32 美しさ ー 見知らぬ妹たちに
この文章を読んでくれるあなたが誰なのか私は知らない。だけど、聡明で美しい少女であることを願いながら文章を書く。聡明であると言うのは、そして美しいと言うのは、その事実だけでも大きな価値あるからだ。
以前、人に会うために鐘路にある製菓屋に入ったことがあった。私たちの隣の席には女学生が5,6席を取っていたのだった。ところが、その子たちがケラケラ笑ってやり取りする話を聞いて私は悲しくなった。
その訳は、高1、高2ぐらいの少女たちの対話としては、あまりにも粗雑で下品だったからだ。私達のほかにもかなりの人が傍にいたのだけれど、その子たちは全く隣のことを考えないで、やたらと騒ぎ立てたのだ。そして、言葉使いがひどく、そのまま聞いていることができなかった。言葉使いは人の品格を表すものではないか。また、その言葉使いにより人格を磨くこともできるものだ。だから、日常生活でやり取りする言葉は、私たちの人格形成に、かなり大きな役割を果たしているのだ。ところが、美しい少女たちの口から粗雑で下品な言葉が遠慮なく飛び出てきた時、どうなるのだろう?花の枝を通り過ぎてくる風のように、香り高く美しい言葉だけを使っても、すべて使い尽くせずに死んでいく私たちなのに。
いつか、バスのターミナルで、女車掌同士がやり取りする悪口で始まる言葉を聞いて私はどうしても不愉快でその車から降りてしまった。古いバスから漂うガソリンの匂いは鼻先がつらいだけだが、悪口を聞くのは心の中まで痛んでしまう。それは人間の対話ではなく、下水溜まりで腐っている醜悪な悪臭だ。そんな雰囲気の中に自分を少しでも置いておくことができなかった。悪口が人間の対話として通用しているこの頃の世の中であることを知らない訳ではない。だが、学ぶことができなかったとか、生活環境が無秩序な、そんな子供たちとは同じであってはならないだろうに。
「美しいということはその事実だけでも大きな価値だ」こんな言葉を前に言った。それならば美しいとは何か。外側に粉をこすり付ける、そんな風に化粧をするのが、美しいと言うのでは勿論ない。それはごまかしだ。それはすぐに消えてしまうから。美しさが永遠な喜びならば、それは決して一時的な虚飾であることはない。見れば見るほど新しく咲き出なければならないのだ。そのために美しさは、ひとつの発見であるとも言える。透明な目にだけ映るから。
私はミスコリアとかミスユニバースの類を美しさとして信用することができない。その人たちには、雑誌の表紙や写真館の前にかかっている絵のように魂がないからだ。美しさを政治のように多数決で決定するのはばかげたことだ。そして、ある意味においては、その人達は美しさを治めることよりは、冒瀆しているのだ。美しいと言うことはうわべではないからだ。商品価値ではないからだ。
ところが、人々は美しさと言えば、もっぱら表面だけを見ようとする盲点がある。
だから、美しく見えようとできる限りの努力をする。高い化粧品を買わなければならないし、人が飲むのも難しい牛乳の風呂に入るかと思えば、何々の運動をして、高い服を着なければならなくて、、、
その人達は知らないでいるのだ。かえって、隠れている所から現れると言うのが芸術の秘法であることを。現代人たちは、ひたすら現れている所にだけあくせくとし、残りの隠れている所を忘れているのだ。うわべだけから夢中になって中を治めることを知らないのだ。この点は、われわれのチュンヒャンやシンチョンに学ばなければならない。
ところで、美しさは誰かに見える前に自然に出てくるものだ、花から香りがひとりでに広がるように、ある詩人の言葉であるが、花と鳥と星は世の中で一番、清らかな喜びを私たちに恵んでくれるのだ。しかし、その花は誰のために咲いたものでもなく、自らの喜びと生命の力で咲いたのだ。森の中の鳥も自分の自由な心でさえずり、夜空の星も自ら噴出す自分の光を私たちの心に投げているだけなのだ。それらは、私たち人間のための活動としてそうしているのではない。ただ、自分の中にすでにはらんでいる大きな力の意志を受け入れ、あふれる喜びの中に咲いて、さえずって、光を発しているのだ。
これと同じ、美しさとは中から染み出てくるものだ。澄んで透明な魂が中から外ににじみ出てこなければならないのだ。人それぞれ違った顔をしているのはどういうことか。互いに取り違えないように見分けることができるように、見えない手がそう作り上げたのだろうか。そうではない。それは、それぞれやることが違うからそうなのだ。
顔(オルグル)と言う言葉の根源が魂(オル)の有様(コル)から出てきたと言うが、一人の人の顔の有様がすなわちその人の霊魂の姿なのだ。美しい顔は、今まで美しい行為を通して美しく魂を培ってきたからそうであり、醜い顔は醜い行為だけを積み上げたからそうなのだ。
ならば、美しい、醜いということは、自分以外の誰がそうしたのでもない。自分自身、自らの行為によりそのような有様(仮面)を覆いかぶせたのだ。
悪口うまく言う美人を想像できるだろうか?それは決して美人ではない。そして中身のない美人を考えることができるだろうか。だから、美しさとは、また、聡明であることとつながらなければならない。聡明であると言うことは偶然に手にできるものではないのだ。純粋な集中を通して自分の中に持っていた光が発することだ。私は、あなたが試験の点数とかでぶるぶる震えるそんな少女であってほしくない。勿論、空っぽの頭になってはだめだ。あなたがいることであなたの隣人が楽しくなり香り高くなるような、そんな存在になってくれることを望む。少女と言う言葉は純潔だけではなく、美しく聡明な本質を培う人生の幼い頃と言う意味だ。
あなたの一日一日があなたを形成するのだ。そして、遠からず、ひとつの家庭を、屋根の下に暖かさを形成することだろう。また、その暖かさは隣人に広がり社会を作り上げるだろう。こうやって見る時あなたの「いること」は絶対的なことなのだ。いなくてもいいそんな存在ではないのだ。妹よ、この殺伐とした暗い世の中が、あなたのその清らかな美しさにより、生きるに値するような世の中になるように、どうか聡明になりなさい。あなたがすることが何であるかを探しなさい。それがすなわちあなた自身なのです。(チョンヒョン1971,12)
正月渋谷で若者が集まって大騒ぎをしていた画面が放送されていた。
あの若者の姿を見たら法頂さんはなんていうだろうか
でも、思い起こして見ると、若かった頃は、あそこまで馬鹿騒ぎにはならなかったかもしれなけれど、似たようなことをしていたかも知れない
この文章を読んでくれるあなたが誰なのか私は知らない。だけど、聡明で美しい少女であることを願いながら文章を書く。聡明であると言うのは、そして美しいと言うのは、その事実だけでも大きな価値あるからだ。
以前、人に会うために鐘路にある製菓屋に入ったことがあった。私たちの隣の席には女学生が5,6席を取っていたのだった。ところが、その子たちがケラケラ笑ってやり取りする話を聞いて私は悲しくなった。
その訳は、高1、高2ぐらいの少女たちの対話としては、あまりにも粗雑で下品だったからだ。私達のほかにもかなりの人が傍にいたのだけれど、その子たちは全く隣のことを考えないで、やたらと騒ぎ立てたのだ。そして、言葉使いがひどく、そのまま聞いていることができなかった。言葉使いは人の品格を表すものではないか。また、その言葉使いにより人格を磨くこともできるものだ。だから、日常生活でやり取りする言葉は、私たちの人格形成に、かなり大きな役割を果たしているのだ。ところが、美しい少女たちの口から粗雑で下品な言葉が遠慮なく飛び出てきた時、どうなるのだろう?花の枝を通り過ぎてくる風のように、香り高く美しい言葉だけを使っても、すべて使い尽くせずに死んでいく私たちなのに。
いつか、バスのターミナルで、女車掌同士がやり取りする悪口で始まる言葉を聞いて私はどうしても不愉快でその車から降りてしまった。古いバスから漂うガソリンの匂いは鼻先がつらいだけだが、悪口を聞くのは心の中まで痛んでしまう。それは人間の対話ではなく、下水溜まりで腐っている醜悪な悪臭だ。そんな雰囲気の中に自分を少しでも置いておくことができなかった。悪口が人間の対話として通用しているこの頃の世の中であることを知らない訳ではない。だが、学ぶことができなかったとか、生活環境が無秩序な、そんな子供たちとは同じであってはならないだろうに。
「美しいということはその事実だけでも大きな価値だ」こんな言葉を前に言った。それならば美しいとは何か。外側に粉をこすり付ける、そんな風に化粧をするのが、美しいと言うのでは勿論ない。それはごまかしだ。それはすぐに消えてしまうから。美しさが永遠な喜びならば、それは決して一時的な虚飾であることはない。見れば見るほど新しく咲き出なければならないのだ。そのために美しさは、ひとつの発見であるとも言える。透明な目にだけ映るから。
私はミスコリアとかミスユニバースの類を美しさとして信用することができない。その人たちには、雑誌の表紙や写真館の前にかかっている絵のように魂がないからだ。美しさを政治のように多数決で決定するのはばかげたことだ。そして、ある意味においては、その人達は美しさを治めることよりは、冒瀆しているのだ。美しいと言うことはうわべではないからだ。商品価値ではないからだ。
ところが、人々は美しさと言えば、もっぱら表面だけを見ようとする盲点がある。
だから、美しく見えようとできる限りの努力をする。高い化粧品を買わなければならないし、人が飲むのも難しい牛乳の風呂に入るかと思えば、何々の運動をして、高い服を着なければならなくて、、、
その人達は知らないでいるのだ。かえって、隠れている所から現れると言うのが芸術の秘法であることを。現代人たちは、ひたすら現れている所にだけあくせくとし、残りの隠れている所を忘れているのだ。うわべだけから夢中になって中を治めることを知らないのだ。この点は、われわれのチュンヒャンやシンチョンに学ばなければならない。
ところで、美しさは誰かに見える前に自然に出てくるものだ、花から香りがひとりでに広がるように、ある詩人の言葉であるが、花と鳥と星は世の中で一番、清らかな喜びを私たちに恵んでくれるのだ。しかし、その花は誰のために咲いたものでもなく、自らの喜びと生命の力で咲いたのだ。森の中の鳥も自分の自由な心でさえずり、夜空の星も自ら噴出す自分の光を私たちの心に投げているだけなのだ。それらは、私たち人間のための活動としてそうしているのではない。ただ、自分の中にすでにはらんでいる大きな力の意志を受け入れ、あふれる喜びの中に咲いて、さえずって、光を発しているのだ。
これと同じ、美しさとは中から染み出てくるものだ。澄んで透明な魂が中から外ににじみ出てこなければならないのだ。人それぞれ違った顔をしているのはどういうことか。互いに取り違えないように見分けることができるように、見えない手がそう作り上げたのだろうか。そうではない。それは、それぞれやることが違うからそうなのだ。
顔(オルグル)と言う言葉の根源が魂(オル)の有様(コル)から出てきたと言うが、一人の人の顔の有様がすなわちその人の霊魂の姿なのだ。美しい顔は、今まで美しい行為を通して美しく魂を培ってきたからそうであり、醜い顔は醜い行為だけを積み上げたからそうなのだ。
ならば、美しい、醜いということは、自分以外の誰がそうしたのでもない。自分自身、自らの行為によりそのような有様(仮面)を覆いかぶせたのだ。
悪口うまく言う美人を想像できるだろうか?それは決して美人ではない。そして中身のない美人を考えることができるだろうか。だから、美しさとは、また、聡明であることとつながらなければならない。聡明であると言うことは偶然に手にできるものではないのだ。純粋な集中を通して自分の中に持っていた光が発することだ。私は、あなたが試験の点数とかでぶるぶる震えるそんな少女であってほしくない。勿論、空っぽの頭になってはだめだ。あなたがいることであなたの隣人が楽しくなり香り高くなるような、そんな存在になってくれることを望む。少女と言う言葉は純潔だけではなく、美しく聡明な本質を培う人生の幼い頃と言う意味だ。
あなたの一日一日があなたを形成するのだ。そして、遠からず、ひとつの家庭を、屋根の下に暖かさを形成することだろう。また、その暖かさは隣人に広がり社会を作り上げるだろう。こうやって見る時あなたの「いること」は絶対的なことなのだ。いなくてもいいそんな存在ではないのだ。妹よ、この殺伐とした暗い世の中が、あなたのその清らかな美しさにより、生きるに値するような世の中になるように、どうか聡明になりなさい。あなたがすることが何であるかを探しなさい。それがすなわちあなた自身なのです。(チョンヒョン1971,12)
正月渋谷で若者が集まって大騒ぎをしていた画面が放送されていた。
あの若者の姿を見たら法頂さんはなんていうだろうか
でも、思い起こして見ると、若かった頃は、あそこまで馬鹿騒ぎにはならなかったかもしれなけれど、似たようなことをしていたかも知れない