退屈しないように シニアの暮らし

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さて何をしようか

法頂 無所有から

2013-01-08 08:54:02 | 韓で遊ぶ
33真理はひとつであるが ― キリスト教と仏教

その2

間違った固定観念
大概の場合、ある宗教を通して宗教生活をする人々は、宗教を持っていない一般人に対して対人関係において寛大だと思う。しかし、その対人関係が異教徒に向かった時、突然変異を起こすことが時々ある。寛大だった雅量は急にしぼみ、ハリネズミのようにとげを逆立てるのだ。
私は、時々こんな扱いを受ける。何かを買うために扉を開いて入っていった時、店の主人は正確な発音で「私はイエスを信じています」と言う。物をいただこうと来た托鉢と誤認して言った言葉だ。気にしないで、物を選んでお金を払って出てきながら振り返って見ると複雑な表情だ。あるいは、キリスト教徒だけで山寺に遊びに来て賛美歌でも歌ったら、気を使って制止する山の僧もまた、いないではない。
これと同じようなほろ苦い現象はどこにその根を下ろしているのだろうか。自分が信じている宗教的な信念からと言うよりも、異教徒ならば無条件に敵対視しようとする排他的な感情に理由があるようだ。
自分が信じている宗教だけが唯一のもので、それ以外のほかの宗教は一考の価値さえないと言う迷信で錯覚している盲目からのものだ。このように独善的で排他的な選人意識が、まるで自分の信心を厚くすることであるように思っているから、自らの視野を塞ぐことになるのだ。よって、そのような浅はかな見識が、読んだ経典とか、聖書の解釈、または非常に危険なことになるのだ。言葉とか文章の後ろにある意志を忘れて、ひとつの比喩に過ぎない表面的な言語に執着しているのだ。多くの宗教が存在している限り、どんな宗教であろうとそれなりの独自的な象徴を必要とする。
しかし、その象徴が盲目的な崇拝物になっていたり、あるいは他の宗教に対して優越を証明する道具として使われたら、それは無意味である。すべての誤解は、理解の前の状態だ。よって、正しい批判は正しい認識を通してだけ降りてくることができる。ところが、間違った固定観念に縛られた一部の宗教人たちは性急にも、認識を経由せず批判からしようとする。勿論、認識がない批判と言うものは、健全な批判精神であることはできないが、私たちの真心で自分の宗教の本質を知ることになったら自ずと他の宗教の本質もわかるようになるのだ。
以前の、キリスト教徒と仏教徒の間に望ましい対話の道が通じなかった原因を探したら、相互間の独善的な我執による誤解にあったのだ。出生間的である愛は偏愛ではなく、普遍的なものだ。普遍的な愛は異教徒を含むすべての隣人に及ぶものなのだ。
筆者が楽しく読んだ(ヨハンの1番目の手紙)にはこんな句節がある。
「神を愛していると言っていながらも、自分の兄弟を憎む人はうそつきだ。目に見える自分の兄弟を愛さない人が、どうして目に見えない神を愛することができるだろうか。」
「神」を「釈迦」に置き換えたら、いかさま仏教徒たちに該当する適切な言葉だ。時々こんな考えをすることがある。今日、もしイエスと釈迦が同じ席にいたならば、どうなるだろうか。誤った固定観念に縛られ、いがみ合う、いかさま信者たちとは次元が違うだろう。断言できないが、その人たちは、意気がよく通じて、わざわざ口を開いて挨拶をしなくても、互いに穏やかな微笑みだけで相対するだろう。彼らの視野は永遠に至っているからだ。彼らの心はひとつも縛られているものがないからだ。
コメント
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