退屈しないように シニアの暮らし

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さて何をしようか

法頂 無所有より

2013-01-13 10:27:27 | 韓で遊ぶ
35 私の愛誦詩

奥深い山奥は
木霊老人が
岩に座って
私のように、しらみを取って
一人で暮らしているそうだ

チョンマ ユチウォンの「深山」と言う詩だ。詩が何であるかを私はよく知らない。だが、読む度に私の生活の領域に弾力を与る、こんな言語の結晶を私は好きにならずにいられない。いつの頃からか、晩年をどう回向するかを考えた。くちばしが青いくせに今から晩年のことだと、たしなめられるかも知れないが、瞬間から永遠を生きようとすることが生命現象ではないか。ある想像はそれ自体だけでも現在をより豊かに培ってくれることができる。「深山」は私に想像の翼をくれ、9万里の長天を飛ばせてくれる。
しなければならないことをちょいとやってしまって、世間的な仮面をパッと脱ぎ捨てて、私のやり方で生きたい。どこにも気にかかることもなく気軽に、本当に真の姿で暮らしたい。いつか下手な筆字で「深山」を書いて頭のところに貼っておいたら、ある友が、それを見て、なぜよりによって貧乏くさく、しらみを取るのかというのだ。
そんな境地ですることは果たして何であろうか。勿論、仏家では小さな、1匹の虫と言えど殺生を禁じている。私たちとしては何でもないことが、あちら側では一つしかない命が終わることだから。
閑話休題、お腹がすいたら枝の端の果実をとって食べて、疲れたら岩の下の草に寝る。今さらながら、これ以上学び慣れることもない。時には岩の隙間から湧き出る泉を汲んで茶を煎じる。炉の傍に鹿のつがいが寝ている。興がわいたら歌を朗誦しようか。朗々としている歌の声が聞えたら、鶴が降りてきてゆらりと踊りを踊る。
人跡が及ばない深山には鏡が要らない。周りのすべてが私の顔であり、姿だから。暦も必要ない。時間の外に生きているから。一人だから何物も私を汚し縛ることができない。一人でいることは純粋な自分がいると言うこと。自由は一人でいることを意味する。あぁ、何物も山の神のように、あるがままに過ごしたい。(女性東亜1972,11)
コメント
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