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kmitoh 春夏秋冬

水生生物雑記帳・男鹿半島幻想・接写と拡大写真

ドクウツギ

2009-07-17 16:26:35 | 植物
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 ドクウツギの実が黒くなっていた。
 中にはとろりとした液体と種が入っていた。
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 猛毒のこの種の種(たね)を、どんな生物が運んで拡散させるのだろうか。
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続 男鹿半島幻想 三笠の松

2009-07-17 14:30:05 | 男鹿半島幻想
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 遠景が一ノ目潟(いちのめがた)


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 八望台近くから、一ノ目潟の北側を通って、湯本へ降りる山道がある。
 少し降りると、道脇の松に、「三笠の松」と書かれた標識があった。
 松周辺は草が刈られて大切にされていることがわかる。

 八望台と命名したのが三笠宮で、記念樹が植えられたのだろうかと思ったが、
人が通ることなどめったにないこんな場所に植えるはずはないだろう。
 
 家に帰って調べると、八望台命名は高松宮だった。
 
 大坂谷武さんが、湯本のことについて詳しいと聞き、電話をして教えていただいた。
 
 武内神主(武内真康)が、八郎太郎を討とうと、この松に隠れてやって来るのを待っていた場所だというのである。
 
 竹内神主と八郎太郎の戦いについては、片目の魚に詳しく書いた。
 

 調べると「男鹿の昔話」にも載っていた。
 読んではいたけれど、ただ、隠れていた松が記念樹になっているとは知らなかった。

 
 参考:男鹿の昔話 男鹿市教育委員会

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ヒメカノコテントウ、アカハナカミキリ、ツマグロキンバエ

2009-07-12 17:35:28 | 男鹿の小動物
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同上
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同上
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同上
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ヒメカノコテントウ 4mm 合焦点範囲が狭いため画像を合成している。
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同上
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アカハナカミキリ 
 「遊工房」さんから教えていただきました。)
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ツマグロキンバエ
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ツマグロキンバエ
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 玄関脇にあるシャスタ・デージー(多分)に虫が次々に飛んでくるので、
「接写と拡大撮影」に載せた自作レンズで撮影した。
 風がけっこうあり、レンズは自動絞りでないためファインダーは暗く、
撮影はむずかしかった。
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 生物名はいつものどおりわからない。
 交尾していてくれると成体だと確認できるのでありがたい。
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続 男鹿半島幻想 日本書紀、恩荷

2009-07-10 12:14:44 | 男鹿半島幻想
Oga09071001


 「日本書紀」に次のような内容が記述されている。

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 斉明(さいめい)女帝の4年、西暦658年、
昔の季節区分法では夏の4月に、
北陸の国守、阿部比羅夫(あべのひらふ)が
180艘の軍船で蝦夷(えみし)を討ちに向かった。

 秋田・能代の2郡は、船団を眺めただけで恐れをなして降伏したので、
軍をまとめて、船団を秋田の浦に接岸した。
 
 秋田の蝦夷恩荷(えみし おが)が進み出て、
「私どもが弓矢を持っているのは、官軍に刃向かうためではなく、
食料とする獣を獲るためです。
 もし、官軍にたいして弓矢をもちいたら、秋田の浦の神から
罰を受けるにちがいありません。
 心から朝廷にお仕えいたします。」といった。
 
 恩荷に「小乙上しょうおつじょう」という位(くらい)を与え、
能代と津軽2郡の郡領(こうりのみやつこ)という役職に就けた。

 小乙上は19ある位のうちの17番目。

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 私自身にわかりやすい内容に変えてあるが、以上のような簡単な内容にすぎない。
 ところが、実は、この部分に関してはさまざまな説が提唱され、
「男鹿市史」には、有名な学者たちの解釈がいくつも羅列されている。
 
 
 問題になっている点を上げる。

 「おが」と仮名をつけたけれど、「おんか」あるいは「おに」ではないかという説がある。
日本書紀は漢文で書かれているから発音はわからないのだ。そして恩荷とは誰かが不明なのである。

 読みやすくするために「秋田」の漢字を使用したが、実際は「齶田」である。
その「齶田の浦」はどこで、「齶田の浦の神」はどこに祀られていたのかという謎がある。
 
 
 
 諸説の中から、男鹿に傾斜した部分をつなぎ合わせると次のようになる。

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 「恩荷(おが)」はもともと地名が先か、人名が先かはわからないけれど、
男鹿半島にすむ酋長であった。
 「秋田の浦」は現在の秋田市ではなく船川湾で、「秋田の浦の神」は赤神神社である。

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 いつものごとく酔いとともに、恩荷の時代にタイムスリップし、幻想の中をさまよい始めたが、なんとなく、違和感がある。
 
 なぜ、恩荷は戦わずに恭順の意を表したのだろうか。

 井沢元彦「逆説の日本史」の「大国主神の国譲り」と同じように見ることもできないわけではない。
 つまり、"オオクニヌシは、実際は戦があって殺されたのだが、アマテラスの権威を高めるためと、アマテラスの子孫はこの国の統治権を先住者から正式に譲られたのだ、という二点を強調するために、戦争は一切なく平和裡に、それも自発的に譲られたのだという話にした。"ということである。
 怨霊信仰から、死者に位を与えることも繰り返されてきているから矛盾しない。
 
 
 しかし、恩荷の場合はこれとは別な気がする。
 
 
 教科書などの影響で、私たちは蝦夷(えみし)といえば、中央政権と完全に隔絶した存在だったと誤解してしまう。
 しかし、隣り合った集落同士は情報交換もあったし、物流も盛んに行われ、結婚による人的移動もあった。隣の隣り、その隣り、そのまた隣りと、どこまでも鎖の輪は続いて繋(つな)がっていた。

 そのことは、この時代より1000年以上前の青森県三内丸山縄文時代遺跡からの出土品に、岩手県久慈市の琥珀(こはく)、秋田県産の天然アスファルト、北海道や佐渡島産の黒曜石、新潟県糸魚川流域の翡翠(ひすい)があったことでもわかる。

 
 恩荷は北陸と交易があり、阿部比羅夫(あべのひらふ)とは遠征以前からなんらかの形で結ばれていたはずである。
 恩荷が弓矢を持った狩猟民のように描写されているけれど、狭い男鹿半島の中では、獲物などたちまち獲りつくししまい、多くの人間が暮らしていくことなどできない。平地では稲作も少し行われ始めていたが、秋田市から能代までを加えても似たようなものだ。弓矢をもった狩猟民は、より山中で暮らしていた「まつろわぬものたち」の姿で、より戦功があるように描写したのだろう。


 恩荷と阿倍野比羅夫は、ピンポイントの基地をつくるための、あらかじめ脚本があった「できレース」だったような気がする。
 
 
参考:
  ■日本書紀 宇治谷孟 講談社
  ■男鹿市史
  ■古代史上の秋田 新野直吉 秋田魁新報社
  ■秋田県の歴史  山川出版社
  ■蝦夷・粛慎・恩荷(秋田古代史に現れる諸呼称の解明)北条忠雄
        HPで検索して全文を見ることができる。
  ■秋田の歴史   読売新聞社秋田支局編 三浦書店
 
 


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ゴイサギ

2009-07-07 18:50:27 | 男鹿の鳥
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大潟村


 ゴイサギも巣を作っていたようだ。
 
 私は、なんのために今日のような猛暑の中、じっとして鳥を撮影したりしているのだろう。
 鳥をかくべつ好きだというのではないのに。
 
 
 昨日も、私より歳下のひとが亡くなったところへ行ってきた。
 数日前に周囲の人が次々に死んでしまうことを書いたが、
みんな、逆縁というのか、親が残されているという共通点があったことに気づいた。

 一休の「親死ぬ 子死ぬ 孫死ぬ」という言葉がが幸せを表しているのだと、つくづく納得する。

 
 私たちの子どもの年代が、寿命が短くなるといわれてきたが、
私の年代、子どもの頃に食べるものがなかった年代こそが、
短命なのかもしれない。
 
 
 写真はもっと他のものも撮影したが、
暑さの揺らぎで、載せれるようなものではなかった。
 
 
 

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