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心はまた、何か考えているとその考えの途中では
本人の考えであるという事実を認識できません。
考えたなぁ、知るのは、考えが終わった後で知ることになります。
本当にそうなのか見てください。
ずっと考えている時、考えていると言う覚醒がいつくるのか。
考えている最中に来ますか。出なければ考えが止まった後に来ますか。
考えながらも本人は考えていることを知らないこと、
本人が何かをしているけれど、それをしていることを知らないこと、
本当に不思議ではありませんか。
だから、目を開けているといっても自分が覚めていることではありません。
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「覚めているということ」は自分の意識空間の中に
何か事が繰り広げられているかどうかをすぐに認識したと言う言葉です。
考えとか感じが生じた時
それについていくのではなく
考えや感じが生じたと言うことにすぐに気づくことです。
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食堂でご飯を食べている最中にはわかりません。
全部食べて立ち上がった時にやっと
どれだけ食べ過ぎたのか、はじめてわかります。
修行は瞬間瞬間覚めていることから
はじめます。
食べている瞬間、すぐにわかる人は修行をたくさん行った人です。
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自分の意識は、無意識が本当に何を願っているのかよくわかりません。
意識ではこれを望んでいると言うけれど
いざそれをしたり、手に入れることになるとその時になってやっと
自分が究極的に望んだものはこれではないことを知らされます。
自分の無意識の声を聞きたい時は祈りなさい。
深い祈りは自分の無意識の声を聞くことができるようにしてくれる
特別な通路です。
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私たちの意識はお金と権力、名誉を望みますが
私たちの深い無意識は自分自身を超越する愛、
合一、共感、疎通、ユーモア、美しさ、新鮮感、静けさを望みます。
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静かだといって何もないものではありません。
静かさに耳を傾けて聞いてみると、
世の中をいっぱいに充たした振動を感じることができる。
その世の中の振動を感じながら訊いてみてください。
今、何が聞いているのか、聞いている主人公がどんな姿なのか、
そうしたら、いきなり悟らされます。
聞く自分は元々無く、聞く行為だけがあるという事実を。
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水を見ると水になり
花を見ると花とひとつになり
水に流れていく花を見る。
ソオン僧
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健康ならば健康なほどに体がまるで無いように感じるでしょう。
だからと言って体が無い訳ではありません。
自然ならば自然であるほどに
全く感じなくなることのように見えます。
ですが、努力が無かったことはではありません。
無いようなことが元々あることで、これがまさに私たちの本性であり真理です。
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昔の心ひとつがありました。
そいつが一人でいるのが退屈で
二つに分け合ってみようとしました。
ですが、互いが元々ひとつだと言うことを知っているので
二人で遊ぶことが面白くなかったのです。
将棋をする時に一人で両方をすると面白くないじゃないですか。
だから心は、元々ひとつだったと言うことを忘れてしまって生きようとしました。
そうやってしばらく暮らしてみると元々ひとつだと言うことを
完全に忘れてしまいました。
これがまさに今の私たちの状態です。
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あなたと私が元々ひとつだった事実を完全に体得したら
人生は演劇だと言うことがわかります。
それを悟った自分の最高の表現はユーモアです。
平和で神聖でとても善く見える状態は
一手下です。
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人生はどうせ演劇です。
少しかっこよく演じましょう。
心の画用紙に望む人生を書いてみれば
いつの間にかその絵が生きて走り出します。
どうせなら、他の人と自分が一緒に幸福になるという、
そんな最高でいい絵を描きなさい。