退屈しないように シニアの暮らし

ブログ巡り、パン作り、テニス、犬と遊ぶ、リコーダー、韓国、温泉、俳句、麻雀、木工、家庭菜園、散歩
さて何をしようか

法頂 無所有から

2013-01-07 11:07:32 | 韓で遊ぶ
33真理はひとつであるが ― キリスト教と仏教

ベタニアで会った人々
2年前の冬、西大門にある屋根裏部屋でベタニア学園が開かれている時だった。私は講演の依頼を受け、その席に参席したことがあった。そこに集まった人達は大概が牧師の夫人であると言っていた。だが、私は講演をしながら、おかしな錯覚にとらわれ内々に頭をかしげていた。何人かの聴衆の中の5,6人がどこかで会ったことがある顔だったからだ。どこかで絶対会った事がある人たちなのようだが。それがどこだったのか、知る由もなかった。私が主管していた法会だったのか、でなければ、出家以前に同じ町内に住んでいた方たちだったのか、どこかで見た顔のようだがどうしても記憶の糸が解けなかった。
だが、私は帰ってくる車の中でふと、その顔の正体を思い出したのだ。その顔は実際にどこかで会ったのではなかった。その人たちの内面的な信仰生活が外ににじみ出てきているから、以前に知っていた人として錯覚したのだった。もしかしたら、前世で隣に住んでいた親戚だったかもしれないが。
人同士が親しくなれるということは、外側に現れる表面よりも透明な霊魂によってであるということがわかった。この時の縁で私たちは後日また会うことになった。一度会った人は二度会うことになるものだ。
去年の秋、私は雲水行脚であちこち巡りながら、ある日、日の暮れる頃ソクリ山に立ち寄った。客室で行脚の装束を解いて小川に出てほこりをはらっていたら、
「法頂僧様ではありませんか?」
と言う声が聞こえた。振り返って見ると、あの時ベタニアで会ったお母さんたちだった。意外な所で会って、とてもうれしかった。いつだったか赤い線を引きながら読んだマックスミラーの文章が思い出された。
「四方が暗くなった時、心の深いところで一人であることを感じる時、そして人々が右に左にと通り過ぎて行きながらも誰であるかわからない時に、忘れていた感情が私たちの中から湧き上がってくる。私たちはそれがなんであるかわからない。それは愛でもなく友情はもっとないからだ。冷たく私たちの傍を過ぎていく人たちに「私を知っていますか?」と聞きたい。そうした時、人と人の間は、兄弟の間よりも、親子の間よりも、友達の間よりももっと近く感じるようになる。」
この時、他人は決して無縁な存在ではなく、最も近い自分の分身であることを知ることができる。それでも私たちは互いに何の言葉もなくすれ違ってしまうのだ。


今日も長いので1部です
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法頂 無所有から

2013-01-06 08:53:35 | 韓で遊ぶ
32 美しさ ー 見知らぬ妹たちに

この文章を読んでくれるあなたが誰なのか私は知らない。だけど、聡明で美しい少女であることを願いながら文章を書く。聡明であると言うのは、そして美しいと言うのは、その事実だけでも大きな価値あるからだ。
以前、人に会うために鐘路にある製菓屋に入ったことがあった。私たちの隣の席には女学生が5,6席を取っていたのだった。ところが、その子たちがケラケラ笑ってやり取りする話を聞いて私は悲しくなった。
その訳は、高1、高2ぐらいの少女たちの対話としては、あまりにも粗雑で下品だったからだ。私達のほかにもかなりの人が傍にいたのだけれど、その子たちは全く隣のことを考えないで、やたらと騒ぎ立てたのだ。そして、言葉使いがひどく、そのまま聞いていることができなかった。言葉使いは人の品格を表すものではないか。また、その言葉使いにより人格を磨くこともできるものだ。だから、日常生活でやり取りする言葉は、私たちの人格形成に、かなり大きな役割を果たしているのだ。ところが、美しい少女たちの口から粗雑で下品な言葉が遠慮なく飛び出てきた時、どうなるのだろう?花の枝を通り過ぎてくる風のように、香り高く美しい言葉だけを使っても、すべて使い尽くせずに死んでいく私たちなのに。
いつか、バスのターミナルで、女車掌同士がやり取りする悪口で始まる言葉を聞いて私はどうしても不愉快でその車から降りてしまった。古いバスから漂うガソリンの匂いは鼻先がつらいだけだが、悪口を聞くのは心の中まで痛んでしまう。それは人間の対話ではなく、下水溜まりで腐っている醜悪な悪臭だ。そんな雰囲気の中に自分を少しでも置いておくことができなかった。悪口が人間の対話として通用しているこの頃の世の中であることを知らない訳ではない。だが、学ぶことができなかったとか、生活環境が無秩序な、そんな子供たちとは同じであってはならないだろうに。
「美しいということはその事実だけでも大きな価値だ」こんな言葉を前に言った。それならば美しいとは何か。外側に粉をこすり付ける、そんな風に化粧をするのが、美しいと言うのでは勿論ない。それはごまかしだ。それはすぐに消えてしまうから。美しさが永遠な喜びならば、それは決して一時的な虚飾であることはない。見れば見るほど新しく咲き出なければならないのだ。そのために美しさは、ひとつの発見であるとも言える。透明な目にだけ映るから。
私はミスコリアとかミスユニバースの類を美しさとして信用することができない。その人たちには、雑誌の表紙や写真館の前にかかっている絵のように魂がないからだ。美しさを政治のように多数決で決定するのはばかげたことだ。そして、ある意味においては、その人達は美しさを治めることよりは、冒瀆しているのだ。美しいと言うことはうわべではないからだ。商品価値ではないからだ。
ところが、人々は美しさと言えば、もっぱら表面だけを見ようとする盲点がある。
だから、美しく見えようとできる限りの努力をする。高い化粧品を買わなければならないし、人が飲むのも難しい牛乳の風呂に入るかと思えば、何々の運動をして、高い服を着なければならなくて、、、
その人達は知らないでいるのだ。かえって、隠れている所から現れると言うのが芸術の秘法であることを。現代人たちは、ひたすら現れている所にだけあくせくとし、残りの隠れている所を忘れているのだ。うわべだけから夢中になって中を治めることを知らないのだ。この点は、われわれのチュンヒャンやシンチョンに学ばなければならない。
ところで、美しさは誰かに見える前に自然に出てくるものだ、花から香りがひとりでに広がるように、ある詩人の言葉であるが、花と鳥と星は世の中で一番、清らかな喜びを私たちに恵んでくれるのだ。しかし、その花は誰のために咲いたものでもなく、自らの喜びと生命の力で咲いたのだ。森の中の鳥も自分の自由な心でさえずり、夜空の星も自ら噴出す自分の光を私たちの心に投げているだけなのだ。それらは、私たち人間のための活動としてそうしているのではない。ただ、自分の中にすでにはらんでいる大きな力の意志を受け入れ、あふれる喜びの中に咲いて、さえずって、光を発しているのだ。
これと同じ、美しさとは中から染み出てくるものだ。澄んで透明な魂が中から外ににじみ出てこなければならないのだ。人それぞれ違った顔をしているのはどういうことか。互いに取り違えないように見分けることができるように、見えない手がそう作り上げたのだろうか。そうではない。それは、それぞれやることが違うからそうなのだ。
顔(オルグル)と言う言葉の根源が魂(オル)の有様(コル)から出てきたと言うが、一人の人の顔の有様がすなわちその人の霊魂の姿なのだ。美しい顔は、今まで美しい行為を通して美しく魂を培ってきたからそうであり、醜い顔は醜い行為だけを積み上げたからそうなのだ。
ならば、美しい、醜いということは、自分以外の誰がそうしたのでもない。自分自身、自らの行為によりそのような有様(仮面)を覆いかぶせたのだ。
悪口うまく言う美人を想像できるだろうか?それは決して美人ではない。そして中身のない美人を考えることができるだろうか。だから、美しさとは、また、聡明であることとつながらなければならない。聡明であると言うことは偶然に手にできるものではないのだ。純粋な集中を通して自分の中に持っていた光が発することだ。私は、あなたが試験の点数とかでぶるぶる震えるそんな少女であってほしくない。勿論、空っぽの頭になってはだめだ。あなたがいることであなたの隣人が楽しくなり香り高くなるような、そんな存在になってくれることを望む。少女と言う言葉は純潔だけではなく、美しく聡明な本質を培う人生の幼い頃と言う意味だ。
あなたの一日一日があなたを形成するのだ。そして、遠からず、ひとつの家庭を、屋根の下に暖かさを形成することだろう。また、その暖かさは隣人に広がり社会を作り上げるだろう。こうやって見る時あなたの「いること」は絶対的なことなのだ。いなくてもいいそんな存在ではないのだ。妹よ、この殺伐とした暗い世の中が、あなたのその清らかな美しさにより、生きるに値するような世の中になるように、どうか聡明になりなさい。あなたがすることが何であるかを探しなさい。それがすなわちあなた自身なのです。(チョンヒョン1971,12)


正月渋谷で若者が集まって大騒ぎをしていた画面が放送されていた。
あの若者の姿を見たら法頂さんはなんていうだろうか
でも、思い起こして見ると、若かった頃は、あそこまで馬鹿騒ぎにはならなかったかもしれなけれど、似たようなことをしていたかも知れない
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法頂 無所有より

2013-01-05 07:53:23 | 韓で遊ぶ
31 生きて残った者

ここ何日かの間に、庭には緑の色がざわざわと広がり始めた。去年の秋以来、隠れていた光が再び広がっているのだ。乾いた地に新しい芽が出てくるのを見ると、本当に不思議なだけだ。何もないようにその痕跡を隠していたものが、いつの間にか時期に気がついて光を広げているのだ。
昨日は向かい側の村、ヤンケジャンから、鶏糞を買って、我が茶来軒の周りの花木に埋めてやった。むっとするような匂いが根を通って幹とつぼみに至れば、甘い5月の香りと変わるのだ。大地の調和に敬意を表さずにはいられない。新しい春の土の匂いをかぐと、生命の歓喜のようなものが胸いっぱいに膨れ上がってくる。はだしで踏む畑の土の感触、それは永遠な母性だ。
肥やしを埋めようと土を掘ると、ふと、生きて残っていると言う自任を意識した。私はまだ埋もれないで生き残っているなぁ、と言う思いがした。去年の冬、春川へ行ってきた時もそんなことを感じた。その時どうしたものか、一番後ろの席の非常口側が私の席だった。お墓がいっぱいに並んでいるマンウリ墓地の前を過ぎながら、ふと、私はまだ生きて残っていると言う思いがした。
あえて非常口を通して見た墓地でなくても、今、生存しているすべての隣人は「生きて残っている者たち」であることに違いない。ちょっと目をそらしたら走る車輪に残った命を捧げなければならない私たちの身の上。多くの病気、大量虐殺の戦争、突然の災難、そして自分自身との葛藤、そんな隙間から私たちは本当に上手に死なないで生き残った者たちだ。
死が私たちを悲しくさせるのは、永遠な別れを前にして、ただのひとつだけである命をなくすことだからだ。だから生命はそれ自体が尊い目的なのだ。よって生命を手段として扱う時、それは取り返すことのできない悪なのだ。どんな大義名分であっても戦争が許すことのできない悪であることは、ひとつしかない命を互いに何の呵責もなくただ殺しているからだ。
生き残っている者同士はもっと大切にし合い、互いに面倒を見合わなければならないのだ。いつ、どこで、どのように自身の順番が来るかわからない人生ではないか。生き残っている者である私たちは、ちゃんと生きていけなった隣人の分までも代わりに生きてやらなければならないようだ。だから、私の現存在が残った者としての言い訳にしているのではないか、いつも証明されなければならないのだ。
その日の仕事を終えて屋根の下の暖かさを求めて帰っていく夜の帰路で、人々の疲れた目と目があった。「今日一日も私たちは上手に生きて残ったんだなぁ」と言って挨拶を交わしたい。生き残った者が、零下の寒さにも死なないで生き残った花木に肥やしを埋めてやった。私たちは皆が同じ生き残った者達だ。(中央日報1972,4,3)
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法頂 無所有より

2013-01-04 11:30:41 | 韓で遊ぶ
30 対面

某誰それを知っているかと言うとき「おっ、あの人?知っているどころか、私とはすごく親しい仲さ。学校時代もそうだし、そんな友達だけど、、」といいながら、自分ほどにその人をよく知っている人はいないと言うように威張る人が時々いる。しかし、他人を理解すると言う事のように難しいことが他にあるだろうか。多様で微妙な心証を持った人間を、どうやってすべて理解することができると言うのか。だから人間はそれぞれ一人である。たとえ歯ブラシを一緒に使うくらい間違いのない仲だとしてもそれは他人なのだ。
だから、某誰それを知っているという時、私たちは表面に現れる一部しか知らないのだ。ところが、意外なところで出し抜けにその人と出くわす時がある。道端で無心に咲いている名も知らない草花が、時には私たちの足を止めるように。
筆者はチョギョン禅師に生前にお会いした事がない。筆者が入山する前に禅師はすでにこの世のとの因縁を終えた後だったからだ。施恩を軽くするためにいつもぼろぼろの服を引っ掛けて、生食をしていた禅師。一日に3時間しか眠らず、座禅だけしていた、そして、生涯、山門の外に出入りをしなかったと言うその人が、どんな方なのか、他人が伝える言葉だけを聞いて、どうしてもその像をつかむことができなかった。
そうしていたところ、その僧が暮らしていた庵に行った時だった。そこで私は意外にも禅師と出会ったのだ。一人の門徒が大切にしている遺物を見て。ふと、禅師の切々とした声を聞くことができた。寛大な目元、すらっとした体型までも歴々と見たのだった。このように禅師と対面することになったきっかけは、糸が擦り切れた琴と手垢のにじんだ笙によるものだった。
その時まで私は禅師を誤解していたのだ。水気のない古木のようにまっすぐな修道僧。人間的な弾力と言うものはほんの少しもない凛とした声、問題が生じても少しも妥協を知らない意地っ張りで融通の利かない人だったと思っていたが、庵の片隅に立ててあった琴とその上に掛けられた笙を見て、彼の人間的な余白と出会ったのだった。庵の傍の大きな石に座って休んでいた。松風の音に乗って想像の翼が広がった。清明な月夜、禅師は琴を持って出てきて禅悦に乗った。時には山葡萄酒の杯を傾ける。快活な声で会心の調べを選ぶ。石の上にするっとリスが上がってきた。色づいた葉が少しずつ散る。
彼は冷たい風が漂う律僧ではなかった。経典の句節とか座禅にだけ執着するつまらない道僧でもなかった。その日の対面により、私は生前に一面識もなかった禅師から暖かい親和力のようなものを感じさせられた。勿論私なりに知っている彼の一断面にしか過ぎないが、そうやって出会ったのだ。(京卿新聞1970,6,16)
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法頂 無所有より

2013-01-03 14:39:45 | 韓で遊ぶ
29 まだ私たちには

6月がバラの季節であるだけではない。いまだに深い傷跡に何も感じない私たちには。カインの後裔たちが狂って暴れた6月。言語と風習が同じ同族同士で戦って血を流した季節にも花は咲く。
年端の行かないままポトリポトリと散ってしまった若者たちが、その若い魂が眠っている川の向こうの村ドンジャク洞。そこへ行けば戦争が何であるかを骨にしみてわかるようになる。それも他人でない同族同士の戦い、主義や思想を問いただす前に同族の恥辱である。
しかし、生き残った人たちには、戦争の傷が川の向こうの村ほどに忘れられているようだ。6月がくると一日や二日くらい、ようやく年中行事として集まって散ってしまう軽い記憶。戦争で悔しく死んだ、本当に悔しくも死んでいったその人たちが残した最後の言葉が何だったのかを、私たちはすっかり忘れてしまっているのだ。今日のこの贅沢と虚栄と人の道に外れた行為と埋める術のない格差と断絶のためにその多くの若者が死んでいったのか。
国会議事堂と行政部署が時には国立墓地へ移動してきたら良いと思う時がある。なぜならば、国家の大事を処理する国会議員や高級官吏に戦争の意味を実感させ、生と死の観念的な距離を短縮させてやるため。こんな環境でならば、政治の仮面をかぶった駆け引きや陰謀が、腐敗や不正が、それでも体面を整えようとしないかと思う希望からだ。
何年か前、議事堂の中の風景の一こま。国外の戦争に軍隊を送るか否かという最も厳粛な決断の時に民意を代弁するという、ある「国会議員」たちがコクリコクリと居眠りをしていたのだ。いくら自分自身は戦争には行かないにしても、このようにおろそかな生命の管理がどこにあると言うのだ。それが仮に貧しい私たち立場では、パンと命を交換しなければならないような悲劇的な状況だったとしても。
少なくともその人達は不可を下す前に一度ぐらいはこの沈黙の村に来るべきだった。その多くの若者たちが血を流して命をなくしたとき叫んだ最後の言葉が何であるかに耳を傾け聞かなければならなかったのだ。
戦争が許せないことだと言うことは今さらながら人類史を紐解くまでもない。どんな名目があったとしても、生きようとする命を殺して平和的な秩序を踏みにじる戦争は悪だ。
野獣のように互いに噛んで咥えながら、血を探して発光する殺気を帯びた目が決して私たち人間の目ではないのだ。無数の花が咲くと言うのに、6月がバラの季節でだけあるはずがない。まだ、私たち祖国の山河には。(京卿新聞1970,6,12)

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法頂 無所有から

2013-01-02 12:19:35 | 韓で遊ぶ
28 本来無一物

人は生まれてから物と因縁を結ぶ。物がなくては私たちが日常生活営むことができない。人間を指して万物の霊長だと言うことも、物との相関関係を言っているのだ。
内面的な欲求が、物とそれなりの調和が取れていれば人間は余裕のある背伸びをする。同時に、私たちが遭遇するあらゆる性質の苦痛は、この物から来ることも言うまでもない。その中でも、より苦しいのは物自体よりも、それ自体に対する所有観念のせいだ。自分が何かを盗まれたとか、なくしたりした時、つらいと思う。所有観念と言うものがどんなにひどい執着であるかをやっと体験するのだ。だから大概の人は、物をなくしたら心までなくして二重の損害を払わされるのだ。このような場合、執着の染みから抜け出すことを考え省みる回心の作業は、精神衛生上当然なければならないことだ。
問いただして見ると、本質的に自分の所有という物はない。自分が生まれた時から持ってきた物はないのだから、自分の物と言うものはない。何かの因縁で自分のところに来て、その因縁がなくなったから行ってしまったのだ。より極端に言うと、自分の実体もないので、その自分の外に所有がありうる訳がない。ただ、ひと時の間、自分が預かっただけだ。
垣根のない田舎の寺には時々泥棒が入る。ある日、人里はなれた庵に泥棒が来訪した。夜、よく眠れない老僧がトイレに行って来ると裏庭で人の気配がした。何者かが背負子を背負って、立とうとして立ち上がれず、立とうとして立ち上がれず、うんうんうめいていたのだった。米びつから米を一袋いっぱいに取り出しはしたものの、力の仏様が助けてくれなかったのだ。
老僧は背負子の後ろに回って泥棒がもう一度立ち上がろうとした時ゆっくりと押してやった。やっと立ち上がった泥棒がチラッと振り返った。
「何も言わないで背負って行きなさい」
老僧は泥棒にやや低い声で諭しました。2日目の朝、僧たちは夕べ泥棒が入ったと大騒ぎをしました。ですが、老僧は何も言いませんでした。彼にはなくしてしまった物がなかったからでした。
本来無一物。元々ひとつの物もないと言うこの言葉は、禅家で次元を異にして使うが、物に対する所有観念を表現する言葉でもある。後になってその泥棒が庵のまじめな信者になったと言う話だ。(京郷新聞1970,5,14)
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法頂 無所有より

2013-01-02 00:18:36 | 韓で遊ぶ
27 神の町 ソウル

しばらくの間、絶えていた鶯の声を聞きながら、梅雨に溜まった洗濯をしていた日の朝、茶来軒にマクワウリを売る人が来た。老人は頭に載せてきた籠を下ろして甘いマクワウリを買ってくれということだった。境内に商いをする人の出入りができないことが寺院の規則になっているが、久しぶりの訪れた老人の意志を断ることができず、代金40ウォンを払って2個買った。ところが、おかしなことが起こった。お金を受け取った老人はお金にペッペッとつばを吐くではないか。その表情があまりにも厳粛でどうしても理由を聞くことができなかった。
何日か後、一柱門の外でそのマクワウリ売りのおばあさんに偶然に会った。なぜお金につばを吐いたのかと聞くと、その日が商売の初日だったからそうしたと言う事だった。それでよく売れたのかと聞くと、とてもよく売れたと言った。その時お金につばを吐いたその厳粛な表情と似ている姿をどこかで見たような記憶がして私はしばらくその場で考えた。
三清洞の七宝寺に居候していた頃、朝早く山に登るたびに、見たことだ。岩の隙間に婦人たちが食べ物を捧げていたときの正にその表情だった。時には巫女が、谷が騒がしいほどに銅鑼を打ちながら神のお告げを受けていた。特に入試の頃にインワン山一帯と同じ「野外音楽堂」の役割をしていたと言うことだ。
近代化で突っ走っている祖国の首都圏でこのような巫女による占いが健在であると言うことを見て大韓民国の神の町は鶏龍山ではなく正にソウルなのだと思った。この神の山の巡礼者たちは庶民層だけではなく、地位の高い役人のお宅の方も時々いるとことに驚かずにはいられない。宗教と迷信の分水嶺はいろいろとあるが、その中には、正と邪もあるらしい。求めるものが清浄で正しいものか、でなければ邪であり曲がったものかによって、別れるのだ。
寺を訪ねてくる人の中にも寺院をその占いをする神の町と間違ってくる人も時にはいる。そうかと思うと、ある部類の僧侶たちは自分の本業を忘れて人相を観たり、四柱八字を占って命名の業をしてとんでもない道に悟りを開いているのだ。このような場合、宗教と迷信の差は実にあいまいになる。こんな素地が残っている限り偽の詐欺僧が出てくるだけのことはある。今日の朝、あの老人がまた現れた。今度は桃を頭に載せて来た。こうして買ってあげる好意がいつか自分を本業を忘れた僧に変質させてしまうようだ。(東亜日報1969、8、3)


結構、意訳です
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