油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

うぐいす塚伝  (12)

2022-02-26 10:45:07 | 小説
 幅一メートル、人ひとりやっと通れるくら
いの道幅しかない路地裏の薄暗がり。
 肩を寄せ合うようにひっそりたたずんでい
た店たちの看板の灯り。
 それらがぽつぽつと点りだした。
 修と洋子の足音が響くとすぐに、店たちが
驚いたように目をさまし、武者ぶるいした。
 ドアというドアが、ふわりとほんの少し動
いた。
 その隙間から露地に向かい、洋子が聞いた
こともないような音が流れ出す。
 なんの楽器だろう。若干空っぽの胃をもて
あましていた洋子のおなかにやけに響く。
 聞きなれた歌謡曲とはちがう。そんな単純
な旋律とはまったく異なっている。
 これがジャズっていうものなのかと、洋子
は不安になった。
 洋子はしばらく足をとめた。
 「どうしたの?入らないの」
 修の声にわれを取り戻す。
 「あっどうも。びっくりしたんです」
 洋子は正直にいった。
 「こんなに間口が狭いんですよ。中に入っ
ても大丈夫なんですか。こ、こんなとこ、人
でいっぱいに、すぐになっちゃいます」
 洋子が顔をあげ、眉をひそめた。
 きゅっと身を収縮させ、神経をぴりぴりさ
せた洋子が、修はとてもかわいいと感じた。
 「きみは馴れないからね、そう思うのもむ
りはないけど。心配ないんだ。目をつむって
てもいいから、ぼくのあとについて来て」
 ほんの少しねこ背気味の背を、修は洋子に
見せた。
 えらそうに言うが、修だって、真底、ジャ
ズにはまっているわけではない。まだまだ序
の口、月に一度来られれば、御の字である。
 生粋の関西人はジャズに向かない。むしろ
浪曲、せいぜいが歌謡曲だった。
 修はドアを押そうとした手をとめた。
 「どうなさったのですか。気おくれされて
るんじゃないですか。人のことばかりおっしゃ
って」
 ふり向いた修の瞳に、洋子の顔が映った。
 かぼそさが影をひそめ、たくましさがそれ
と代わっている。
 女って、すごい。
 修の口もとに、苦笑いが浮かんだ。
 「そんなことはないがね、まあ、どうやっ
てきみを楽しませようか、なんてね。ちらと
考えたんだ」
 「あらそう、わりと意気地なしなんですね、
課長って。こんなのこうやって、エイって押
せばいいんですから」
 洋子は自分の体を横向きにして、ドアを押
した。
 店内に充満していた気配が、わっと、ふた
りに襲いかかった。
 鳴り響くサキソフォンの音と、酒の香りで
たちまち酔いそうになった。
 「いらっしゃいませ。予約をなさっていらっ
しゃったでしょうか」
 案内係の若い男性に声をかけられ、修はう
ぬと、首を縦にふった。
 「にしはたです」
 と一言。
 「こちらへどうぞ」
 丁重に席に案内された。
 色とりどりの光が交錯するのか、目がちら
ちらし、足もとがおぼつかない。
 そばに誰がいるか。そんなことに気を向け
ている余裕もない。
 ステージからいちばん遠くて明かりが乏し
い席だった。
 洋子とふたり対面しても、互いの顔がじゅ
うぶん判別できないように思われた。

 
 
 

 
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うぐいす塚伝  (11)

2022-02-20 21:53:27 | 小説
 馬場通りに平行に流れていた釜川の幅がし
だいに狭くなっていく。
 それにつれて、人の往来が間遠になった。
 突然、修は洋子の手をふりきり、急ぎ足に
なった。
 「あっ、にっ、にしはたさん、課長、どう
なさったんですか」
 「ちょっとね、やぼ用を思いだして。きみ
はね、ゆっくり、わたしのあとについて来る
といい」
 「でもそんなことおっしゃっても、あたし」
 たちまち、ふたりの間の距離が十メートル
くらいになった。
 修は道わきにある小さなポケットパークに
足を止めた。
 その上空をおおうように、一本の巨大なけ
やきが枝を広げている。
 幹の直径が二メートルはある。
 修は人形のように手足を折り曲げ、その木
の幹のかげに身をひそめた。
 洋子には、修が、突然、かくれんぼを始め
たように思われた。
 (何があったか知らないけれど、課長って
ひどい。まったく知らない場所で、わたしを
ひとりぼっちにしてしまうなんて……)
 洋子は心穏やかではない。
 今すぐにでも、家路につきたいと思ったが、
この辺りはまったく土地勘がない。どこをど
う歩いているかさえ判らなかった。
 洋子の視界のはじに、小さな赤い布切れの
ようなものが飛び込んできた。
 不出来な円柱の上に、それがのっている。
 それが石の地蔵さまとわかるのに、少し時
間がかかった。
 洋子は、にっこり笑った。
 幼い日、それによく似た地蔵さまを、学校
の行き帰りに見たことを思いだしたからだ。
 ふいに白い紙切れ状のものが、びっしり茶
色の木の葉がふりつもったお社の屋根の上を
ふわふわ舞うのが見えた。
 「うふっ、ちょうちょね」
 洋子は口の端に白い歯を見せると、お社に
向かい、そろそろと歩きだした。
 胸の高鳴りを感じる。
 もしも虫取りの網を手にしていたら、すぐ
にでも蝶を捕まえたかった。
 ちょうどその時、眼鏡をかけたひとりの中
年女性が婦人用の自転車にまたがり、ポケッ
トパークのわきの道を、釜川のずっと上流か
ら走って来る。
 誰だろうと、洋子は思った。
 件の蝶がお社の屋根にとまっているのに気
づいた洋子は、なんとかして、それをつかま
えようと右手をのばした。
 肩からつるしていたバッグから、左手だけ
で、器用にバッグの留め金を外す。
 長さが二十センチくらいの棒状のものを取
り出し、それをさっと広げた。
 扇子である。
 洋子はそれで、蝶の行くてをさえぎろうと
したが、その行為は徒労に終わった。
 ふいに吹きすぎていく風に乗り、蝶はビル
の谷間をひらひらと舞った。
 「ああっ、つまんない」
 少女のように肩を落とした洋子を、修はと
ても愛しいと感じた。 
 「とれなかったね。扇子まで使ってね。も
う少しだったのに残念」
 いつの間にか修が立ち上がり、洋子に向かっ
て白い歯を見せた。
 「今さっき通っていった女の人、きみ、見
おぼえがないかな」
 「ええ。ぜんぜん……」
 修は両の目をほそめ、
 「わたしの上司さ、ってことは、きみの上
司でもある」
 と言った。
 「じゃあ、あの方ね」
 修は黙った。
 いつの間にか、太陽がビルの谷間から姿を
消そうとしている。
 あたりが金色に輝きだした。
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うぐいす塚伝  (10)

2022-02-10 15:39:18 | 小説
午後七時、示し合わせた二荒山神社前で、修
は洋子と合流した。
 人通りの多いオリオンは使わず、釜川沿いの
小路を行くことにする。
 目指すは、東武百貨店付近の喫茶店、あるい
はバー。どちらにするかは、洋子の気持ち次第
と心に決めた。
 春の宵とはいえ、辺りは暗い。
 ビルとビルの谷間。
 イヴェント帰りなのか、あちこちに若者が寄
り集まり、すわりこんで何やら話し込む。
 「ここってね、あたし、一度も歩いたことあ
りませんわ」
 洋子が心細そうな声をだす。
 時折、ザバッと音がする。
きゃっと叫んで、洋子が修の体にしがみつい
てきた。
「いったいなによっ、なっ、なんでしょうね、
あの音って?」
くだけた言い方を、あわてて訂正する。
 修は、相好をくずし、
「知らないの?この堀にま鯉がいるのって」
「ええ、まったく、知りませんでした。いっ
つも、オリオン通りを歩きますし……」
言葉じりは丁寧だが、さっき両手でつかんだ
修の右腕を放そうとはしない。
「きみの住まいってこの街の郊外でしょ。だ
ったら、幼い頃からこの辺は馴染んでいるはず
なんだが」
修はちらりと洋子の顔を見た。
 「それは確かにそう。でもね、私は郊外のま
ずしい農家の娘です。両親がせっせと畑仕事を
しているのを見て、育ちました」
洋子はうらめしく感じた時にするまなざしを
修に向ける。
 しかし、その表情はやわらか。
 ゆっくり、ふうと息を吐いてから、
「男の子みたく、お魚には興味ありませんで
したし、母といっしょに歩きながらね、お店に
並んでる洋服や靴に夢中でしたわ」
 と言い、幼子のようにはにかんでみせた。
 「今だって、ときどきは来るんでしょ」
 「もちろんですわ。デパ地下が、あたし、大
好きなんです」
ふいに修は首をまわし、最寄りのビルの陰影
をながめた。
思いのほか簡単に洋子は修の誘いにのり、お
任せしますという風情で、彼の指示に従って
くる。
 現代女性ってとことん、じぶんを主張して
譲らないことが多いのにと、修は思う。
 例えば彼女たちの車の運転。
 修の方に、当然、優先権があるのにもかか
わらず、強引にわりこんでくる。
 しかし、当然のように、修は彼女らに合わ
せる。
 正当性をつらぬいたら、間違いなくジコっ
てしまうと思うからだ。
現代っ子らしからぬ洋子の態度は、修には
不可思議だった。
古風。
 その言葉が洋子にはぴったり。
 三歩さがって師のかげを踏まず。
 いや、ひょっとしてそれ以上かもしれない。
奇遇に奇遇が折り重なったかのごとく、修は
かつて、若草の山で洋子に会った。
 だが、もちろん、もとは他人同士。
  歳が二十以上離れているし、洋子について
分かっていることは、履歴書以上でも以下で
もない。
 「すみません、課長の指示にはどこまでも
したがいますが、 暗くなるばかりだし」
 世の中の約束事を意識して、洋子は突然立
ち止まった。
 女の長い髪の毛のように、その小枝の束を
堀深く、ばさりと垂らした一本の柳にぼんや
りした視線を送る。
 最寄りの喫茶店のネオンの明かりが彼女の
瞳を照らしだす。
「どうしたの、だいじょうぶ?」
 ここまで来て、帰りますは、ないだろなと
修は洋子のはらづもりを測りかねる。
「あっいえ、大丈夫です。いけない、いけ
ない、あたしって……。いくら信頼する方の
お誘いとはいえ……、ああ、わたしどうしよ
うかしら」
修は黙った。
じぶんでもわからないが、こんな場合、不
用意な発言は慎むべきと思う。
しばらく、修は堀の巨岩の上をすべるよう
に流れる水面を見つめた。
「ちょっとジャズバーでも、と思ってね」
直截にそう切り出す。
 「ジャズバー、って?あたしそんなとこ行っ
たことありませんわ。なんだかこわい」
 「こわくない。きみができるだけ早く、お
となの仲間入りをすればと思ってね。なんな
ら喫茶店でもいいがね。もちろん、デパ地下
なんかに寄ってからだけど」
 修はやんわりと言い、洋子の肩を抱いた。



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