ゆるぎない自信をもって、この部屋にとり
ついていたよこしまなものと、かみさんは対
決したのではなかったらしい。
「ううっうっ、うううう」
少しの間、くぐもった嗚咽をもらしていた
が、ふいに堰を切った如く、かみさんの感情
が爆発、おいおい泣き始めた。
闇を支配するものの一種に違いない。
かみさんの流す涙に追い払われるように、大
きな浴室の隙間という隙間からすうっといず
こかへ立ち去っていく。
たちまちのうちに、浴室は元どおりの静謐
さをとりもどした。
「もう泣かないでいい。もう大丈夫だ」
Mは、かみさんの両肩を抱いた。
浴槽の水はもはや元どおり清らかで、浴室
はまたもやさわやかな空気で満たされた。
よこしまなもの。
その正体は依然として想像することしかで
きない。
しかし、それがふれるものなめるものすべ
てを汚してしまう。
かみさんは浴槽の中をのぞきこむようにし
て、浴槽のふちに右手を置いていた。
いつもは頑丈で、Mにはまったくか弱い面
を見せたことのないかみさんだった。
その彼女のこころが寸でのところで、壊れ
そうになった。
(大変だ。このまま放っておいちゃ……)
Mのこころの底から、彼女に対する情けが
どっとわいてきて、Mが常日ごろかみさんに
対して抱いてきた不平や不満、それらがこれ
を契機に一挙に消え去ってしまうように思わ
れた。
Mはふと天井を見あげた。
(こんなことって、ひとの寝泊まりさせると
ころじゃよく聞くよな……)
若い頃、Mはあちこち旅をした。
泊まった旅館で、服毒や首っかかりなどと
不吉な出来事があって、亡くなった方々が今
なおずうっと成仏できずにいて、彼らの魂が
そちらこちらとさまよっている。
長年つづくホテルや旅館では、それらに勤
務する従業員すべてに、「絶対、公言するな」
と、オーナーがかん口令を敷いている。
こんな超高級ホテルならなおさらで、受付
で訊ねて、はい、そうですと、そういった情
報を客に教えるはずがない。
この世に存在するものはみながみな見える
ものとは限らない。
見えずとも、言葉にせよ、夢に出て来るも
のにせよ、認識できるものはすべて実在する。
幽霊だって、そう。
われわれだって……、からだとこころを自
在にあやつり、この世を生き暮らすひとりひ
とりの存在に、充分に驚いているだろうか。
脳にせよ胃腸にせよ、めいめいが持つ内臓
が、いちいちこうしろああしろと命令されず
とも勝手に動いて、われわれを活かしてくれ
ている。その不思議に、めをみはっているだ
ろうか。
一体、どこのどなたがこれほど精巧なもの
を造り上げたというのだろう。
ここに至って、Mは腰に黒のベルトを巻き、
左手にタオル一本持っただけの姿だった。
何も羽織らない。
「こらっ」
「ええっ?」
ふいに大きめのタオルが飛んできてバサッ
とMの頭をおおった。
「早く早く、あんた、それで体をふいてよ。
着替えして着替え。もういい加減目を覚まし
て。これからいっぱいイベントがあるのよ」
「おらは関係ないよ、な?」
Mは首をひねるばかりだ。
「そう、あんたは言ってみれば付録だけど
きちんとわたしのわきにいるのよ、いい?」
「へえい、へい」
「へいじゃない。はいっ」
「わかった。はあい」
「よし、その調子その調子、それにしても
あんた、よく助かったわねえ」
「ええっ?それって一体、どういうこと」
「わたし、ぜんぜん自信なかったもの」
「まあ、なんてこったろ」
ついていたよこしまなものと、かみさんは対
決したのではなかったらしい。
「ううっうっ、うううう」
少しの間、くぐもった嗚咽をもらしていた
が、ふいに堰を切った如く、かみさんの感情
が爆発、おいおい泣き始めた。
闇を支配するものの一種に違いない。
かみさんの流す涙に追い払われるように、大
きな浴室の隙間という隙間からすうっといず
こかへ立ち去っていく。
たちまちのうちに、浴室は元どおりの静謐
さをとりもどした。
「もう泣かないでいい。もう大丈夫だ」
Mは、かみさんの両肩を抱いた。
浴槽の水はもはや元どおり清らかで、浴室
はまたもやさわやかな空気で満たされた。
よこしまなもの。
その正体は依然として想像することしかで
きない。
しかし、それがふれるものなめるものすべ
てを汚してしまう。
かみさんは浴槽の中をのぞきこむようにし
て、浴槽のふちに右手を置いていた。
いつもは頑丈で、Mにはまったくか弱い面
を見せたことのないかみさんだった。
その彼女のこころが寸でのところで、壊れ
そうになった。
(大変だ。このまま放っておいちゃ……)
Mのこころの底から、彼女に対する情けが
どっとわいてきて、Mが常日ごろかみさんに
対して抱いてきた不平や不満、それらがこれ
を契機に一挙に消え去ってしまうように思わ
れた。
Mはふと天井を見あげた。
(こんなことって、ひとの寝泊まりさせると
ころじゃよく聞くよな……)
若い頃、Mはあちこち旅をした。
泊まった旅館で、服毒や首っかかりなどと
不吉な出来事があって、亡くなった方々が今
なおずうっと成仏できずにいて、彼らの魂が
そちらこちらとさまよっている。
長年つづくホテルや旅館では、それらに勤
務する従業員すべてに、「絶対、公言するな」
と、オーナーがかん口令を敷いている。
こんな超高級ホテルならなおさらで、受付
で訊ねて、はい、そうですと、そういった情
報を客に教えるはずがない。
この世に存在するものはみながみな見える
ものとは限らない。
見えずとも、言葉にせよ、夢に出て来るも
のにせよ、認識できるものはすべて実在する。
幽霊だって、そう。
われわれだって……、からだとこころを自
在にあやつり、この世を生き暮らすひとりひ
とりの存在に、充分に驚いているだろうか。
脳にせよ胃腸にせよ、めいめいが持つ内臓
が、いちいちこうしろああしろと命令されず
とも勝手に動いて、われわれを活かしてくれ
ている。その不思議に、めをみはっているだ
ろうか。
一体、どこのどなたがこれほど精巧なもの
を造り上げたというのだろう。
ここに至って、Mは腰に黒のベルトを巻き、
左手にタオル一本持っただけの姿だった。
何も羽織らない。
「こらっ」
「ええっ?」
ふいに大きめのタオルが飛んできてバサッ
とMの頭をおおった。
「早く早く、あんた、それで体をふいてよ。
着替えして着替え。もういい加減目を覚まし
て。これからいっぱいイベントがあるのよ」
「おらは関係ないよ、な?」
Mは首をひねるばかりだ。
「そう、あんたは言ってみれば付録だけど
きちんとわたしのわきにいるのよ、いい?」
「へえい、へい」
「へいじゃない。はいっ」
「わかった。はあい」
「よし、その調子その調子、それにしても
あんた、よく助かったわねえ」
「ええっ?それって一体、どういうこと」
「わたし、ぜんぜん自信なかったもの」
「まあ、なんてこったろ」