは言っております。
初めて西浜で釣りをした年(17年)昭南さんは、鮭がかかったのに逃げられてしまった。その後、鮭は一度もかかりません。私はあなごを二匹釣りました。
上の写真三枚は平成19年、町内会での地引網大会に参加した時の嬉しそうな昭南さんです。
1月、26日
伊達浜の釣果はカレイ、アイナメ、ウグイ、アナゴ、その上カニまでと盛りだくさん、これだけ釣れても浜はプライベートビーチです。毎回ゆったり気分で時には、ジンギスカンも楽しんでますよ。イワシやサッパにばかり入れ込まないで、たまにはこちらに遠征しませんか。川越のおじんへ・・・・と昭南さんは言っております。
エッセイ
三,シロよお前は何処に
シロはどこに居るのだろう。今でも帰る家を探してどこかの街をさ迷っているのだろうか。
あれからもう35年も経っている。
彼女はもうこの世には居ないだろう。
それなのに、いまだに彼女のことをそんなふうに思い出してしまう。
シロはまだ眼も開かない時に、私の手の平に載って事務所にやって来た。東京は池袋の、入り口から見れば、手の届きそうな所にパルコと西部百貨店が並んでいるのが見える。そんな昔旅館を営んでいた木造モルタル2階建を改築した建物に、私は事務所を開いていた。鰻の寝床のように長い建物は、正面は三越百貨店まで百メートルほどの通りに面していて、裏口は池袋区役所までこれも百メートル足らずの裏通りに面していた。
この裏通り側の二階の一室が私の事務所で、窓からは区役所の他にも池袋東口繁華街の看板や沢山のネオン、映画館などがこれもまた手を伸ばせば届きそうな距離に見えた。裏口の左隣には、建物に囲まれた駐車場があり、5、6台しか駐車できないその場所は事務所の窓の斜め下にあった。
私は2年前から専門分野の新聞を出したり、本を出版する仕事をしていた。
ようやく陽射しが温かくなった頃、開け放した窓から、うるさく子猫の鳴く声が入って来た。
「棄て猫だな。親を呼んでいる」一緒に仕事をしている魚の専門家だが、動物にも詳しい友人が、窓から身を乗り出して声のする駐車場を窺った。私は気にも留めずに仕事を続けた。子猫は鳴き続けていて、その声がやがて神経に刺さり出した。
昼食時になったので彼と表通りの向かいにある麦トロ屋に入り、その帰りに裏口の駐車場に廻った。子猫はまだ鳴いていた。その声は激しさを増しているように思えた。まるで死ぬまで鳴くのだといった必死の叫びだった。
「まだ眼が開いていないかも知れないな」友人は車の下を一台、一台覗いて歩き、すぐに声の主を見つけた。真っ白な子猫が一匹車の下で四つん這いに踏ん張って鳴いていた。
私は思わず声をかけた。「まずいんじゃない。取り付かれるよ」友人の言葉が終わるのも待たずに、子猫はヨタヨタと、それでも明らかに彼としては猛然たる勢いで寄って来た。
「ああ・・・あ」友人が困惑した嘆声を漏らした。私は思わず手を伸ばしてしまった。たちまち私の杞憂は的中してしまった。両手の平で、その真っ白い毛糸玉のような子猫を掬いあげてしまった瞬間、私は頭の隅の方で「まずい!」と思った。
子猫は鮮やかなマリンブルーの目をしていた。少し毛足の長い純白の貌の中で、その瞳が宝石のように光っていた。精一杯に開いた爪がチクチクと手の平を刺し、片手で首を持ち上げようとしたら、金輪際離すものかといった勢いで、一層爪を立てて来た。仕方なく手を地面に置いたが、それでも子猫は手から降りようとはしない。
「そう言うことになるから」友人が困ったもんだと言わんばかりに言った。
ついさっきまで考えもしなかったことを私は決断した。こいつを再び車の下に放り出して行くことは出来ないと思った。子猫は確かに可愛かったがしかし、その可愛さ故にもう手放したくないと思った訳ではない。かと言ってそのままにしておいて車に轢かれるのを案じた訳でもないし、これからのノラ猫人生に同情した訳でもない。
大体その時の私の日々は、初めて間もない仕事のことで頭が一杯でどんな理由であれ、捨て猫をかまっている余裕などなかったのだ。それなのに私は一度は地面に置いた手を再び持ち上げてしまった。子猫は鳴き続けていた。私は子猫を胸に抱いた。まるで南の海のように明るく青い二つの眼が私を見ていた。その時私はこの小さな生き物を置き去りには出来ないと思った。
「まだ眼が開いていないな」友人が直ぐに気付いて言った。その言葉を上の空で聞き流して、どこで飼うのか、どうやって飼うのか、何の心づもりもないままに、私は子猫を抱いて事務所にに戻った。
内心私は自分の行動に戸惑っていた。いったい何をやっているのか、自分で自分のことが良く分からない気分であった。こんな気持になることは滅多にない。元来私は物事を即決するタイプではない。何か行動を起こす場合は、時間をかけ、熟考するのが常である。まず立ち止る。それから事柄を出来るだけ客観的に観るように勤める。こんな風に言うといかにも沈着冷静に聞こえるが、実はそんなことはない。本当の処は子供の頃から短腹と言われていて、どちらかと言うと、すぐカッとなる直情径行型なのだ。それでさんざん失敗を重ねたので、何か行動を起こす時は必ず、その前に、「ちょっと待った。とり合えず今はちょっと待った」と自分に言い聞かせることにしているだけなのだ。おかげで衝動買いはしなくなった。何かをやった後で余り後悔はしなくなった。その代わり、年中胃痛に襲われるようになった。
時々、何か自分でも、どんどん面白味のない人間になって行くような気がしている。
しかし、それが大人になると言うものだろうと半ば諦めてもいる。今回も当然ながら、この「ちょっと待った」のシステムが、作動するはず、いやしなければならなかったはずなのに、何故か一向に指令は発せられなかった。
手の平の中に居る二つの青い目を見た途端に私の思考システムはいとも簡単に機能停止に陥ってしまったのだ。
こうして、シロは事務所猫になった。アパート暮らしの私がシロのために用意してやれる場所は、そこしかなかったのだ。
猫など一度も飼ったことがない私が、猫どころではない状態のただ中で、よりによってまだ眼も開かない子猫を拾ってくるとは、我ながら何を考えているのだと言いたくなる所業だった。
「白いからシロちゃん」オスだかメスだか分からないがシロなら将来問題になることもないと思って付けた。友人はあきれながらも、シロの世話をやいてくれた。哺乳瓶の使い方、排泄のさせ方等、教えられて、私はまるで何も知らなかったことに気付いた。生まれたばかりの子猫は、母猫の乳房を吸うことしか知らないのだ。その乳房が奪われたら子猫は死ぬしかない。その母猫の代役を私がやらねばならないことなど、考えてもいなかった。排泄のさせ方だって友人がやって見せて、初めて知った。ティシュペーパーで尻の辺りを定期的に優しくなでてやる。その刺激で子猫は大、小の排泄を促されて、やっと用を足すことが出来るのだ。
当然ながらそんなことはみな母猫がやつているのだが、私は何も知らなかった。友人が居なかったら、子猫は死に場所を駐車の車の下から、スチールの机の下に替えただけだったかも知れない。
私の仕事は日曜日も祭日もなく、しかも夜は8時前に終わるということはなかった。この点はシロにとっては幸いしたと言える。
せっせと哺乳瓶をグーチョキパーのパーの手で揉みながらミルクを吸い続けたおかげで、シロはたちまち目が見えるようになり、ヨタヨタの足も定まって、自分の腹をきちんと床から持ち上げて歩けるようになった。
この頃になるともうじっとはしていられない。まず最初に挑戦した冒険はズボンに両手の爪を立てて木登りよろしく脚をよじ登り、膝の上に第一段階のビバークを果すことであった。次にはもう少し脚腰に力が付くのを待ってから膝上のオーバーハングを攻略して、頂上の机上を目指した。私が机に向かって、今日一日の取材メモを広げて、原稿用紙と格闘している時、シロはシロで机の下で私の脚と格闘していた。
日も落ちて池袋の繁華街のまばゆい赤い灯青い灯を見ながら、呻吟していると、決まってシロも苦しい?アタック、アタックを繰り返し始める。シロの冒険メニューには、他に登山よりも、もう少し穏やかなコースがある。こちらはシロ一人の力では手に負えないので、彼はーとりあえずオスということにしておいてーチャンスを狙っている。そのチャンスは私が席に着き、机の引き出しの開け立てが始まるとやって来る。
彼は素早く駆けて来て、アッと言う間に引き出しの中に潜り込む。一番下の引き出しはA4のファイルを立て収納出来る高さがあるので、彼は遮二無二ファイルをかき分けてその間に入り込む。彼に入られた時は、引き出しを少し開けて置いてやると、飽きたら出て行くのだが、どうかすると彼の居ることを忘れて引き出しを閉じてしまうことがある。そんな時彼は少しも慌てず、その内に眠ってしまう。次にファイルを出そうとして手を入れて、柔らかな毛に触れて、思わず声を上げてしまうことがある。
猫の成長は早い。春の終りにやって来た彼は、秋にはもう一端の若猫の風貌に育つていた。もう手の平には載り切らないし、机の上に上がるのに、ズボンの脚をよじ登る必要もなくなっていた。
この頃には彼は彼女であることを明らかにしていた。同時に彼女がペルシャ猫と日本猫の交雑種であることもすっかりバレていた。ペルシャの血はその青い眼と日本猫よりも大柄な体躯、それに真っ白な毛に現れていた。ただし、毛足は長毛ではなく、普通の日本猫と変わらなかった。
事務所猫となったシロの一日は、朝誰かがドアを開けるのを待って始まる。廊下に足音が聞こえるのを、黒いビニールレザーのソファの上で、彼女はじっと耐えて待っている。と言うのは彼女は猫一般の習性に違わず、極めて綺麗好きである。故に昨日一日使った猫砂入りクツキーケースのトイレが何とも我慢がならないのだ。従って私の朝の第一の仕事は、このクッキーケースの中のゼオライトと底に敷いた新聞紙を新しいのに取り替え、古いのを日当たりの良い、窓の外に突き出た鉄格子の柵に干すことである。シロは待ち切れない様子で私につきまとい、新しいトイレが置かれるや否や、人目も憚らずに飛び込んで用を足す。大の場合は用が済むと直ちにポリ袋に回収するのだが、朝は大概小の方である。
用が済むとていねいに新らしいゼオライトをかき寄せ、きちんと証拠の隠蔽具合を確認し、それからやおら空の専用皿の前で朝食の態勢に入る。当然ながらトイレ作業の後の私の仕事は、その皿にネコ缶を空けて出すことである。シロ様御用達しが終わってようやく私は机に着き、仕事の開始となる。
お食事の後はお散歩メニューである。ていねいな顔洗いが済むと、彼女はドアの前にきちんと座り、首を後ろに向けて、人の顔を見上げる。見られた人はすみやかにドアを開ける。シロちゃんの軽やかなステップがたちまち長い廊下を遠ざかって行く。
ところで私は猫の貌には実に豊かな表情があるのを、この時初めて知った。それまでに猫の表情についての私の知識は喧嘩の時と日向ぼっこの時くらいのものだったが、その表情はそんなに貧しいものではなかったのだ。喜怒哀楽、実は猫といえどもそれ等の感情が動く時、表情もその心の動きを表しているのだ。同様にその言葉も決して貧しくはない。むしろ非常に豊かである。そんなことは猫を飼っている者なら誰でも知っていることなのだろうが、私は知らずに居た。知らないと言うよりは、判らなかったと言った方が良いだろう。
シロが特別にそうだということはないのだろうが、彼女はその表情も声も、私にとっては実にはっきりとしていて豊かだった。歩く足音さえも、彼女の感情を明確に伝えていた。例えば散歩に出かける時の足音と、帰って来た時のそれは、実に分かり易くはっきりとした違いを伝えていた。
猫が足音を立てるなんて、そんなことはないだろうと否定する人は多分猫を飼ったことがない人である。猫は獲物に忍び寄るために、足の裏は肉玉と呼ばれる、ふわふわした肉の座布団状になっている。これがあるから、彼等は足音をたてずに歩くことが出来るのだがだからといって、いつも忍び足で歩いている訳ではない。人と長い間共生して来た彼等は、実に多くの点で人間と似た行動をとる。歩き方もそんな行動の一つではないかと思うのだが、例えば我々人間は、恋人にふられたりして意気消沈した時は歩みは重く、時には引きずるように緩慢になり、ひどい時は崖の上やビルの屋上で一人ボンヤリと天を仰いだりもする。そのようなことなど全然しないで、やたらに飲んだり、食べたりする人も多いが、この際、話しは足音についてなので、強引に足音に戻す。
マイッタ時はおおむねそんな具合であるが、逆に恋が成就した時など、隠せども音に出にけり我が恋はとなって、足元は気がついたら、軽やかにスキップなどしている。何か一発事を成して勇んで凱旋する時など、男ならノッシノッシと大股に地面を踏みしめている。この場合女ならどうなるかは余り詮索しないことにして、ともかく人間はそんな具合であるが、猫の足もこれとまったく同じ表情を見せる。
この点も貌の表情と同じく、シロと同居して始めて知ったことなのだ。
彼女は朝散歩に出かける時は、忍び足とまではいかないがいかにも思慮深そうに、辺りに気をくばりながらゆっくりと進んで行く。長い廊下は途中折れ曲っているので、そこの角を曲るまで、私は良くその後姿を見送ったものである。
と言うのも彼女はまだ子供だったし、階段を下りて正面玄関を出ると、そこは池袋の繁華街のド真ん中なのである。人通りも交通量も半端ではない。その上隣り合うビルは、いずれも何かを商う店なので、大音量で様々の音を発している。一歩玄関を出たら世間知らずの子猫などたちまち、それら狂騒のるつぼに飲み込まれて、二度と帰ってこれなくなるのではないかという不安にかられてしまうのである。
幸いシロはこの点非常に用心深く慎重であった。彼女の初めての散歩は廊下の折れ曲った所までであり、そこまで行くとしばらくは前方と、今自分が出て来たドアを何度も見比べ、~この時大概私はドアから顔を出して様子を見ているのだが~やがてもう辛抱たまらんといった様子で駆け戻って来るのである。
そんなことを幾日も繰り返した後、やがて彼女は廊下を折れ曲り、つまり後ろのドアが見えなくなる不安に耐えてそろそろと一階に下りる階段の上まで辿り着く。私というと保護者としての立場もあるのでやむなく、廊下の折れ曲った所で、またまた首を突き出して、様子を窺っている。そこでシロは最初に廊下の曲りまで進んだ時と同じ動作を繰り返すことになる。
駆け戻った彼女は私の足の間をすり抜け、一目散にドアの内側に駆け込む。その足音には不安と緊張が隠しようもなく強く現れている。
階段の上の次は当然その下の正面玄関である。この第3ステージまでの克服には少し時間がかかった。しかしもっと多くの時間を必要としたのは、玄関からその先の邪悪の海への船出である。
一時期、私は、彼女がその冒険を諦めたかと思った。何度階段わ下りても、玄関の手前で彼女の足はすくんでしまうのである。そこから先は絶え間なく行きかう人の脚、脚、地響きを立てて隙間も見せず流れて行く車、車、車の洪水。小さなシロちゃんがそれ等全てを受け入れるのは容易なことではない。私は内心ホットしていた。
彼女が散歩エリアにするには建物の外は余りに危険が多き過ぎると思った。よしんば運よく車のタイヤに引っ掛けられなかったとしても、入り組んだ迷路のような街で、彼女が迷子にならずに歩き廻るのは不可能と思えた。冷静な時ならばまだしも、たまたま他のノラ猫や、あるいは犬と遭遇して、パニックを起こして、逃げ廻れば帰りの道などすぐに見失うに違いなかった。私は何度もシロにリードを付けようと思っていた。しかし、狭い事務所の中に終日閉じ込めて、繋いでおくのは余りにも可愛そうに思えた。かといって散歩に連れ出す、時間的余裕など、あるはずもなかった。だから私は狭いながらも事務所の中と廊下だけは自由に歩き廻らせたいと思ったのだ。そんな考えの私にとって、シロ自身が玄関から先は出て行かないのであれば、好都合であった。
彼女は日に日に成長して行ったが、自分の縄張りを通りにまで広げようとはしなかった。いつの間にか私がそんな彼女の行動に慣れ、そして安心してしまった。
ある日午後になってもシロが事務所のいつものソファの上に居ないのに気付いた。皆仕事に追われているので、シロの行動などに気を使ってはいられない。それでもいつもの場所にその姿が見当たらないと、眼で辺りを探している。大概は彼女は直ぐに見つけることが出来るし、たとえ事務所内に見当たらなくても、やがてドアの外で、彼女の「開けてちょうだい」と叫ぶ声が聞こえる。ところが、その日に限って、いつまでたっても、その声が聞こえない。私は心配になって、廊下に出た。いつもは様子を見に出ると階段の途中でじっと通りを見ている彼女が居るのだが、その日はそこに居なかった。
階段の下にも玄関にも彼女の姿は見当たらない。私は外に出て彼女を呼んだ。ドドーッと渦巻いて流れる騒音がその声をかき消した。私の声はだんだんと大きくなっていく。建物と建物の人の入れる隙間には首を入れ、特に大きな声を上げた。駐車場では四つん這いになって、できるだけ遠くを見わたしながら叫んだ。
事務所の建物の周りは全てくまなく声をかけ、その区画を仕切る通りの内側はもとより、裏口の通りに接する区役所前の広場も樹の陰、公衆トイレの陰、果ては区役所脇の公会堂の周囲も廻った。しかしシロの姿は見当たらなかった。
一番案じていたことが起きてしまったと思った。もしかして、入れ違いで彼女はもう帰っているかも知れないと思って事務所に戻って見たが、姿はなかった。それから後は仕事が手につかなくなってしまった。 やがて陽が落ち窓にネオンの灯がせわしなく点滅し始めた。今日はいつもの8時には帰れないかも知れないと思いながら時計を気にしていたら、突然猫の声が遠くに聞こえた。思わずドアを開けて耳を澄ます間もなく、いつもとは違う、まるで泣き叫ぶような声を上げて、シロが駆けて来た。その時初めて私は猫がこんなにも大きな足音を立てて歩くことが出来るのだと気が付いたのだ。
どのような冒険を行い、どれほどの恐怖と不安を味わったのかは知らないが、その日以来、シロは決して玄関から先に足を進めることはなくなった。そればかりかたまに階段の下まで足を伸ばしても、たちまちあの大きな鳴き声をあげ、床を踏みならして駆け戻って来るのだった。その声と足音で私は、今日、彼女は何処まで冒険の足を進めたのか分かるのだった。
シロの冒険の後は、こちらの冒険が始まった。私は新しい事業を開始した。池袋駅から赤羽線で一つ目の駅の北池袋から歩いて5、6分の商店街のはずれにある、40坪ばかりのガレージで、シラスウナギの高密度濾過循環養殖というものを始めたのだ。まだ日本で誰もやったことのない、この新しい技術的挑戦に私は熱中して行った。現場の仕事は友人の魚の専門家が担当し、濾過技術は専門の会社が当たり、シラスの入手から養殖に関する情報の収集の販売までの経営全般は私が手がけた。事業はまず、飼育装置の製作と設置から始まった。
連日設計の打ち合わせや、各パーツの製作立ち合いなどが、新聞と出版の仕事に加わった。計画は数年前から始まっていたのだが、いよいよ実施計画が動き出し、暮れには第一陣のシラスを入れる予定になっていた。
シロが事務所にやって来た時はガレージは既に確保されていて、ほどなく製作も始まっていたのだ。そしてシロの冒険事件の秋には、施設建設は最後の仕上げに入っていた。
既に友人は施設内に寝泊りできるコーナーを設置して、連日そちらに詰め、濾過装置の会社の人間も近くに宿を取って、夜遅くまで作業を続けていた。私も事務所を8時に出た後はそちらに廻り、帰宅は毎日西武池袋線の終電になった。
さて、シロは冒険の後、夜私が帰る時刻になると落ち着かなくなり、いよいよ時間が迫ると廊下に出てなかなか事務所に入ろうとしなくなった。以前からも彼女は、夜一人で事務所に置いて行かれるのを厭がっていたが、あの事件以来特にその傾向が強くなっていた。私が事務所を閉める時間になると彼女は廊下の曲り角から顔をのぞかせて、じっと様子を窺い、そこから動こうとしない。仕方がないので私は、そこまで行って彼女の尻を叩く、それでやっと渋々部屋の中に入るのだった。
事務所猫という身分というか待遇は、彼女にとって、必ずしも満足できるものではないようだった。私としても他に妙案は浮かばなかった。
夜の一人ぽっちの淋しさを埋め合わせをするかのように、昼間彼女は私が席に就いていると、机の上の片隅に丸くなって寝ていた。時々眼を向けると、薄目を開けて見ている彼女の視線と合った。そんな時彼女は机に載せた顎を少し突き出して、一層眼を細めた。
12月に入るといよいよ施設の運転が始まり、暮れになってから、ついにシラスウナギが放たれた。文字通り昼も夜もない飼育の日々が始まり、私も施設に泊り込む日が増えていった。
1㌔で7000匹はいるシラスウナギの高密度濾過循環養殖は想像以上に困難を極めた。飼育開始のその日から、試行錯誤の日々が始まった。年が明け、第2、第3陣のシラスが入り始める頃には誰の顔にも被害が色濃く現れていた。
私は決断を迫られていた。最早少ないスタッフで新聞とウナギの両立は不可能になっていた。秋を前に私は新聞の仕事を人手に譲ることにして、池袋の事務所を閉めることにした。新しい仕事を引き受けた人間は、事務所を築地に移した。
私はアパートを引払い、借家に移ることにした。新しい住いには南向きの庭と駐車場が付いていた。
シロちゃんは事務所猫から開放され、晴れて庭付きの戸建ての家猫に出世することになった。とは言っても家の引越し荷物と一緒にトラックに乗せられ、何やら大きな窓だらけの明るい部屋のダンボールの山の間に置かれた時は、青天の霹靂、ただただ恐れ戦くばかりであっただろう。
新しい住いは12畳の洋間と8畳の和室が南に面して並び、他に台所、風呂場、トイレが廊下を隔てて向い合っていた。庭は部屋の前に幅3間ほどで横長に配置されている。部屋の前の長さ7間、幅3間の庭には何も植えられていなかったが、隣家の庭がこちらの庭に沿う形で作られていて、そちらには梅や山茶花、青木などが植えられていた。両方の庭の仕切には腰ほどの高さの木の柵があるだけだった。その柵には今は閉められているが片開きの戸が付いているので、どうやら、かつてはこちらの庭も隣家の所有だったのかも知れないと思った。
事務所猫のシロちゃんの世界は一気に広大に開かれたのであるが、引越し直後の彼女にとってはそれどころではなかった。
猫はテリトリーを持つ動物だから自分の住む場所には強く執着しこだわる。昔から犬は人に付き、猫は場所につくと言われるのは正しい。従って猫にとって、新しい見知らぬ場所に連れてこられるのは、大変なストレスを生む。シロちゃんにとって、事務所は狭くその周囲は踏み出すこともままならない恐ろしい所であつたとしても、既にそこに慣れ親しみ、テリトリーとして来た場所である。その場所から何の説明も了解もないままに、いきなり、ダンボールに入れられ、トラックで運ばれたのだからそのショックは計り知れないものがある。と私は推察し大いに心配したのだが、案の定彼女はその後、2日も3日もダンボールの間から出てこようとはしなかった。
私も忙しくて、引越しはしたけれど、荷物は蒲団と台所道具を少し引っ張り出しただけで、後はそのままにしておいた。それでも用意されたトイレと専用皿からのエサだけは受け入れていたが、なかなか姿は見せようとはしなかった。
シロちゃんは怒っているのだということが、私には良く分かった。
シロの第二の人生の始まりは、私の人生の大きな転機でもあった。共に新しい環境と事態にうまく適応し、将来を切り開いて行かねばならなかった。
シロは広い場所を与えられたが、その代わり、今度は昼は一人ぽっち、夜も零時を過ぎるまで誰も相手をしてくれるものは居なかった。これではまるでノラ猫人生ではないかとぼやいていたかも知れないが、そこは違う。猫人生にとって食と住が保障されているということが、どれほど決定的に重大なことなのか、若い彼女にはまだ解っていないのだ。しかしまあ、私としてもこの点をあまり言うと、恩着せがましいだけでなく私自身の品位にも関るので言わないことにしている。
引越しして暫くの間は、シロは外に出さないことに、出来るだけ帰りも終電よりも前にするように心がけた。10日も経って大分家の中に慣れ、新しいテリトリーの確認と受け入れも済んだと思われた頃、朝の出かけ前にリードを付けて家の廻りを散歩させた。夜も早目に帰った時は外を歩かせ、やがて台所の窓を開けて、そこから外に出した。
台所の窓は床から1,5メートル位の高さにあり、外には鉄の格子が取り付けてあったが、格子の幅は猫ならば楽に通り抜けられる間隔があり、そこから1メートルほど離れた所に隣家との間を仕切るブロックの塀があった。塀の高さは丁度、窓の敷居の高さくらいなので、シロには何なく跳び移ることが出来た。
私はこの窓を常時少し開けて置き、シロの出入り口とすることにした。
彼女はすぐに要領を呑み込んだ。周りはきちんと区画された静かな住宅街なので、ここならば彼女が迷子になることもあるまいと思われた。一日、家にいて事務処理の仕事をする日があったので、その時に彼女を外に出した。シロは出るとすぐ戻り、戻るとまた出るを繰り返していたがだんだんと戻ってくるまでの時間が長くなって行った。
どうやら彼女は、自分の家の周りにも、テリトリーの確認を始めたようだった。私は一安心だった。
池袋での迷子事件があった後の引きこもりが尾を引いているのではないかと気がかりだったが、どうやらその心配は杞憂で終った。
新しい住いがシロにとって幸運だったのは、庭を接した隣家の家族が皆猫好きで、特にそこの主婦の祖母と覚しき婦人がシロちゃんをすつかり気に入ったことだった。シロもこの60歳半ばの女性が大のお気に入りになってまるでその家の飼い猫のようになついてしまった。
私は早速この女性をママさんと呼ぶことにした。ママさんは娘夫婦と、高校生の女の子の孫と4人暮らしだった。娘の夫はサラリーマンのようだったが、土日はゴルフバックを車に積んで出かけることが多く、滅多に顔を見ることはなかった。ママさんはとても働き者で、毎朝大量の洗濯物を庭の三列の物干し竿いっぱいにする。
私が特に不思議に思ったのは、洗濯物の三分の一は大小の白いタオルであることだった。ざっと見てもその数は30、40枚はある。いったいどうして、あんなに多量のタオルを毎日洗わなければならないのか、私には皆目見当もつかなかった。洗濯の他にもママさんは毎日家の中の隅々までを掃除する。
どうしてそんなことが分かるのかと言われるとこまるが、まず第一に 隣家は庭に向かって広い縁側があり、そこの網戸とガラス戸は大概ガラリと一杯に開け放たれている。そこから毎日掃除をしている彼女が見えるのである。
実に長い時間掃除機の音が聴こえてくるのだが、その後には縁側の雑巾がけをしている姿も見られる。私は夜の帰りが遅いだけ、朝が遅い。新聞を人手に渡したので、そのような時間割になってしまったのだが、一方ママさんの朝は早い。
そんな訳で私は毎朝大量の洗濯物を眺め、掃除機の音を聴きながら、ウロウロと洋間を歩きながら歯をみがいている。
とみろでそんな時、シロちやんは隣家の庭にある背の低い板葺き片流れの物置の屋根の上で爪を研いだり、寝そべったりしている。シロちゃんの気に入りの物置も、タオルと同じく隣家の不思議の一つなのだが、この物置は屋根の一番高い所で人の肩ほどしかなくて低い所は腰くらいである。
物置は庭の物干し場のすぐ近くで、こちらの庭との境近くにある。広さは一坪くらいの、立ったままでは入ることも出来ない。この物置の中には何が納められているのか、当初私は大いに興味をそそられたが、ついに一度もそこの扉を開ける処を見ることは出来なかった。
物置はもう一ヵ所あった。それは高さは2メートルくらい間口も奥行も1間はある、しつかりした作りで、庭の東側の角に建てられていた。
謎の物置はやがてシロの一番の気に入りのベットと言おうか、くつろぎ台というか、物見台というか、とにかくそんな多機能台になった。
シロちゃん台の他にも新しい住いは彼女の気に入りの場所が多かった。隣家の庭木にかけ登るのもここに来て始めて味わう喜びであったし、雑草の生えたこちらの庭で、蝶やバッタを追いかけるのもやめられない楽しみだった。
私は忙しかったので、庭には一切手を出さなかった。おかげで庭はさながら雑草畑のようになってしまったのだが、生えてくるのがどう言う訳か膝くらいの高さになる若い麦のような草で、しかも殆どこれ一種類ではないかと思うくらいそろっていた。
私はこの草の庭が大いに気に入ってしまった。レースのカーテンを引き、洋間の2間のガラス戸を開けて、床にあぐらをかいて、その草庭を眺めていると、遠い北海道のかつて親しんだ河口に広がる草原を思い出した。その草原を釣竿をかついで渡って行った日々は、今では夢の中の世界のようだ。
草の中に身を隠して蝶を狙うシロを見ていると、思わず胸が熱くなるのを覚えた。
新しい住いの草庭はシロに負けないほどに私の心をとらえていた。
シロが新しい住いに慣れた頃、北池袋の施設は戦場のごとき様相を呈し出した。採用した装置が次々に機能不全に陥り、ウナギの飼育と装置の改良、回収作業は昼夜に渡って続けられた。人員も大阪のスポンサーの兄弟達も駆けつけ、6人がかり7人がかりになる日も続いた。
助っ人組のために近くにアパートを借りた。私もそこに泊り込む日が多くなった。
私は猫という動物は基本的に、自活できる生き物だという考えがあるので、1日2日、家を空けるのには何の躊躇もなかった。そのような飼い主に都合の良い考えを持つようになったのは、かって北海道でミケという猫と暮らしたことがあるからである。
ミケは飼い猫ではあったが、その主食はネズミで、みごとに自活の姿勢を貫いていた。そのミケの生き様が私の猫に対する考えを決定していた。
厳密に言えばミケとシロでは与えられた環境があまりにも違うので同列に扱うのは無理であるだけでなく、シロに対しては著しく不公平な扱いになるのだが、その天は飼い主優先、都合は我にありと高をくくっていたのである。
ネズミの獲り方など何も知らないシロがどれほどひもじい思いをしたかなど、都合良く忘れていたのである。忘れようとしていたと言った方が正しいかも知れない。
というのは、シロは私がどんなに遅くなって帰って来ても必ず表通りに近い家の庭樹の下から現れるからである。
新しい住いは西部池袋線の石神井公園という駅から歩いて15,6分の所にあったので、私は駅までの往復は自転車を利用していた。駅前には屋根付きの大きな駐輪場があったのでそこを利用していたので、どんなに遅くても、自転車の盗難の恐れはなかった。 家の近くには片側三車線の十三間道路という大きな道路があって、この道は私がいつも渡る交差点の100メートル程先から高架になり、これが高速の関越自動車道路の入口であった。
道路についてこんなに詳しく説明するのは、後で触れるつもりなのだが、私はここで人生最大の恐怖を味わい、危うく命を落とす経験をしたからである。
これから佳境に入ります・・・・・・・・
続きは2011年12月発売される
「猫たちの挽歌」700円で・・・・・。
三,シロよお前は何処に
シロはどこに居るのだろう。今でも帰る家を探してどこかの街をさ迷っているのだろうか。
あれからもう35年も経っている。
彼女はもうこの世には居ないだろう。
それなのに、いまだに彼女のことをそんなふうに思い出してしまう。
シロはまだ眼も開かない時に、私の手の平に載って事務所にやって来た。東京は池袋の、入り口から見れば、手の届きそうな所にパルコと西部百貨店が並んでいるのが見える。そんな昔旅館を営んでいた木造モルタル2階建を改築した建物に、私は事務所を開いていた。鰻の寝床のように長い建物は、正面は三越百貨店まで百メートルほどの通りに面していて、裏口は池袋区役所までこれも百メートル足らずの裏通りに面していた。
この裏通り側の二階の一室が私の事務所で、窓からは区役所の他にも池袋東口繁華街の看板や沢山のネオン、映画館などがこれもまた手を伸ばせば届きそうな距離に見えた。裏口の左隣には、建物に囲まれた駐車場があり、5、6台しか駐車できないその場所は事務所の窓の斜め下にあった。
私は2年前から専門分野の新聞を出したり、本を出版する仕事をしていた。
ようやく陽射しが温かくなった頃、開け放した窓から、うるさく子猫の鳴く声が入って来た。
「棄て猫だな。親を呼んでいる」一緒に仕事をしている魚の専門家だが、動物にも詳しい友人が、窓から身を乗り出して声のする駐車場を窺った。私は気にも留めずに仕事を続けた。子猫は鳴き続けていて、その声がやがて神経に刺さり出した。
昼食時になったので彼と表通りの向かいにある麦トロ屋に入り、その帰りに裏口の駐車場に廻った。子猫はまだ鳴いていた。その声は激しさを増しているように思えた。まるで死ぬまで鳴くのだといった必死の叫びだった。
「まだ眼が開いていないかも知れないな」友人は車の下を一台、一台覗いて歩き、すぐに声の主を見つけた。真っ白な子猫が一匹車の下で四つん這いに踏ん張って鳴いていた。
私は思わず声をかけた。「まずいんじゃない。取り付かれるよ」友人の言葉が終わるのも待たずに、子猫はヨタヨタと、それでも明らかに彼としては猛然たる勢いで寄って来た。
「ああ・・・あ」友人が困惑した嘆声を漏らした。私は思わず手を伸ばしてしまった。たちまち私の杞憂は的中してしまった。両手の平で、その真っ白い毛糸玉のような子猫を掬いあげてしまった瞬間、私は頭の隅の方で「まずい!」と思った。
子猫は鮮やかなマリンブルーの目をしていた。少し毛足の長い純白の貌の中で、その瞳が宝石のように光っていた。精一杯に開いた爪がチクチクと手の平を刺し、片手で首を持ち上げようとしたら、金輪際離すものかといった勢いで、一層爪を立てて来た。仕方なく手を地面に置いたが、それでも子猫は手から降りようとはしない。
「そう言うことになるから」友人が困ったもんだと言わんばかりに言った。
ついさっきまで考えもしなかったことを私は決断した。こいつを再び車の下に放り出して行くことは出来ないと思った。子猫は確かに可愛かったがしかし、その可愛さ故にもう手放したくないと思った訳ではない。かと言ってそのままにしておいて車に轢かれるのを案じた訳でもないし、これからのノラ猫人生に同情した訳でもない。
大体その時の私の日々は、初めて間もない仕事のことで頭が一杯でどんな理由であれ、捨て猫をかまっている余裕などなかったのだ。それなのに私は一度は地面に置いた手を再び持ち上げてしまった。子猫は鳴き続けていた。私は子猫を胸に抱いた。まるで南の海のように明るく青い二つの眼が私を見ていた。その時私はこの小さな生き物を置き去りには出来ないと思った。
「まだ眼が開いていないな」友人が直ぐに気付いて言った。その言葉を上の空で聞き流して、どこで飼うのか、どうやって飼うのか、何の心づもりもないままに、私は子猫を抱いて事務所にに戻った。
内心私は自分の行動に戸惑っていた。いったい何をやっているのか、自分で自分のことが良く分からない気分であった。こんな気持になることは滅多にない。元来私は物事を即決するタイプではない。何か行動を起こす場合は、時間をかけ、熟考するのが常である。まず立ち止る。それから事柄を出来るだけ客観的に観るように勤める。こんな風に言うといかにも沈着冷静に聞こえるが、実はそんなことはない。本当の処は子供の頃から短腹と言われていて、どちらかと言うと、すぐカッとなる直情径行型なのだ。それでさんざん失敗を重ねたので、何か行動を起こす時は必ず、その前に、「ちょっと待った。とり合えず今はちょっと待った」と自分に言い聞かせることにしているだけなのだ。おかげで衝動買いはしなくなった。何かをやった後で余り後悔はしなくなった。その代わり、年中胃痛に襲われるようになった。
時々、何か自分でも、どんどん面白味のない人間になって行くような気がしている。
しかし、それが大人になると言うものだろうと半ば諦めてもいる。今回も当然ながら、この「ちょっと待った」のシステムが、作動するはず、いやしなければならなかったはずなのに、何故か一向に指令は発せられなかった。
手の平の中に居る二つの青い目を見た途端に私の思考システムはいとも簡単に機能停止に陥ってしまったのだ。
こうして、シロは事務所猫になった。アパート暮らしの私がシロのために用意してやれる場所は、そこしかなかったのだ。
猫など一度も飼ったことがない私が、猫どころではない状態のただ中で、よりによってまだ眼も開かない子猫を拾ってくるとは、我ながら何を考えているのだと言いたくなる所業だった。
「白いからシロちゃん」オスだかメスだか分からないがシロなら将来問題になることもないと思って付けた。友人はあきれながらも、シロの世話をやいてくれた。哺乳瓶の使い方、排泄のさせ方等、教えられて、私はまるで何も知らなかったことに気付いた。生まれたばかりの子猫は、母猫の乳房を吸うことしか知らないのだ。その乳房が奪われたら子猫は死ぬしかない。その母猫の代役を私がやらねばならないことなど、考えてもいなかった。排泄のさせ方だって友人がやって見せて、初めて知った。ティシュペーパーで尻の辺りを定期的に優しくなでてやる。その刺激で子猫は大、小の排泄を促されて、やっと用を足すことが出来るのだ。
当然ながらそんなことはみな母猫がやつているのだが、私は何も知らなかった。友人が居なかったら、子猫は死に場所を駐車の車の下から、スチールの机の下に替えただけだったかも知れない。
私の仕事は日曜日も祭日もなく、しかも夜は8時前に終わるということはなかった。この点はシロにとっては幸いしたと言える。
せっせと哺乳瓶をグーチョキパーのパーの手で揉みながらミルクを吸い続けたおかげで、シロはたちまち目が見えるようになり、ヨタヨタの足も定まって、自分の腹をきちんと床から持ち上げて歩けるようになった。
この頃になるともうじっとはしていられない。まず最初に挑戦した冒険はズボンに両手の爪を立てて木登りよろしく脚をよじ登り、膝の上に第一段階のビバークを果すことであった。次にはもう少し脚腰に力が付くのを待ってから膝上のオーバーハングを攻略して、頂上の机上を目指した。私が机に向かって、今日一日の取材メモを広げて、原稿用紙と格闘している時、シロはシロで机の下で私の脚と格闘していた。
日も落ちて池袋の繁華街のまばゆい赤い灯青い灯を見ながら、呻吟していると、決まってシロも苦しい?アタック、アタックを繰り返し始める。シロの冒険メニューには、他に登山よりも、もう少し穏やかなコースがある。こちらはシロ一人の力では手に負えないので、彼はーとりあえずオスということにしておいてーチャンスを狙っている。そのチャンスは私が席に着き、机の引き出しの開け立てが始まるとやって来る。
彼は素早く駆けて来て、アッと言う間に引き出しの中に潜り込む。一番下の引き出しはA4のファイルを立て収納出来る高さがあるので、彼は遮二無二ファイルをかき分けてその間に入り込む。彼に入られた時は、引き出しを少し開けて置いてやると、飽きたら出て行くのだが、どうかすると彼の居ることを忘れて引き出しを閉じてしまうことがある。そんな時彼は少しも慌てず、その内に眠ってしまう。次にファイルを出そうとして手を入れて、柔らかな毛に触れて、思わず声を上げてしまうことがある。
猫の成長は早い。春の終りにやって来た彼は、秋にはもう一端の若猫の風貌に育つていた。もう手の平には載り切らないし、机の上に上がるのに、ズボンの脚をよじ登る必要もなくなっていた。
この頃には彼は彼女であることを明らかにしていた。同時に彼女がペルシャ猫と日本猫の交雑種であることもすっかりバレていた。ペルシャの血はその青い眼と日本猫よりも大柄な体躯、それに真っ白な毛に現れていた。ただし、毛足は長毛ではなく、普通の日本猫と変わらなかった。
事務所猫となったシロの一日は、朝誰かがドアを開けるのを待って始まる。廊下に足音が聞こえるのを、黒いビニールレザーのソファの上で、彼女はじっと耐えて待っている。と言うのは彼女は猫一般の習性に違わず、極めて綺麗好きである。故に昨日一日使った猫砂入りクツキーケースのトイレが何とも我慢がならないのだ。従って私の朝の第一の仕事は、このクッキーケースの中のゼオライトと底に敷いた新聞紙を新しいのに取り替え、古いのを日当たりの良い、窓の外に突き出た鉄格子の柵に干すことである。シロは待ち切れない様子で私につきまとい、新しいトイレが置かれるや否や、人目も憚らずに飛び込んで用を足す。大の場合は用が済むと直ちにポリ袋に回収するのだが、朝は大概小の方である。
用が済むとていねいに新らしいゼオライトをかき寄せ、きちんと証拠の隠蔽具合を確認し、それからやおら空の専用皿の前で朝食の態勢に入る。当然ながらトイレ作業の後の私の仕事は、その皿にネコ缶を空けて出すことである。シロ様御用達しが終わってようやく私は机に着き、仕事の開始となる。
お食事の後はお散歩メニューである。ていねいな顔洗いが済むと、彼女はドアの前にきちんと座り、首を後ろに向けて、人の顔を見上げる。見られた人はすみやかにドアを開ける。シロちゃんの軽やかなステップがたちまち長い廊下を遠ざかって行く。
ところで私は猫の貌には実に豊かな表情があるのを、この時初めて知った。それまでに猫の表情についての私の知識は喧嘩の時と日向ぼっこの時くらいのものだったが、その表情はそんなに貧しいものではなかったのだ。喜怒哀楽、実は猫といえどもそれ等の感情が動く時、表情もその心の動きを表しているのだ。同様にその言葉も決して貧しくはない。むしろ非常に豊かである。そんなことは猫を飼っている者なら誰でも知っていることなのだろうが、私は知らずに居た。知らないと言うよりは、判らなかったと言った方が良いだろう。
シロが特別にそうだということはないのだろうが、彼女はその表情も声も、私にとっては実にはっきりとしていて豊かだった。歩く足音さえも、彼女の感情を明確に伝えていた。例えば散歩に出かける時の足音と、帰って来た時のそれは、実に分かり易くはっきりとした違いを伝えていた。
猫が足音を立てるなんて、そんなことはないだろうと否定する人は多分猫を飼ったことがない人である。猫は獲物に忍び寄るために、足の裏は肉玉と呼ばれる、ふわふわした肉の座布団状になっている。これがあるから、彼等は足音をたてずに歩くことが出来るのだがだからといって、いつも忍び足で歩いている訳ではない。人と長い間共生して来た彼等は、実に多くの点で人間と似た行動をとる。歩き方もそんな行動の一つではないかと思うのだが、例えば我々人間は、恋人にふられたりして意気消沈した時は歩みは重く、時には引きずるように緩慢になり、ひどい時は崖の上やビルの屋上で一人ボンヤリと天を仰いだりもする。そのようなことなど全然しないで、やたらに飲んだり、食べたりする人も多いが、この際、話しは足音についてなので、強引に足音に戻す。
マイッタ時はおおむねそんな具合であるが、逆に恋が成就した時など、隠せども音に出にけり我が恋はとなって、足元は気がついたら、軽やかにスキップなどしている。何か一発事を成して勇んで凱旋する時など、男ならノッシノッシと大股に地面を踏みしめている。この場合女ならどうなるかは余り詮索しないことにして、ともかく人間はそんな具合であるが、猫の足もこれとまったく同じ表情を見せる。
この点も貌の表情と同じく、シロと同居して始めて知ったことなのだ。
彼女は朝散歩に出かける時は、忍び足とまではいかないがいかにも思慮深そうに、辺りに気をくばりながらゆっくりと進んで行く。長い廊下は途中折れ曲っているので、そこの角を曲るまで、私は良くその後姿を見送ったものである。
と言うのも彼女はまだ子供だったし、階段を下りて正面玄関を出ると、そこは池袋の繁華街のド真ん中なのである。人通りも交通量も半端ではない。その上隣り合うビルは、いずれも何かを商う店なので、大音量で様々の音を発している。一歩玄関を出たら世間知らずの子猫などたちまち、それら狂騒のるつぼに飲み込まれて、二度と帰ってこれなくなるのではないかという不安にかられてしまうのである。
幸いシロはこの点非常に用心深く慎重であった。彼女の初めての散歩は廊下の折れ曲った所までであり、そこまで行くとしばらくは前方と、今自分が出て来たドアを何度も見比べ、~この時大概私はドアから顔を出して様子を見ているのだが~やがてもう辛抱たまらんといった様子で駆け戻って来るのである。
そんなことを幾日も繰り返した後、やがて彼女は廊下を折れ曲り、つまり後ろのドアが見えなくなる不安に耐えてそろそろと一階に下りる階段の上まで辿り着く。私というと保護者としての立場もあるのでやむなく、廊下の折れ曲った所で、またまた首を突き出して、様子を窺っている。そこでシロは最初に廊下の曲りまで進んだ時と同じ動作を繰り返すことになる。
駆け戻った彼女は私の足の間をすり抜け、一目散にドアの内側に駆け込む。その足音には不安と緊張が隠しようもなく強く現れている。
階段の上の次は当然その下の正面玄関である。この第3ステージまでの克服には少し時間がかかった。しかしもっと多くの時間を必要としたのは、玄関からその先の邪悪の海への船出である。
一時期、私は、彼女がその冒険を諦めたかと思った。何度階段わ下りても、玄関の手前で彼女の足はすくんでしまうのである。そこから先は絶え間なく行きかう人の脚、脚、地響きを立てて隙間も見せず流れて行く車、車、車の洪水。小さなシロちゃんがそれ等全てを受け入れるのは容易なことではない。私は内心ホットしていた。
彼女が散歩エリアにするには建物の外は余りに危険が多き過ぎると思った。よしんば運よく車のタイヤに引っ掛けられなかったとしても、入り組んだ迷路のような街で、彼女が迷子にならずに歩き廻るのは不可能と思えた。冷静な時ならばまだしも、たまたま他のノラ猫や、あるいは犬と遭遇して、パニックを起こして、逃げ廻れば帰りの道などすぐに見失うに違いなかった。私は何度もシロにリードを付けようと思っていた。しかし、狭い事務所の中に終日閉じ込めて、繋いでおくのは余りにも可愛そうに思えた。かといって散歩に連れ出す、時間的余裕など、あるはずもなかった。だから私は狭いながらも事務所の中と廊下だけは自由に歩き廻らせたいと思ったのだ。そんな考えの私にとって、シロ自身が玄関から先は出て行かないのであれば、好都合であった。
彼女は日に日に成長して行ったが、自分の縄張りを通りにまで広げようとはしなかった。いつの間にか私がそんな彼女の行動に慣れ、そして安心してしまった。
ある日午後になってもシロが事務所のいつものソファの上に居ないのに気付いた。皆仕事に追われているので、シロの行動などに気を使ってはいられない。それでもいつもの場所にその姿が見当たらないと、眼で辺りを探している。大概は彼女は直ぐに見つけることが出来るし、たとえ事務所内に見当たらなくても、やがてドアの外で、彼女の「開けてちょうだい」と叫ぶ声が聞こえる。ところが、その日に限って、いつまでたっても、その声が聞こえない。私は心配になって、廊下に出た。いつもは様子を見に出ると階段の途中でじっと通りを見ている彼女が居るのだが、その日はそこに居なかった。
階段の下にも玄関にも彼女の姿は見当たらない。私は外に出て彼女を呼んだ。ドドーッと渦巻いて流れる騒音がその声をかき消した。私の声はだんだんと大きくなっていく。建物と建物の人の入れる隙間には首を入れ、特に大きな声を上げた。駐車場では四つん這いになって、できるだけ遠くを見わたしながら叫んだ。
事務所の建物の周りは全てくまなく声をかけ、その区画を仕切る通りの内側はもとより、裏口の通りに接する区役所前の広場も樹の陰、公衆トイレの陰、果ては区役所脇の公会堂の周囲も廻った。しかしシロの姿は見当たらなかった。
一番案じていたことが起きてしまったと思った。もしかして、入れ違いで彼女はもう帰っているかも知れないと思って事務所に戻って見たが、姿はなかった。それから後は仕事が手につかなくなってしまった。 やがて陽が落ち窓にネオンの灯がせわしなく点滅し始めた。今日はいつもの8時には帰れないかも知れないと思いながら時計を気にしていたら、突然猫の声が遠くに聞こえた。思わずドアを開けて耳を澄ます間もなく、いつもとは違う、まるで泣き叫ぶような声を上げて、シロが駆けて来た。その時初めて私は猫がこんなにも大きな足音を立てて歩くことが出来るのだと気が付いたのだ。
どのような冒険を行い、どれほどの恐怖と不安を味わったのかは知らないが、その日以来、シロは決して玄関から先に足を進めることはなくなった。そればかりかたまに階段の下まで足を伸ばしても、たちまちあの大きな鳴き声をあげ、床を踏みならして駆け戻って来るのだった。その声と足音で私は、今日、彼女は何処まで冒険の足を進めたのか分かるのだった。
シロの冒険の後は、こちらの冒険が始まった。私は新しい事業を開始した。池袋駅から赤羽線で一つ目の駅の北池袋から歩いて5、6分の商店街のはずれにある、40坪ばかりのガレージで、シラスウナギの高密度濾過循環養殖というものを始めたのだ。まだ日本で誰もやったことのない、この新しい技術的挑戦に私は熱中して行った。現場の仕事は友人の魚の専門家が担当し、濾過技術は専門の会社が当たり、シラスの入手から養殖に関する情報の収集の販売までの経営全般は私が手がけた。事業はまず、飼育装置の製作と設置から始まった。
連日設計の打ち合わせや、各パーツの製作立ち合いなどが、新聞と出版の仕事に加わった。計画は数年前から始まっていたのだが、いよいよ実施計画が動き出し、暮れには第一陣のシラスを入れる予定になっていた。
シロが事務所にやって来た時はガレージは既に確保されていて、ほどなく製作も始まっていたのだ。そしてシロの冒険事件の秋には、施設建設は最後の仕上げに入っていた。
既に友人は施設内に寝泊りできるコーナーを設置して、連日そちらに詰め、濾過装置の会社の人間も近くに宿を取って、夜遅くまで作業を続けていた。私も事務所を8時に出た後はそちらに廻り、帰宅は毎日西武池袋線の終電になった。
さて、シロは冒険の後、夜私が帰る時刻になると落ち着かなくなり、いよいよ時間が迫ると廊下に出てなかなか事務所に入ろうとしなくなった。以前からも彼女は、夜一人で事務所に置いて行かれるのを厭がっていたが、あの事件以来特にその傾向が強くなっていた。私が事務所を閉める時間になると彼女は廊下の曲り角から顔をのぞかせて、じっと様子を窺い、そこから動こうとしない。仕方がないので私は、そこまで行って彼女の尻を叩く、それでやっと渋々部屋の中に入るのだった。
事務所猫という身分というか待遇は、彼女にとって、必ずしも満足できるものではないようだった。私としても他に妙案は浮かばなかった。
夜の一人ぽっちの淋しさを埋め合わせをするかのように、昼間彼女は私が席に就いていると、机の上の片隅に丸くなって寝ていた。時々眼を向けると、薄目を開けて見ている彼女の視線と合った。そんな時彼女は机に載せた顎を少し突き出して、一層眼を細めた。
12月に入るといよいよ施設の運転が始まり、暮れになってから、ついにシラスウナギが放たれた。文字通り昼も夜もない飼育の日々が始まり、私も施設に泊り込む日が増えていった。
1㌔で7000匹はいるシラスウナギの高密度濾過循環養殖は想像以上に困難を極めた。飼育開始のその日から、試行錯誤の日々が始まった。年が明け、第2、第3陣のシラスが入り始める頃には誰の顔にも被害が色濃く現れていた。
私は決断を迫られていた。最早少ないスタッフで新聞とウナギの両立は不可能になっていた。秋を前に私は新聞の仕事を人手に譲ることにして、池袋の事務所を閉めることにした。新しい仕事を引き受けた人間は、事務所を築地に移した。
私はアパートを引払い、借家に移ることにした。新しい住いには南向きの庭と駐車場が付いていた。
シロちゃんは事務所猫から開放され、晴れて庭付きの戸建ての家猫に出世することになった。とは言っても家の引越し荷物と一緒にトラックに乗せられ、何やら大きな窓だらけの明るい部屋のダンボールの山の間に置かれた時は、青天の霹靂、ただただ恐れ戦くばかりであっただろう。
新しい住いは12畳の洋間と8畳の和室が南に面して並び、他に台所、風呂場、トイレが廊下を隔てて向い合っていた。庭は部屋の前に幅3間ほどで横長に配置されている。部屋の前の長さ7間、幅3間の庭には何も植えられていなかったが、隣家の庭がこちらの庭に沿う形で作られていて、そちらには梅や山茶花、青木などが植えられていた。両方の庭の仕切には腰ほどの高さの木の柵があるだけだった。その柵には今は閉められているが片開きの戸が付いているので、どうやら、かつてはこちらの庭も隣家の所有だったのかも知れないと思った。
事務所猫のシロちゃんの世界は一気に広大に開かれたのであるが、引越し直後の彼女にとってはそれどころではなかった。
猫はテリトリーを持つ動物だから自分の住む場所には強く執着しこだわる。昔から犬は人に付き、猫は場所につくと言われるのは正しい。従って猫にとって、新しい見知らぬ場所に連れてこられるのは、大変なストレスを生む。シロちゃんにとって、事務所は狭くその周囲は踏み出すこともままならない恐ろしい所であつたとしても、既にそこに慣れ親しみ、テリトリーとして来た場所である。その場所から何の説明も了解もないままに、いきなり、ダンボールに入れられ、トラックで運ばれたのだからそのショックは計り知れないものがある。と私は推察し大いに心配したのだが、案の定彼女はその後、2日も3日もダンボールの間から出てこようとはしなかった。
私も忙しくて、引越しはしたけれど、荷物は蒲団と台所道具を少し引っ張り出しただけで、後はそのままにしておいた。それでも用意されたトイレと専用皿からのエサだけは受け入れていたが、なかなか姿は見せようとはしなかった。
シロちゃんは怒っているのだということが、私には良く分かった。
シロの第二の人生の始まりは、私の人生の大きな転機でもあった。共に新しい環境と事態にうまく適応し、将来を切り開いて行かねばならなかった。
シロは広い場所を与えられたが、その代わり、今度は昼は一人ぽっち、夜も零時を過ぎるまで誰も相手をしてくれるものは居なかった。これではまるでノラ猫人生ではないかとぼやいていたかも知れないが、そこは違う。猫人生にとって食と住が保障されているということが、どれほど決定的に重大なことなのか、若い彼女にはまだ解っていないのだ。しかしまあ、私としてもこの点をあまり言うと、恩着せがましいだけでなく私自身の品位にも関るので言わないことにしている。
引越しして暫くの間は、シロは外に出さないことに、出来るだけ帰りも終電よりも前にするように心がけた。10日も経って大分家の中に慣れ、新しいテリトリーの確認と受け入れも済んだと思われた頃、朝の出かけ前にリードを付けて家の廻りを散歩させた。夜も早目に帰った時は外を歩かせ、やがて台所の窓を開けて、そこから外に出した。
台所の窓は床から1,5メートル位の高さにあり、外には鉄の格子が取り付けてあったが、格子の幅は猫ならば楽に通り抜けられる間隔があり、そこから1メートルほど離れた所に隣家との間を仕切るブロックの塀があった。塀の高さは丁度、窓の敷居の高さくらいなので、シロには何なく跳び移ることが出来た。
私はこの窓を常時少し開けて置き、シロの出入り口とすることにした。
彼女はすぐに要領を呑み込んだ。周りはきちんと区画された静かな住宅街なので、ここならば彼女が迷子になることもあるまいと思われた。一日、家にいて事務処理の仕事をする日があったので、その時に彼女を外に出した。シロは出るとすぐ戻り、戻るとまた出るを繰り返していたがだんだんと戻ってくるまでの時間が長くなって行った。
どうやら彼女は、自分の家の周りにも、テリトリーの確認を始めたようだった。私は一安心だった。
池袋での迷子事件があった後の引きこもりが尾を引いているのではないかと気がかりだったが、どうやらその心配は杞憂で終った。
新しい住いがシロにとって幸運だったのは、庭を接した隣家の家族が皆猫好きで、特にそこの主婦の祖母と覚しき婦人がシロちゃんをすつかり気に入ったことだった。シロもこの60歳半ばの女性が大のお気に入りになってまるでその家の飼い猫のようになついてしまった。
私は早速この女性をママさんと呼ぶことにした。ママさんは娘夫婦と、高校生の女の子の孫と4人暮らしだった。娘の夫はサラリーマンのようだったが、土日はゴルフバックを車に積んで出かけることが多く、滅多に顔を見ることはなかった。ママさんはとても働き者で、毎朝大量の洗濯物を庭の三列の物干し竿いっぱいにする。
私が特に不思議に思ったのは、洗濯物の三分の一は大小の白いタオルであることだった。ざっと見てもその数は30、40枚はある。いったいどうして、あんなに多量のタオルを毎日洗わなければならないのか、私には皆目見当もつかなかった。洗濯の他にもママさんは毎日家の中の隅々までを掃除する。
どうしてそんなことが分かるのかと言われるとこまるが、まず第一に 隣家は庭に向かって広い縁側があり、そこの網戸とガラス戸は大概ガラリと一杯に開け放たれている。そこから毎日掃除をしている彼女が見えるのである。
実に長い時間掃除機の音が聴こえてくるのだが、その後には縁側の雑巾がけをしている姿も見られる。私は夜の帰りが遅いだけ、朝が遅い。新聞を人手に渡したので、そのような時間割になってしまったのだが、一方ママさんの朝は早い。
そんな訳で私は毎朝大量の洗濯物を眺め、掃除機の音を聴きながら、ウロウロと洋間を歩きながら歯をみがいている。
とみろでそんな時、シロちやんは隣家の庭にある背の低い板葺き片流れの物置の屋根の上で爪を研いだり、寝そべったりしている。シロちゃんの気に入りの物置も、タオルと同じく隣家の不思議の一つなのだが、この物置は屋根の一番高い所で人の肩ほどしかなくて低い所は腰くらいである。
物置は庭の物干し場のすぐ近くで、こちらの庭との境近くにある。広さは一坪くらいの、立ったままでは入ることも出来ない。この物置の中には何が納められているのか、当初私は大いに興味をそそられたが、ついに一度もそこの扉を開ける処を見ることは出来なかった。
物置はもう一ヵ所あった。それは高さは2メートルくらい間口も奥行も1間はある、しつかりした作りで、庭の東側の角に建てられていた。
謎の物置はやがてシロの一番の気に入りのベットと言おうか、くつろぎ台というか、物見台というか、とにかくそんな多機能台になった。
シロちゃん台の他にも新しい住いは彼女の気に入りの場所が多かった。隣家の庭木にかけ登るのもここに来て始めて味わう喜びであったし、雑草の生えたこちらの庭で、蝶やバッタを追いかけるのもやめられない楽しみだった。
私は忙しかったので、庭には一切手を出さなかった。おかげで庭はさながら雑草畑のようになってしまったのだが、生えてくるのがどう言う訳か膝くらいの高さになる若い麦のような草で、しかも殆どこれ一種類ではないかと思うくらいそろっていた。
私はこの草の庭が大いに気に入ってしまった。レースのカーテンを引き、洋間の2間のガラス戸を開けて、床にあぐらをかいて、その草庭を眺めていると、遠い北海道のかつて親しんだ河口に広がる草原を思い出した。その草原を釣竿をかついで渡って行った日々は、今では夢の中の世界のようだ。
草の中に身を隠して蝶を狙うシロを見ていると、思わず胸が熱くなるのを覚えた。
新しい住いの草庭はシロに負けないほどに私の心をとらえていた。
シロが新しい住いに慣れた頃、北池袋の施設は戦場のごとき様相を呈し出した。採用した装置が次々に機能不全に陥り、ウナギの飼育と装置の改良、回収作業は昼夜に渡って続けられた。人員も大阪のスポンサーの兄弟達も駆けつけ、6人がかり7人がかりになる日も続いた。
助っ人組のために近くにアパートを借りた。私もそこに泊り込む日が多くなった。
私は猫という動物は基本的に、自活できる生き物だという考えがあるので、1日2日、家を空けるのには何の躊躇もなかった。そのような飼い主に都合の良い考えを持つようになったのは、かって北海道でミケという猫と暮らしたことがあるからである。
ミケは飼い猫ではあったが、その主食はネズミで、みごとに自活の姿勢を貫いていた。そのミケの生き様が私の猫に対する考えを決定していた。
厳密に言えばミケとシロでは与えられた環境があまりにも違うので同列に扱うのは無理であるだけでなく、シロに対しては著しく不公平な扱いになるのだが、その天は飼い主優先、都合は我にありと高をくくっていたのである。
ネズミの獲り方など何も知らないシロがどれほどひもじい思いをしたかなど、都合良く忘れていたのである。忘れようとしていたと言った方が正しいかも知れない。
というのは、シロは私がどんなに遅くなって帰って来ても必ず表通りに近い家の庭樹の下から現れるからである。
新しい住いは西部池袋線の石神井公園という駅から歩いて15,6分の所にあったので、私は駅までの往復は自転車を利用していた。駅前には屋根付きの大きな駐輪場があったのでそこを利用していたので、どんなに遅くても、自転車の盗難の恐れはなかった。 家の近くには片側三車線の十三間道路という大きな道路があって、この道は私がいつも渡る交差点の100メートル程先から高架になり、これが高速の関越自動車道路の入口であった。
道路についてこんなに詳しく説明するのは、後で触れるつもりなのだが、私はここで人生最大の恐怖を味わい、危うく命を落とす経験をしたからである。
これから佳境に入ります・・・・・・・・
続きは2011年12月発売される
「猫たちの挽歌」700円で・・・・・。