主がいかに親切であるかを味わい、これを見つめよ。(詩篇三四・八ドイツ語訳)
今日の世界に向かい、一度このように叫んでみたら。おそらくあちこちで抗議のこぶしが振り上げられます
・・「神が親切?それなのに毎日、恐ろしいことが起こるのか?ばかを言うな!」
フランスのある小説で、一人の母親が「愛する神様は犯罪者に違いない。こんな子どもたちを奪ってしまうなんて!」と絶望して叫びます。
また、ある著名人が書いています「自分たちは神から告発されねばならないと思い込んできた。が、今では、言わねばならない、
『もし今日告発される者がいるなら、それはキリスト者の神だ。告発するのは、痛められ苦しんだ人類だ』と」。
これらの抗議の前に、ダビデは「神の親切」という彼の詩を引っ込めるべきか?。
確かに神は隠れたる神。神は義人ヨブを貧しくし、病気にし、灰の中に座らせました。神はまた、偉大なパウロを牢獄の闇に迷い込ませます。
しかし、それでもなを、我々は世に向かい、「主の親切を味わい、見つめよ!」と叫びたい。神の憐み、愛、恵みを示す確かな証拠が一つあるからです。イエス・キリストの十字架。
暗い世界に立つ、神の愛の灯台です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」・・信仰をもって十字架を見上げない人には、
相変わらずすべては闇に沈んでいるでしょう。が、この少し前に歌われるのです。「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた」(詩篇三四・五)
主よ!我らの目を開き、ゴルゴタで示されたあなたの愛を見させて下さい。アーメン
ヴィヘルム・ブッシュ著 「365日の主」より