退屈しないように シニアの暮らし

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さて何をしようか

法頂 無所有から

2013-01-02 12:19:35 | 韓で遊ぶ
28 本来無一物

人は生まれてから物と因縁を結ぶ。物がなくては私たちが日常生活営むことができない。人間を指して万物の霊長だと言うことも、物との相関関係を言っているのだ。
内面的な欲求が、物とそれなりの調和が取れていれば人間は余裕のある背伸びをする。同時に、私たちが遭遇するあらゆる性質の苦痛は、この物から来ることも言うまでもない。その中でも、より苦しいのは物自体よりも、それ自体に対する所有観念のせいだ。自分が何かを盗まれたとか、なくしたりした時、つらいと思う。所有観念と言うものがどんなにひどい執着であるかをやっと体験するのだ。だから大概の人は、物をなくしたら心までなくして二重の損害を払わされるのだ。このような場合、執着の染みから抜け出すことを考え省みる回心の作業は、精神衛生上当然なければならないことだ。
問いただして見ると、本質的に自分の所有という物はない。自分が生まれた時から持ってきた物はないのだから、自分の物と言うものはない。何かの因縁で自分のところに来て、その因縁がなくなったから行ってしまったのだ。より極端に言うと、自分の実体もないので、その自分の外に所有がありうる訳がない。ただ、ひと時の間、自分が預かっただけだ。
垣根のない田舎の寺には時々泥棒が入る。ある日、人里はなれた庵に泥棒が来訪した。夜、よく眠れない老僧がトイレに行って来ると裏庭で人の気配がした。何者かが背負子を背負って、立とうとして立ち上がれず、立とうとして立ち上がれず、うんうんうめいていたのだった。米びつから米を一袋いっぱいに取り出しはしたものの、力の仏様が助けてくれなかったのだ。
老僧は背負子の後ろに回って泥棒がもう一度立ち上がろうとした時ゆっくりと押してやった。やっと立ち上がった泥棒がチラッと振り返った。
「何も言わないで背負って行きなさい」
老僧は泥棒にやや低い声で諭しました。2日目の朝、僧たちは夕べ泥棒が入ったと大騒ぎをしました。ですが、老僧は何も言いませんでした。彼にはなくしてしまった物がなかったからでした。
本来無一物。元々ひとつの物もないと言うこの言葉は、禅家で次元を異にして使うが、物に対する所有観念を表現する言葉でもある。後になってその泥棒が庵のまじめな信者になったと言う話だ。(京郷新聞1970,5,14)
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法頂 無所有より

2013-01-02 00:18:36 | 韓で遊ぶ
27 神の町 ソウル

しばらくの間、絶えていた鶯の声を聞きながら、梅雨に溜まった洗濯をしていた日の朝、茶来軒にマクワウリを売る人が来た。老人は頭に載せてきた籠を下ろして甘いマクワウリを買ってくれということだった。境内に商いをする人の出入りができないことが寺院の規則になっているが、久しぶりの訪れた老人の意志を断ることができず、代金40ウォンを払って2個買った。ところが、おかしなことが起こった。お金を受け取った老人はお金にペッペッとつばを吐くではないか。その表情があまりにも厳粛でどうしても理由を聞くことができなかった。
何日か後、一柱門の外でそのマクワウリ売りのおばあさんに偶然に会った。なぜお金につばを吐いたのかと聞くと、その日が商売の初日だったからそうしたと言う事だった。それでよく売れたのかと聞くと、とてもよく売れたと言った。その時お金につばを吐いたその厳粛な表情と似ている姿をどこかで見たような記憶がして私はしばらくその場で考えた。
三清洞の七宝寺に居候していた頃、朝早く山に登るたびに、見たことだ。岩の隙間に婦人たちが食べ物を捧げていたときの正にその表情だった。時には巫女が、谷が騒がしいほどに銅鑼を打ちながら神のお告げを受けていた。特に入試の頃にインワン山一帯と同じ「野外音楽堂」の役割をしていたと言うことだ。
近代化で突っ走っている祖国の首都圏でこのような巫女による占いが健在であると言うことを見て大韓民国の神の町は鶏龍山ではなく正にソウルなのだと思った。この神の山の巡礼者たちは庶民層だけではなく、地位の高い役人のお宅の方も時々いるとことに驚かずにはいられない。宗教と迷信の分水嶺はいろいろとあるが、その中には、正と邪もあるらしい。求めるものが清浄で正しいものか、でなければ邪であり曲がったものかによって、別れるのだ。
寺を訪ねてくる人の中にも寺院をその占いをする神の町と間違ってくる人も時にはいる。そうかと思うと、ある部類の僧侶たちは自分の本業を忘れて人相を観たり、四柱八字を占って命名の業をしてとんでもない道に悟りを開いているのだ。このような場合、宗教と迷信の差は実にあいまいになる。こんな素地が残っている限り偽の詐欺僧が出てくるだけのことはある。今日の朝、あの老人がまた現れた。今度は桃を頭に載せて来た。こうして買ってあげる好意がいつか自分を本業を忘れた僧に変質させてしまうようだ。(東亜日報1969、8、3)


結構、意訳です
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