弁天島 2004.11.27
双六(地名)の小さな岩は、館山崎と潮瀬崎の間、岸近い場所にある。
(1)菅江真澄「男鹿の寒風(さむかぜ)」
「むかし、双六の浜には囲碁の石にできるものがたくさんあった。
それを、殿が双六用の石として愛用されたので、双六という地名になった。
いまは、岸辺が深くなり、石はなくなってしまったという。
この年の6月ころ、磯近くにある岩に厳島姫を祀った。
だから、この村人たちは弁天島と呼んでいる。」
厳島姫は、市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)のことである。
本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)によって、市寸島比売命の本来の姿は、
弁天だということになった。
天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)が、
どちらが正しいのか誓約(うけい)をした。
そのとき、天照大神が須佐之男命の十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取り、
3つに折り、噛み砕いて吐きだした霧から3柱の女神が生まれた。
そのなかの1柱が市寸島比売命である。
(2)菅江真澄「男鹿の秋風」
「双六の浦というところにきた。
むかし海士の家が 四、五、六 あったのでこう名づけられたという。」
地名由来の違いは何を意味しているのだろうか。
菅江真澄は、なぜ双六と名づけられたかをわかっていたが、
語らなかった。
双六の隣は椿地区である。
白山信仰の宣布者、八百比丘尼(やおびくに)がツバキを植えながら
信仰を広げていったところである。
赤神神社や増川八幡にも残っている木の仏像を彫りながら
各地をめぐり歩いた円空は白山の聖(ひじり)である。
菅江真澄は、白山信仰と関係が深い白太夫の出自で、
円空の足跡をたどって蝦夷にまで渡っている。
「椿」に隣接して「双六」があれば、
白山信仰と関係が深い「双六谷」からきていることを
知っていたはずである。
注:
あくまでも私の幻想です。
白山を開山した泰澄 682-767
円空 1632-1695
菅江真澄 1754-1829