退屈しないように シニアの暮らし

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さて何をしようか

法頂 無所有から

2013-01-11 15:24:30 | 韓で遊ぶ
33真理はひとつであるが ― キリスト教と仏教

その3

一株の木
すべての誤解はそれぞれが自分の家にだけ閉じ込められているところからくるものだ。硬く閉じられた扉を開いて、会って話をすると互いが兄弟であることを心の中から感じるようになる。近頃、宗教人同士の集まりが活発になってきてからは、従来の偏見に縛られた理解以前の状態が多く解消されている。
だから何よりも会って話をする事実が重要だ。会わないで話をすることはできない。また、話を通してやっと私たちは会うようになるのだ。会うということは一種の開眼だということができる。なぜならば、話の力で誤解の霧が晴れ、認識の野原が開かれるからだ。今まで見えなかった領域が見え、聞こえなかった多くの音が聞こえるのだ。そして私たちはそれぞれに、悲しく震えている島ではなく、同じ大地に結ばれている不可分の存在であることを認識させられるだろう。
(リグベーダ)にこんな句節が出てくる。
「ひとつの真理を持って賢者たちはいろいろな話をする」
いろいろな宗教を前にして考えた時、吟味するに値する言葉だ。事実、真理はひとつなのに、その表現を違えているだけだ。私は時々聖書を読みながら感じることであるが、仏教の大蔵経を読んでいるような錯覚を起こすことがある。少しも見慣れないとか、異質な感じがしない。また、キリスト教徒が空っぽの心で大蔵教を読んだときも同じだろう。問題は誤った固定観念のせいで、「空っぽの心」の状態に至ることができないところから、理解されないでいるだけだ。
マハトマガンジーの表現を借りると、宗教というのは枝が生い茂ったひとつの株の木と同じだ。枝と見るとその数が多いけれども、幹を見るとただひとつだけだ。同じヒマラヤを見て東側から見るとこうだし、西側から見るとああだと言うだけのことだ。
だから、宗教はひとつに至る個別的な道だ。同じ目的に至る道ならば、それぞれの道を行くからといって少しも間違いになることではない。事実、宗教は人間の数くらい多いと言うこともできる。なぜならば、人々はそれぞれに特有の思考と趣味と行動様式を持っているからだ。
このような眼目でキリスト教と仏教を見る時、毛の先ほども異質感が生じることはないようだ。キリスト教や仏教が発生したその時代と社会的な背景で見て、宗教的である形態は違っていたとしても、その本質にあるものは同質のものだ。宗教は人間がより賢く慈悲深く暮らすためにあるひとつの「道」だからだ。問題は私たちがどれぐらい互いに愛しているかによって理解の濃度が違ってくるのだ。本当の理解は愛から始まるもので「今まで神を見たものはいない。しかし私たちが互いに愛したならば、神は私たちの中にいて、また、神の愛が私たちの中に完成されるのだ。」(ヨハンの7番目の手紙4章12節)(キリスト教思想1971,7)


長かったので3回に分けました
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