退屈しないように シニアの暮らし

ブログ巡り、パン作り、テニス、犬と遊ぶ、リコーダー、韓国、温泉、俳句、麻雀、木工、家庭菜園、散歩
さて何をしようか

とまってみて、はじめて見えること

2014-06-20 07:59:18 | 韓で遊ぶ


私たちの心が世の中に向う時は
忙しい世の中に簡単に流されてしまうが、
その心が内面に向っているならば
どんなに世の中がうるさくても
中心を失わないで平安を見つけることができる。



心を空にしようとしたら、どうしなければならないか、と聞いてくる人が多い。
「心を空にしなければ、、。」と言って心を決めて心を空にしようとしたら
むしろ、より心が混乱します。
なぜならば「空にしないと、、、」と言うことも実は
空にしなければと言う考えだからです。
そうならばどうやって考えを休んで心を空にすることができますか。
正解は、上がってくるその考えをだまって見守ればいいです。
見守る瞬間、考えは休んでいます。






人の意識は普通外部に向っています。
だから自分でないほかの人、あるいは
外で起こったことに対して主に話をするでしょう。
反対に修行者はその意識を心の中に回して
生涯、他人の話をする癖を直して
自分の心の姿を見て、その心に気づくようにします。



一度探ってみてください。
私たちが毎日吐き出す言葉の中に
どれぐらいが本当の自分の言葉で
どれぐらいが他人が言った言葉を寄せ集めて
自分の言葉として変えた言葉か。
自分は本当に自分だけの言葉を、どれぐらいしていますか。
本当の自分の言葉というものがあるのでしょうか。









私たちの中には
外部で起こることを静かに眺める者がいます。
外のことは随時変っても
「眺めるもの」の意識はそのことに関係なく
ただ完全に現在にあります。
人生の苦痛の原因は、自分の中の「眺める者」を忘れ
外部の事件と対象に心を奪われたままついていくからです。



あまり考えないで生きて生きたいならば
実はとても簡単です。
心を現在においておけばいいのです。
考えや心配は、すべて過去や未来の領域に属しています。
現在を考えることができますか。
今まさにこの瞬間、現在を考えることができますか。
やってみてください。どうですか。不可能でしょう。
心を現在に持ってくると考えは簡単になります。







心の中に上がってくる感情を
考えで捕まえなければ
時間が過ぎながらひとりでにその感情が変りながら消滅します。

自分が心を捕まえて考えで捕まえさえしなかったら
心の中に上がってくる居心地の悪い感情は
自分が努力しなくても
自らそれから解放させてくれます。



つらいならばそれを捕まえていながら
しょちゅう「つらい、つらい。」人に話をしながら、嚙み締めないでください。
つらさから開放されたければ
そのつらさを直視しなさい。
そいつの正体を見ていたら、その模様がしょっちゅう変ります。
だから、つらさ、そいつも虚妄なものです。






前に無かったものが今あるとしても
時間が経てばそれはまた全部なくなります。
言葉を聞いて深い霊魂の響きがあったとしても
釈迦や他の聖人が自分の前に現れたとしても、
このすべてのことは、実はみな心の戯れです。
修行者が見つけるものは
すっと前からあったことを見つけるのであり、
なかったのに新しく生じたものを見つけるのではありません。



心と言うのものは一度に二つのことを同時に考えることができません。
二つのことを同時に考えることができるかできないか、よく見てください。
どうですか。できますか。
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止まってみて、はじめて見えること

2014-06-19 07:21:10 | 韓で遊ぶ

6章

修行の章


「自分の心も自分の意志通りにできないでいながら
どうして他の人を変えることができるだろうか」

ただ眺める練習







「和尚様、心が寂しいです。私はどうしたらいいでしょうか。」

ただ、その気持ちをだまって放っておきなさい。
自分が捕まえておかないでだまって放っておけば、その気持ち
知らないうちに、ひとりでに変ります。

庭にある木を見るように、
川辺に座って流れる水を眺めるように、
自分のものだという考えや執着なく
ただ、ぽんと置いてその感じをただ眺めなさい。
「憂鬱だ」言う言葉の後ろに隠れている言語以前の感じ自体を
2,3分だけ息を殺しながら
静かに観察してみると
微妙にその感情が明らかになっていくのが見えます。

その憂鬱な感じは「自分が作らなければ、、、」と
意図的に作ったものではないから。
因縁によってしばしの間、生じた感じだから、
因縁によってまた、自然に消えてしまいます。

ここで、自らがたびたび「憂鬱だ、憂鬱だ」と
言い続けていたら
感情が明らかになる状態なのに
いつも憂鬱な心に戻って
その感じだけがずっと増幅される結果をもたらします。

だから、その言葉、その考えすべて放っておいて
その感じが湧き上がったことに気づいて
ただ、静かに変る姿を観察しなさい。
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止まってみて、はじめて見えること

2014-06-18 05:33:29 | 韓で遊ぶ


人が最も苦痛だと感じることの中のひとつに
自分が関心をもたれず無視されていると感じることだ。
自分でも知らないうちに疎外している人はいないか見回してみなさい。
そして自分があなたを理解したいという心で
その人の話を聞きなさい。



他の人に寂しい感じを感じる時
私たちははじめて自分が以前同じようなやり方で
寂しい思いをさせた人の顔を思い浮かべ
その時になってやっとその人に本当にすまないと感じる。



関係が壊れる時、露骨に
自分の奥底を見せてくれる。
心の稚拙さの終わりに、一歩譲歩しなさい。
その一歩は普通の10歩よりもずっと大きいのです。
そして自分の苦痛の時間を短くしてくれます。




頭では別れなければならないことはわかっているのに
実際にはそうできない理由が何であるかわかりますか。
私たちの感情は頭で理解していることよりも
ずっと深いところに存在しているからです。
頭がもう別れようといっても
自分の中の感情が整理される速度はずっとゆっくり進行します。
だから、ある瞬間、相手から決定打を受けることが起こります。
その人が言葉で、行動で自分に決定打を飛ばした瞬間
自分の胸の中、その人との光が整理され消滅するのが見えます。



道端に落ちているイチョウの実は
愛が終わって完全に満身創痍になった恋人たちを連想させます。
木から落ちる前はよかったその実が
地に落ちると人に踏まれながら意外なにおいが出ます。
因縁を上手く終えようとする努力は
はじめて会ってときめいた時に傾けた努力ほどしてこそ礼儀だということのようです。



一人の人との関係が完全に壊れた後にも
その人に対して悪く話をしないならば
それこそ本当の愛をしたという証拠です。



3年前、捨てるのが惜しいと思っていた物を
部屋の整理しながら、今捨てようと出しておいた
自分を見ながら感じました。
物と別れる時も
人と別れる時のように
心の整理する時間が必要だったなぁ。



別れて
かなり時間がたった後、
心の中に執着がなく
「その人が幸福だったらいいな。」という思いが
道を歩いていてふと思ったなら
私も再び幸福になる準備ができたという信号です。





人のせいで負った傷は人によって再び癒えるという言葉、
絶対に間違いではありません。
しかし、その前に自分を大切にして愛してやる
自分自身だけの時間が必要です。
その時間なくして新しい人に会うと
新しい人を愛するのではなく
間違うと利用することになります。



よい因縁とは。
始まりいい因縁ではなく
終わりがいい因縁です。
始まりは自分と関係なく始まっても
因縁をどのように終えるかは
自分自身にかかっているからです。
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止まってみて、はじめて見えること

2014-06-17 05:32:29 | 韓で遊ぶ


こんな条件、あんな条件、
自分の気に入る人を選んで愛さなければ、と思うと
愛がきません。
なぜならば、愛は自分がすることではなく
愛が愛をすることだからです。
自分を幸福にしてくれる人でなく
自分自身がなくなる愛、
愛するしかないから愛する、
そんな愛が本当の愛ではないですか。



愛する時
条件を見て愛するようになったならば
その条件のために後で別れることになります。
愛は「無条件」でするものなのです。










愛は穏やかです。
愛は暖かい。
愛は自由なものです。
愛は子供のように純粋です。
愛は他の意図がありません。



自分の他の人との親密度を測定することのできる方法は?
自分がその人の前でどれぐらい子供のように振舞うことができるか?

愛すると誰でも子供になります。



私もやはり、教授になるために大学を調べた時
職場を求めることは恋愛することと似ていると思いました。
自分が彼を好きでも彼が自分を嫌いであることもあるし
彼が自分を好きでも自分が嫌いなこともある。
二人共に好きな場合は本当に簡単ではないようです。



おいしいご飯を炊くためには
蒸らす時間が必要なように
信じて引き寄せる時間は
恋愛の勝敗を左右します。



「かけひき」も実は必要です。
相手が自分に5をくれるのに、
自分が相手をもっと愛して15をあげることが
何が悪いという人がいます。
しかし、あまりあげてばかりいる愛は
はじめはいいですが時間が過ぎるほどに
相手は当然だと思って、自分は疲れるものです。



「かけひき」は二人の感情の均衡が保っている時間です。
どちらか一方がより好きになったならば
相手の感情と均衡をとってこそ
ちゃんと愛することができるのです。
だから、「かけひき」の基本は、好きだけどちょっと我慢することです。



「和尚様、私、その若い教授に内心、本当に苛立ちました。
はじめは、その人が嫌いでそうだと思っていたのですが、知ってみると
その教授に関心を持ってほしいのに持ってくれないからそうだったんですよ。」

私は今日学びました。
理由ない苛立ち片思いの表現です、、



小学校に通う時、
私をいじめた私より背の高い女の子が
実は、私を好きでそうだったということを知った時、
人間の心理がどんなに複雑なのか理解することになった。
よくわからない人があなたを不思議にも苦しめるとしたら疑いなさい。
あなたに関心を持ってほしくてそういうことをすりこともあるから。
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止まってみて、はじめて見えること

2014-06-16 02:43:08 | 韓で遊ぶ

愛、
自分が消える
偉大な経験







愛する人よ、私たち二人の間に
名前のわからない神が存在します。
カルリル チブラン

カルリル チブランの本に接したのは高校2年生の時だった。彼がどんな人なのか、どこの国の人なのかも知らないまま、彼の文章にはまった。愛の経験も、人生の苦い味も知らない年だったが、彼の霊魂の巡礼とも言えるような文章は、思春期だった私を生け捕りにした。今、考えてみると、彼の文章が、自分自身さえも理解できなかった、自分の中の神聖な世界に、幼い私を導いたのではないだろうか。
私は彼の本「預言者」「人の子イエス」を読みながら西洋の宗教に対する理解を広げ、善と悪を分ける堅苦しい教理的な解析ではない宗教が、どれだけ美しく神秘的なことなのかを悟ることができた。私は今、僧侶だが、イエスに対する深い尊敬があることは、もしかすると、幼い頃にカルリン チブランに出会ったせいではないかという思いもする。だから私はまだ、彼に大きく感謝する。
そして、その時の、その年齢の私をよりときめかせるものはカルリン チブランと彼の霊的同伴者であるメリ ヘスカルが交わした愛の手紙でした。まだ、愛を経験することのなかった10代の少年の心を揺さぶったその二人。

私は読書室で、一人で勉強しながら送った多くの長い夜をカルリン チブランの詩で終えた。

目に見える愛は小さい。
その後ろにある
大きな愛に比べると、、

彼の文章に盛り込まれた愛と、霊性の聖なる美しさは、私を知ることのできない深い感動へ押していった。愛というものをしたこともないながら、文章の中に盛り込まれた愛が、すでに自分の愛の経験であるように胸に刻まれた。

愛があなたたちを手招きして呼んだなら、それについていきなさい。
たとえその道が苦しくつらくても。
愛の翼があなたを包んだら、それに身を任せなさい。たとえその翼の中に隠されたナイフがあなたを傷つけても。

いつか自分にも愛が訪れたら、私もやはりカルリン チブランの言葉のように、何の計算や恐れることなくひたすら愛に自分の存在を任せようと心に決めた。その愛の後ろに本当の深い苦しみが存在したとしても、その道を黙々と歩いていこうと自らに言った。
しかし、ご存知の通り愛というものは、そんなに心の中に万全な準備をしたからといってくるものではありませんでした。むしろ、愛というヤツは心を使えば使うほど遠くなる性格を持っていたのでした。

そしてしばらく経ったある日、朝早く目が覚めると、ふとわかりました。私にもあのように恋しかった愛が訪ねてきたという事実を。そしてその愛は自分の意志とは全く関係なく、いや、むしろ意志とは反対に自分勝手に訪れたという事実を。
僧侶が初恋を告白することはとても恥ずかしいことだが、そうだった。その時が私の初恋だった。準備ができていようとできていないだろうと、自分の計画や意志とは全く関係なく、突然に自分の心の門を開けて入ってくる、はじめて見る貴重な客、それが私が定義する初恋です。
その人はアメリカから来た宣教師でした。7歳上の彼女は私と友達に英語を教えてくれて、私たちは彼女が韓国語が上手くなるように手伝った。彼女と私は英語の勉強以外にも共通の関心事が多くて、エンヤの音楽が好きで、ルークペソン監督の映画、レミゼラブルのようなミュージカルが好きだった。だから私は彼女に会う度に、彼女が好きそうな音楽を録音したテープを準備したりもした。そうすると、彼女は、直接焼いたクッキーやパイを私にプレゼントしてくれた。私は彼女に会って、互いの言語を学んで音楽の話、哲学の話をすることが好きだった。二人だけで会う時間がないにもかかわらず、私には、彼女と次に会うことがいつも楽しみだった。そしてその期待感が単純なときめきではなく愛だったということにすぐに悟らされた。

しかし、この愛が成就することはありうるのか。はじめから片思いになるしかない運命だった。彼女の目には、私は幼い子供に過ぎなかった。そして、彼女は宣教師として活動をし、半年後アメリカに戻るという予定であり、アメリカには彼女の長い間付き合っている恋人がいた。このように明白な状況であり、あぁ、、さて、これが私の思いのままになることではないではないか。
愛がくると愛は自分の人生の一部ではなく自分の人生全部になる。ただ愛ひとつを残しておいて他のすべてのものは2次的であり重要でない存在となってしまう。考えはいつも彼女の周囲をくるくる回って、私の自我の壁は愛の前にひとつずつ倒れ完全な無防備状態になる。
彼女を思うと世の中で最も高いところへ上がって暖かい日に当たっているような幸福感を感じ、彼女がアメリカに帰るという時間が近づくにつれて私の霊魂の根が根こそぎゆすぶられるような感じを経験した。本当に幸福でありながらあまりにもつらかった。

彼女が帰国する日が15日後になると、私の利己心は徐々になくなり、自分が完全になくなってしまうような気分になった。私は人に話をしたりする。「ただ、簡単に好きだという感情を愛だと呼ぶことのできない理由は、その心の出発が、その人でなく自分が好きだということから始まるからだ。」と。その時、私はまるで自分の中に彼女だけが存在するような経験をした。私の好きなことではない、彼女の存在から世の中のすべてのものが始まるような感情。
あ!だから、カルリン チブランは愛する人と自分の間に、名前のわからない神が存在すると言ったのだなぁ!その時になってやっと理解できた。すでにわかっていて、理解していると思っていた、そのすべての言葉は自分に新しい意味を与えてくれたのだった。その後、私は自らがたくさん成就した気分になり、世の中を眺める目もまたすごく変ったことを感じることができた。

彼女が韓国を去って3年後、私は彼女から一通の手紙をもらった。彼女の結婚の知らせの手紙。長い間付き合っていた恋人とついに結婚式を挙げることになったということだった。当時、アメリカで大学生活をしていた私は彼女の結婚を祝うために飛行機に乗って南部に向いたかったが、そうできなかった。そうするお金も、時間もなかった。しかしそれよりも私を止めたものは、結婚した彼女を見て自分自身がつらくなるのではないかという恐れだった。小さな贈り物を準備して送ることでお祝いに代えるしかなかった。
そして、彼女に再び会ったのはその後2年が経っていた。大学の友達と共に卒業を記念して自動車で大陸横断旅行をした時、彼女が暮らす地域に立ち寄り会ったのだ。彼女と共に会ってくれた彼女の夫は彼女のように優しくいい人だった。

大学卒業後、私はボストン近くのケンブリッジに暮らしながら修士の勉強をすることになった。19世紀末、カルリン チブランの家族がレバノンから始めてアメリカに移民に来て定着したところが、まさにボストンのサウスエンドという町だった。その当時といってもサウスエンドは、大西洋を渡ってきたレバノンの移民が集まって暮らすボストンの代表的なスラム街だったという。しかし、今は典型的なニューイングランド風の美しい赤い壁の建物が並ぶ美しい町だ。カルリン チブランはここに暮らしながら、移民者の子供が通う学校ではじめて英語を勉強し、彼の絵の実力を見抜いた先生の援助で画家として認められるようになった。1904年、初めて開いた個展で、10歳年上のメリ ヘスケルは、彼の芸術的と天才性に魅了され、生涯彼を後援した。そしてカルリン チブランはメリ ヘスケルに根気強く愛と人生の省察を書いた手紙を送って、まさにその手紙が私の10代、そして今までも私の心情に深く入って残っているのだ。

愛があなたにささやいたらそれを信じなさい。
たとえ愛の声があなたの夢を
全部、壊すとしても
愛はあなたの成熟のため存在しますが
あなたを苦しめるためにも存在します。

カルリン チブランの愛情のにじんだ手紙を受け取ったメリ ヘスケルは、ボストンを離れアメリカ南部へ引越し、3年後カルリン チブランに結婚を知らせた。年上の彼女たち、アメリカ南部に行って3年後の結婚の知らせを送った彼女たち、カルリン チブラン愛と私の幼い恋の共通点を発見して私は心の中で自分の愛をより大きくして包んだようにも思う。
今、思うとこのように何でもないのに、あの時はどんなに胸が痛かったか、、、切ない心は消えたが、そこには彼女に対する感謝で満たした。愛を経験させてくれて、自分が消える経験をさせてくれて、私の中に私自身ではない他人でいっぱいになる経験をさせてくれて、その偉大で新鮮な経験を教えてくれて、、、
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とまってみて、はじめて見えること

2014-06-15 12:24:00 | 韓で遊ぶ


愛すると、配慮をします。
配慮は人のために何かをしてあげることも重要ですが
しなくてもいいことをしないで我慢することも
とても重要です。



私たちは関心という名で
人のことに割り込むことが好きです。
割り込まなくてもいいことに助けてあげるといいながら
自分自身と相手を苦しくします。
しかし、それは愛から出てきた関心ではない、
自分の心のままにしたい愛着です。
ほめられたいと思う子供のような心であるだけです。



愛という名前で執着したら
その中に利己的な部分がいつも存在します。
その人を自分が作った枠にはめ込んで置いて
望んだままに調節しようと知ることです。
本当の愛は、あるがそのままを大事にすることです。
春の日差しはあるがままの存在に
ただ、暖かい日差しで照らします。
自分が望んだとおり変えようとしないでください。



どんなに愛し合っている間でも
あまり長い時間が一緒にいると
苦しくなるのが当然です。
愛する時は
一緒に屋根をささえる、
しかし、感覚がある2本の柱のようにしてください。



捕まえようとすると最後には去って
本当に放してあげようとすると、
不思議なことにも本人の意思で去らない。
人がこの理知を知らなければということでしょ。



愛する相手のために何かをたくさんしてあげることも重要ようだが、
もしかしたら、一緒にいてあげることが
もっと深い愛の表現である時もあります。
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止まってみて、はじめて見えること

2014-06-08 07:10:53 | 韓で遊ぶ


愛は
一緒にいてあげること。
いつでも暖かい心と
話を聞く準備ができているということ。
それを信じること。
愛するその理由でなく、他の理由がないこと。
いくら与えても惜しくないこと。
その人を見守ってあげること。



自分が今感じる感情が
愛なのか、そうでないのか分かれる時があるでしょう。
こういう時、愛なのかそうでないのか知ることのできる
リトマス紙のような質問があります。
「自分のものを何でもあげても惜しくないか。」
ひとつも惜しくなければ、愛です。



愛というものはあるがままを愛してあげることです。
愛する人がこうだったらいいのにと望むことは
愛でなく自分の欲望の投影です。
自分の人生を、愛する人を通して生きようとしないでください。
その人の人生を生きるように放っておいてあげることが本当の愛です。



人との因縁は、本人がよくて努力しても
いつも苦しいと感じたら、因縁でないこともありえます。
上手くいく因縁は、そのように苦しく身悶えなくても上手くいきます。
自分をあまりにも苦しくする因縁ならばただ、放っておきなさい。



愛は努力したとしても愛することになるものではありません。
努力が要る愛は偽物です。



映画とか、演劇のキャスティングをする人は多くの俳優に会うけれど、
その役に合う人が現れると一目でわかるといいます。
新しい家や配偶者、ダイヤモンドの指輪を選ぶ特もおなじでしょう。
躊躇する気持ちが残っていると、まだ因縁に会うことができていないといえます。



愛そうとしたら少しかっこよくしなさい。
未練を残すように愛して
あれこれ推し量って自分の中においておかないで。
自分の霊魂の根が根こそぎ抜かれても恐れない
そんな確信を持って愛さなければ、
ちょっと愛したということができないじゃないですか。
愛が苦しいことは実は
他の人のせいではなく
自ら確信がないからではありませんか。



若いあなた。
行動と責任が伴わない、
自分がただ好きだという感情で
愛だと簡単に言わないでください。



ただ好きだという感情がまだ愛ではない理由は
その心の出発がその人がいるところではなく
自分の好きなことから始まっていくるからです。
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止まってみて、はじめて見えること

2014-06-07 03:25:37 | 韓で遊ぶ

5章
愛の章

「愛、自分の意志とは関係なく、ある日ふと
客のように訪れてくる生の貴重な贈り物です。」

平凡な
あなたを愛します

私は平凡なあなたを愛します。
「平凡な者にまで和尚様から直接連絡をいただくとは。」
このように話すあなたを愛します。

法会が終わった後
照れるように近づいてきて暖かい投入を1本差出しながら
「和尚様、差し上げるものがこれしかありません。」
逃げるように去っていく
とても平凡なあなたを愛します。

なぜなら
私たちみなが
実は知ってみると
至極平凡だからです。

どんなにお金や権力が多いといっても
どんなに有名で大きな成功をなしたといっても
どんなに外見が優れていて、頭がよいといっても

人との関係の中で苦しく
家族のことで心を痛め
誰かが一緒にいてもなぜか寂しさを感じ
他人から認められたいという
その心はみな同じだからです。

だから、自ら平凡だという
自分の前にいる
大切なあなたを
愛します。



私たちに愛がなかったら
私たちの人生は大きな意味なく、瞬きする間に
過ぎていくことでしょう。
愛は世の中を現在に停止させておく能力があります。



愛がある時、世の中が美しく見えます。
美しく感じることは自分の中に愛があるからです。
人生の中で愛がかれていくと感じる瞬間、瞬間
美しさを身の回りで探して感じてみなさい。
そこに愛が存在します。



あなたが美しい理由は、
他の人より素敵で能力があって、魅力的だからでは
ありません。
世の中にあなたのような存在があなたしかいないからです。
特別なあなたをあなたから愛してください。



夜空の無数の星の中にひとつを見ます。
地球の多くの人々の中で自分が今、その星を見ます。
人と人の出会いもこのように数千万分の1の
偶然のような必然で因縁を結びます。
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止まってみて、はじめて見えること

2014-06-06 05:16:47 | 韓で遊ぶ


「あの人はあまりにも政治的だ。」
このように言う人が実はより政治的です。



誰かから尊敬を受けること、
それは本当に簡単なことではありません。
人生の目標を金持ちよりは
他人から尊敬を受ける人になるということにしなさい。



生きていくうえで最も大きい祝福の内の一つが
本当に尊敬に値する人物を個人的に知ることになる場合です。
歳月の垢がついて世の中を嘲笑と冷笑で眺めたとしても
その尊敬する人物は心の中の明るい灯台のように
人生の基準点、理想点になるからです。



人生という投手は
私たちが全然予想できないカーブを
私たちに見たところでは、何の理由なく
ただ私たちに向かって、急に投げてきます。
こういう時、絶望しないで、
自分が一人ではない事実を忘れないで、
夏の暑さが過ぎていくように、そして過ぎていけという考えで
がんばらなければなりません。



30代中盤とか40代に入って、ふと感じます。
「あー、私の人生は結局これで全部か。たかがこれだったのか。」
その悲しく虚しい心、私もわかります。



人の人生を変化させるものは
正しい言葉よりは
その人に向かった愛と関心です。
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止まってみて、はじめて見えること

2014-06-05 03:42:31 | 韓で遊ぶ


家やピアノのような一度買ったら長々と使わなければならないものは
自分の身の程に合わせて判断される「ちょっといいもの」より
どうせなら、「一番いいもの」を選びなさい。
今は、ちょっといいものならばいいと考えたかもしれないが
時間がある程度過ぎると必ず後悔することになります。



いい顧客とは
「専門化にお任せします。」という人ではありません。
自分が望むことを正確にわかっていて
それを上手く伝える人です。
そんな人が仕事を簡単にしてくれます。
なぜならば、言わなかったと言って
その心の中に望むものがないわけではないからです。



何か問題が生じた時
問題を起こした当事者を直接訪ねていって解決をしなければならないのであって
その周辺の人を通して解決しようとしたら
ことばかりねじれて解決策が出てきません。
単刀直入に、不都合でも当事者を直接訪ねて行きなさい。



知れば知るほど
知らないと思い、
知らなければ知らないほど
知っていると思います。



社会の現象に対して一刀に切って話をすることは
大概その複雑微妙な内容を深くよく知らないからです。



何かを学ぶ時、最も大きな障害は
知らないのに知っている振りすることです。
知らないと話して、まさにそこから学べばいいのに
知っている振りをするから、ずっと知らなくても知っているように演劇しなければなりません。
自尊心を捨てて正直になればすぐに手に入れることができます。



自分には
経験のない純粋感よりは
傷ついた霊魂の慈愛が
より、美しく見えます。



誰かを説得したいということは
実は自分自身が完璧に説得されないからだということもできます。
私は道を歩き回りながら、自分が男だということを信じろと
言い立てたりしません。
なぜならば、あまりにも当然だからです。



この世の最高のブランドの服はまさに
自身感を着ていることです。



考えが信念で固くなると
人生の中に存在する当然な姿は見えず
自分の信念だけ守ろうとします。
目の前の当然な現実を見ることができなくする固い信念は
だから、危険です。
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