「日本書紀」に次のような内容が記述されている。
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斉明(さいめい)女帝の4年、西暦658年、
昔の季節区分法では夏の4月に、
北陸の国守、阿部比羅夫(あべのひらふ)が
180艘の軍船で蝦夷(えみし)を討ちに向かった。
秋田・能代の2郡は、船団を眺めただけで恐れをなして降伏したので、
軍をまとめて、船団を
秋田の浦に接岸した。
秋田の蝦夷
恩荷(えみし おが)が進み出て、
「私どもが弓矢を持っているのは、官軍に刃向かうためではなく、
食料とする獣を獲るためです。
もし、官軍にたいして弓矢をもちいたら、
秋田の浦の神から
罰を受けるにちがいありません。
心から朝廷にお仕えいたします。」といった。
恩荷に「小乙上しょうおつじょう」という位(くらい)を与え、
能代と津軽2郡の郡領(こうりのみやつこ)という役職に就けた。
小乙上は19ある位のうちの17番目。
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私自身にわかりやすい内容に変えてあるが、以上のような簡単な内容にすぎない。
ところが、実は、この部分に関してはさまざまな説が提唱され、
「男鹿市史」には、有名な学者たちの解釈がいくつも羅列されている。
問題になっている点を上げる。
「おが」と仮名をつけたけれど、「おんか」あるいは「おに」ではないかという説がある。
日本書紀は漢文で書かれているから発音はわからないのだ。そして恩荷とは誰かが不明なのである。
読みやすくするために「秋田」の漢字を使用したが、実際は「齶田」である。
その「齶田の浦」はどこで、「齶田の浦の神」はどこに祀られていたのかという謎がある。
諸説の中から、男鹿に傾斜した部分をつなぎ合わせると次のようになる。
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「恩荷(おが)」はもともと地名が先か、人名が先かはわからないけれど、
男鹿半島にすむ酋長であった。
「秋田の浦」は現在の秋田市ではなく船川湾で、「秋田の浦の神」は赤神神社である。
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いつものごとく酔いとともに、恩荷の時代にタイムスリップし、幻想の中をさまよい始めたが、なんとなく、違和感がある。
なぜ、恩荷は戦わずに恭順の意を表したのだろうか。
井沢元彦「逆説の日本史」の「大国主神の国譲り」と同じように見ることもできないわけではない。
つまり、"オオクニヌシは、実際は戦があって殺されたのだが、アマテラスの権威を高めるためと、アマテラスの子孫はこの国の統治権を先住者から正式に譲られたのだ、という二点を強調するために、戦争は一切なく平和裡に、それも自発的に譲られたのだという話にした。"ということである。
怨霊信仰から、死者に位を与えることも繰り返されてきているから矛盾しない。
しかし、恩荷の場合はこれとは別な気がする。
教科書などの影響で、私たちは蝦夷(えみし)といえば、中央政権と完全に隔絶した存在だったと誤解してしまう。
しかし、隣り合った集落同士は情報交換もあったし、物流も盛んに行われ、結婚による人的移動もあった。隣の隣り、その隣り、そのまた隣りと、どこまでも鎖の輪は続いて繋(つな)がっていた。
そのことは、この時代より1000年以上前の青森県三内丸山縄文時代遺跡からの出土品に、岩手県久慈市の琥珀(こはく)、秋田県産の天然アスファルト、北海道や佐渡島産の黒曜石、新潟県糸魚川流域の翡翠(ひすい)があったことでもわかる。
恩荷は北陸と交易があり、阿部比羅夫(あべのひらふ)とは遠征以前からなんらかの形で結ばれていたはずである。
恩荷が弓矢を持った狩猟民のように描写されているけれど、狭い男鹿半島の中では、獲物などたちまち獲りつくししまい、多くの人間が暮らしていくことなどできない。平地では稲作も少し行われ始めていたが、秋田市から能代までを加えても似たようなものだ。弓矢をもった狩猟民は、より山中で暮らしていた「まつろわぬものたち」の姿で、より戦功があるように描写したのだろう。
恩荷と阿倍野比羅夫は、ピンポイントの基地をつくるための、あらかじめ脚本があった「できレース」だったような気がする。
参考:
■日本書紀 宇治谷孟 講談社
■男鹿市史
■古代史上の秋田 新野直吉 秋田魁新報社
■秋田県の歴史 山川出版社
■蝦夷・粛慎・恩荷(秋田古代史に現れる諸呼称の解明)北条忠雄
HPで検索して全文を見ることができる。
■秋田の歴史 読売新聞社秋田支局編 三浦書店