御成小学校に入学は昭和25年4月でした。まだ戦争の後の食糧事情の悪さで食べ物は麦の多く入ったご飯とすいとんが主食だったようですが余り記憶にはありません。家の近くは小町の商店街が近かったせいか余り食べ物には不自由しなかったのではないでしょうか?これは横須賀に近く旧海軍の高級将校や進駐軍の高級将校が接収した家に多く住んでいたためだろうと想像しています。しかしながらうる覚えでは母の自転車の後ろに乗って藤沢の鵠沼本町にある母の親戚に食料品を買出しについていった事は覚えており、戦後の親達(特に母親)の大変さを今になってありがたく、育ち盛りの子供4人のために身を粉にしていたのだなと改めて感謝をしております。
近所の酒屋の角屋さん、米の谷口屋さん、八百屋の八百万、魚の魚浦さん、石炭や炭の宮治さんなど色々なお店があって、お使いに行くのが楽しみでした。酒屋さんは一升瓶を持って四斗樽から升で量り売りをしてくれ、米屋さんは米穀通帳をもって米を買いに行きその作業を見るのが好きでした。今では八百万は閉店し、同級生のオサムちゃんは引退して大船に住んでいます。ちなみに小町通は殆どが友達のうちが商売をしていて今のような観光通りではありませんでした。記憶に間違いがあるかもしれませんが順番を追っていくと今の三菱東京UFJ銀行の隣には『おはこ』という小料理兼すし屋がありここは鎌倉文士の溜まり場でした。東京から帰ってくる文士が必ず寄るという小粋なお店でした。隣はご存知イワタコーヒー店、今でこそテレビに取り上げられていますが、昔はこじんまりとした店で奥の中庭では夏はハワイアンバンドが入っていました。
ここからは同級生や友達の店を思い出すままに書いてみます。
入ってすぐの磯見ビルはひまわり洋装店の鈴木君、隣は川古江屋の新井田の壮ちゃん、電気屋のカナ君、時計屋の平野さん、とんかつ屋の三岡君、靴屋の勝又君、東洋肉屋の小松君、米屋の加藤輝ちゃん、美人の藤田のサッチャン、経師屋の金子君本当に色々なお店があり、殆どが御成小学校の友達で先輩も後輩も沢山居られました。
駅前通りには今もある松風堂さんの夫婦饅頭が有名ですが、店主の山崎さんも親しくさせて頂いた方で、戦後はアイスキャンデーも作っておられました。ちなみに店名は作家の村松松風さんが名づけたそうです。
当時は面白くて私の住んでいる警察の裏は駅を通らないと小町の踏み切りか、ガードを曲がり佐藤病院を通って御成小へ行かざるを得なかったので特別にこの幅の中の生徒には駅を通行する所謂通行定期のようなものが発行されていました。これは非常に便利なものでこれで電車に乗れるのです。遠く戸塚や大船から来た友達とこれを使って電車に乗り大船に行き又帰ってくると言う冒険も出来ました。今のように管理されていない国鉄ですから赤字の原因はこれだったのかもしれません。特に北鎌倉の駅は出入り自由で北鎌倉の友達のところへはよく行きました。
電車賃も子供5円か10円位だったので余り罪の意識も無いし、毎日通っていると駅員とも仲良くなりそれこそ家に遊びに来る駅員も居ました。
家は警察の裏で署長が転任してくると挨拶に来るほどのお隣さんだったので、警察の賄をやっている佐藤さんご一家とも親しく警察情報はいつも聞いておりました。その一つはあの血のメーデー事件の以後の左翼運動の取り締まりに子供を使った捜査なども後で考えたらあったので変な納得をしたものでした。
当時夏は鎌倉の海岸は大賑わいで当然左翼運動対策などあったのでしょう。ある刑事さんと海に行って広告塔の下を掘るように言われたのです。子供が砂遊びをしているふうを装って、爆弾だか拳銃だかを探すと言う事だったようです。丁度その頃は戦争反対運動や、その悲惨な展示物を見せる今で言う巡回博覧会みたいな事をいまの山下飯店のあるところでやっていて、グロテスクなものを見た記憶があります。
4年生からは英語の授業と言ってもローマ字の読み書きが始まり、久保田先生と言う女性の先生から英語と言うものをはじめて習い始めました。多少難しい事ではありましたが今でもその教えられた事は基礎になっているのかもしれません。御成小学校には校庭に大きな欅の木があります。これはこの学校のシンボルだと思っています。当時はもう大木で登る事さえ出来ないくらい大きくて、大人になってからも時々会いに行ったものでした。
結婚して子供たちも御成小学校に入り後輩になりましたが、もし地震や津波などで家族がバラバラになったときは御成の欅の木に集合と言い聞かせたものでした。
御成のもう一つの遊び場は西側の山にある防空壕のトンネルです。まだ戦争の傷跡がある鎌倉には多くのトンネルがありました。今の市役所の山側にはレンガ積みの結構立派なトンネルがあり、行き止まりでしたが良く入って秘密の隠れ家とか言って遊んでいましたが、向こう側に出られるトンネルもあり子供の好奇心を集める遊び場が随所にあり事欠きませんでした。鎌倉駅西口の正面今の紀伊国屋のところは鎌倉ローンテニスクラブでその奥は諏訪神社で行き止まり、学校のぐるりは土盛りの低い樹木の塀になりいかにも御用邸の面影を残していました。
そして何よりの自慢は校門と校歌でした。校門はコンクリート造りではありますが黒の鳥居型で欅の表札に高浜虚子の筆になる御成小学校の文字が墨痕鮮やかに書かれているのです。又校歌は鎌倉の風情とマッチしたとても言い歌詞なので如何にご紹介致します。
松の碧(みどり)につつまれて、歴史に富める鎌倉に
吾等幸あり、日毎学ぶ
光明(ひかり)はかがやく 吾等の前途
いざいざ御成小学の誉れを挙げむ 勤(いそ)しみて 作詞 佐々木信綱
昭和25年から31年にかけては所謂、Always 三丁目の夕日の時代でした。
近所の酒屋の角屋さん、米の谷口屋さん、八百屋の八百万、魚の魚浦さん、石炭や炭の宮治さんなど色々なお店があって、お使いに行くのが楽しみでした。酒屋さんは一升瓶を持って四斗樽から升で量り売りをしてくれ、米屋さんは米穀通帳をもって米を買いに行きその作業を見るのが好きでした。今では八百万は閉店し、同級生のオサムちゃんは引退して大船に住んでいます。ちなみに小町通は殆どが友達のうちが商売をしていて今のような観光通りではありませんでした。記憶に間違いがあるかもしれませんが順番を追っていくと今の三菱東京UFJ銀行の隣には『おはこ』という小料理兼すし屋がありここは鎌倉文士の溜まり場でした。東京から帰ってくる文士が必ず寄るという小粋なお店でした。隣はご存知イワタコーヒー店、今でこそテレビに取り上げられていますが、昔はこじんまりとした店で奥の中庭では夏はハワイアンバンドが入っていました。
ここからは同級生や友達の店を思い出すままに書いてみます。
入ってすぐの磯見ビルはひまわり洋装店の鈴木君、隣は川古江屋の新井田の壮ちゃん、電気屋のカナ君、時計屋の平野さん、とんかつ屋の三岡君、靴屋の勝又君、東洋肉屋の小松君、米屋の加藤輝ちゃん、美人の藤田のサッチャン、経師屋の金子君本当に色々なお店があり、殆どが御成小学校の友達で先輩も後輩も沢山居られました。
駅前通りには今もある松風堂さんの夫婦饅頭が有名ですが、店主の山崎さんも親しくさせて頂いた方で、戦後はアイスキャンデーも作っておられました。ちなみに店名は作家の村松松風さんが名づけたそうです。
当時は面白くて私の住んでいる警察の裏は駅を通らないと小町の踏み切りか、ガードを曲がり佐藤病院を通って御成小へ行かざるを得なかったので特別にこの幅の中の生徒には駅を通行する所謂通行定期のようなものが発行されていました。これは非常に便利なものでこれで電車に乗れるのです。遠く戸塚や大船から来た友達とこれを使って電車に乗り大船に行き又帰ってくると言う冒険も出来ました。今のように管理されていない国鉄ですから赤字の原因はこれだったのかもしれません。特に北鎌倉の駅は出入り自由で北鎌倉の友達のところへはよく行きました。
電車賃も子供5円か10円位だったので余り罪の意識も無いし、毎日通っていると駅員とも仲良くなりそれこそ家に遊びに来る駅員も居ました。
家は警察の裏で署長が転任してくると挨拶に来るほどのお隣さんだったので、警察の賄をやっている佐藤さんご一家とも親しく警察情報はいつも聞いておりました。その一つはあの血のメーデー事件の以後の左翼運動の取り締まりに子供を使った捜査なども後で考えたらあったので変な納得をしたものでした。
当時夏は鎌倉の海岸は大賑わいで当然左翼運動対策などあったのでしょう。ある刑事さんと海に行って広告塔の下を掘るように言われたのです。子供が砂遊びをしているふうを装って、爆弾だか拳銃だかを探すと言う事だったようです。丁度その頃は戦争反対運動や、その悲惨な展示物を見せる今で言う巡回博覧会みたいな事をいまの山下飯店のあるところでやっていて、グロテスクなものを見た記憶があります。
4年生からは英語の授業と言ってもローマ字の読み書きが始まり、久保田先生と言う女性の先生から英語と言うものをはじめて習い始めました。多少難しい事ではありましたが今でもその教えられた事は基礎になっているのかもしれません。御成小学校には校庭に大きな欅の木があります。これはこの学校のシンボルだと思っています。当時はもう大木で登る事さえ出来ないくらい大きくて、大人になってからも時々会いに行ったものでした。
結婚して子供たちも御成小学校に入り後輩になりましたが、もし地震や津波などで家族がバラバラになったときは御成の欅の木に集合と言い聞かせたものでした。
御成のもう一つの遊び場は西側の山にある防空壕のトンネルです。まだ戦争の傷跡がある鎌倉には多くのトンネルがありました。今の市役所の山側にはレンガ積みの結構立派なトンネルがあり、行き止まりでしたが良く入って秘密の隠れ家とか言って遊んでいましたが、向こう側に出られるトンネルもあり子供の好奇心を集める遊び場が随所にあり事欠きませんでした。鎌倉駅西口の正面今の紀伊国屋のところは鎌倉ローンテニスクラブでその奥は諏訪神社で行き止まり、学校のぐるりは土盛りの低い樹木の塀になりいかにも御用邸の面影を残していました。
そして何よりの自慢は校門と校歌でした。校門はコンクリート造りではありますが黒の鳥居型で欅の表札に高浜虚子の筆になる御成小学校の文字が墨痕鮮やかに書かれているのです。又校歌は鎌倉の風情とマッチしたとても言い歌詞なので如何にご紹介致します。
松の碧(みどり)につつまれて、歴史に富める鎌倉に
吾等幸あり、日毎学ぶ
光明(ひかり)はかがやく 吾等の前途
いざいざ御成小学の誉れを挙げむ 勤(いそ)しみて 作詞 佐々木信綱
昭和25年から31年にかけては所謂、Always 三丁目の夕日の時代でした。
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