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伊達だより 再会した2人が第二の故郷伊達に移住して 第二の人生を歩む

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いずみ70年・・・あの時の坊や、三船遭難事件

2025-03-25 23:40:07 | 樺太

先日の道新・・・今日の話題「いずみ70年」より

くらし報道部長の佐藤宏光氏

 

 北海道新聞くらし面の女性投稿欄「いずみ」は、終戦10年後の

1955年1月に始まり、これまでに2万本を超える女性の思いを伝えてきた。

 昨年8月、いずみ係宛に届いた一通の封書。古いいずみの切り抜きが入って

いた。62年8月20日掲載「あの時の坊や」

 終戦の年、樺太(サハリン)からの引き揚げ船で明け方、異常な衝撃に襲われた。

魚雷で船底に穴があき、波が来るたび人々は海に消えてゆく。ふと見ると、赤ちゃん

を抱いた女性がぼうぜんと立っていた。船底から現れた母親がその子を預け、また船底に

向かって戻らない。預けられた女性は「縁があって預かった。大切に育てる」と言ったー。

そんな内容だった。

 凄絶な「三船遭難事件」の体験の切り抜きを送ってくれたのは、札幌市の内保美知代さん(90)。

中略

子どもは生きていれば80歳くらい。生みの親、育ての親の二人の母親の愛に守られ、きっと元気に

生きているはず。内保さんは、涙ぐみながら、そう想像している。

 数十年ぶりにノートから出てきた切り抜きを「編集者に読んでほしい」と送ってくださった。重い

経験も紹介してきたいずみ、これからも女性の思いを伝え続ける。

 

私達一家も樺太からの最後の引き揚げ者である

三船遭難事件のことは亡き母から何度も聴いていた。

あの時急いで引き上げなくて良かった・・・AさんもBさんも死んだ・・・。

何度も呟やいていた母のこの言葉が私の耳から離れなかった。

大人になってから私は遭難事件の新聞切り抜きなどを集め

ファイルに大切に保管してきた・・・遭難事件の記事を読むたびに

私の心はざわついた。

還暦になりと再会した時

その話をすると彼は知らなかった・・・少なくともジャーナリストのはしくれだった

彼が・・・意外であり残念だった。

その後彼は私の資料を読み

小説を書いた。

この新聞の切り抜きも大切にファイルに保管して置こう・・・風化しないように。

あの時の坊やが元気でいますよう・・・祈りながら。

 

 

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哀愁の伊達紋別駅・・・切ない

2025-02-25 23:22:49 | 樺太

今日昔の伊達紋別駅の話題が出たとき

突然

涙が溢れた

私にとって

伊達駅は運命の駅である

終戦後樺太に残された私達一家は

ロシア人家族と部屋を仕切って三年ほど暮らした

最後の引き揚げ船で函館に到着

仙台出身の父の遠縁を頼ってこの駅に降りた

私は当時6歳

本来なら小学一年生になっている筈だったが

戦後の混乱の樺太で息を潜めて暮らしていた

子供心に恐ろしい体験は体の芯まで刻まれていた。

死の恐怖・・・幼い心に宿ったこの恐怖は長い年月を経ても

拭うことはできない。

私の奥深くにまだ残っている。

私6歳の夏

やっと

最後の引き揚げ船で

伊達の地を踏むことができた。

そして

親戚の馬車に乗せられ

足をブラブラさせていた

ここはなんて平和でのどかな所なのだろう・・・

私と同じくらいの子供達が道端でケンケンをして遊んでいた

私もこの子たちのように遊ぶ日が来るのだろうか・・・とボーと

見詰めていた。

そんないつもの話をと話しているうちに

涙がこぼれ落ちた・・・

何故って?

 

6歳の子が

なんて平和なんだろうと・・・心から感じるなんて

アナタ

切なくないですか?

 

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徹子の部屋・・・戦争を忘れない

2024-08-11 18:26:24 | 樺太

今日の徹子の部屋は・・・戦争を忘れない特集だった

シベリア抑留、原爆投下、対馬丸学童疎開の話など

胸が詰まり徹子さんと一緒に泣いた。

 

今の若い世代に見せたいテレビだった。

 

過去ブログより

私の北の桜守

2018-03-18 19:54:00 | 樺太
 今朝新聞を読んでいたが、シズ子さんが書いた文章かと思った・・・

 と驚いて見せてくれた。道新の読者の声欄で「「北の桜守に人生重ねる」と

 いうエッセイで、5歳の筆者が樺太の大泊港で迷子になったという内容。

 昭和20年8月22日に大泊で緊急疎開船3隻が留萌沖などで潜水艦の攻撃

 を受け、約1700人が犠牲となり、その直前に別の船で疎開したとのこと。


 


 私たち一家は幸い3隻に乗れなかったが、3年後の昭和23年の夏に引き

 揚げてきた。当時の筆者と同年齢で末っ子の私だけは大泊に出るのに知人の

 馬車に乗せてもらった。

 私は大泊の港でここで待っていなさい・・・と言われるまま母たちの来るのを

 何時間も泣きながら待っていた。もう自分の人生はこれで終わりか・・・と思

 うほど悲しくて辛い長い時間だった。

 綿糸で編んだリュックの中に自分の小さな人生をぎっしり積み込み、胸には布

 で住所・本籍・親の名前・生年月日と自分の名前を大きく書かれた名札がしっ

 かり縫いつけられていた。が誰も私のことなど気にもとめていなかった。

 大泊はすごい混雑で、主のいない馬が沢山走っていたらしいが、小さな私には

 そんなことは目に入らなかった。ただひたすら身も世もなく泣き続けていた記憶

 だけが鮮明に残っている。父の遠縁を頼って伊達の地に降りた時は、ここは別世界

 天国か・・・と嬉しかった。

 亡き母にも当時のことは辛くて聴けなかったが、あの時のことは、自分の心の

 中に葬っていたように思う。8歳上の姉に聴いても、みんな忘れていたと言っ

 て多くを語らない、彼女もまた自分の中に封印しているのかも知れない。

 私も「北の桜守」を観たいと思っているが大泊港の映像では号泣してしまうか

 も・・・。


  この文章を縮小し加筆して道新の「いずみ」に応募したが多分

  載らないでしょう・・・ふっふ


  ちなみに
  エッセイは載りました
 

 

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終戦記念日とお盆

2023-08-15 12:11:17 | 樺太

今朝が起きるなり

終戦記念日とお盆が重なっていたのだ・・・

日本中が喪に服する日だネ。

そして

ロシアのことをくだくだと話す

今もって強盗の国だ

優れた芸術を生み出した国が一方ではけだもののようなことをしている。

幼いころ家族と旧ソ連から命からがら逃げだしてきた私にとって

もうロシアのことは聴きたくない

今さらだ・・・

聴くたび胸がキリキリ痛む。

ソ連は北海道も乗っ取ろうとしたんだよね・・・

の話はまだまだ続く

その話100回も聴いたもう聴きたくない

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終戦記念日・・・終戦から始まった私たち家族の地獄

2020-08-16 12:51:33 | 樺太

昨日は終戦記念日だった

今年は書くのをよそうかな・・・と思ったが

やっぱり書くことにした。

私は樺太生まれの6人きょうだいの末っ子

終戦までの記憶はない・・・二歳だったから

終戦後

私達は山に逃げた・・・その時の記憶はある

野宿して夜露に濡れた記憶が

そして毎日恐ろしくて毎夜殺される夢を見た。

男はソ連兵に殺され

小さな私も死の恐怖におびえた。

そのうち

祖母を含め8人の大家族は引き上げ船に乗るために真岡の港まで

行ったが満員で乗れず

近所の人と漁船のボートをチャータしたがソ連兵に見つかり

家に帰されたそう・・・

家は荒らされ何も残っていなかった。

その時の記憶は皆無

後年次兄からこのことを聞いた。

でも

急いで船に乗り引き上げた人たちはソ連の潜水艦に襲撃され

尊い命を失った。

私達はその後

家を三つに仕切り

ロシア人の未亡人二家族と23年の引き上げまで三年間

一緒に住むことになった。

その間のことはなんどもブログに書いているので省くが

ある日

ロシアの家族を家に招いたことがある

未亡人二人と子供たち

兄たちはしきりに未亡人を気にして首を下に向けている

私も真似して立膝をしている未亡人のスカートの下をのぞくと

あれまぁー下着をつけていなかった。

すぐに親に怒られた。

 

当時の下層階級の人たちは貧しくて下着を付けていなかったのかなー

と私が言うと

がロシア人の農奴の連中はそういう習慣がなかったのかもしれない・・・

奴隷と同じだったからネ

そういう人たちが戦争にかりだされて・・・云々

話しが長くなるので省略。

 

無事函館に引き上げた私達は仙台出身の祖母の遠縁を頼って

伊達紋別駅に降り立った。

迎えの馬車に乗り

呑気に石蹴りしている子供たちの風景に

足をブラブラさせ

なんてここはのどかな所だろうと

幼心に平和である・・・普通の生活に心躍った。

数か月お世話になった後

私達は今は伊達区になった大滝に引っ越しした。

そこで父は林業を始め

成功して

私だけ大学に入れた。

12歳上の長男は苦学して大学まで出た。

その兄にも学生時代仕送りをしてもらった。

3人の兄たちは皆70代で逝ってしまった。

すぐ上の兄と8歳上の姉だけの3人きょうだいになってしまった。

二度と戻らないだろうと思っていた第二の故郷に帰ってもう

10数年になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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