退屈しないように シニアの暮らし

ブログ巡り、パン作り、テニス、犬と遊ぶ、リコーダー、韓国、温泉、俳句、麻雀、木工、家庭菜園、散歩
さて何をしようか

法頂 無所有より

2013-01-14 12:02:39 | 韓で遊ぶ
36 仏教の平和観

親善競技
休戦ラインを間において事実上戦争状態に置かれている私たちの現実を振り返る時、不安の影はこの片隅、あの片隅に隠れている。政治を生業としている世界のベビー級チャンピョンたちが、地球が狭いというように四方に奔走し、走り回っていることも、ひとえに世界平和を維持するための、あがきと見ることができる。しかし、このような努力にもかかわらず、この地球上には、ただの一日も争いのない日はない。
人間がよい生活をするために準備した機械文明が、思想の類なく月まで到達するような今日。人間の大地からは戦争に基づく殺戮の血なまぐささが日ごとに強くなっているのを見ると、社会構造はどこか間違っているようだ。
人々は幼い頃からたびたび、取り扱う、だけでなく、戦争遊びも兼ねている。おもちゃ屋にはきれいな人形と共に銃と剣も売っているのだ。だから、かわいい小さな手が殺戮する延長に慣れていくように大人が自ら教えているのだ。運動競技の種目の中の拳闘とレスリングと言うのがある。この二つの競技はどんな競技よりも観衆を狂わせる。それが国と国の間の競技であるときは、リングの上で打って打たれる選手だけでなく観衆も共に戦っているのだ。「踏め!殺せ!」という歓声と共に時には石が飛び、酒瓶が投げられる。こんなことを指してそれでも親善競技だという。
人間だけで相対して血を求めて打って打たれる、このような行為が競技種目として脚光を浴びている限り、人間の村で争いがなくなる日は遠い。戦争と言うものは何だろうか。正にこんな競技の拡大版ではないか。今日、戦争は機械文明の発達と共にその様相がだんだん凄絶になっている。非戦闘員まで戦争の渦にまきこまれてしまう。第2次大戦以来、婦女子までも大量殺戮の犠牲になっているからだ。
このような状況の下で、宗教人が過去のように不動姿勢で青山白雲を眺め、超然としていたら、そんな宗教は話にならない。人々が突き当たっている問題は、すなわち宗教の課題だからだ。だから平和に対する念願と努力は、今日の宗教が問題にしなければならない重要な課題の中の一つであるのだ。

仏教と平和思想
仏陀釈迦の教えは、平和が何であるかを見せてくれる、その一つの事実だけを持って、人類の歴史に不滅の足跡を残したということができる。仏教が社会的な実践倫理の基礎にしていることは他でもない慈悲だ。人々を愛し、喜びを与えることを慈と言い、人々を哀れに思い苦しみをなくしてやることを悲と言う。だから慈悲は人間の心性の昇華だということができる。初期の仏教には、母親が子供を愛するように、そんな心を持って、すべての隣人を愛しなさいと強調した。
「母親が自分の一人息子を命をかけて守るように、すべての生きているものに対して限りない慈悲心を起こさなければならない。」(スッタニパイタ149)
この上ない慈悲には、遠い近いとか、敵と同士が別々にありえない。
「私たちは万人の友。すべての人の同情者。慈悲を与える心を育ていつも非暴力を楽しみなさい」(チャンロ648)
「だから敵にも慈悲を施しなさい。慈悲で重ねて満たしなさい。これがすべての仏様の教えです。」(弥蘭陀王問経)
人間の存在において基本的な構造は世の中にあると言う事実だ。ところが、世の中にあると言うものは共にあると言うことを意味する。一人で生きることはできない。互いに、互いに支えあって関係を成して生きているのだ。だから、あちらの不幸が自分に無縁ではない。「これがあるからあれがあって、あれがなければこれもない。」と言う言葉は縁起の公理であるが、それはまた、すべての存在の実像であるのだ。
初期の教団では国家権力に向かって戦争を放棄するように、いろいろな努力をしていた。「恨みは恨みにより解決することはできない。恨みを休止することによりそれは解かれると言った。ピムビサラ王が隣の国のパッチ族を攻撃しようとブルトーに意見を聞いた時、プルトーはいろいろとあちら側の状況を聞いた後で、無益な戦争を引きとめながらこのように言った。
「政治とは、殺さず、害を与えないで、勝たないで、敵に勝つようにもしないで、悲しくさせないで、法によって治めなければならない」(相応部経典第1巻)
そして避けられない時にも、真正面に戦うよりも権智により和平しなさいと言った。

何が平和の敵か
何日か前に映画「ソルジャーブルー」を見て戦争の意味が何であるかを重ねて確認することができた。一つの心に芽生えた憎悪に火がつきはじめた時、その火の力は食い止めることができず燃え上がってしまう。どのような戦争だと言っても本質的な勝利はありえない。すべてが敗者であるだけだ。愚かな憎悪心とつまらない貪欲に自ら乗って「是」となってしまったのだ。世界の動きというのは外形的な現象だけで成り立つことはない。縁起の論理を借りなくても、世界の方向は根源的に各個人の同情と直結されている。だから、その世界の中に生きている個人の思考方式とか行動は、すなわちその世界を形成するものなのだ。
特に影響力を持った世界的な政治家の動作はそれほどに大きい反応を招くのだ。彼らが世界平和のために努力していることは、映画「ソルジャーブルー」を、当事国であるアメリカで作り出したと言うことぐらい幸いなことだ。しかし、根本的な努力は彼らの心から貪欲と憤怒と無知を洗い流してしまうことだ。利己的で自己中心的な固定観念から抜け出し、共に生きている隣人に、施しと慈悲と知恵を与えることでなければならない。国際間に、経済的に均等な分配がなくては、どのような平和もない。過去、平和を壊した原因を思い起こして見る時、絶対多数の意志からではなく、少数の支配階層の行動様式が決定的な役目をした。特に、核兵器が登場した現代戦の結果はどちらの側にも勝利と言うものはありえないようになった。人間に知恵が切実に要求されている理由が正にここにあるのだ。
だから、平和の敵は愚かで融通が利かなくなりやすい人間の心にあるのだ。また、平和を成すことも知恵があって寛大な人間の心にかかっているのだ。だから、平和と言うのは戦争がない状態と言うよりは人間の心性から流出される慈悲の具現である。私たちは噛み付き、むしり取り、戦うために生まれたのではないのだ。互いに支えあって愛するために出会ったのだ。(大学ブリョンボ1971,6,30)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする